「星が綺麗だなー」
冬の夜空を見上げながら、青島は月並みな感想を抱いた。
空気が澄んでいて、星と月がくっきりと見えている。空気が凍りついたら、こんな感じなんだろうか。
白い息が、頬を撫でている。しんと静まった、心地よい夜。実に気分のいい夜だった。
ただし、この寒さは酒で身体を温めたとはいえ、少々こたえるかもしれない。モスグリーンのコートを無意識に触り、襟首を立てようとして――白い腕に当たった。
「……この荷物が無けりゃ、もっといい夜なのに」
「めーわくな荷物でわるかったわね~」
頭の後ろから、女の恨めしい声が聞こえてきた。すみれである。
「ったく。なんで、今日はまたこんなに飲んじゃったのよ。飲むから付き合ってって言っておいて。しかも俺の奢り」
「男がねェ、つべこべ文句いうもんじゃないの。いい男は、黙って送る!」
「はいはい」
送られている本人に言われるとはね、と彼は心の中で悪態をついた。
それでも、今日は妙だった。すみれは普段、こんなに飲んだりはしない。付き合うことはあるが、自分と違って節度はある(と思う)。今夜のように、飲み潰れて自分に背負われるなど、考えもつかない女なのだ。
すみれがしっかりしてるからだろう。そう思う。歳だってそんなに変わらないはずなのに、たまに姉のように思えたりするのだから、全く不思議な――
「なにボーッとしてんのよ、あおしまくん」
「へ……あ、いや、別に?」
呂律の回っていない声が突然聞こえて、青島は一瞬うろたえた。それを悪戯っ子のように笑って――顔は見えないが、たぶんそうだ――すみれが呟くのが聞こえる。
「うそー。警察官にうそついちゃダメよ、なんか変な事考えてたんでしょ」
「違うよ。ンなわけないだろ」
「あら。図星?」
「あのねー。それが送ってくれる人に言う台詞? 降ろすよ?」
「こりゃまた失敬」
まったく反省の無い声で、彼女はまた自分の背中に突っ伏した。はあ、と思わず溜息をつく。重すぎる背中のホッカイロは、寝始めたのだろうか。再び静まり返った周囲の空気を身に受けながら、冷たいアスファルトを無言で歩く。
もうすぐ、例のトンネルが近づいていた。あれを抜ければ、家までもうすぐだ。
「――あおしまくん……」
「ん? まだ寝てなかったの、すみれさん」
また声が聞こえて、少し青島は首を捻った。けれど、彼女は顔を突っ伏したまま何も喋らない。寝言だろうか?
カツン、カツンと足音だけが響く中、ふうと息を吐いて、青島はまた前を向いた。その時――
彼は気付かなかった。すみれの白い腕が、少し震えていたのを。
■ ■ ■
アパートの二階。それが彼女の家だ。送ったのは今日が初めてだったが、前に尾行した関係で家は熟知していた。
よく考えれば、あれは妙な仕事だった。彼女は自分が尾行しているのを知っている。自分はそれを知っていながら、電気が消えるまで張り付いている。仲間を疑う監視。室井から頼まれたとはいえ、後味の悪い、嫌な仕事だった。
(あの時は、和久さんもいたんだよなぁ……)
あの夜を思い返して、青島は足を止めた。
「おめぇ、ここに来た事ねぇのか?」という和久に、青島は首を横に振る。
それを見て、和久は人差し指でくるくると円を描いた。にやけながら。意味不明でも、言いたいことは分かる。
青島はこのエロじじい、と影でこっそり言ってやった。もちろん、しっかりバレてはいたが。
「――いけね」
そこまで考えて、青島は思わず身震いした。こんな所で立ち止まっていたら風邪をひいてしまう。早くすみれを送り届けて、さっさと家に帰ろう。暖かい風呂に入って、何か暖かいものでも飲んで寝なければ。
「よっしゃ」
気合を入れて、青島は階段に足をかけた。
■ ■ ■
「お邪魔しまーす…」
誰に聞かれるわけでもないのに小声で、青島は玄関のドアを開けた。部屋のキーをすみれのバッグに戻しながら、手探りで部屋のスイッチを探す。
カチッと乾いた音を立てて、真っ暗だった部屋に明かりが灯った。
そこは何の変哲も無い、普通の部屋だった。しっかり者のすみれらしく、綺麗に整頓されている。
「へぇ、さすが女の子。俺の部屋も掃除して欲しいな」
かなり散らかった自分の部屋を想像しながら、感想を漏らす。すみれが起きていたら、何を言われるか分からないが。
「すみれさん、すみれさん。着いたよ。起きてよ、すみれさんってば」
「んー……」
間延びした声。起きる気配は無い。
「ちょっ…すみれさん? まさかベッドまで運べっての? 仕事終って疲れた身体でおんぶしてきたってのに」
無言。
「……はいはい分かりましたよ、お姫様」
観念したように天井を仰いで、青島は適当に靴を脱いだ。すみれの靴も脱がせて、部屋に上がりこむ。
ベッドは、すぐ近くに置かれていた。すぐ横に洋服箪笥もある。この部屋には入った事が無かったが――少し、見覚えがあった。なぜだろう?
多少気に掛かったが、彼女を寝かせるのが先決だ。長時間背負っていたすみれをベッドに乗せて、寝かせてやった。ここまでやっても、起きる気配が無い。幸せそうに寝てるだけだ。
幸せそうに。そんな寝顔を見ていると、なんとなく煮えきれない気持ちになる。
「あーもう…何の心配も無く寝やがって。こっちはこれから家に帰んなきゃなんないのに」
痺れる肩と背中をほぐしながら、ふと真顔になる。
寝ているすみれの顔。白く、透き通った肌をしている。25を過ぎたというのに、まだまだ綺麗な顔立ちをしていた。というより、すみれは元々美人な部類に入る。それでも今まであまり女を意識しなかったのは、仕事が忙しいという理由もあったが、何よりその気性の厳しさが原因だった。
女には優しいが、男には容赦しない。それが恩田すみれだった。男の中で働くなら、それなりの性格でなければやっていけないのかもしれない。
「……でも、ンなことばっかやってるとね」
真顔のまま、ずいとベッドの脇に座り、屈み込む。鼻が顔に触れそうなほど近づくと、女独特の良い香りがした。
化粧っ気の無い薄ピンクの唇は、否応なく自分の唇の近くにある――
「襲っちゃうぞ」
随分長い時間が経ったのだろうか。本当は、数秒だったかもしれないが。
「……何やってんだ? 俺…」
急に馬鹿馬鹿しくなって、青島は身を起こした。はぁ、と嘆息し、誰に見られているわけでもないのに、誤魔化し笑いを浮かべる。まだ酒が回っていたのだろうか。
すみれが寝ていて、本当に良かった。もし起きていたらと思うと、途端に背筋が凍りつく。
さあ、帰ろう。腰を浮かそうとした、その時だった。
「…いや……」
今度こそ、青島は凍りついた。
静かに、ゆっくりと、顔を下ろして――眉をひそめる。
彼女の頬が、濡れていた。
そこで、青島はやっと思い出した。自分を罵倒しながら、腕時計の日付を確かめる。
今日は火曜日だ。そしてこの部屋に見覚えがあるのは、過去彼女が変質者に襲われた時、送られたビデオテープにここが写っていたからだった。
壁を見ると、カレンダーに赤いペンで一日一日、×印が刻まれている。今日の日付には、まだ印がついてなかった。
あの変質者、野口が実刑判決を受けて、もう2年が経過していた。模倣犯なら仮出所もできると、前に彼女が言っていたのを思い出す。
「……何で気付かなかったんだ、俺は」
その時も彼女は、震えていた。
自分が守ると言っても、怖がっていた。
それなのに、自分は忘れかけれていた。彼女の傷の深さにも気付かずに、送ってもらいたい気持ちなど察せずに、飲み潰れたい悩みなど、聞きもしないで。
「……ごめんな、すみれさん」
彼女の細い手を、そっと左手で包む。ゆっくりと、右手で彼女の黒い髪を撫でた。
「でも俺、約束したから。ちゃんと、守るから。もう、怖い夜にさせたりしない――絶対に」
その言葉が聞こえたのだろうか。
やがてすみれは泣くのをやめた。不安そうに強張った顔に安らぎが戻り、静かな寝息だけになる。
涙は彼女には似合わないな、と彼は心底思った。笑って、怒って、からかう女こそが恩田すみれなのだから。
彼女をこれ以上泣かせないためにも、自分がしっかりしなければ。
「……さてっと。帰るか」
新木場までの遠い道のりを頭でシュミレーションしながら、青島は立ち上がった。
■ ■ ■
「青島君、青島君」
「なに? すみれさん」
後ろから声をかけられて、青島は椅子ごと身を捻った。あの夜の翌日、まだすみれとは顔を合わせてなかった。彼女は仕事で先に出ていたのだ。
なんとなく顔を見るのが後ろめたく思えたが、彼女はいつもと同じ顔をしていた。ちょっと人を小馬鹿にしたような、お姉さんぶった顔。その細い眉が、今はキュッと眉間に皺を寄せている。なんとなく、青島は室井を連想した。
「昨日の夜、もしかして送ってくれたのって青島君?」
「そうだよ。すんごい飲んじゃって、飲んだと思ったらがーがー寝ちゃって……あれ、すみれさん覚えてないの?」
「ぜんっぜん。二日酔いで頭ガンガンするの。死にそう」
「あ、それで室井さんなのね」
「何の話?」
「いや、独り言ですよ独り言」
ざまーみろ、と一言付け加えておくのも忘れない。
「何か言った?」
「独り言だってば」
「ふうん…?」
怪訝な顔をした彼女だったが、頭痛が酷いのか追求はしてこなかった。少し咳払いして、続ける。
「という事は、家の鍵使って入ったのも青島君?」
「ご名答」
「ベッドまで運んでくれたのも?」
「姫のためなら、家来はなんでもしますよ」
「……正直に応えなさいよ。変な事しなかったでしょうね」
「な……ンなことするわけないだろ」
なんとなく的を射抜かれたように感じて、慌てて青島は首を振った。
「ほんと? なんか怪しいわうろたえてるし」
「だ、大体、俺だって仕事終って身体辛いのに、すみれさんおぶってって歩くの大変だったんだ。感謝こそすれ、そんな事疑わなくても」
「ふーん。信じていい? それ」
無言でこくこく頷くと、彼女はようやく気が済んだみたいだった。まだ眉間に皺が刻まれたままだったが、「分かった、信じる」と言い残す。
「じゃあ、明日の夜空いてる?」
「え? 明日?」
突然話題を切り替えられて、彼は面食らった。スケジュールを思い出しつつ、
「急な仕事入ってなかったら、空いてると思うけど」
「じゃ、決まり。いいお店知ってるから、明日は私が奢る」
「……………」
数秒ほど、固まってから。青島は、恐る恐る口にした。
「俺じゃなくて、すみれさんが?」
「なんで青島君が奢るのよ」
「いや、すみれさんが奢ってくれるなんて初めてだから……なんか変なもの食べた?」
「嫌ならいいのよ? 雪乃さんと行くから」
「行きます行きます、お姫様」
「素直で宜しい」
ふふん、と笑って彼女は席を立った。
「今日の空き巣の件、裏づけ取ってきます」
「ああ、気をつけてね」
「いってらっしゃーい」
係長と自分の言葉に軽く微笑んで、すぐに仕事の顔になる。すみれは颯爽と出口に向きかけて――振り向いた。
「言い忘れてた。昨日は、ありがと」
それで気が済んだのか、今度こそ振り返らずに行ってしまった。こちらの反応も見ずに。
「……やっぱり、仕事してる姿が一番似合うわ」
呆然とその後姿を見送っていると、後ろから声が掛かった。
「おい、青島」
しわがれてはいるが、それでも和久の威勢の良さは変わらない。振り返って、青島はきょとんとした。和久の顔がやんわりとニヤついている。隣には真下もいて、不思議そうにこっちを見ている。
「すみれさんが奢るたぁ、一体どういう了見だ? どんな手使ったんだ、教えろよ青島」
「そうですよ、先輩。なんか、デートの秘訣でもあるんですか? ちょっと今後のためにも教えて欲しいです」
「やだな、人聞きの悪い。日頃の行いですよ、日頃の」
「日頃の……かぁ?」
「日頃の……ねぇ」
「なんスかその顔」
「いや、別に」
「気のせいです」
なにやら納得しないものを感じながら、睨みつつ。
「まあ、たまにはこんなのもいいんじゃないっスか?」
にかっと微笑んで、青島は自分のデスクに腰を降ろした。怪訝そうな二人を残して、早くも明日の晩御飯に気が行ってしまう。にんまりと笑いながら、彼は心の中で呟いた。
明日は、いい夜になりそうだ。
(良い夜を、君に・終)
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踊る大捜査線二次創作小説です。青島×すみれ。この2人、映画のファイナルで一緒になるのかなぁ…