拠点・一刀、君主と何故か二人きりで語り合うのこと
俺の前には困惑する三名の文官達が居た。
誰も彼も俺が公的に引き抜いた癖のありそうな、或いは無味無臭な人間たちだ。
黙り不安げに、或いは興味なさげに、或いは作っているのが分かってしまう残念無表情で。
円卓を囲む彼等の前に俺は姿を現した。
あの女性の文官さんは大きく起ちあがり驚いて、頑張って無表情を作っていた堅物も目を見開いた。
唯一無反応を貫いたのは数日前に提出された書類だけで判断し引き抜いた、見掛け瓶底眼鏡がインパクト強過ぎな残念幼女な女の子だ。
「どうも、初めまして。俺は高順、あなた達の長になる人間であり表向きは文和殿直属の従事次官、戸部外務部部長を務めている。正式には従事次官、兵部参謀本部長兼戸部外務部部長だ。宜しく頼む。えー、早速だが、俺にはあなた達に言うべきことがいくつかある」
早速質問をぶつけようとしていた一人に、堅物に指を向け黙らせる。
出鼻をくじかれ言葉を呑みこんだ姿を尻目に、俺はおもむろに指を一つ立てた。
「ひとつ。この部署は、創設された事実すらない。存在さえ非公式だ。知っていた人間はもう“いなくなった”。故に他言無用。情報漏えいが発生した場合には即座に首が物理的に飛ぶ。もちろん俺も例外じゃない。だからあなた達には既に拒否権すら存在しない。死ぬか、仕えるかだ」
最初こそ暫定的に参謀なんとかと呼ばれていたがそれらを知る人間はもう“いなくなった”。文字通り“消した”。兵士が2、3人消えようと何も問題はない。重要なのは雑兵よりも機密だ。
最初俺と文和殿は軍師的役割を発想していた。だが俺の小さな発想を基にして文和殿は方針を変え今までなかった戦闘指揮所を作りあげようとしたのだ。
そうして骨組みも構造も数日間練り合わせ完成させた“これ”は軍隊の能力をいかんなく発揮させるための最高機関とまでに進化した切り札ともなる物となった。
その切り札を発揮させるのは当然、後に起こるであろう大乱の場。ならばそれまではこの組織を秘匿し優位性を高め機密性を練る必要があるのだ。
そうやって今現在、この組織の存在を知るのは一部の軍服組の軍人と文和殿、李儒殿に仲頴様、俺の同僚級の従事次官が三人だけとなった。
そんな生臭い経緯は説明しないが、阿呆でも悟れる程度に匂わすことは難しいことじゃない。そんな想いを込めてひとつ。
「ふたつ。この部署に所属する人間は今この瞬間から死人だ。戸籍も在席記録も存在しないまっさらな“それ”になり名義上は戸部の外務部近隣都市交易課所属となっている。それに合わせた名前も新しく支給しよう。当然だが真名はどうしようと構わない。そして無断での外出は厳禁。だが住居は城内の専用区画に文和殿名義で用意してあり給金の増額も当然ある」
その機密性を保持する為、彼らには名を捨てて貰う必要があった。過去から姿形が割り出されては笑い話にもならないからだ。
勿論相応以上の対価を彼らには払うが、それでもまあ、すんなりと受け入れてはくれないだろうとは思っているがだからと言って布石を投じる労力を惜しんだりはしない。
敢て直面するであろう問題と何か訊ねたそうにうずうずしている一人を意図的に無視し俺は三本目の指を立てた。
「みっつ。あなた達の正式な所属は兵部、参謀本部戦闘総指揮課だ。名前から分かるように、この部門は戦時中の最高司令室にも等しいと言う事を理解しておくように。直の上司は俺だが直接この部の最高権限を持つのは制服組の頂点である文和殿と州牧たる仲頴様だ。つまりあなた達は彼の御方直属のえりすぐりで在ると同時に州の軍務の中心、という訳だ。その事を肝に銘じておけ」
そうして割と常識は有る二人へ向け一言、名誉や忠誠、選民意識。そう言った耳触りの良い言葉の餌をくれてやる。
するとどうだ、今まで何処か沈んでいた表情は案の定と言うべきか明るくなった。まあ主を敬愛しているのならば当然至極な反応だろう。
「と、まあ大体の概要を説明した訳だが。此処で質問を受け付けよう」
「あの、何故我々なのでしょうか……? お話を聞く限りではとても重要そうな部署、という印象を受けたのですが」
先ずおずおずと手を上げたのは女文官さん。
既に誇らしそうにしているアホ丸出しの堅物とは違い慎重そうな意思が見て取れる。うん、高評価。
「わっちもじゃ、なんであんちゃんわっちを招いたんじゃ? わっちは自他ともに認める“役立たず”の“キチガイ給料泥棒”じゃけん」
「あ、何処かで見たことがあると思ったらあの有名な娘だったのね」
幼女は広島弁? っぽい何かを話した。あ、これはこれで可愛いな。
じゃなくて……もうこの世界の言葉が俺には理解できないよ。気にしたら負けなのかなそうなのかな。
「有名だったのか。まあそんな事はどうでもいい。当然ながら俺があなた達を選んだのにはそれなりに理由がある。まずそこのわっち娘」
「わっちか?」
「そうだわっちだ。あなたを選んだ理由はこれだ」
そう言って俺は懐から一枚の、測量に関する報告書を取りだした。
「……? えっと、これは?」
「三角と長さ……? 北郷様、これは一体?」
首を傾げる二人。敢て答えることなくわっち娘の方を向くと……。やはり、というべきか、雰囲気が変わっていた。
「あ、あんちゃん、これ……理解できるんけ? ……わっちが変人呼ばわりされる理由になったこれのこと、理解できるんけ!?」
「勿論だ。三角の辺の長さと直角の習性を利用して斜面の長さと高さを求めたのだろう?」
「そうじゃ、そうなんじゃよ! 誰も彼もわっちの算術の有用性を理解せんと喚く蛆虫ばかりじゃった、わっちの導いたより正確な地形図も用いられんかったんじゃ! あんちゃん、あんちゃんはこれが分かっちょるんじゃな!?」
「当然。尤も、俺の知る範囲はあなたには及ばないであろう基礎知識段階程度だが少なくとも算術とあなたの発想の有用性位は理解できる」
数学は万物の基礎、未来では当たり前だがこの時代では当然と言うべきか未発達で未成熟なものだ。
測量も半分感覚で行われ、戦闘では勘と長年培った経験が物を言う。当然それも大事なことではあるが、それを実行できるのは一部の才覚溢れた人間だけだ。
ならば大多数はどうするか。そこで必要になるのが明確な基準となる何か、というより数字だ。
誰々はどれだけの距離まで弓を飛ばせるから此処に配属されるのが一番効率がいいだろう、だとか、どれだけの距離をこの部隊はどれだけで走破できるからこれだけの兵糧を携帯させようだとか。
つまりは軍隊という組織の運営そのものが数学であり、それが詳細になればなるほど軍隊の効率化は増す。
他にも用途はある。陣地設営の際の周辺地理の正確な把握であったりとか、数字さえそろっていれば遠く離れた場所からありとあらゆる戦闘に役立つ情報を導き出す事が可能だったりとか。
「だからこそ、あなたを此処へ招いた。あなたには、劉徽という名前を用意した」
「りゅう、き?」
「劉徽だ。これからよろしく頼む、劉徽」
「……任しや! えへへ、あんちゃん、よろしゅうたのむけん」
そう言って手を差し出すと、にこりと咲き誇る様に笑顔をほころばせた劉徽は胸を張りながら嬉しそうに俺を見上げた。
と、突然何かを考える様に俯き数秒、一寸の後、俺に決意を込めた眼差しを向け耳打ちをしてきた。
「わっちの真名は玖咲(くさき)じゃけん。あんちゃんにはわっち、預けられるけん、預かってな」
「……相分かった。俺は一刀だ。宜しく頼む、玖咲」
一瞬だけ浮かんだ迷いを切り捨て、俺自身が才覚を見出し発掘した相手への誠意を込め小さく真名を呼ぶと。
「えっへへー、じゃけんわっちバリバリ働いちゃうけんね!」
それはそれは嬉しそうに笑みを浮かべた。
何となく優しい気持ちになった俺は小さな頭を右手で撫でながら次、女文官さんへ向き直った。
「次はあなたね」
「私ですかっ!? あの、私は劉徽ちゃんみたいに何かある訳では……」
「いや、十分引き込むのに足る唯才がある。これだ」
俺は再び紙を取り出した。
それは女文官さんの私室から文和殿に頼み持ち出して貰った物で、具体的には制作中だった資料の一枚だ。
「え、っと……それが何か?」
「これだ。情報を視覚化した“統計図表”と“線図”とでも名付けるべきこれらは軍隊における情報伝達速度の向上に必ず繋がる重要な発想だ。文字だらけの報告書とあなたの図表が添えられた報告書、どちらが簡単に必要事項を見つけられるかなど考えるまでもないだろう?」
そう言うと彼女はなるほど、と小さく頷いて、しかし直ぐ様頭上にいくつもの疑問符を浮かべた。
「でも、それだけで私が? 他の方も似た様な事されてたりしますし、明らかに優秀な方も他にも……」
「確かにそうだが、まだそれで終わりとは言っていないだろう? ひとつは先程にも言った通り、あなたの発想と優れていると言っても過言でない程の、読みやすい資料から分かる情報処理能力の高さ。もうひとつは、劉徽やあなた達が他人より少ない物、交友関係の幅の狭さと浅さだ」
「私、結構友達いますけど……」
私不満です、と大きく頬に描いてある文官さん。
まあ、あの時だけでも社交的な性格は分かるからなあ。しかし驚いた事に男性と交際した経験は無かったそうで。
あれも過剰ではあるが友好表現の一環だったらしい訳で。乗っかっても本当にお茶するだけで勘違いして撃沈された野郎は数知れずと文和殿(と配下の愉快な仲間たち)調べ。
そんな広く浅く友好のスタイルの彼女が影で付けられた渾名は「八方美人の美人局」だったりする辺り哀れだ。
「それでも良人が居たり真名を交換し合う程深い仲の友人がいたりはしないだろう? 劉徽はもとより、あなた達も精々お互いが幼馴染で真名も知りあっている程度だ。違うか?」
「ええ、まあ……」
何となく納得はいかない、と言いたげに難しい顔をしながら彼女は頷く。
ぼっちだった劉徽はもとより誰とも真名を交わしている訳はないし。この二人も関係性の深い人間は特別居ない事が調べてある。
「つまりはそういう人間は、殺しやすいんだ。因みに劉徽は元の所属では郊外で山賊に拉致され死亡、二人は寿退社の後幽州の知人を訊ねに行ったという事になっている。因みにあと四日位で事故死する予定だ」
「ええっ!? ちょ、待っ、私結婚したことになってるんですか!?」
顔を真っ赤にしてあせあせと慌てふためきながら彼女が言う。
不快に感じてない辺りこれはこの幼馴染同士、予想以上に上手くやれるかも知れないなあ。
男の方は当然まんざらでもなさそうだし、ふむふむ。職場内恋愛もどうせとやかく言っても無駄だろうしね。と一人うんうん頷きながら注釈を加える。
「その婚姻はあくまでも名義の上だ。新しい名前を得た後はその二人は赤の他人、あまり出歩いて出会いを探す事は機密保全の観点からもお勧めこそしないが構わないだろう。ただし情報を情事の後の睦言で漏洩、なんて事をしたら容赦なく生まれてきたことを後悔させる位の手立てはあることはあらかじめ言っておく」
「御、御意……」
喜ぶべきなのかがっかりするべきなのかどっちもあり得る彼女は複雑そうな表情に加え余り笑えない宣告に口元を引きつらせながら答えた。
「良し。では今からあなたは、郭汜阿多だ。違和感が暫くはあるかもしれないが許してくれ」
「今更文句言っても仕方ないしね……。御意。この郭汜阿多、誠心誠意ご奉公させていただく所存であります」
覚悟を決めたのだろうか。きゅっと表情を引き締めた阿多は瑞々しく名を告げ俺に臣下の礼をとった。
それに拝礼で返すと阿多はひとつはにかみ堅物の隣へと戻った。
彼女が移動するのを最後まで確認すると、俺は一呼吸勿体ぶってから、堅物に向き直ると徐に口を開く。
「さて、最後になって済まないな。引っ張っておいてなんだが、あなたには、特に唯才だったり引き込むことで発生する他者とは違う利益などは、恐らく何もない」
「……では、何故私なのでしょうか?」
俺は加減などする事無く鋭利な言葉を鋭角で最初から打ち込んだ。
未だ撫でられるがままの玖咲ですら一瞬驚きに硬直したが俺は何ら構う事無く真っ直ぐに堅物を見つめ続ける。
やがて彼が零した言葉は、俺が望んだままの物。
態とらしい大振りな動作を足しつつ、俺は視線を逸らさず見つめ続ける。
「それだ。あなたは“仕事だから”と思う事で今の様な侮辱でさえも、あらゆる事柄を呑みこめる人間であり、尚且つ組織へと忠実な人間だ。つまり、職務という事に対して個人が存在しない人種という訳だ。
無論、そんな人間も他に居ない訳ではないが、阿多の幼馴染という点と、標準以上には優秀であるという点を考慮して、あなたが選ばれた」
まあ、多少弱点はありそうだが、と阿多へ流し眼を送ると不愉快そうに一瞬だけ眉をしかめた。
安心しろ、俺には嫁が居ると小指を立てるとみるみる皺は消え、何か男の友情的な物さえ生まれた気がした。
「私という個人を的確に見ておられるのですね、北郷様は。しかし故にお分かり頂けていると思いますが、私は以前北郷様がご覧になられていたあの時の様に、聊か柔軟性に欠ける事がありますが、それは構わないのでしょうか?」
「ああ。俺があなたに求めているのは、少なくともあなたが発想する、という事じゃあ無い。劉徽が作った物を命じられたままに実行し、阿多の纏めたネタを抑揚もなく叩きつける。そんなあなた“個人”が存在しない冷徹さだ」
「……」
我ながら褒めてるのか貶してるのか分からない物言いだが何ら問題はない。
彼さえ言いたい事を理解してくれればそれでいい。今はそういう時間なのだから。
「だから当然、“それ”でしか無いあなたには責任も罪の重さも存在しない、名無しにも等しい役目を俺はあなたに、李傕稚然に求める。命令だ、とは言わない。だが、職務を果たす事を期待している」
「御意。李傕稚然の名に賭けて。北郷様の望む結果を、出してみせましょう」
その臣下の礼は、最高に格好付けたものだったが、自然とこの男の、稚然の個人の無い存在を印象付けられるものだった。
俺はそんな上々なアクションに満足しつつ最後の指を俺は建てる。何を言うかって? そんなのは古今東西決まってる。とびっきりの皮肉で洗礼してやるのだ。
「最後だ。ようこそ、『戦場へ』……えっ、あ、仲頴様っ!?」
「へぅ、北郷さんが頑張ってるって聞いたから、来ちゃいました♪」
ざんねん! ひにく は うまくきまらなかった !
一瞬意味不明理解不能で頭真っ白にしつつ舌がしがし噛みつつ俺は慌てて訊ねると、仲頴様はまた何とも反応しがたい御答えを打ち返して下さりやがった。
そうして相も変わらずにこにこふわふわしている御方だー、なんて思いつつ俺達参謀部一同は即座に拝礼をする。常日ごろリスペクトという言葉を母体の中に置き忘れた様な言動しかとらない玖咲でさえだ。
うぁ、相変わらずの謎覇気。全自動人心掌握樞の名前(勝手につけた)は伊達じゃ無いなあ、と内心で余裕がある様で無い感想を抱いたりしながら。
この場で一番位の高い俺が、仲頴様に緊張しながら訊ねる。一体何を考えているんだ、さっさと帰りやがれ、そんな願いを込めて。
「どのようなご用件で?」
「へぅ、やっぱり北郷さんは手厳しいね。
劉徽、郭汜阿多、李傕稚然。あなた達は選ばれた最精鋭です。権限としては各部の赤服の人達と同等以上の物を今この瞬間から持っています。だから自信と誇りを持ちなさい。そうして私の為に、この涼州の為に、漢の地の為に才を発揮しなさい。あ、あの説明の内容は気にせず置いといてね。北郷さんがちょっといぢわるなだけだから」
「仲頴様っ!」
仲頴様はツボは突いたと言え多少不安の残る箇所もあった俺の内容を、強引に上方修正し忠誠を高めようとしているようだ。
同時に、俺へと向かうリスペクトを少しでも減らそう、という魂胆もあるのだろう。内乱の種になりかねないからな、自分で言うのもアレだけどさ。
と、真面目に思考していると少し冗談を挟む仲頴様、これには三人も笑いを浮かべる。……冗談、だよな?
「へぅ、冗談です。兎も角、あなた達に私は期待しています。その期待を裏切らぬよう、宜しくお願いしますね」
「御意」
「ぎょ、御意ッ!」
とても冗談に聞こえなかった冗談を冗談だと肯定しながら仲頴様は阿多と稚然を存分に炊きつける。
李傕はそれに内心歓喜で震えているのだろうがそれを見せる事無く真っ平らに答え、郭汜は実に分かりやすく喜びながら答えた。
ただ、玖咲だけは何も答えずに何かをじっと考えていた。やがて暫くした後、玖咲は正面から仲頴様を見据えると
「……董卓様、貴方様はわっちの算術を理解してくれるんか?」
「残念ながら、私には算術、というものを貴女、劉徽の様に理解することはできません」
「……そうけえ」
ずっと気になっていたのだろう。俺が先程直接の指揮権を語った時点で最高権力者とのつながりが見えていた筈だ。
だからこそ、評価されると言う事に飢えている玖咲は仲頴様に訊ねたのだろう。
その答えは即答された予想の範疇程度の簡潔な答え。否定こそされなかったがやはり玖咲は肩を落とした。
「しかし、です。劉徽がこの上ない至高の玉と言える才を持っていることは理解できました。だから、私が貴女を用いることを許してくれはしませんか?」
「っ、この劉徽! その言葉だけで天にも昇る心地じゃ。じゃけん、董卓様の軍勢の為にこの才、振うけえ!」
しかしそこは最早チャームレベルの人心掌握術を備えた御方。続き伝えた言葉は、見事に玖咲の心を掴んだのだ。
……董卓様の“軍勢”か。俺への感情に配慮した、のか? うむむ、やはり仲頴様を測ることが出来ないな。何か違和感を感じるんだが、だからと言って君主の理想を体現した様な姿に嘘がある訳でもなさそうで……。
「ありがとう、劉徽。そして何度も言いますが郭汜、李傕。貴方達にも、私は期待していますからね?」
仲頴様がそう言うと、感嘆に身を震わせた阿多と身動ぎ一つしない稚然がそろって拝礼をした。
「うん。さて、と。じゃあ、ちょっと北郷さんと話したいことあるから借りますね。北郷さん、もう大体全部済んでるんだよね?」
「はい、残すのは……そうですね。表面上の職務への対応方法と住居の案内位でしょうか。具体的な仕事内容は明日からの予定なので」
「じゃあそれは、……へぅ、今日樊稠さん連れてきてますよね。それに指示して全部お願いしちゃって」
樊稠は性格にさえ目を瞑れば優秀な秘書官だからなあ。
一応初日という事で不測の事態が起こらないとも限らないから彼女を伴っていて正解だった。
それに彼女は文和殿や仲頴様からの信頼もある。だから彼女は俺の身の潔白を示すある種の指標にもなるのだ。
「御意。樊稠」
「お傍に」
「この紙に部屋の場所が書いてある。それを確認したら彼等に必要事項を教えた後部屋まで案内しろ」
「御意ですわ」
すぅ、と現れた樊稠さんが居た場所は微妙に円卓から視界になる位置だった。
三人とも誰一人としてその存在に今の今まで気付いておらず、驚いた劉徽は勢い余ってそのまま俺に飛び付いたほどだ。
要点だけ説明すると返事と共に一つ頷く樊稠さん。その姿を満足げに眺めた後俺は再び仲頴様の元へ向き直った。
「では、仲頴様」
「へぅ~、北郷さんはお仕事早いですね。私も満足です」
本当に満足そうに微笑みながら俺にくっ付いたままの玖咲の頭をほむほむと撫でる仲頴様。
少女が幼女(?)を撫でるという構図は実に絵になるな……。少しガタッ、と反応してしまったアホ丸出しの稚然を阿多が視線で殴りつける。
「くすくす。お二人は仲がいいんですね。この後宿舎へ案内されたらそれで今日は終わりで良いから、お二人で好きなように過ごしてくださいね」
「っ……! っ……っ!!」
「御意」
顔真っ赤にして言葉に詰まりながら首も手もぶんぶん横に振りまくる阿多。
「御意じゃないわよ馬鹿っ!」
「夫婦漫才はそれくらいで終や。けっ、どいつもこいつもイチャコラするしか脳が無ぇがやドタマ腐って死にゃあ」
「!?」
出たな樊稠さんのキチガイ変貌モード。
口をあんぐり開けて驚く彼等に苦笑を洩らしながら、俺は仲頴様に続いてこの場を後にした。
**
「……さて、と。北郷さん、見事な手際でしたね」
「勿体無いお言葉、有難う御座います」
三つ隣の窓の無い密室へと連れてこられた俺は、用意されていた椅子に仲頴様と対面して座った。
ほかほかと心地良い香りを放つお茶を仲頴様と同時に一口啜ると、さわやかに香りが透き抜ける。
「……お世辞を言う為に態々、この場を用意した訳ではないのですよね?」
「ええ、それは勿論」
にっこり、と柔和な笑顔を一粒。瞬間、形容しがたい悪感が頭の先から足の先までを走り抜けた。
……目の前の人物は、一体誰だ。一瞬心の底からそう錯覚する。気付かぬうちに座っていた人間がすり替わったと言われた方がまだ説得力が多少ある。
その身に纏うのは覇王の気ではない。優しさでも穏やかさでも全てを包み込むような慈愛なんかでも絶対に無い。
「……それが、今の本当の仲頴様ですか」
「はい。詠ちゃんだけが知る、本当の私です」
震える声を隠す事も忘れ俺は訊ねた。この存在の意味を本能的に理解したかったのだ。絶対王者となる器を備えた天下の大器を、知りたかったのだ。
それは恐怖故に。今の俺は無手で幾万の軍勢に弓を向けられた様な、無様を晒し失禁しながら地に這いつくばり命乞いをする個人の様なものだった。
この少女は魔王だ。何もかも飲み込み食べてしまう魔王だ。目的の為だけに只管生き、通った後には草の根一本残らない様な、絶対的な、魔王だ。
「薄々、違和感こそ感じていましたが……まさかこれほどとは」
「ふうん。北郷さんは何か感じていたのですか。ちゃんと隠してたと思ったんですけど、へぅ」
「繰り返すようですが、薄々、ですがね。気高く理想に溢れた覇王、と唯盲信するには引っ掛かりを覚えていたのですよ」
時たま零す花開く様な微笑みの影にうっすらと窺えた、見間違えだと言われれば納得してしまいそうなほどに小さな綻びは己を偽っていた所為だろう。
覇王の影からちらり、とほんの爪先程に感じさせた魔王の影。それらはどれもこれも嘘では無くて、だけど誤魔化し隠されていて。だから何か変だと感じてしまった。
心の隙間を、人の“欠陥”を見つけることで生きてきた俺だから、俺は違和感を感じてしまったのだろう。
後悔とも歓喜ともつかない己の不安定な内心に首を傾げながら居ると不意に轟、と暴力的な存在感が俺を包み込んだ。
仲頴様が、一歩前へと踏み込んだのだ。たったそれだけの事に、後ずさりさえ許されない。足が動き方を忘れてしまったのではないかなんて思ってしまう。
「だけど、この場を選んだ。魔王の拳を支える筋となる事を選んだ。どうしてですか? ならば分かっているとは思います。私が如何に危険であるかを」
自虐する様な声色を見せたのは一瞬。それも直ぐに見間違えかと思う程に自然と溶けて消える。
残ったのは禍々しさと享楽を同居させた魔王が唯一人。
「それ、は……文和殿に“信頼”され俺の忠誠を受け取って頂いたからです。霞が貴女を主と仰いだからです。
忠誠の対価を貴方に頂いたからです。逃げだし大切な人を危険にさらしたく無かったからです。……今この瞬間、貴方が魔王であったと知ってもこの身から沸き上がる偉大な存在への畏怖と忠誠は変わらなかったからです」
震える脚を叱責しながら視線だけは逸らさない。なけなしの勇気をありったけ振り絞りながら、重圧に負けないように踏ん張りながら。
俺は真っ直ぐに仲頴様を見据えながら言った。
「それに、大切な人を養いたいと望んだから、です」
最後はまくしたてる様に言葉を投げ放つ。
怖かった。謀反の心ありと思われるのが怖かった。この魔王を怒らせるのが怖かった。そうすることで大切な彼女が危なくなるかもしれないと思うとどうしようもなく怖かった。
……以前よりも増した“あなた様”への忠義を疑われるのが怖かった。そんな不思議な、初めての情も沸いていた。
嘘を吐こう、騙そう。誑かそう、そんな考えはやはり欠片も沸かなかった。以前はその歪みを隠された気高い覇王たる存在感に。
今は唯ひたすら、禍々しいのに従わずにはいられないと思わせられる魔王の少女自身へ“俺”を認識して欲しいがために。
何処かで客観的に冷たく眺める自分を感じながらも、想わずにはいられない程の、強烈さをそれは持っていた。
「……くすっ、そうですか。正直なのですね。……私は、以前詠ちゃんから聞いたと思うけど貴方達一行の過去を知りました。正直、とても用いるに足るものではなく、有用性を測ろうと当初用いた事も忘れて今すぐ殺そうとまで思いました。それには、気付いていましたか?」
いかにも愉快そうに、狂楽さえ飲み干し微笑むその姿が映し出す俺にはまるで一片の価値も感じられない様で。
蟻や蝿の如く無様に何も出来ず踏みつぶされてしまう様な情景がありありと脳裏に浮かび冷たい汗が体中から噴き出る。
仲頴様の恐怖を知ってしまった以上、俺には生き残るにはもう一つしか術が無かった。この魔王に、俺を生かそうと思わせるしか。
「ええ、勿論。魔王でなくても俺達は知られた時点で仲頴様の命によって殺されるだろうと思っておりました。少し考えれば、覇王ならば不確実で益の見込めない俺達の様な存在を現状では赦す訳が無いですし、赦す利点も存在しません。しかし俺は確かに仲頴様が擁護してくださったと聞いております。ならばその実態は文和殿か、或いは他の誰かが俺達へ利用価値を見出していた。その様な感情を抱いていたのに仲頴様は気付き執成しをしただけだ、と」
「それだけ分かっていても、何故? 何時でも喉元に刃を押し付けられていると自覚しながら居るのは辛いでしょう?」
仲頴様はその白く艶めかしい喉を指でツツとなぞる。
俺は妖艶で冷酷なそれに、浮かべた冷笑と隙間から覗かせる桃色の舌の蠢く様に思わず目を奪われる。
「お、俺達がこの組織へと寄せる忠誠は潔白であると自負しております、加えて文和殿に釘を刺されたとはいえ信じて頂けたのです。どうして信に応えるべくこの場で忠を尽くす事に苦を感じる必要があるでしょうか」
全て事実であり、俺の中でも必要なパーツとなった事柄だ。もう俺はこの大き過ぎる存在に呑まれてしまっている。呑まれた上で、溶け尽くされないように必死に己を誇示しているのだ。
それが客観に居る俺から見れば滑稽で無様で在りながら、主観を捨てた一部の筈なのにどうにも惹かれて止まない。
微笑む仲頴様の前では俺は既に個も主も何もかもが存在出来ないのだとしか思えない。
「……分かりました。では、ひとつ質問をしましょう」
「何なりと」
「以前、私は北郷さんに言いましたよね。詠ちゃんの信頼を裏切ったら赦さない、と。
では、もし文遠さんが危機に瀕した時、北郷さんは詠ちゃんを裏切り、敵へ投降し恥を晒す事となっても、彼女を助ける事を選びますか? 私が怒り必ずや仕留め生まれてきたことを後悔させると分かっていて、他の家族や詠ちゃんからの信頼を守るためにも、或いは民や国へ多大な利益として還元されその英断が百世の後まで語り継がれる様な事と天秤にかけても、それらを捨て文遠さんを選びますか?」
「当然です。愚か者の決断でしょう。理性的だ等とは口が裂けても言えませんね。俺は霞を選びます」
「ならば、これを見てください」
淡々と事務仕事をこなすかの様な平坦な口調。
合わせて徐に取り出したのは、指を落とされ肘下で荒く切断された女の腕。
霞の、紫の陣羽織を巻きつけた、女の腕。
「文遠さんの右腕です。少し彼女は粗相を働き過ぎました。これから四半刻に一度、足の小指から順に刻みます。文遠さんを取り返したかったら私を殺しなさい、“一刀”」
呼ばれた真名がちりと脳の中の何かを焦がすのに、そんな事はもうどうでもよかった。
気付けば髪止めの中でも一番鋭利な簪を手に、俺は仲頴に肉薄していた。
そうしてあと二歩のところまで間合いを詰めるのに一瞬、頸動脈を狙って、鋭い先端を突き出す。
風には迷惑をかけるかもしれない。愛妹の顔が一瞬浮かんで、消えた。
「っ……へぅ、素敵な一撃ですね」
甲高い、金属同士のぶつかり合う音が辺りに響く。
間延びした一瞬。
一体どこから抜刀したのか、仲頴様の細腕に握られた百斤も軽く超えそうな斬馬刀は俺の簪を真っ二つに切り裂いた。
「素敵な眼です。陶酔と狂信は綺麗サッパリに、純粋な殺気なんて久方ぶりです、へぅ」
そのままくるりと刃を返せばそれは吸い込まれるように俺の喉元へ突きつけられる。
ぴくりとも反応できないままでいる俺を見て仲頴様は一寸愉快そうに微笑むと、悪戯が成功した子供の様に小さく舌を出した。
「くすくす……ネタばらしをするとこれは唯の昨日処分した女官の腕に文遠さんのと同じ色をしただけの類似品の羽織の切れ端です」
ぶわんと膝から力が先ず抜けて、一寸遅れてぶわっと汗やらなんやらが体中から噴き出した。
表情はどうなってるか、鏡を見ないでも容易に分かる。確実に顔面蒼白で人形のように固まっているのだろう。
「……つまり、霞は無事、と」
「信じられないなら後で鍛錬場にでも言ったらどうですか? 文遠さん、頑張ってますよ」
くすくす、とこの短い間で何度も聞いた可愛らしい笑い声だけが頭の中をガンガン叩き鳴らした。
悪戯っぽい笑みを浮かべていても俺は既に武装解除された襲撃者で、仲頴様はそれを退けた君主様だ。
もしかしてこういう展開に誘導する為だけに今までの会話を? とか、俺を処分してしまいたかったからこうしたのか、とか。
そんな疑問が溢れては消えて、溢れては消えて。歯を食いしばって震えだけは見せないようにと全身に力を入れて……。
ふ、と突きつけられた金属の重圧が消えた。
「あっ、詠ちゃんには内緒ですよ? 私が何を言っても北郷さんの事殺しちゃうかも」
冗談めかしてちっとも笑えない事を仰りやがる仲頴様。
しかし眼は真剣そのもので。魔王の鋭く魅了する眼光が俺を刺し貫いていた。
それはどうしようもなく魔王的で、気付けば身体は勝手に傅き臣下の礼を取っているのだから俺吃驚。
「北郷さん。本当に貴方達は私と詠ちゃんにそっくりですね。 だから、これからは私は、北郷さんの事信じます。私達と同じだから、信じます」
「……難儀な試験も過ぎますよ、全く」
感慨深げに、たおやかで慈悲深い、聖母の様な頬笑みを俺に零す仲頴様。
これは反則だわ。抱き止めるかの如く深く深く穏やかな存在感と魔王の覇気、二つが俺という存在に向けられて居る事実に途方もない充足感を感じさせるのだから。
と、ふと仲頴様がこつ、こつ、と靴を鳴らしながら一歩、二歩、と俺の元へと近づいてくる。
やがて眉毛の一本までが見えるんじゃ、という所まで近づくと、仲頴様は黙って俺をじぃ、と見つめた。
数秒、数十秒。やがて視線のむずがゆさに耐えられなくなった俺は少し目線を逸らすと、ぼやく様に小さく問う。
「……何故、貴方様に仕えて一月にも満たない俺に文和殿とだけの秘密をお見せして頂けたのでしょうか?」
「へぅ。何故でしょうね、初めは、唯単に予想以上に勝手の良かった北郷さんという駒を上手く使おうと想い、貴方にならば恐怖で手綱を取るのが一番いいと思ったから、だったのですが。気付いたらこんないぢわるまでして試しちゃってました。多分北郷さんが予想以上にしっかりして“私”に向きあったからだと思いますよ」
「あ、あはは……」
少し頬を染めながらごちる仲頴様に沸き上がる敬愛の念は限界を知らない様で。
自分で自分が恥ずかしくなるほどに俺は心酔していた。
「簡単に誰かを用いる事が出来るほど、私は単純じゃないですから……へぅ。
さて、高北郷。私はあの言葉に嘘偽りが無い、と貴方を信じ、その見上げた忠義に対する褒美を与えようと思います」
「有難き幸せ」
傅き拝礼、たっぷり数瞬頭を下げると、ゆっくりと俺は顔を上げ仲頴様を窺い見る。
仲頴様はそれに満足げに頷くと、くすっ、と微笑を一つ零し、ぷるりと美しい唇を静かに動かした。
「月」
月、ゆえ、ユエ。故? ああ、訳って意味の故か。……えっ?
俺は困惑した。聞きとった音の意味が全く理解できない領域の、宇宙言語か何かだったのか、それとも盲信がイキ過ぎて俺の頭がイッたのか。
「……は?」
「月。董仲頴の真名、月を貴方に授けます。貴方を詠ちゃんと同様に信じ、私の手足である限り全てを持って貴方を支え、貴方を信じ用いましょう」
どうやらどちらでも無かった様で。それを理解して、一寸遅れて歓喜が全身を駆け廻った。
絶頂にも等しい程の感情の爆発は俺の脳から足の指先までを染め上げたのだ。
月様の本質を示す真名を赦された。
それはつまりこの魔王であり覇王であり妖艶であり愛嬌の絶えない至高の主に俺の存在を認められた、という事なのだ。
先程は恐怖、今は歓喜で震える身体を、歯を目一杯食いしばって押さえつけて。
俺は、出来るだけ冷静そうに、月様へと答えた。
「……では、この一刀、仲頴様にこの身の一片まで捧げ仕えましょう。月様を信じ、庇護と忠誠の対価を果たして頂ける限り持てる物全てを貴方の為に用いましょう」
ああ駄目だ。声が喜んで上ずっているのが話していてわかる。
それでも、真名を呼ぶ度に俺が月様に認められたと言う事を実感し、その度に比類ない充足を感じさせるのだから仕方ないと言えばそれまでだ。
そんな内心を知ってか知らずか、いや、気付かれている気しかしないけれども。
「へぅ。宜しくお願いしますね、一刀」
「御意であります。月様」
月様は、楽しそうににこにこと笑いながら俺の真名を呼んだだのだ。
「“覇王様”の考えること、俺にゃ分かんねですね」
「くすくす。だから王は王なんですよ」
呑まれたな、と自覚しながら。
俺は何処か満足した心持で魔王に真の俺を売ったのだ。
わお、すっごい悪役っぽい。
蛇足的な補足
行政システム
地方行政単位
司隷(中央)皇帝の直轄地 以下13の州に分割され各州に州牧(方面軍司令官兼州知事)と刺史が一人ずつとなっているが
実際は刺史は形骸化し州牧が全ての権利を握ったり兼任する場合が多い。
その下部行政単位に郡と県があり太守(知事)と都尉(県警本部長クラス)、県令(市長)と県尉(市警所長クラス)がある。
それらには大抵の場合は州牧の配下が任命されるが収穫量や人口によっては中央から直接任命される場合がある。
地方行政制度
三省六部制がとられる。州牧を頂点とした行政を行い、基本的に調停の干渉を受けず内政が行える体制が出来上がっていた。
州牧たちは中央から任命された赴任先の州で己の国を開いている、と言ってもいい現状だが中央は何ら対処できないでいる。
一部の州牧や太守は賜った将軍位や地方軍司令官という側面がある為独自の軍勢を確保し徴税権もあるので強大な勢力となりつつある。
中央行政単位
三公九卿制がとられる。合議制で国家運営が行われるが内朝の権限の肥大と宦官の専横により形骸化している。
外戚を仰いだ外朝(上記の様な官僚機構)と宦官達の内朝は勢力争いに明け暮れているのが現状。
特段用いられることの無い首都警備隊や親衛隊、近衛隊は弱体化著しく大将軍の権威の低下の一翼を担っている。
※史実は完全に無視しています。
唐代と漢代にオリジナル要素を足してミキサーにかけた様なシステムなので注意してください
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