三章 訪れる眠りと近付く別れ
衣擦れの音と、剣戟の音。何より、すぐ近くにある悪魔の気配で目が覚めた。
目を開けると、一人戦うラルフの姿が目に入る。他の二人は疲れきっていて、気が付かないのだろうか。
「……っ、ちょっとラルフ、なんで起こしてくれなかったのよ?」
「ね、願衣か。いや、これぐらいおれ一人で……」
「後二十はいるわよ。あんたは格好付けたいかもしれないけど、寝ている二人が狙われたら大変なんだから。ほら、私も手を貸すわ」
大体の方角を絞り、そこに鎖を放つ。近くにまで迫って来た一羽は短剣で斬り捨て、すぐ背中にまで迫って来たものは、ラルフの剣が貫いた。
「っと、危ないなぁ」
「あんたを信頼して背中がら空きにしてるんだから、ちゃんとバックアップはしてよね」
「じゃあ、おれの背中の方を任されてくれよ……」
そう言われても、注意を払うのは前と、レイナとサイラスへの接近だけだ。そうすることで、結果的にラルフの負担を減らすことが出来る。ラルフは自分と、願衣の背中にだけ気を配れば良い、ということだ。
「後五、三、一……最後のが遠いわね。それに早い」
「別の悪魔か?」
「気配はすごく似ている……。大将ってところかしら。そいつを潰せば、もうこいつ等に悩まされることはないと思うわ」
「やっとおれも一息つけるってことか」
「首尾よく倒せればね。移動が速過ぎて、先手を打つのは無理だわ」
隙をうかがっているのか、悪魔は数メートルほど離れた周囲をぐるぐると回っている。
突撃の速さは、旋回飛行の比ではないだろう。下手をすれば、回避や迎撃が間に合わない危険性がある。願衣は今も眠る二人の前に立ち、最悪の事態だけは避けようとするが、それがどの程度の効果があるかはわからない。
短剣を握る手に改めて力を入れ直した時、悪魔はまっすぐに願衣目がけて飛び出した。ひゅん、という矢のような風切り音が響く。
「願衣っ!」
ラルフが叫んだ頃には、悪魔の姿は既にない。嘴が直撃するすんでのところで短剣で弾き返した結果だが、お陰で刃は折れるどころか完全に砕け、腕も軽くつったようだ。ほとんと自由が利かない。
「なんとか、嘴を思いっきり傷め付けてやれたわ。もうあれじゃ使いものにならない」
「じゃあ……」
残る相手の武器は岩も切り裂きそうな爪。すれ違い際を狙って来るだろう。
「さすがに、姿を見てから鎖を放ってるようじゃ間に合わないわね。仕方がない……」
一瞬で左手の爪が変化し、一本一本がナイフのように鋭利な凶器となる。牙もそうだが、何も吸血鬼らしい姿は吸血の時だけではなく、自分の意思で体を変化させることは出来る。ただ、普通の人間を目指している願衣はそれがしたくないだけだ。
「どっちの爪が強いのか、比べてみるのも良いじゃない」
爪と共に、犬歯も牙へと姿を変える。獰猛な牙を見せながら不敵に笑うと、相手の悪魔も少し怖気づいたような気がした。
「ずいぶんと様になってるな」
「親父の血の本能、なんて言わないでよ。かなり恥ずかしいんだから」
願衣が吐き捨てると同時に、空気が冷たく、鋭いものへと変わる。先ほどより高度を上げ、今度も悪魔は願衣に向かって来た。
しかし、吸血鬼の姿となったことでより戦闘能力は増している。真っ向から相手の爪を見据え、自分の爪で打ち砕くつもりで構えるが、直前になって悪魔は高度を更に上げた。
ともなれば、狙うは願衣でも、寝ている二人でもない。急降下で嘴を突き刺そうにも、自慢の武器は折れ曲がっている。
「くそっ、おれか!」
振り返った時には、悪魔の姿はすぐ傍だった。剣を振るうが、それよりも先に爪がラルフの体へと迫る
「この馬鹿っ!あんたは前より後ろを警戒してなさいよ!」
今から鎖を飛ばしても絶対に間に合わない。しかし、そんな中で唯一間に合うものがあった。
「願衣っ!!」
悪魔とラルフの間に滑り込んだ願衣が腕を振り上げ、自分の腕に悪魔の爪を食い込ませる。頑強な骨と肉は断ち切られることはないが、鮮血が飛び散り、願衣の巫女服を真っ赤に染め上げた。
即座に悪魔の首を願衣が自らの爪で切り落とすが、悪魔によって裂かれた体は当然ながら元には戻らない。
「痛っ……。こんな痛いなんて、聞いてな……い、わよ…………」
脚色ではなく、水筒をひっくり返したような量の血が傷口から溢れ出る。焼けただれるような痛みも尋常のものではなく、それ等は願衣の意識をいともたやすく奪って行った。
「おい……。嘘、だろ?願衣っ!!願衣!?し、死なないよなぁ!?」
悲痛な叫びが深い眠りの底にいた二人をも無理矢理叩き起こし、状況を理解したレイナは泣き叫んで崩れ落ち、サイラスも絶句してしまった。
全員が言葉と表情を失い、永遠にも思える暗黒の夜が過ぎて行く。
願衣の傷は深く、いくら包帯を巻いてもたちまち血で汚れてしまう。
男泣きに目を赤く腫らしたラルフが一晩中看病しても、傷は塞がるどころか血はどんどん体から失われて行き、素人が見ても危険な状態だというのは明らかだ。
「くそっ……。どうしてっ、おれは…………」
ラルフが溢れさせるのは、自己嫌悪。
守りたいと思った、今まで守って来たつもりだった存在が目の前で傷付き、今はその命さえも危機に晒されている。自分がすぐ近くにいたというのに。
感情は自然と極端な方向へと流れて行き、もし願衣がこのまま命を落とすようなことがあれば、自分も……とすら考えてしまう。
「ラルフさん……」
横にはなっていたが、ほとんど眠れなかったのだろう。顔色の優れないレイナがそっと願衣の傍に座り込む。
いくら魔法が強大な力を秘めていても、特殊な訓練を積んだ者以外に治癒の魔法は扱えない。それにこの傷では、たとえレイナがそれを使えたとしても効果は見込めないだろう。
「レイナ、サイラス。悪いけどおれと願衣の分の荷物、運んでくれないか?」
「……え?」
「この山じゃまともな治療は出来ない。すぐに下山がしたいんだ。願衣はおれが背負って行く。だから……」
「は、はい」
小柄な二人が余分に荷物を持つのは、決して楽なことではない。それでも、何も言わずにレイナもサイラスも、下山の準備を始める。
いくら願衣が人と吸血鬼の混血で、強い肉体を持っていたとしても、命が繋がるかどうかは微妙。旅慣れた人間なら、ここで願衣を見捨てる判断をしていてもおかしくはない状況だ。
それでも、異論は出ない。今まで築いて来た関係がそうさせているのだろう。願衣を失って良いと思う人間は、ここにはいない。
願衣を背負ったラルフの歩く速度は、自然と加速度的に早くなり、重い荷物を運ぶ二人をどんどんと引き離して行く。
途中、何度も岩場から足を踏み外しそうになったり、つまずきにそうなったりしたが、絶対に足を止めない。
依然として流れ続ける願衣の腕の血は、ラルフの服を汚し、地面に血痕を残す。血の臭いは悪魔を呼びそうなものだが、統率するものを欠いたためか、昨日あれだけしつこかった悪魔はもう現れなかった。それだけが救いだ。
昼前にはラルフ一人が下山を果たし、後続を待つことなく町へと駆け込む。
明らかに重傷を負っている願衣と、打ちひしがれたような顔のラルフを見れば、どの町人も町一番の医者を紹介して、案内しようとしてくれた。
しかし、願衣の背に人外の羽が生えていることに気付くと、気の毒そうな顔をしながらも、案内を放棄して離れて行く。
結局医者は自力で探すことになり、ほとんど大声で脅すように診察させる頃には昼過ぎだった。
幸運にも、件の名医自身は人ならざる姿の願衣を見ても、それほど驚くことはなく、すぐに処置を始めてくれた。
五十代も後半、相当な老齢に見える医者だ。もしかすると、願衣以外にも悪魔との混血の人間を診たことがあるのかもしれない。
「先生っ。願衣は……」
答えを聞くのが恐ろしい質問は、自然と口から飛び出した。
訊かなくて良い、訊かない方が良いことなのに、回答が今すぐにでも欲しくて、訊いてしまう。
「大丈夫。このお嬢さんは生きることを諦めていません。必ず、助かります」
老医者は目を細めると、ラルフを元気付けるように優しく、言い聞かせるようにそう言った。そして、すぐに老練な医者の顔になり、看護婦へと指示を飛ばす。
この医師なら、安心して任せられる。目の前で血まみれの傷口を見るのも辛いことだし、外に出て待つことにした。
「願衣……」
背負っている間、願衣の体温は確かに感じられていた。願衣が生きているのだという実感があった。しかし、それがなくなると、どうしても不安になってしまう。
扉が開くまでの時間がもどかしく、考えは悲観的なものになって行く。
時間がかかっているのは、それだけ難しいということなのだろうか。医師の言葉は気休めで、実際はもう手遅れなのではないだろうか。一度考え出すと、もういても立ってもいられず、何度も様子を見せてもらおうかと思うが、それはそれで恐ろしくて出来ない。
結局、二人が追い付いて来た頃に施術は終わり、医師が姿を見せた。
「願衣は……!」
さっきからラルフの言葉は、最愛の幼馴染の名前ばかりだ。それしか喋るべき言葉を知らないかのように繰り返している。
「悪魔は何らかの病気を持っている場合もあります。それへの処置と、止血。後は傷口を塞ぐため、少々きつめに包帯を巻きました。後は自分の治癒力で傷口を繋ぎ合せてくれることを祈りましょう」
「願衣は、助かるんですよね?」
「正直に言って、ただの人間ではここまで持ちませんでした。悪魔の血が与える強い生命力を信じるしかありません」
やはり、悪魔との混血であることには気付いていたらしい。
それなのに治療してくれたのも驚きだが、人では持たなかったという言葉も気になる。
もしあのまま、ラルフが傷を負っていれば、そこで命を落としていたのだろうか?
――恐らくはそうなのだろう。それを思うと、ぞっとする以上に、改めて情けなさが込み上げて来た。
「……おれが、しっかりしていれば」
心から血が噴き出し、それは涙という形で体から溢れ出す。今の自分では、願衣の姿を見る資格もない。そんな気がしてしまう。
「ラルフさん。一緒に願衣さんをお見舞いしましょう?宿の準備はサイラスにやらせますから」
「いや、おれは……」
レイナが声をかけてくれる。ショックと疲労で、その声はいつもより弱々しく、消え入りそうだった。
「願衣さんは、貴方がそんな風にうじうじしているのを知って、喜ぶでしょうか?」
「……喜ぶ訳がない。でも、じゃあおれはどうすれば良い?素直に命が助かって、儲け物と喜ぶべきか?」
年の功か、レイナの言葉は正しく、痛いところを突いて来る。そのせいで心はささくれ立ち、言葉が荒くなり、ほとんど八つ当たりをする形になってしまう。
それでも、返って来る言葉は優しく、的確だった。
「感謝をしてあげて下さい。願衣さんはそれを望まないかもしれませんが、素直に感謝の気持ちを伝えるべきです。ラルフさんが本当に願衣さんのことを大切に想っているのでしたら」
その言葉を受け、尚も戸惑っていると、強い力で腕を引かれた。そのまま、願衣の寝ているところまで連れて行かれる。
「きゃっ。セ、セクシーですね」
願衣の巫女装束は脱がされていて、代わりに薄手の簡素な服が着せられている。何かあれば、簡単に服を破いて治療にあたれるようにだろう。
特別なものだと気付いたのか、血染めの巫女装束とそれに仕込まれた暗器達も大切に保管されていた。
「願衣……」
今は安らかな寝息を立てている願衣の右腕には、一面包帯が巻かれている。止血が完全ではないのか、一部赤くなってはいるが、朝のことを思えば出血は圧倒的に少ない。
それでも顔色は悪く、背中にある羽はぴくりともせず、布切れのように垂れ下がっていた。
「ラルフさん、見て下さい」
「……え?」
「願衣さんの顔です。意識はなくとも、まだ相当痛くて、苦しいはずです。なのに、どこか満足そうに見えませんか?」
言われてみれば、眠る願衣の顔は微笑しているようでもある。願衣が吸血の時に与えるような高性能の麻酔など、人の世界には存在していないのだから、苦しんでいても仕方がないというのに。
「きっと、願衣さんは気付いているんですよ。体は言うことを聞かなくても、ラルフさんが傍にいてくれていることがわかっているんだと思います」
「そう、なのか?」
「素晴らしい夢を見ているんですよ。……まあ、レイナの魔法でも人の夢まで確かめることは出来ません。推測でしかないですけどね」
最後にレイナは冗談のように付け足したが、ラルフもそうなのだろうと思うことが出来た。
そして、このままずっと傍にいれば、きっと目を覚ましてくれる。そんな確信もある。
「……あっ。そう言えばレイナ、大事なことを忘れていました」
「どうしたんだ?」
「サイラスにお金を渡していませんでした。今頃、宿代を支払えなくて立ち往生してますね。すぐに行って来ますので、ラルフさんは願衣さんを見ていてあげて下さいね。大丈夫な方の手を握るとかも、良いんじゃありませんか?」
「あ、ああ」
あわただしくレイナは出て行き、もう戻って来ることはなかった。
それから日が暮れ、月が出て来ても願衣の目が覚めることはなく、丸一日が経過して、ラルフが我慢しきれず瞼を落とした頃。わずかにラルフの握る左腕が動き、頭もまたわずかに動いた。
「……ラルフ?」
意識が戻って来て、一番最初に腕に感じる温もりに気付く。
まだちゃんと目が見えるようになっていないのに、直感とごつごつとした触感で相手が誰かわかった。
「ここは……病院、か。連れて来てくれたのね。ラルフ」
怪我を負って、気絶してからの記憶は一切ない。ただ、幼馴染がずっと傍にいてくれたのは、なんとなくわかる。
右腕は動きそうにないが、体の他の部分は無事に動くようだ。首を動かし、寝息を立てるラルフの顔を見ると、予想以上の間抜け面で思わず笑いが漏れた。
「あんた、本当、変な顔で寝るわね。折角の二枚目が台無しじゃない」
だけど、それがたまらなく愛おしい。こんなところでぐらい抜けていないと、完璧過ぎて引け目を感じてしまう。
「でも、本当に良かったわ。あんたが無事で。あんたに死なれたら、私も生きてはいられなかったと思う。
……不思議ね。私はお母さんのために親父を連れ戻しに旅立ったのに、私が生きて帰らなくてお母さんが悲しむより、あんたが死ぬことの方が怖かった。村にいた頃は友達でしかなかったのに、親以上に大切に思うなんてね」
相手が聞いていないと思うと、本心は次々と口から出て行った。普段なら絶対に出て来ない台詞ばかりだ。
こんなに口が軽くなってしまうのは、自分自身が弱っているからかもしれない。
「本当、ありがとう……。でも、もうちょっとだけ寝てるわね」
一時的に覚醒した意識は、すぐにまた眠りの底に沈んで行く。
再び意識を失うことは恐ろしかったが、必ずラルフなら自分を引き上げてくれる。
そう思えば、怖がることは何もなかった。
次に願衣の目が覚めたのは、翌日の夜。
窓からは月明かりが入って来ていて、疲れ、傷付いた体に追い討ちをかけられるようだった。
「願衣?願衣、起きたのかっ」
「ええ……でも、正直最悪の気分。ちょっと血、吸わせてくれない?」
「ああ、ああ……!いくらでも飲んでくれ」
今度は起きていたラルフに首元をはだけさせ、迷うことなくかぶり付く。牙が肌を、血管を貫いて行き、新鮮な血液が口から喉を通り、体に溶け込んで行く。
一日していなかっただけに、今度の吸血は終わることがないように思えるほど長く、さすがにラルフの貧血を心配したが、傷付いた吸血鬼の体は大量の血を求める。
理性のタガが外れたように血を吸い、獲物が逃げないよう押さえつけるようにラルフの体を掴み、抱きしめ、血を貪った。
「はぁ……はぁっ……、ラルフ、ありがと…………」
呼吸も忘れて血を吸い、気が付くと服やシーツまで赤く汚れてしまっていた。
「願衣、本当にもう大丈夫か?おれのことは良いから、満足するまで血を……」
「ううん。もうお腹いっぱいだから。この分なら、きっと明日には腕も治ると思う。……ラルフが頑張って私を運んでくれたお陰よね」
「おれは……当然のこと、自分のしたいことをしただけだ。おれは、おまえを失いたくなかったから……おまえが死ぬなんて、絶対に考えられなかったから、ただ必死だった」
安堵した顔のラルフの目には、一筋涙が流れていた。ラルフの涙なんて、何年ぶりに見ただろうか?
記憶の中を探してみても、すぐにわからないほど遠い昔、やはり願衣を想ってラルフは泣いた。
ラルフの涙は常に願衣のためにあって、願衣もまた、涙の理由は多くの場合がラルフに関係していた。
「二人は……宿か。ずっと、ここにいてくれたの?」
「もちろん、離れる訳がないだろ……。だって、おれは……」
「責任感?それなら、私こそ、私がするべきことをやっただけだから、気にしないで良いわよ。……もうそんなことで責任を感じ合うほど、浅い仲じゃないでしょ」
「いや、違う」
「違う?じゃあ、なんで……」
「おまえが好きだから、ずっと傍にいたかった。おまえが目を開けた時、一番初めに見るのは先生でも、天井でもなく、俺の顔がよかったんだ。……だから、絶対に離れようとは思わなかった」
再び意識がぐらつくような衝撃があった。目眩ではない。ラルフのことが、あまりに率直に好意を示していたから。
二人の関係は、あくまで幼馴染。最高の親友同士であり、そこに男女の感情が絡むようなことはなかった。……今までは。
しかし、今こうしてラルフは初めて、願衣に愛を打ち明けていた。その「好き」という言葉が友人として、仲間としての「好き」でないことは、熱意のこもったその目が何よりもわかりやすく説明している。
願衣にしてみれば、初めての男性からの愛の告白。しかも一緒に年を重ねて、旅に出てからは寝食まで共にして来た相手からのものだ。
今までは意識していなかった。あるいは、目を背けていた感情が湧き上がって来るのを感じる。
「ラルフ……」
「おれは、おまえが大事だ。そう想うこの気持ちは、きっとそうなんだと思う。……すぐには答えなくて良いし、ずっとこのままでも良い。けど、おまえが目を覚ましたら。また生きて会えたら、それだけ言いたかった」
普段はのんびりとしている癖に、今回ばかりは一気にまくし立てるように言うと、それきりラルフは口をつぐみ、顔も背けてしまった。
対する願衣は、頬が、顔全体が、一気に赤く色づいて行くのが自分でもわかる。
多くの恋愛話は知らない。でも、これが情熱的かそうじゃないかといえば、間違いなく情熱的で衝撃的な告白だ。
ラルフが恋や愛といった話から縁遠い生活をして来たことは、誰よりもよく知っている。なのに、今こうしてラルフの愛情は願衣に注がれている。その事実に戸惑い、照れて、何も言えなくなってしまう。
怪我を負った時は、相当痛くて苦しかったという記憶がある。だからこそ意識が失われて、心が壊れないようにしたのだろう。人の体というものは驚くほど賢く出来ているものだ。
しかし、ある意味で今はその時以上によくわからなくて、苦しい。また意識が飛んで、緊急脱出を図りそうになるほどだ。
自分の心と向き合ってみると、ラルフに抱いている気持ちは間違いなく好きというもの。問題は、その質だ。
それは全く、ラルフと同質のものだと断言出来るだろうか?男女の好き嫌いとは、これ以上がないほど繊細な問題だ。ここで判断を見誤れば、二人とも不幸になってしまう。絶対にミスは許されない。
そんな場面で、願衣は自分自身の気持ちが一番よくわからなかった。その理由はきっと、この悩みが今まで生きて来て、初めて持ったものだから。
どれだけ詳細に意味の書かれている辞典があっても、そもそも項目のない事柄については何も知ることが出来ない。それと全く同じ問題に願衣はぶつかっていた。恋というものを自覚したことがないのだから、考えることすら出来ないのだ。
だから永遠と考えていても甲斐はないのに、ぐるぐると同じ思考をくり返し、体は休められても、頭はまるで休まらない時間を過ごしてしまう。吸血によって、活力を得ていることも災いした。何度考えても、疲れるということがない。むしろより高速に、頭が焼ききれるぐらいの速度で同じことを考えてしまう。
「願衣?無理せず、いつでも休んでくれよ」
「う、うん……。でも、大丈夫」
何千、何万回と繰り返されたラルフとの会話に、初めて緊張を感じる。
今まではボケもツッコミもネタフリも、何でも出来たのに、出て来る言葉は生返事だけ。顔を見ることままならない。
心臓は常に早鐘を打ち、汗や呼吸もいつもの倍以上だ。うっかりラルフの顔を見れば、血液が沸騰しそうなほど体温が上がる感覚がした。
「ラ、ラルフ。もう私は大丈夫だから、宿に戻ったら?レイナ達にも知らせてほしいし」
「ん……そうだなぁ。わかった。じゃあ、出来るだけ早く帰って来る」
「い、いや、だから、もう退院するまでずっと私一人で大丈夫。むしろあんたがいた方が邪魔なの!わかった?」
「そうなのか?だったら、そうするけどな……」
無理矢理ラルフを病室から追い出し、ようやく本調子を取り戻した気になる。
腕の怪我の治癒もかなり始まっているらしく、指先を動かすことぐらいは出来た。
「……初めて、ね」
ラルフのことではなく、ここまでの大怪我は、だ。
村にいた頃には、こけたり、喧嘩をしたりで小さな傷ぐらいは作ることがあった。それでも、大量に出血をしたり、骨を折ったりという怪我はあり得なかった。
もちろん、生活をする場所でそんなことが起きてはいけないのだが、一度外に出て、悪魔に襲われれば、吸血鬼との混血である願衣すらも、生死の境を彷徨うような大怪我を負う危険がある……その事実がわかって、恐ろしさを感じると同時に、なぜか感動をしていた。
母がこんなことを知れば間違いなく悲しむだろう。それでも、村では絶対に起きないことを経験して、やっと旅に出て広い世界を知れた気がする。
それに、もうすぐそこに父親との対面を控えている。怪我が治れば更に北へと向かい、父親を容赦なく叩きのめす。そして連れ戻せば、今度は少しぐらいなら願衣が家を空けても文句は言われないだろう。
まだまだ、願衣は世界の全体の一割も見ることが出来ていない。少しでも広い世界を見るという夢を叶えるため、再び旅に出る気でいた。
「ラルフのことは、その後かな……」
肝心なことは、一番後回しにしておく。それが願衣の癖だったのかもしれない。
「お姉様っ!もうすっかり元気になられて……レイナは、レイナはもうっ…………」
退院するまで病院に来てくれるな、という願衣の要望はきちんと聞き入れられて、二日後の朝、退院が決まった時になって病室に三人が駆け付けた。
レイナは一番に走って来て、もう怪我のことは忘れたのか、願衣の胸に飛び込むと、顔を擦り付けながら涙を流して喜んだ。
「あ、あはは……。レイナもサイラスも、本当ありがとうね。それから、心配させてしまって本当にごめんなさい」
「良いんですっ!お姉様がこうして、レイナの目の前に立っていてくださる、それだけでレイナは、本当に……うっ、ひっく……」
「む、無理して喋らなくて良いから!ほら、だっこしてあげるから……」
「わぁ……お姉様の柔らかい体に包まれて、幸せです……」
「……微妙に喜び方が邪な気がするのは、気のせいかしら」
そうこうしている内に、男二人は医者と金の話をしていて、どうにか今現在の所持金で払える程度の治療費で済んだみたいだ。もしかすると、いくらか負けてくれたのかもしれない。
「先生。ありがとうございました。……私の命の恩人、ですよね」
「これからは医者の世話にならないように、とはあえて言わないでおきます。どうか、お気を付けて」
老医者は最後まで朗らかな笑顔で、願衣を送り出した。
間違いなく今まで出会って来た中で最高の医者だったが、結局その真意はわからなかった。
しかし、少なくとも願衣が悪魔の血を持っていることは知っていて、その上で最高の治療を施してくれるだけの良心を持ち合せていたのは確かだ。
もしかすると、この町の近くに住む吸血鬼の娘だということすら、わかっていたかもしれない。もしそうでも、おかしくは思えないほど不思議な人物だった。
「レイナ。もう泣き止んだ?」
「はいっ!いつまでもお姉様を心配させてしまう訳には行きませんから」
「そう。なら、二人で少し買い物をしない?ラルフ、まだお金はあるわよね」
「どの道、この後依頼をこなすつもりだったから、今ある金は全部渡して大丈夫、だな。俺とサイラスでそれはやって来るから、好きなだけ買い物してくれて良いぞ」
「ありがと。それじゃレイナ、行きましょう」
財布を預かり、意外とまだ重みのあるそれに驚く。もちろん、中身は価値の低い貨幣ばかりという訳でもなく、十分な買い物が出来そうだ。
逆に、全所持金がこれだけだと思えば少し寂しいが、これから依頼をこなしてもらえば余裕も出来るだろう。
この町を願衣は初めて見るが、町の構造はどこでも似通っている。それは山を隔てたこの地方でも同じようで、全体的に屋根が急に作られている以外、建物もよく見る形のものばかりだった。
商店街らしいところを見つけると、レイナと並んで歩き始めた。
「でも、まだちょっと夢心地です……。こうして、一緒にお買いものが出来るなんて……うぅっ」
「もう、大袈裟ね。でも、ありがと。そこまで心配してもらえて、私もすごく嬉しい」
頭をくしゃりと撫で、人目を気にして軽く、抱きしめる。
レイナの華奢な体は、願衣のそれよりずっと脆く、壊れやすい危うげなものに思えた。これを守れた、それだけで先の負傷は意味のあるものだった気がする。
「はぅっ、ありがとうございますっ」
「そんな、感謝されることじゃないわよ。私はあなた達を守れたんだし、退院を喜んでもらって、私の方こそ感謝しても、し足りないぐらい。だから、今日はせめてレイナには楽しんでもらいたいな、って思ったの」
「お姉様……。わかりました。今日はいっぱいお姉様におねだりしちゃいますねっ」
「ええ。もちろん、私の買い物もさせてもらうけどね。服とか」
「服……?あっ、そういえば……」
今までも返り血で汚れていた願衣の巫女装束だが、あの日の負傷で完全に袖は破れ、自らの血で隠しようがないほど汚れてしまった。今は替えの服でなんとか繋いでいるが、神楽は普通の服では効果が出ない。新しい服を手に入れる必要がある。
しかし、巫女装束の作り方は秘伝のもの。願衣はそれを習得しているが、製作には新しい布と多大な時間が必要になって来るため、材料集めと着替えの用意もしておきたい。
「私、普通の服を見立てるセンスはあまりないから、レイナに頼らせてもらうわね。レイナってお洒落そうだし、期待しているわ」
「ええっ?でもお姉様、その服もとてもよくお似合いですよ。やっぱり服は自分が着るものだし、ご自身のセンスを信じて決められては……」
「ううん。この服はお母さんが買ってくれたもの。普通の服も持ってなさいって。……私は多分、服より武器を選ばせた方が活躍出来ると思うぐらいよ」
「あ、あはは……では、不肖レイナ、お姉様のために素敵なお洋服を選ばせてもらいますね」
武器といえば、普通の服では暗器を隠し持つことも出来ない。巫女装束が完成するまでは願衣が戦力になることも出来ず、当分はここで足止めという形になってしまうだろう。
もうすぐ願衣の旅は最終目的地へと辿り着こうとしていて、それはつまりレイナ、サイラスの二人との別れも意味している。図らずしてその直前になって、別れを惜しむようにレイナと二人になる機会が出来て、願衣にとってもレイナにとっても、願ってもみない幸運だった。
男性二人も、女性の旅の共を持つ者同士、二人きりで話すこともあっただろう。さすがに従者であるサイラスはレイナに身分違いの恋心を抱いている節がなかったが。
「けど、これが最後の思い出づくり、ですね……」
「そうね……でも、一生の別れじゃないんだから。ちょっと遠いけど、私の村に来てくれたら会えるし、これからも私は旅をするつもりだから、その時に会えるかもしれないわ」
「ですけど、もうそろそろレイナは旅を終える頃合かもしれません。まだ話が固まった訳ではありませんが、そろそろ王位を継ぎ、女王になるべき時です。そうなれば、軽々しく国の外に出る訳にもいきませんし、我が国に人間の方を招くという訳にもいきませんから」
「……そういえば、そうだったわね。でも、あなたとの楽しかった日々のことは、絶対忘れない自信があるわ。私は多分、人よりずっと長く生きるだろうし、数百年でも数千年でも、レイナのことを語り継ぐかも」
「あははっ。そこまで有名人にされてしまっては、誇らしいと言うより恥ずかしいですよ……。でも、そうですね。レイナがおばあちゃん……まあ、姿は老いないのですが、孫が出来るぐらいの年になった頃に、やっぱり老いていないお姉様に会えるかもしれません。その頃には、お姉様のお子さんやお孫さんも生まれてますね」
「お互い、そうなったら不思議な感じね。さすがに四分の一しか悪魔の血が入ってなかったら、そこまで血の影響は出ないだろうし、私の子どもはきっと私より老けてて、レイナの子ども達は皆レイナと変わらない見た目で……」
「ふふ、傑作ですね。誰が子ども、誰が孫か、自分でもわからないかもです」
自らの血の不可思議さを想い、笑い合う。
改めて考えてみると、小人の王女と、吸血鬼の血を持った巫女。この二人が出会うだなんて、なんと数奇な運命だろうか?
天に神はいるだろう。しかし、いないかもしれない。最早人の間でもその認識は揺らいで来ているが、運命神なるものの存在を認めたくなるほど奇跡的な巡り合わせだ。
ただ二人がすれ違うだけではなく、レイナの人懐っこさのために同じ旅路を歩んでいるのだから。
「さて、すごく先の未来の話も良いけど、まずは目先の問題を解決しないとね」
「目先の問題、ですか?」
「ええ。……私だけかもしれないけど、今朝はちょっとお腹減ってるの。昨日の夜はずっと寝てて、血を飲んでないのもあるかもしれないわね」
「あはは。そうでしたか。でもお姉様、もう陽はあんなにも高いんですよ?丁度お昼ぐらいです。ご飯を食べても全然おかしくない時刻ですよ」
「うそ?私としては、まだ八時ぐらいの感覚なんだけど」
「ずっと横になっていたので、感覚が麻痺しているのかもしれませんね。食べ物の屋台も結構出ていますので、適当に食べてしまいましょうか」
「え、ええ……。人の体って案外単純ね。ちょっと昼も夜もない生活を送ってたら、すぐこれだもの。……この分だと、筋肉も結構衰えてそうね。神楽を踊るのが相当辛いかも」
軽く腕を回してみると、関節がばきばきと音を立て、自分の体の無事を思わず心配してしまう。
脚や腰も中々になまっていそうで、バランスが命である神楽をきちんと踊りきれるだろうか?失った数日間は思った以上に大きくて、取り返すことも困難に思えた。
「あ、あのお店、鶏の足を揚げた物を売ってますよ!やっぱり、精を付けると言えば、お肉ですよね。お姉様、どうですか?」
「美味しそうな匂いと思ったら、これだったのね。案外安いし、一人二本ぐらい買えそう……。にしても、見た目に反してレイナってお肉好きよね」
「えへへ。肉食系小動物を目指していたりしますっ。では、五本くださーいっ。あ、反射的にレイナの分、三本にしちゃいました」
「もう、わかってて言ったわね?」
「ごめんなさい。けど、お姉様の回復祝いということで、良いですよね?」
などと言っている間に、注文通り揚げた鶏が五本、食べやすくするためかパンに挟まれて出来上がって来る。
女性二人で食べきるつもりだと知ると、店員も驚いた顔を見せたが、小さな両手でパンを掴んだレイナがあっという間に一つ食べきってしまうと、今度は別な意味で目を丸くした。
これには願衣も驚くというより、最早呆れてしまうが何だか対抗心まで湧いて消てしまい、やはり女性どころか人間とは思えない速度で食べ終えてしまう。
最後の一つは、早く食べ終えた方が手にする権利を得る、と言わんばかりにお互い二つ目も激しく、荒々しく食べて、レイナがわずかに速度で勝ったが、願いが六つ目を自分で注文して結局食べた量は同じ。速度も数秒程度の差しかない。
「ごちそうさまでした。お姉様、すっごく美味しかったですね」
「ごちそうさま。そうね、後二つは食べれそうだけど、ほどほどにしておかないと、ここだけでお金を全部使いかねないわ」
「むっ……レ、レイナは五つは大丈夫ですね!」
「じゃあ、私は七つは余裕だと思うわ」
「なら、十個でも行けますよ!」
なぜか二人して言葉だけで競い合い、周囲の人々に微笑ましそうな視線を向けられて、慌ててその場を立ち去る。
一度食事を始めれば、驚くほどの貪欲さを見せる二人だが、人の目は気になる。たとえそれが好意的なものでも、あまり注目されると恥ずかしい。
願衣は神楽を踊る姿を見られるのはしょっちゅうだが、それ以外の時は意外かもしれないが、人より恥ずかしがりなぐらいだ。しかも食べ物のことで注目されるなんて、大食らいみたいで嫌過ぎる。
「はぁ……。どうでも良いことで張り合うなんて、本当に無意味ね」
「ですね……。あ、でもここ、服のお店みたいですよ。怪我の功名、です」
「本当、運は良いわね。私達」
店先に並んだ衣服を見てみると、全体的にやや高級ではあるが、質の良い女性服を扱った店のようだ。サイズも大小色々と取り揃えられており、入る入らないで悩むようなこともないだろう。
「奥に生地もあるみたいね。丁度良かったわ。これなら材料も揃えられそう」
「では、お姉様の服選びは、レイナにお任せくださいっ」
「ええ。ゆっくり選んでね。私も自分で生地から選ぶのは初めてだし、動きやすさとか色々考えないといけないから」
巫女装束を作るためには、白と緋の布地。後はそれと同じ色の糸さえあれば良い。
後は、巫女の一族の血が覚えている通りにそれ等を組み合わせれば、神楽の舞い手としての聖衣が完成する。
もし母から教わった製法をところどころ忘れてしまっていても、血の記憶がそれを補ってくれる。何代続いているかわからないほどの名家だからこその芸当だろう。血を通して先祖達と記憶を共有しているかのようだ。
といっても、その記憶が生地選びまで手伝ってくれるかといえば、また別の話。厚さ、手触り、色合い。どれも違う生地の中から、最も自分の作りたい服に見合う物を見つけ出すのは中々に難しい。
その苦労はある意味で実際の製作以上で、根気のいる作業だ。生地を手に取り、広げ、触感を確かめている内に時間は流れて行く。
結局、レイナが自身の服を含め、七着も服を選んでしまうほどの時間が費やされた。
その甲斐あって、間違いなく立派な巫女装束を作れるだけの材料が手に入ったが、そこから更に服選びで時間が必要になって来る。
「お姉様。お疲れ様です。では、レイナはこの五着を選ばせてもらったのですが、どれが一番良いですか?」
「ご、五着……。私が時間かけ過ぎちゃってたのはわかるけど、またずいぶんと選んだわね」
「いえいえ。レイナもいっぱい時間をかけてしまいますよ。女の子にとって服は髪と並んで、命にも等しいものですからね。
それにしても、見れば見るほどこのお店、素敵なお洋服がたくさんあって、目移りしちゃいました。ですから、お姉様の服も色々ですが、レイナ自身にも二着、選んでしまいました」
嬉し恥ずかしそうにレイナが見せた服は、北国らしくやや厚めの生地で作られたよそ行き用らしいワンピースと、逆に普段着に似合いそうな地味めの服で、片方は王宮用、片方はこれからの旅の衣装を意識して選んだのだろうか。
「すっごく可愛いわね……で、私のは?」
「はい。こちらの服なのですが」
どさっ、と五着の色合いも形も様々な服が並べられる。測ったことはないはずだが、どれも背丈、胸囲に至るまでほとんどぴったりに見えるのだから、レイナの目測と触診が驚異的な精度を持つことがわかる。
……が、統一性がないように見えて、どの服にも、願衣が手をおいそれとは伸ばせない共通点があった。
「レイナ、これ……」
「はい。右から紹介させてもらいますね。今年の流行りは、白と黒を基調としたゴシック調のものです。こちらはそれで、魔女的とでも言えますでしょうか。お姉様の黒髪とよく合うと思うんですよね。
それから、こちらは赤を基調とした温かみのある色合いになっています。これから夏の季節ではありますが、北の地では精神的にも暖色は大事な暖房の役割を果たすと思います。
一方、こちらは白と水色の寒々しいカラーの服ですが、レイナは理屈抜きでこの服をお姉様に着て頂ければ、と思いました。どことなくレイナの髪の色や全体のイメージと重なるものがあって、ちょっと嬉しいですね。
そして、こちらは夏らしく、袖のかなり切られた服ですね。生地も比較的薄めで、通気性に優れます。でも、一番のセールスポイントはずばり、薄さゆえにボディラインが目立つこと、生の二の腕が見えること、そして汗をかいた暁には……きゃー!ラルフさんも、朴念仁のサイラスも、そしてもちろんこのレイナも悩殺ですよっ!
それでそれで、この最後の服なのですが、セールスポイントはずばり、コルセットを思わせる高貴なデザインながらも、少女を対象に作られたことがよくわかる、全体的なポップさです。柔らかいイチゴのクリームを思わせる薄いピンク色がなんとも乙女的で、かーわいいデザインですよねっ」
結局のところ、共通項として少女趣味が過ぎるほど可愛らしく、また露出の多いということが挙げられる。
確かにそれぞれのデザインは悪くないし、きっと願衣によく似合う服達だろう。その辺りはレイナのセンスが非凡のものであることを物語っている。
しかし……問題は、レイナの服の趣味と、願衣の服の趣味が、あまりにもかけ離れていることだ。
「ねぇ、レイナ……。私はあんまりその、こういうリボンとかフリルの付いた服は……」
「大丈夫ですよ!お姉様はお姉様と呼ばせてもらってはいますが、まだまだ若いんです!しかも、大人の女性と可愛い女の子の中間にいる貴重な年頃なのですから、お洒落を楽しまないといけませんよ!
……レイナなんて、そろそろ見た目と実際の年齢の差に悩まされ始める頃合なんです。もっとふりっふりの服を着たいですけど、あれよあれよという間に三十の大台に乗ってしまうことを考えれば、ファッションの方向性を大人しめのものに転換しなければならない時期が確実に来ているんですっ。もう、レイナは子どものレイナではいられないんですよ……!」
悲壮感たっぷりに言われてしまい、酷く悪いことをしてしまった雰囲気になる。行為としては真っ当な、間違っても人に糾弾されるようなものではないのだが、すっかり悪役のようだ。
「わ、わかったわよ……。じゃあ、試着するからちょっと待ってて」
「いえいえ。お姉様はまだまだ本調子ではないのですから、レイナがお着替えを手伝わせてもらいますっ」
「そう言って、体を触りたいだけでしょう……?もう、男だったら絶対、血を吸い尽くしてるんだから」
「お姉様の栄養となって果てることが出来るのなら、レイナはそれで本望ですっ」
どこまでが冗談で、どこまでが本音なのかわからない……いや、もしかすると全て嘘ではなく、心から言っていることなのだろうか。
この期に及んで、少しレイナの認識を変える必要が出て来たのは、ここまで来た旅仲間に対して、少し失礼が過ぎるだろうか?しかし、どうも必要なことに思えてならない。
「ふぅ……堪能させてもらいました!」
「一体、どれぐらい色々と触られたのかしら……。少なくとも、私やお母さんが触った時間の三倍はもう触られてるわ……」
試着という名の、レイナの欲望を満たすための時間は予想以上に長かったようで、服を選んで買い終えた頃には、もう夕暮れ時が近付こうとしていた。
一番露出度や可愛らしさがマシに思えた、水色と白の清涼感ある色の服を買うことになり、早速それに袖を通している。
レイナがこれを選んだのに深い意味はなかったみたいだが、そんなところにもセンスの良さは表れるのだろうか。実際に着てみると着心地が抜群で、動きやすい。
配色がレイナのイメージにぴったりというのも、一緒に旅をした思い出と思えば、これが一番良かったのだろうと思える。
……自然と別れの時を意識してしまうのは、黄昏が近いから、だろうか。
「さて、どうします?食料は出発の時に買えば良いですし、これ以上どうしても必要なものはありませんよね」
「レイナが満足してくれているなら、もう宿に帰っていても良いわね。私も、久し振りに体を動かして気分が良かったわ。……そう考えれば、さっきは体をほぐしてくれてありがとうね」
「あはは……。うぅ、お姉様、地味に根に持たないでくださいよー。んっと、では、そうしましょう。どういった依頼だったのか知りませんが、そう遅くならない内にサイラス達も戻って来るでしょう」
願衣が初めて向かう宿は、似通った店が並ぶ中でも、特に奥まったところにあり、大通りからある程度歩かなければならない代わりに宿代が設備に対してかなり安くなっている。
知る人ぞ知る穴場といった雰囲気で、これを見つけることの出来たサイラスは、中々油断ならない注意力を持っているのかもしれない。それとも、レイナ達の旅の中で、同じような宿が他の地方にもあったりして、それを覚えているのだろうか。
どちらにせよ、未だに旅人というより「旅行者」といった雰囲気がにじみ出ている願衣からすれば、とても頼もしいことだ。
主であるレイナがどんどん前に出てくる性格な分、どうしても従者であり口数も少ない彼の印象は薄くなるが、彼の存在なくしてここまで旅が円滑に進んでいただろうか?彼不在の今、なんとなくそんな考えに至った。
「ただいま帰りましたー。マスター、連れの二人はまだ帰ってませんか?」
「ええ、今日は別行動ですか?……おっと、そちらが後から来ると言われていた?」
「あ、はい。願衣といいます。レイナ達から話されていましたか」
「とても魅力的で、快活な女性とそちらのお客様から。しかし、男女四人で南から旅ですか……いえ、これ以上は何も言いますまい。ゆっくりとお休みください」
主人らしい男性は、まだ三十代前半といったところだろうか。年齢の割に貫禄を感じさせる喋り方で、悪く言えば少し年寄り臭いが、悪い印象を受けない感じの良い男性だ。
ただ、やはり色恋沙汰には興味があるのだろうか。
「今夜はまた、神楽を踊られるのですか?」
「そうね……服がない以上、そこまで絵になるのは踊れないと思うし、部屋で軽く踊るぐらいにしておくわ」
「そうですか。お姉様の神楽も、久し振りですね……」
男女別々に部屋を取っているらしく、レイナに連れられて行ったのは二人部屋だ。しかし、今まで泊まって来たものとは比べものにならないほどゆったりとしたスペースがあり、北国ならではだろうか。ベッドはふんわり膨らんでいて、至上の眠りを堪能することが出来そうだ。
病院生活で寝るのはこりごりだったが、これならばきっと良い夢が見られるだろう。
「早速、装束は作られ始めるのですか?」
「ええ。一日二日で作れる物ではないもの。少しずつでもちゃんと作っていかないとね」
「では、レイナもお手伝いします……と言いたいところですが、お裁縫は習っていませんし、特別な作り方をされるのでしたら、お力になれそうにはないですね……」
「王女様だもの。仕方ないわ。その嬉しい気持ちだけ、もらっておくわね」
買って来た材料と一緒に、血染めの装束も広げると、それを布地に当ててあたりを取って行く。
病院側の機転で洗ってもらっているので、白い布地の上に乗せても血の汚れは付かず、一から寸法を測っていくよりずっと早く裁断にまで移ることが出来た。
戦闘の際には短剣を器用に扱っているだけあって、少しの狂いもなく鋏を生地へと落として行き、おぼろげながら服の形が見えて来る。
迷いなく糸を針に通し、記憶と母の見本を頼りに縫い始めて、一時間も経っただろうか。レイナも願衣が作業に入ってからは、黙って服が縫われて行くのを見たり、買って来た服を見たりしていて、時間の流れはゆったりとしたものに感じられていた。
日が暮れ、月が顔を出し、いつも通り願衣の体から力が抜けて行った。自分自身のことだというのに、願衣もそれを忘れていたものだから、危うく布地を破きそうになってしまった。
「わわっ、お姉様、針とか大丈夫ですか?」
「ええ……。けど、見ての通り体が動かない状態……。どうしよっか」
「ど、どうしよっかって、すぐにでも血を飲まれるべきですよね?」
「まあ、そうね……。怪我の治癒にかなり体力使ってたみたいだし、思いっきり飲みたいところだけど」
「ではっ、是非このレイナの血をお飲みください!もうあまり時間がないのですから、機会は今しかないでしょう!」
「前に言ってたアレ、本気だったのね……。でも、今吸血をしちゃうと、本当に危ないかもしれないわよ?辛い思いをさせちゃうどころか、逆にレイナが動けなくなるぐらいの負担かも……」
「大丈夫ですよ。レイナ、こう見えて強い子ですからっ」
にこり、と笑うと襟元をはだけさせて白い肌を露出させる。
か細い首に、美しく浮き出た鎖骨。肉付きに乏しい胸元まで見えて、男であれば、吸血鬼でなくても食らい付きたくなりそうな、嗜虐心をかき立てる体だ。
そんなものを見せられてしまうと、白い肌の下にある赤い血を今すぎにでも飲みたくなってしまう。やはり理性は上手く働いてくれないようだ。ただ、吸血鬼としての本能が魅力的な「餌」に過剰反応している。
「レイナ……出来るだけ、出来るだけ苦しくないようにするからっ」
「はい。どうぞ」
獣性を爆発させて、抑え込むようにレイナの体を抱き寄せると、首筋にまっすぐ牙を立てる。
麻酔毒が傷口から入って行き、これで吸血をされる側に痛みはない。開いた穴に舌を這わせ、口を付け、後はただ生き血を吸い続ける。女性の、しかも柔らかく未熟な体を持った小人族の王女の血はハチミツのように甘く感じた。
「お姉様っ……ん、んぅっ…………」
「んむっ、レイナ。レイナっ」
まるで口づけを交わすように激しく抱き、頭を振り乱しながら血を吸って行く。理性を失くした獣そのもののような願衣は、口元が飲み切れなかった血で汚れるほどまで吸血を続けた。
ようやく唇が傷口から離されると、奇麗にそれは閉じて行き、そこに傷があったのだという事実までもが隠されたかのようになる。
「レイナ。大丈夫?」
「はい……。けど、あははっ。すっごく愛されちゃいましたね」
「もう、あなたね……えっと、ごちそうさま。貧血にはなってないわよね?」
「えへへ、お昼にいっぱいお肉を食べていたのが、功を奏したのかもしれません。全然目眩とか、そういうのはありませんよ」
元気よくばんざいをしてみせる辺り、本当にそれほど消耗はないのだろう。伊達に小さな体の割によく食べていない、といったところか。
そうこうしている内に、男二人も宿に帰ったらしく、部屋のドアがノックされる。
「はい、どうぞー」
「レイナ様。ただいま戻りました」
「お疲れ様、サイラス。無事に依頼は達成出来ましたか?」
「ええ。なんてことのない悪魔の討伐でしたから。それより、ラルフさんが願衣さんの心配を……」
「ああ、私は大丈夫よ。レイナの血をもらったから」
「……レイナ様から?なるほど、これは少し、詳しく聞かせてもらうべきかもしれませんね」
「お、お姉様。その話は秘密に……」
「聞いてないわよ!?え、えと、ごめんなさい、サイラス」
必死に頭を下げても、生真面目な青年は渋い顔のままだ。レイナから血を吸った願衣よりも、自ら吸血を申し出たレイナの方が許せないようで、無言の圧力をかけ続けている。
やがてレイナが押し負けて深々と頭を下げると、特大の溜め息と共にとりあえず解放された。
「レイナ様。即位の時は近いのです。くれぐれもご自愛ください」
「は、はーい」
「短いお返事の方が良かったのですが……もう良いです。願衣さんの吸血のことを考えていなかったのも、軽率でしたね。申し訳ありません、思ったより時間がかかってしまって」
「二人が無事なら良いけど……あいつも元気よね?」
「はい。依頼の終了手続きに行ってもらっていますので、もう少しすれば戻ると思います。……それでは、この辺りで」
サイラスの姿が消えたかと思うと、レイナの体の緊張が解けてだらりと崩れ落ちる。
普段はかなり自由に自然体でいるレイナだが、お説教だけは苦手のようだ。ずっと苦いお茶を飲んだ時のような顔だったし、恨めしそうにサイラスの消えたドアを見つめている。
「たまーに忘れちゃうけど、レイナは王女様だしね。大切にされて今まで育って来たんだから、周りの皆を心配させるようなことをしちゃ駄目よ」
「でもレイナ、もう子どもじゃないんですから……って、でも、お姉様の時はすごく心配しましたし、やっぱり気を付けるべきかもしれませんね……」
「そうね。私も、もしレイナが倒れたら心労でどうなるかわからないもの。けど、心配してくれる人がいるって、すごく幸せなことだと思うわ。……ちょっと不謹慎かしら」
願衣はたまたま、良い旅仲間にも恵まれ、そうでなくても村では大切に育てられて来た。間違いなくその身を案じる人間はいる。
しかし、本当に孤独な人なら。親も亡くし、友人もいないのなら、彼、彼女の心配をする人はいるのだろうか?
もし誰にも知られず病気になったり、大怪我をした場合、その人は立ち直ることが出来るのだろうか?
ふと、そんなことが気になった。
「さて……もう少し、続けようかしら」
「お食事はどうされますか?」
「するわ。私はあくまで、普通の人間らしくありたいんだから」
「ふふっ、ですね。ではもう少ししたら、食べに行きましょう」
そうして夜は過ぎ去り、新しい日がやって来る。
「はぁ、完成っ……!初めて一から作ったけど、案外出来るものね」
たっぷりと一週間をかけ、巫女装束は完成の運びとなった。
母の作った物と寸分の違いもなく、どこに着て行っても恥ずかしくない代物だ。……そう、たとえ父の元へでも。
「わぁ、立派ですね……。お姉様、早速着てみてくださいよー」
「ええ。……着替えは手伝わなくて良いからね」
「よ、予防線張らなくても大丈夫ですよっ。レイナは久し振りにお姉様の神楽を見れるだけで満足です」
そう言いつつ、ちょっと残念そうだ。よほど願衣の体を触るのが好きなのだろうか。
「よっ、よっ、と。うーん、久し振りに着てみると、思った以上にこっちの方が楽ね。着慣れているのもあると思うけど、結構ゆとりを持って作ったし、これぐらいの方が疲れなくて良いわ」
白の小袖を身にまとい、緋の袴で脚を包むと、白、赤、黒のコントラストが巫女らしさ、のようなものを一気に高めて、自分でも、そして他の誰かが見ても、一般人とは一線を隔する風格があるのだと思える。
軽く足を運び、腕に振り付けをしてみると、優美な舞いが生まれた。
北の地には噂すら伝わっているかわからない、唯一無二の伝統を持つ神に捧ぐ舞い、神楽だ。
この神とは、正確には現在人々の中から信仰が薄れつつある神とは違い、かつてもっと人にとって身近で、隣人のような存在だったらしい。
今ではその姿を見ることも、言葉を知ることも出来ないが、神楽を踊るということは、言外の神との対話なのだろう。
「お姉様、やっぱり見事です……」
「うん、動きにくくもないわね。今夜からは神楽の練習がちゃんと出来るわ」
「これでこそ、天乃願衣その人、って感じですね。やっぱり、お姉様に一番似合う服は巫女装束で間違いないと思います」
「ありがと。でも、完成した以上はそうゆっくりもしていられないわね」
少し、一つの町に長居し過ぎていたきらいもある。そろそろ、歩を進めないといけない。
そしてそれは、他ならない。父への接近と、レイナ達との別れを早めることを意味している。
「そうですね……。あまりゆっくりしていても、余計辛くなっちゃいますよね」
「レイナ……」
「大丈夫です。笑顔で別れる準備は出来ていますから」
実年齢のことは、レイナが王女であること以上に忘れやすい事柄だが、レイナは願衣やラルフよりずっと人生の先輩で、いつもは子どもっぽく振る舞っていても、意識の深いところでは年相応の芯の強さがある。
むしろ別れの時を心配するのは、願衣の方の仕事かもしれない。
「じゃあ、明日にでも発ちましょうか」
陽が落ちて行くのを見ながら、永遠の夜を望んだ。
その願いが叶ったのか、今夜はいつもよりずっと永く、本当に永遠と思える時間、神楽を踊り続けることが出来た。
……もちろんそれは、眠りの中で見た夢。
レイナが見せたものかもしれないし、願衣の願望が形になったのかもしれない。
翌朝。食糧を買い揃え、更に北を目指して一行は町を出た。
平地を行くのは、以前までの山越えに比べればずっと楽だが、これからしばらくは小さな町もなく、後は巨大な城砦都市。そして、それと向かい合うようにそびえ立つ悪魔の居城があるだけだ。
そこまでは、大体一週間の距離。それがそのまま、レイナ達で共にいられる時間になる。
「町で聞いた話によれば、二日ほど行ったところには、無料で利用出来る天然の温泉があるそうですよ」
「温泉か……この町にもあったんだっけ。色々とあって行けなかったわね」
「あそこは有料でしたし、人もいっぱいいましたから……。けど、今度はあんまり人も来ないらしいですし、お姉様と二人っきりで……うふふ」
「レイナ、相変わらずだけど目が怖いわよ……」
「えへへ。という訳で、飛ばして行きましょう!頑張って一日で行けば、一日温泉でゆっくり出来ますよね!」
「一日温泉に浸かっていたら、間違いなく茹で上がるんじゃない?」
「細かいことは良いんです!」
そこまで些細なことではないと思うが、最後の旅路なのに笑顔でいられるのは、悪い気持ちがしない。
……と思って、レイナの計らいだということがわかった。レイナは空元気でいつも通り、いやそれ以上の高いテンションでいるのかと思っていたが、願衣達への気遣いでそうしているのだろう。
――こうして、本来なら寂寥感のあるはずの北への旅路は、最後まで少女二人の笑顔の絶えないものとすることが出来た。
後は別れと、父との十数年ぶりの再会が待っている。
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自分で言うのもアレですが、レイナが愛おしすぎてアホキャラにし過ぎてしまった感があったりなかったり
ばふぁー!は完全に思い付きでした。「これ神台詞じゃね!?」と勝手に思い、多用しております