No.471241

地獄のロスト・エンジェル 序章~一章

今生康宏さん

同じくシブさんにも投稿していた落選作です
「時川の~」と比べると、地獄を舞台としたファンタジー色の強い作品となっています

2012-08-16 23:44:40 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:3970   閲覧ユーザー数:3967

地獄のロスト・エンジェル

 

 

 

 地獄。全てが汚らわしく、醜い、血と焔と闇の園。

 ここで責め苦を味わう人間もまた、罪に穢れた者ばかりだ。

 そして、そんな罪人共を監視する悪魔……人には鬼と呼ばれる……もまた、上等な外見をしていない。

 全てが腐りきった場所。それが地獄。

 僕は今日、ここに堕とされた。

 そもそも、地獄と天界についての説明が必要かもしれない。

 天界、すなわち僕達のような天使の住まう世界。

 常に光に満たされ、不浄なるものは存在しない絶対的な聖域。

 天使の他にも神や、選ばれた人間。つまり聖人も存在することが出来る。

 と言っても天使や人間の数はかなり少なく、天界の無限にも思える広大な土地には、転生を待つ魂が溢れ返っている。

 それ等は全て、生前真っ当な生き方をした人間か、地獄の責め苦の果て、転生する権利を勝ち得たかつての罪人達。

 対して、地獄に存在するのは悪魔、邪神、そして無数の罪人の魂。

 地獄にまともな人間はいない。過去に一人だけ、ある詩人が紛れ込んだこともあるそうだが、僕はよく知らない。

 ここは生前罪を犯した人間が、その罪を浄化し、再び地上に転生するための試練を受ける場所。

 尤も、試練と言うにはその内容は熾烈、残虐の限りを極め、ほとんど拷問と同義。だから一般的に責め苦と呼ばれる。

 本来、こんなところに天使は存在するはずがない。存在してはいけない。

 美しい天界とは比べものにならないほど醜悪で、不浄なるこんな場所に……!

 ……でも、僕がここに堕ちたのは事実。その理由なんて、わかり過ぎるほどにわかりきっている。

 全てはあの男、一時の間だけ友と認めたあの男、天使にして悪魔的人格を備えたあの男、全てはあの男の仕業だ。

 僕はあの悪魔共、人から恐れられるあの汚らわしい存在に混ざり、この地獄で生きていかなければならない。

 そんな生活を始める前からわかる。正に地獄だ。暗黒の日々だ。天界に救いはあれど、地獄にそんなものはない……!

 地獄に望みなどという言葉はない。地獄に安息の時はない。地獄に光など、あるものか。

 瘴気に当てられ、翼が腐って行くのがわかる。

 純白の天使の証が、黒く、玄く、染まって行く。血の紅よりも汚らしい黒色。天使に最も似合わない色。天使の誇りが闇の色に蝕まれて行く。

 羽の一本一本まで黒に染まり、僕はいよいよここの官吏である悪魔と変わらない容貌になった。

 そもそも、悪魔の一部はかつての天使だという。僕もそれと同じになってしまった。つい数秒前までは、純白の翼の天使だったのに!

 憤りは尽きない。でも、僕はここで生きなければならない。いつか、あの男をここに叩き落とすためにも。

 まずは、ここの王に会う必要がある。

 天界どころか、地上にもその名の轟く最凶最悪の邪神だ。

 それもまた、古の大天使。僕と同じく堕落した……いや、違う!僕は堕落させられたんだ。そこに自分の意思は関係なかった。汚らわしい邪神などとは違う!

 そう、ここの悪魔と僕は決定的に違う。その証拠に、僕は天使が持つべき高潔な精神を未だ持ち合せている。

 体は堕落しても、心までは屑に成り下がらない。

 そう、絶対に。

序章 天使と乙女 Unknown Maiden

 

 

 

 地獄に昼夜はない。当然ながら時計もない。そこに「一日」や「一月」、「一年」などという概念はなく、ただ「一生」だけがある。

 この地獄の責め苦が、罪を償うためのものだって?馬鹿な。ここには何千。何万年も存在し続けている人の魂もある。そして、それは未だに天界へと昇ってはいない。

 ここに堕ちた時点で、人間は永遠に苦しみ続けることとなり、悪魔もまた、この汚らしい国で存在し続けなければならない。

 何の楽しみもない暗黒の世界でそう、ずっと。終わることのない一生の終焉を夢見ながら。

 この先の未来を思えば、僕の心も折れそうになる、理不尽に砕かれそうになる。

 それを支えるのは、あの男への憎しみと、ここを必ず抜け出すという野望。僕はここで心を殺されるつもりはない。殺される訳にはいかない。絶対に、再び天へと昇ってみせる。そうなれば、地の底で惨めに生き続けるのはあの男の番だ。

 僕のこの悲しみも、みっともなさも、全てはいつか達成される復讐の糧だ。今味わう絶望が深ければ深いほど、全てを清算した時の希望は大きい。あの男に与える苦しみもまた同じだ。

 そう思いながら享受し続けた最悪の生活も、百時間は経っただろうか。

 僕はここで、孤独を深めている。悪魔共と語らうつもりはない。罪人なんて、もっとだ。

 それで地獄を脱出する方法が見つかるなんて思ってない。でも、僕は悪魔と関わり合いになるなんてごめんだ。奴等と関われば、きっと僕まで仲間に引き入れられてしまう。僕は天使だというのに。

 なのに、それなのにも関わらず、一人の悪魔が僕の傍にやって来た。

 容姿は、他の悪魔に比べれば小ましに見える。女性だからかもしれない。僕とそう変わらない背丈、体格の少女の姿をした悪魔だ。地獄の炎をそのまま写し取ったような赤い長髪が目に留まる。瞳の色も同じだ。

「……僕は悪魔と話したくなんてないんだ。あっちに行け」

 かといって、気を許すことは絶対にしない。だって、相手は悪魔だ。背中に翼が見受けられないから、僕と同じ堕天使でもない。話す価値があるものか。

 手で払う仕草をするが、悪魔はそれでも離れようとしない。むしろ僕に興味を持ったように、僕が腰を下ろしていた岩の横に無断で座る。

 この地獄というのはまるで火山の内部のようで、剥き出しの岩ばかりがある。美しい空の都である天界とは似ても似つかない最悪の土地だ。

「あなただね。新しく来た天使って」

「だから、僕はお前なんかとは話さないと言っている。目障りだし耳触りだ。消えろ」

「あ、今話してくれた。ねー、良いでしょ?新しく天使が来るなんて珍しいし、ここは暇なんだよー」

 小うるさい女だ。早く消えろと言っているのに、どく様子がない。

 かといって、僕から立ち去るのも癪だ。このまま黙殺を決め込むことにする。

「えー、無視は一番面白くないってー。わたし、こう見えてここじゃ結構偉いんだよ?顔も何かと広いし、色々知ってるよー」

 知るか。それを言うなら、僕は一応ここではかなり高い身分が与えられている。だから、何もしないで過ごすことが出来ている。

 この女はどうせ、身分が高いと言っても部下が数人いる程度だろう。初めから格が違うんだ。

「たとえば、サタン様の好きなタイプ。たとえば、あなたが堕落した理由」

「……!」

「たとえば、地獄から出る方法。たとえば……」

「おい、詳しく聞かせろ」

「おーおー、釣れた釣れたー」

 癪だ。全く気に入らない。でも、この女がそんなことを本当に知っているなら、是非僕はその情報を手に入れておく必要がある。

 もし嘘なら、女だからといって気を遣うつもりはない。蹴り飛ばすぐらいしても良いだろう。

「わたしと友達になってくれるなら、教えてあげても良いよ」

「友達だと?」

「そ、友達。毎日話してくれるようなね」

 本気で言っているのか?この女の真意を測りかねるどころか、正気をまず疑う。

 僕はこんなにも悪魔を嫌っている。それなのに、言うにこと欠いて友達になれと言うとは……。

「僕がお前の友達になってやれば、お前の知っていることを全部話すか?」

「うんうん。超話しちゃうよ。スリーサイズとかも言っちゃう」

「じゃあ、この僕がお前と友達になってやろう。さあ、全部話せ。もっと親交を深めてから、とかふざけたことを抜かしたら、力づくでも聞き出すからな」

「大丈夫。わたし、あなたの力になりたくて会いに来たんだから」

 僕の力に……?わからない女だ。そもそもこいつ、なんでこんなに僕のことを知っている?堕落の経緯、僕の求める地獄を出る方法。それから、冗談のように口にしたが、ここの王である邪神サタンの個人情報まで知っているというのか?

 わからない、全くわからないが、利用価値は高い気がする。

「お前、名前は何という。仲良しごっこをするのなら、呼び名ぐらい必要だろ。どうせ知っているんだろうが、僕はエリスだ」

「わたしはミントって呼んでね。でも、仲良しごっこじゃなくて、本当の友達!わたしが何でも話すんだから、エリスも隠し事はなしだよ」

「貧乏臭い名前だな。まあ、悪魔にしては上等な名か」

 しかし、いきなり呼び捨てとは。その方が友達っぽいということか?

 本来なら初対面同然の相手に名前を呼ばせるなんてありえないことだが、この地獄じゃそんなことも言っていられない。代わりに僕もこいつのことを、散々利用しまくってやろう。

「さあ、全部話せ。お前のスリーサイズや邪神の好みは知らんが、有益だと思う情報全てだ」

「うん、いいよ。けど、わたしが知りたいことも教えてね」

「何だ。何でも教えてやる」

「天使の殺し方」

 それまでまともにミントと目を合わせてなかった僕だが、思わずその目に吸い寄せられるように視線を合わせた。

 こいつ……本当に何がしたい?そんなことを知って、何をする?まさか、僕を殺すのか?

「僕の生死にも関わる話だ。なぜ知りたいのかをまず話せ」

「地獄からあなたを逃がすようなことをしたら、わたしもきっと殺される。エリスがわたしから聞き出そうとしている情報も、わたしの生死に関わるものなんだよ?」

 ……くそっ。悪魔の契約というやつか。

 人と悪魔が契約を結ぶ時、互いに対等な価値を持つものを差し出すという。多くは人体の一部や生き血、悪魔の方は知識や魔力を与えるが、こいつは天使である僕と、機密情報をやりとりするつもりでいるらしい。

 やっぱり悪魔なんて、こんなものか。際限なくいやらしく、汚らわしい。

「お前に天使の殺し方を教えて、それを僕に実行されれば、お前から得た情報が意味をなさない。フェアーな取引ではないんじゃないか?」

「エリス。この取引の主導権がどっちにあるか、わかってる?」

「なら、お前との友達ごっこも終わりだ。他の信頼出来る相手から訊けば良い」

「この地獄にそんな人、いるかな。それに、わたしがあなたを殺そうとしてるとは決まってないでしょ?」

「……なら、殺したい相手を今教えろ。僕以外だと言うのなら、すぐにでもお前の欲しい情報はくれてやる」

「それは駄目。だってそれじゃ、あなたの方のリスクがほとんどなくなっちゃうじゃない。わたしは命懸けなのに」

 くそっ、悪魔というやつは、どうしてここまで面倒臭いんだ……。

 こいつ等に善意や無償の愛という言葉はないのか?……ないんだろうな。だから、悪魔なんだ。

「じゃあ、僕にどうしろと?僕は自分を殺しかねない相手に殺し方の手引きをするほど、おめでたいやつじゃないぞ」

「だから言ったじゃない?友達になろうって。友達になって話していれば、自然とわたしの真意もわかって来るでしょ。その上で、私の知りたいことを話してくれれば、わたしも全部話してあげる」

「そうまでして、お前は僕と友達になりたいのか?お前はどうしてそこまで僕に固執する。僕がそんなに特別か?」

「うん、特別。あなたは自分の意思で堕落したんじゃない。そして、今のところ、だけど諦めていない。すっごく珍しいよ。すっごく面白い。だから、わたしはあなたが好き」

「…………勝手にしろ」

 悪魔に好かれて喜ぶ天使が、どこにいるんだ。

 それに、友達になって真意を訊き出せだなんて、そんな悠長なことを……。いや、それでも確実に目的が達成されるなら、良い話ではある、か。こいつの思い通りになるのは癪だが、一時の屈辱を甘んじて受けてやっても良いかもしれない。

「で、どうするの?」

「わかった。お前と仲良くしてやる。けど、こんな何の楽しみもない場所で何をするつもりなんだ?」

「友達と言えば、助け合うことでしょ?それにまだエリスはここのことをよく知らないと思うし、わたしの仕事を手伝ってよ」

「お前にとっての友達は、奉仕するための存在なのか……?」

 このまま良いように雑用をさせられかねないな……。

 やっぱり、僕は悪魔なんかとは付き合いきれない。今はものすごく不本意ながら従うしかないけど。

「そもそも、お前の仕事は何だ?お前みたいなのが重要な役職を務めているなんて思えないが」

「治安維持委員。地上風に言えば警察かな。不正を取り締まるし、色々と他の人助けもする便利屋さん。地獄が上手いこと回って行くように走り回る仕事だね」

「地獄に秩序なんて、初めからあるか?」

「あるんだよ。なかったら、責め苦が際限なく辛いものになってしまうし、悪魔も何らかの理由で死んでしまうかもしれない」

「落盤事故とか、か。間抜けな悪魔は岩から転げ落ちて、そのまま死にかねないな」

 それに悪魔は必ず武器を携行している。利己的な悪魔のことだ、それで他の悪魔を襲うかもしれない。……そう言えば、こいつは何も武器を持っていないな。僕ですら天使時代から持っている剣を腰に佩いているのに。

 なら、不可視の力。いわゆる魔術や超能力を使うのか。見た目が強そうじゃない悪魔は、そういうものと相場が決まっている。

「じゃあ、僕はお前のその仕事を手伝えば良いのか?」

「そういうこと。結構大変なんだよ?地獄ってほら、ただでさえ岩がごつごつしてて歩きにくいのに、底なし沼とか、激流とか、火の海とか、翼がないわたしにはパトロールするだけで一苦労なんだから」

「……僕も、堕落してこの翼の空を飛ぶ能力は失われたからな。なんとなくその苦労はわかる気がする」

 天使なんて、滅多に足を使わない生き物だ。移動は翼があれば全部出来てしまう。そもそも、天界の建物には階段などという概念がない。地面を歩く者からすれば大き過ぎる段差でも、簡単に飛び越せるのだから。

「あー、そうだよね。なんか似てるね。私達。友達って感じがしない?」

「僕は不快だ。悪魔と似ていて、何が嬉しいんだ」

「もう、エリスってばノリ悪いなー。もっとこう、ハイテンションで行こうよ」

「ええい、僕をお前達悪魔のテンションに引き込もうとするなっ!僕は何があっても悪魔と同じところにまで堕ちるつもりはないからな!」

 

 こうして、悪魔ミントと僕は「友達」になった。

 僕は地獄脱出の方法を、あいつは天使を殺す方法を知るために。

 そして、これからミントと一緒に地獄中を奔走する物語が始まる。

 悪魔の癖して、他の悪魔を助けたがるこの変な女になぜか気に入られてしまった僕の不幸物語が。

一章 溺れた海魔 Leviathan

 

 

 

 僕は正直に言えば、未だにこの地獄というものが好きになれない。

 いや、そもそも好きになるつもりはないし、好きになれそうな場所とも思えない。でも、僕はしばらくここで暮さなければならないのだから、ある程度の愛着を持つ……ことは無理でも、なんとかこの居心地の悪さは取り去る必要がある。

 ――しかし、そんなことが出来るだろうか?

 荒れ果てた岩肌が剥き出しの地面、あちこちで燃える火、かと思えば、荒れ狂う川。

 そういった圧倒的な「力」により罰を受ける罪人の魂達。それを監視する悪魔。

 正に地獄絵図。地獄なのだから当然か。

 どの景色も簡単には受け入れられず、どんな生き物よりもモラルを持って生きて来た天使からすれば、アモラルの塊であるこの地獄は、存在すること自体が解せない。

 こんな環境で生きて行ける悪魔達の気が知れない。もちろん、その筆頭はこの赤髪の女悪魔、ミントだ。

「おい。今からどこに行くんだ?」

 理解出来なくて、あまり好感を持てない相手でも、僕はこいつから情報を聞き出す必要がある。だから今は友達でいてやる。後々きっぱりと縁を切るつもりでも、今だけはこいつに従うしかない。

「川だよ」

「川?コキュートスか?それとも、アケローン?」

「そんな大きな川じゃないよ。わたし達悪魔が生きるための水を得る、普通の川。後、アケローンは正確には地獄の外の川だから、管轄外だよ。あそこはカロンのおじさんが一人で切り盛りしてるの」

 そういえば、悪魔は僕のような天使とは違い、寝食の必要があったな。堕天使となった今でも、僕はお腹が空いてないので、このままで大丈夫そうだが。

 それにしても、カロンのおじさん、か。僕は他の神の力でいきなり地獄に送られた訳だけど、伝説ではアケローン川の船頭であるカロンは、相当な老人の姿ということになっている。それは事実なのか。

「何があるんだ?飲み水を必要以上に取って、川を枯らさないように見張るのか?」

「ううん。そもそも水は枯れないよ。どんな原理か知らないけど。ただ、厄介な知り合いがいるんだよね」

「どんな奴なんだ」

「泳ぐのが好きで、その川で泳いじゃう子。ほら、地獄って激流とか血の川とか氷の川ばっかでまともな川がないでしょ?かといってアケローンは遠いし、近場で泳ぎたがるんだよ」

「……とんでもない我がままだな。子どもか?」

 現状、僕の持っている悪魔のイメージはこのミントのような、馬鹿のふりをして狡猾で計算高いやつなのだが、完全に馬鹿な奴もいるんだろうな。

 悪魔の多くは邪神だったり、訳のわからない小さな宗教の神だったりする。信仰の力が弱いと、神の力も必然的に弱まり、知能も残念なことになる。その悪魔も、そんなある意味では憐れな神の成れの果てなのかもな。

「わたしと同じぐらいの見た目なんだけどね。レヴィアっていうの。普段は人の姿なんだけど、いわゆる人魚でね。水の中に入ると下半身が魚になるし、すごく気持ち良いんだって」

「人魚の神、か。どこぞの港町か島の海神ってところか。能天気で羨ましい奴だな。そいつに仕事はないのか?」

「わたしの知り合いだけあって、やってることはほとんど同じだよ。ただし、水難救助限定。無駄に体は丈夫だし、熱湯の激流も泳げちゃうから」

「馬鹿だから鈍感なのか。しかし、やっぱり川に落ちるような悪魔もいるんだな」

 いや、正しくは落とし合う、ってところか。

 ミントに連れられるままに歩いて行くと、確かに流れが緩やかな川があり、水を汲む悪魔の姿もいくつか見えた。

 件の人魚はいないみたいだが、今は真面目に働いているのだろうか。

「特に変なことをしている奴もいないな」

「それならそれで結構。わたしが暇になれればその方が良いんだけどね。中々どうしてこの地獄、揉めごとも事故も絶えない訳でして」

 まあ、ここは他でもない地獄だしな。平和な地獄があるとは思えない。

 それぐらい混沌としている方がらしいのだろう。僕はそんなのごめんだが。

 一応、ミントは川岸に沿って歩いて何かないか調べている。僕はそれに追従しながらも、関心は悪魔より川の方にあった。

 地獄の川がそう美しいと思えないけど、この川の水は澄んでいて、飲用として普通に使えそうだ。こんな水があるなんて、地獄にとっては逆に不自然にすら思えてしまう。

「おい、ミント。この川の水源はどこなんだ?こんな岩ばっかりで、常に砂埃が舞っているような場所を流れる水にしては、少し奇麗過ぎるだろ」

「エリス。あなたのことを思って、一つ教えてあげるね」

「なんだ?」

「地獄を深く知り過ぎると、きっと後悔することになるよ」

「はっ…………」

 そんなことを言われると余計に問い質したくなった。でも、ちょっと尋常じゃないミントの暗い瞳がそれ以上の追求を許さない。

 これが……悪魔が悪魔であるゆえんか?目の力一つで、こんなにも不安心を煽り立て、言葉を奪ってしまう。

「わかってくれるなら良いんだけどね。それに、あなたは最終的にここを出たいんでしょ?なら、必要最低限の情報で十分。好奇心は猫を殺すって言うじゃない」

 説教されているようで気持ち良くないが、まあその通りだ。僕は地獄に永住したい訳じゃない。なんなら今すぐにでも出たい。

 そんな忌むべき地獄に興味が湧いてしまうなんて、長い間出会えなかった未知に出会ってしまったからだろうな。実際、この学者気質には苦労させられて来た。

「よっ。いつか振りだな。ミント」

 改めて自分の地獄観を見つめ直していると、やって来た悪魔がミントと話している様子だ。

 この悪魔は男の姿をしていて、最大の特徴としてコウモリのような大きな翼と、太く長い尾を持っている。さては竜神か。口調も軽薄で粗暴な感じで、見た目と中身が見事に合致している。

「そうだね。バハルド。最近レヴィアは迷惑かけてない?そろそろ泳ぎに来る頃だと思って見に来たんだけど」

「いや、最近は随分と大人しいぜ。新しく趣味を見つけたらしいからな」

「趣味?」

「編み物だとよ。人形を作ったりしてるんだ。あいつ手先器用だろ?上手いもんだぜ」

「へぇー。レヴィアって基本的にはすっごい乙女だもんね。わたしそういうの苦手だから、教えてもらいたいかも」

 ……極めて普通の日常会話だ。

 しかし、話題の中心は件の人魚女か。話しぶりを聞くに、そこまでぶっ飛んだ奴でもないのか?むしろ天使に多い大人しそうな性格の印象さえ受ける。

 でも、川で泳ぐのが好きとか言ってたな。そこまでアグレッシブな天使がいてたまるか。

「ところで、そっちのは……。最近来た天使か」

「そう。エリスっていうの。早速わたしと友達になったのよ。ね?」

「勝手に人の自己紹介をするな……。後、必要に迫られてなった友達を嬉しそうに紹介するな」

「へぇ、偏屈そうな奴だなー」

「うるさい!僕が偏屈であろうとなかろうと、お前には関係ないだろ」

「おー、怖い怖い」

 くそっ……僕は一番こういう軽薄な奴が嫌いなんだ。

 しかもこういうのがこの地獄にはごろごろしているんだから、僕はもう女とだけ話しているべきな気がしてくる……。まだ女の方が万倍もマシだ。ミントはどうも苦手だけど。

「じゃ、そろそろ行くから」

「おお。そっちの天使さんも、またな」

「……一応、挨拶ぐらいは返してやる。礼儀だからな。また会えるようなら会ってやろう」

「あはは。素直じゃないのー」

「本心から言っている。誰が好んで悪魔と会わないといけないんだ」

 ちょっと変なことを言うと、意気揚々とそこに付け込んで来る……やっぱり僕とこいつは相性が良くない。

「はいはい。次は、憤怒者の底なし沼に行くよ」

「沼?そこを見て回る必要があるのか」

「それが、あるんだよ」

 導かれるがままに、進んで行く。一度はサタンのところにまで行ったが、いちいち地獄の様子なんて覚えていないし、土地勘なんてあるはずがない。大人しくついて行かないと、どうなるかわからないからな……。

 同族まで殺しかねない悪魔だ。僕に危害を加えられては困る。

 しばらく進んで、赤黒い色のグロテスクな沼に辿り着いた。

 沼は悪臭を放っているし、見ていて気持ち良いものではない。出来ればこんなところに長くいたくないんだけどな……。

「さて、沼の中の人を虐めてる悪魔はいないね……っと」

「なんだ。そんなことの監視か?」

「そう。ここの罰は沼の中で苦しむこと。それ以上の罰を与えるには、憤怒の罪は軽過ぎるからね」

「それもおかしな話だな……。怒りに我を忘れるなんて、理性を与えられた人が自らそれを手放すようなことだ。大罪じゃないのか?」

「かもね。けど、人が怒りを忘れたらそれはそれで大問題だよ。だからこれで罰は十分と思う」

 沼を見るミントの目は、なぜだか優しげですらあって、こいつが人間をどう思っているのか、まるでわからなくなって来る。

 悪魔なんて、誰もが人間を苛むものだと思っていた。……けど、ミントはどうも違うようだ。

 少なくとも、人間を嫌っているという訳ではなさそうで……もしかすると、人間上がりの悪魔なのか?

 まあ、その追求は良い。僕は地獄に興味を持たないし、その住人であり利用するだけの相手のことにも興味は持たない。

 大体、悪魔の事情を知って何になる?僕は悪魔ではない、天使だ。悪魔の生き方が参考になるはずもない。だから知らなくて良いことだ。

「それじゃあ、次は……」

 しかし、こうして地獄を巡っていると、話に聞く生者の身で地獄巡りをした詩人を思い出す。僕がしているのは全くそれと同じだな。

 なんて思って、ミントが不自然に一方を向いて固まっているのに気付いた。どうしたんだ?空を見上げているが……。

「ミント!ちょっと手を貸してくれ!」

 空を飛んでいるのはさっきの竜。確か、バハルドだったか。

 血相を変えていて、明らかに様子が普通じゃない。なるほど、ミントはこういう奴に頼られて、治安維持の仕事をしているのか。

「どうしたの?またどっかでトラブル?」

「あいつがっ!……レヴィアが大変なんだ!すぐに来てくれ!」

 絞り出すように言うと、すぐにバハルドは急旋回して、さっきよりはゆっくりと飛ぶ。ついて来いということか。ミントもそれに合わせて走り出した。

 当然、僕も行くんだよな……。はぁ。まさか天使が悪魔を助けることになるなんて。

 元が何の悪魔か知らないが、本気で走るとミントも案外速い。下手をすると置いて行かれてしまう。抵抗を減らすために翼を折りたたみ、全速力で駆け出してどこも似たような景色の地獄を行く。

 僕ならすぐに迷いそうなところなのに、空を行く案内人のガイドは正確で、恐らく最短ルートを突っ切って来たのだろう。途中道なき道もあったが、数分ほどで辿り着いたと思う。

「ここは……血の大河、フレジェトンタか」

 大きな崖があり、そこには真っ赤な河が流れている。常に水面からは湯気が立ち上っていて、沸騰しているのは明らかだ。

 暴力者の地獄の内、隣人に暴力を振るった人間が責められる場所で、現に河から顔を出す罪人の姿が確認出来る。

「レヴィアはどこ?あの子なら、この河でも平気で泳げるはずだけど……」

「それが、さっきからずっと熱いって泣いているんだっ。今はあそこで岩肌にしがみ付いている。でも、そう長くは持たないはずだ。すぐに助けて欲しい!頼むっ!」

「河の温度が上がった?それとも、どこか怪我をして……」

「わからない。あいつはただ苦しがってるだけで、他のことを考える余裕はないんだ」

 よく見ると、確かに罪人どもに混じって、毛色が違う奴が見えるな……。かなり谷底には深さがあって小さくしか見えないが、淡い水色の髪をした女だ。

「僕には声なんて、聞こえないけどな」

「俺とレヴィアは双子だから、心が伝わるんだ。それより、あんたでも良い、妹を助けてくれ!」

「馬鹿を言うな。まさか、僕にあの河に飛び込めとでも言うのか?お前は空を飛べるんだから、自分で助ければ良いだろ」

「それは出来ないんだよね……。フレジェトンタには通常の数倍の重力が働いているの。だから罪人は絶対に抜け出せないし、空を飛ぶ悪魔も落とされてしまう……。バハルドはレヴィアと違って熱さには耐性がないから、河に入ることが出来ないし」

 改めて思う、この地獄というのは狂った世界だ。管理すべき悪魔自身が抜け出せないようなシステムを作るか?普通。

 一応この地獄も神が作ったんだろうが、やっつけ仕事感が半端ないな。

「じゃあミント、どうするんだ?仮に助けるために中に入ったとして、上がって来れないんじゃないか」

「一応、下流の方に上るための鎖が用意されてるんだけど……わたしも熱にはすごく弱くて……」

「なっ。お前、それでも治安維持を生業としている悪魔か?」

「だ、だって、今まで水回りはレヴィアの担当って言ったじゃない。まさかこんなことになると思ってないから、わたし自身何も策はないというか……」

 肝心なところで頼りにならない奴だな。やっぱり地獄の安全対策には問題があり過ぎる。こんなところ、少しでも早く抜け出さないと、僕自身の命が危ない。

 ……しかし、ここであの悪魔に死なれるのも困るな。悪魔がいくら死のうと僕には関係ないが、さすがに目の前で助けられる命が失われるのは目覚めが悪過ぎる。

「わかった。ミント、それからバハルドか。お前達はその鎖があるところに行っておいてくれ」

「……どうするの?」

「あいつを助けるのがお前の役目で、その手助けをするのが僕の役目なんだろ?――天使は神の使い、その性質は全能に近い。堕天使となっても、大して劣化はしていないはずだ。沸騰した河ぐらい、僕にとってはちょっと熱いお風呂みたいなものさ」

 ミントがぱっと表情を明るくするのを見届けて、すぐに跳躍した。空中に身を投げると同時に、普通ならありえない強力な重力が働いて、ほとんど一瞬で血の大河に顔まで沈んで行く。

 くそっ……ただの血と思ったら、かなり粘性がある上に、温度もかなり高いらしい。慌てて顔を出すが、体から一秒ごとに水分が蒸発して行くようだ。命が確かに削られて行く感覚がある。

「うぶっ、おい!レヴィア、だったか。助けに来てやったぞ。掴まれ」

 必死に岩肌にしがみ付く人魚に手を伸ばす。表情は苦しそうだが、なるほど、体がよほど丈夫に出来ているのか、この温度の河に浸かっていて火傷などは見られない。

「えっ……?あたしを、助けて……?」

「そうだ。ぐずぐずするな。正直僕も熱いんだ」

 無理矢理引き剥がすように腕を握り、川下に向けて一気に泳ぎ出した。

 ほとんど助ける相手のことを考えていないので、きっと河に顔が浸かったりしたんだろう。泣き叫ぶような声が聞こえるが、このままじゃ二人共死にかねない。とにかく急いだ。悪魔と心中なんかしてたまるか。

「エリス!レヴィア!鎖をしっかりと掴んで!わたし達が引っ張り上げるからっ」

「あ、ああ……って、熱っ」

 鎖の先端は河に付いているし、本当にただの鉄で出来た鎖だ。せめて熱の伝わりにくいものにしておけよ……間違いなく掌が火傷するじゃないか。やっぱり何もかもずさんなところだ。

「おい、レヴィア。お前も掴め。僕の服や腕を掴んでいても、いつふり落とされるかわからないぞ」

「う、うん……」

 重力の強いここでは、鎖をよじ登ることはどう考えても出来ないな。鎖ごと引き上げるというのも相当大変そうだが、ミント達がいるところの重力は普通だ。鎖は少しずつでも確実に引っ張られて行き、血濡れの僕達は陸に引き上げられた。

 血の大河を脱出して数分、服に染み付いた血がどういう訳か全て蒸発して行き、やっと生きた心地がする。地獄の罪人共が味わうべき責め苦を、この僕が受ける破目になるとはな……良い経験になった。本当に。

「はぁ……ミント。もう僕はこんな目に遭うのはごめんだからな。今度からは全身に火傷を負ってでもお前がやれ」

 軽く服の袖をめくって見ても、幸い火傷は見られない。想像以上に丈夫な体だな。

「いつもなら、レヴィアは大丈夫なはずなんだけどね……。そう、それでどうしたの?あなたが河を泳いで、喜ぶどころか苦しむなんて」

「えっと……その、いつも通り泳ごうとしたの」

「うん。人間達がいるのに物凄く迷惑なことだけど、それで?」

「そしたら、落ちる時に逆鱗を岩肌にぶつけちゃって……」

「それが、剥げちゃったの?」

「……そういうこと。うぅ、ものすごく痛くて、血がしみて……」

「なるほどね。……だって。エリス」

「お前、僕が叩き斬ってやろうか?この人騒がせな馬鹿人魚が」

 逆鱗というのは、竜にあるという一枚だけ逆に生えた鱗のことだろう。それが弱点であり、竜はそれに触れられることを極端に嫌がる。「逆鱗に触れる」という言葉の語源だな。人魚にもあったのは初めて知ったが。

 しかし、ただの自分の不注意のせいで、僕が熱い思いをすることになるとは、本気で許せない。腰の剣に手をかけるが……かつてそこにあった剣はもうなかった。

「なっ……。お前、ミント。僕の剣を知らないか?最後に見たのはいつだ?」

「河に飛び込む時は、まだあったと思うから、落ちた時か泳いでいる時に流されたのかな……」

「お前、なんでその前に注意しなかった!あの剣は天界でも宝剣と称される素晴らしい剣で、軽々しく紛失して良い代物じゃないんだぞっ。大体、僕にこの物騒な地獄で丸腰でいろと言うのか?」

「何もそこまで言ってないって……。剣ならここでいくらでも手に入るから、それで良いでしょ?」

「だから、何が悲しくて天使であるこの僕が、悪魔なんぞの打った剣を使わないといけないんだ!」

「でも、失ったものは仕方ないし……」

「くそっ!おい、レヴィア。お前のせいなんだぞ!」

 ああもう、何もかもが台無しだ……。僕が天使である証の一つである剣を失い、汚らわしい血の河に落ちるなんて、僕のプライドもめちゃくちゃだ。

 そして、そうまでして救った相手が溺れた真相は、自分の不注意。今はわーわー泣いているが、そんなので僕が誤魔化されるとでも?血も涙もない悪魔相手なんだ。僕もまた冷酷でいても悪くはないだろう。

「ふ、ふえぇ……。ご、ごめんなさいっ」

 ……誤魔化されるか。こんなあざとい鼻声に騙されるほど、僕は甘くはない。

「あんまり恩着せがましく言うのは嫌だけど、一応礼ぐらいは言ってもらいたいんだけどな」

「は、はいっ。助けて頂き、本当にありがとうございました!……うえぇ」

「だから泣くな。僕が泣かせたみたいだろ……」

「ごめんなさいっ!」

「謝れとは言ってないって……」

 僕にやましいことはないのに、完全に僕が悪者みたいじゃないか。これだからすぐ泣く女は嫌いだ。

 これ以上レヴィアに構うのはやめて、兄であるバハルドの方に行く。

「お前も兄なら、他人に迷惑かけないように見張っておけよ。本当」

「あ、ああ……。ありがとな。あんたがいて助かった。いつかこの埋め合わせを……」

「礼が欲しくてやったんじゃない。僕は僕自身のためにあいつを助けたんだ。天使である僕が打算で人助けをするとでも思ったのか?」

「……良い奴だと思ったのに、なんか素直に認めたくないなぁ」

「悪魔に好かれなくても結構。むしろこっちから願い下げだ。だから間違っても借りを感じたりはするなよ。情けなくなって来る」

 そうだ。僕はこの地獄に長居するつもりなんてない。ここで友人関係を作っておいて、何になる。ミントとは仕方なく友達っぽく付き合ってやっているだけだ。それも必要なことだからだし。

 しかし……これからもこんな「仕事」が続くのか?憂鬱だ。

 レヴィアの救出の後、三日分ぐらい時間が開いただろうか。

 地獄のパトロールをしない間、ミントは地獄の一角に煉瓦の家を持ち、そこで暮らしている。

 無駄に大きなそこで僕も暮らすことになっており、久々に体を休めていると、ドアを叩く者がいた。

「おい、ミント出ろ……って、いなかったか」

 確か買い物に行っていたはずだ。なんと、この地獄には市場があり、そこで悪魔向けの食物が販売されている。

 何が売られているかと言えば、この地獄の痩せた土地にも果樹が生え、それには実が付く。それだけをここの悪魔は食べていると言うのだ。

「誰だ?家主は留守だぞ……」

 仕方なく僕がドアを開けると、そこにはどこかで見た女の姿があった。

 いや、あの時は水着姿で、下半身が魚のそれだったのでぱっと見でわからなかったが、あの人騒がせな人魚のレヴィアか。人の足が生えていると、結構身長が高いな。ミントよりも大きいし、下手をすると僕以上の背の高さに見える。

「お前か。ミントに会いに来たのか?」

「い、いえ……。今日は、天使様に……」

「て、天使様?……僕のことか。僕はエリスだ。その呼び方はむず痒いからやめてくれ」

「はい。わかりました……エリス様」

 様付けは変わらないのか。久し振りに天使っぽい待遇で、内心嬉しいけど。

「それで、どうしたんだ?」

「あの時は緊張して、ちゃんとお話出来ませんでしたので……。きちんとお礼を言わせて頂こうと」

「なんだ、そんなことか。大袈裟な奴だな」

「ご、ご迷惑でしたか?」

「いや、別にそういう訳じゃない」

 とりあえず家の中に入れる。ミントともそれなりに深い関係らしいし、あいつが帰って来てレヴィアがいても嫌がりはしないだろう。

 ……しかし、本当に前評判とは違って、大人しくて付き合いやすそうな悪魔だ。気弱過ぎて泣き虫な点は苦手だが、それにさえ目をつぶれば可愛くさえ見える。

「(可愛い、か……)」

 あまり積極的には認めたくない感情だが、可愛いか可愛くないかで言えば、確実に前者だからな……。僕は案外こういうタイプが好きなのだろうか。

「もう怪我は良いのか?鱗なんて、そう簡単にまた生えて来るなんて思わないが」

「はい……しばらく、泳ぐことは出来ません。その傷が足にも残っているので、慣れないロングスカートをはいていて……」

「いつもはミニスカートなのか?僕はこっちの方が好きだけどな」

 感じたままのことを言うと、レヴィアは一気に赤面してしまった。反応のわかりやすい奴だな……悪魔だということをつい忘れてしまう。

 でも実際、活動的だとか、快活だといった印象を受けるミニスカートより、落ち着いていて大人びたロングスカートの方が、レヴィアには似合うだろう。まあ、少なくとも悪魔らしいとは思えないけど、ミントも一般的な格好をしているし、悪魔の女はこんなものだろう。

「……よかった、です。あたし、服のセンスがあんまり良くなくて」

「水着の方が多いからか?確かにあれはよく似合ってたな」

「そ、そう言えばあの時は水着でしたよね……。見てもあんまり嬉しくないものを見せてしまって、ごめんなさい……」

「お前、自分の容姿の良さに自覚がないのか?あれを嬉しくないなんて言ったら、ミントなんてただの板材同然だぞ」

 スタイルの良さで言えば、確実にレヴィアが勝るだろう。身長が高いし胸もある、足がすらっと長くて細腰で……冷静に考えてみるとあの女、お子様体型と言っても差し支えないスタイルだな。レヴィアと比べるとよくわかる。

「板材……」

「そうだ。あいつ、気を付けないと建物の補強に使われてたりしてそうだぞ」

「……板材、ね。せっかくあなたのために剣も買って来てあげたのに、そんなこと言っちゃうわけね……」

「なっ、ミント!?」

 振り返るとある、燃える色の髪の乙女……って、おい、剣を抜いているように見えるんだが。そして、それを今にも振り下ろして来そうな訳だが。

「まだわたしの体なんてロクに見てないのに、憶測だけでものを言うのはやめてくれないかな……?」

「……じゃ、じゃあ、脱いで見せろよ。言っておくが、あの時のレヴィアの水着姿はまだ鮮明に覚えているぞ。比べたいなら、今すぐその粗末な体を見せてみろ。板材かどうかはっきりとさせてやる」

「なっ……。そ、そんな軽々しく脱げとか言わないで欲しいんだけど!」

「つまり、見せて比較させるだけの自信がないんだな?じゃあお前は板材で確定だ。服越しに見たところ、どう見ても平面だからな」

 ふっ……。僕は天界でも口先の魔術師と呼ばれた口だけの男だ。そんな僕に口喧嘩で勝てる訳がない。

 これはいわゆる論破勝利というやつだな。実に気分が良い。

「ミントちゃん……」

「ふっ、ふふ……。わ、わたしはエリスと違って大人の女性だもん。子どもの悪ふざけと思って、許してあげるよ!うんっ」

「もう少しマシな負け惜しみは思い付かなかったのか?大人の女性、ミントさんよ」

「うぅ……。お、覚えててよ!絶対、わたしの胸が平面なんかじゃないって証明して見せるんだから!……はい、剣っ!レヴィア、お茶淹れるからちょっと待ってね」

 乱暴に投げられた剣を受け取る。僕の以前の剣は両刃の長剣だったが、これは重量からして片刃か。西洋風の剣ではなく、東洋で作られる大ぶりのサーベルのような剣に似ている気がする。

 正直、デザイン性も切れ味も天界の物の比ではないだろうが、あくまで護身用だし、威圧出来ればそれで良いか。

「なんだかな……。騒がしい奴だ」

「……その、あんまりミントちゃんを虐めないであげて下さい。意外とミントちゃん、人見知りですし」

「人見知り……?いや、お前はともかく、あいつはそんなことないだろ。初対面の時から、がっつり弱み握られてたぞ……」

 今思えば、あの時の仕返しは一応出来たな。リベンジなんてセコい、天使らしくない行動だが、負けっぱなしというのも気分が良くないし、僕の心の健康も保たれたというところだ。

「じゃあ、ミントちゃんの男の人の人見知りもマシになったのかな……。あたしも、お兄ちゃん以外の男の人と昔は全然話せなかったんですけど、最近は良くなって来たんです」

「そういや、バハルドとは双子の兄妹だったな。あいつは銀髪だったが、お前は水色、外見も性格も全然似てないし見ただけじゃわからないが」

「そうですね……。まあ、親も子もいない悪魔に双子も兄妹もあるのか、という話です。でも、あたしとお兄ちゃんはずっと一緒に、同じ時間を生きて来ました。ですから、間違いなく兄妹なんです」

 ずっと一緒に同じ時間を、か……。そんな家族も友人もいなかった僕にはよくわからない感覚だ。

「お前とバハルドは、もうどれぐらい生きているんだ?」

「えっと……もう何千年も、何万年も生きている気がします。地獄にも、いつからいたのか……」

「何万年だと?そんなの、天使より長生きで、下手をしたら神と同じぐらい生きていることになるぞ?」

「はい……。でも、あたしとお兄ちゃんはそれぐらい生きて来ました」

「にわかには信じがたいな……。そんな昔から悪魔はいたのか?」

 そもそも、悪魔は草のようにいくらでも生えて来るものではなく、神によって作られる訳でもない。発生する理由がある。

 一つは、異教の神。信仰の力により思念、あるいは実体を持つようになった小さな神は、悪魔ということで地獄に堕とされる。元々は悪魔でなかったという点では、僕のような堕天使もこちらの仲間だ。

 もう一つは、自然界の「悪」の権化として悪魔が発生する場合。暴力の体現だったり、行き過ぎた知の体現だったり……強大な力を持った悪魔が多い。

 しかし、前者の悪魔は前提として人間がいなければならないし、後者の悪魔も世に溢れる「悪」の源の大半が人間であることを考えれば、神と同い年の悪魔なんて普通は存在し得ない。サタンのように元は天使だったケースのみだ。

「エリスって、意外と学はないのね。わたしはレヴィアとバハルドって名前で二人が何の悪魔かわかったけど」

「……悪かったな。僕は悪魔になぞ興味はないんだ」

「レヴィアというのは、レヴィアタン、すなわちリヴァイアサンから付いた名前。バハルドはバハムート、ベヒモスのこと。むしろ天使だからこそ、この悪魔の名前はよく知ってるんじゃない?」

「レヴィアタンにベヒモス……神が天地創造の五日目に作った海と陸の化物か……。伝説ではそれぞれ大海蛇、象頭の獣人と伝えられていたが、まるで違うな。これで気付けと言う方が無理あるだろ」

「あはは、そうかな」

 特にベヒモスに至っては竜の姿なんて、あのベヒモスと同一視しろと言う方が無理ある。……でも、そうか。レヴィアタンとベヒモスなら、双子というのも納得が行くし、世界の始まりの五日目に生まれたのだからとんでもなく長寿だろう。

 海の悪魔レヴィアタンが気弱で人見知りな人魚で、陸の悪魔ベヒモスが軽薄そうな竜なんて、本来それ等にある恐ろしげなイメージから程遠いが。

「はい、レヴィアは紅茶飲めたよね」

「……うん。好きだよ」

 ティーカップに注がれた紅茶を飲むレヴィアタンのレヴィア……シュールと言うか、なんと言うか……。この地獄には他にも、伝説の怪物や異教の神がいるのだろうか。

「エリスも飲んだら?」

「はっ、誰が悪魔の淹れた茶なぞ飲むか。大体、天使には飲食の必要などないんだ」

「でも、飲むことは出来るんでしょ?なら、飲んでくれても良いじゃない。付き合い悪いよー」

「なぜ僕がお前達のレベルに合わせないといけないんだ。大体、僕はお前達との仲良しごっこなんて、だな……」

「……やっぱり、あたしが来たのって、ご迷惑でしたでしょうか」

「え?い、いや、今議論の中心は僕が紅茶を飲むか飲まないかであって、僕はお前が邪魔だとかそんなことは言ってないぞ」

「でも、仲良しごっこは嫌だって……」

 うっ、どんどんレヴィアが涙目になって行く……いや、もう既に泣いている。

 やめろっ……。そんな悲しそうな目で僕を見るなっ。

「あーあ。レヴィア泣かした」

「ぼ、僕のせいなのか!?」

「少なくともわたしじゃないでしょ?」

「いえ……お邪魔でしたら、いいんです……。天使であるエリス様からすれば、あたしは汚らわしくて、醜くて、同じ空気を吸うのにも値しない存在なのですから……」

「なっ、そ、そんな風に思ってる訳ないだろ!と言うか、お前みたいな可愛い奴をそこまで悪く言う奴がいるか!」

 全く、天使を何だと思っているんだ。蒙昧な人間の芸術家より、天使の方がよほど美のなんたるかを知っている。そんな僕に言わせてもらえば、レヴィアの容姿はかなりの上位ランク……いや、最高ランクに値するとしても過言ではないだろう。

 こちらはあまり認めたくないが、ミントもまあ、かなり良い線は行っている。お子様体型というのは僕の趣味、また女性美の象徴である豊潤な肉体からは大きく外れるがな。

「ぁ、あぅ……」

「うわー……。エリスって悪口言う時も全力だけど、褒める時もドストレートなんだね……」

「良いものは良い、それを認めるのは当たり前のことだ。特に美はあらゆる偏見を取り去って吟味すべき分野だしな」

 人間はそれに気付かないから僕は嫌いだ。奴等は平気な顔で手を汚すのに、ある分野においては潔癖過ぎる。

 ……そう言えばさっきからレヴィアが赤面して、ただ口をぱくぱくさせているだけなんだが、あれは呼吸なのか?本来は水生のはずの人魚は、地上では時々あんな風に呼吸する必要があるのかもしれない。

「え、え、えっと、エリス様っ」

「どうした。苦しいのか?」

「は、はいっ。その、少し苦しいのは確かですけど……」

「やっぱり、人魚が地上で生きるというのは難しいことなのか……。無理せず、適度に水に入るようにしろよ」

「ありがとうございます……。あたし、エリス様に心配をかけてばっかりですね……」

「お前は色々と危なっかしいからな。僕よりずっと年上なら、それらしく少しはしっかりして欲しいところなんだが」

 見た目は良いし、礼儀正しい。かなり高評価して良い相手だが、どうもこういう小動物系と言うのか?はっきりしないタイプは扱いづらい。

 天界の住人は慎ましやかな性格でも、明確な自分の意思を持ち、それを口にするだけの力があった。実質こういう相手と話すのは初めてだからだろうか。

「はい……頑張りますっ。それでは、本当に先日はありがとうございました。エリス様。……それでは」

「もう帰るのか……って、逃げ足速いな」

 言うだけ言うと、ぴゅー、っと一気に逃げ出してしまった。あそこまで走らなければならないほど、息苦しかったのだろうか。人魚というのも難儀な生き物だ。

 あらゆる要素が心配な奴だし、今度会ったらもう少し優しくしてやるべきかもしれないな。年長者ということは、それなりの敬意も払ってしかるべきだ。天界なんて、典型的な縦社会だったし、年上の者を立てる生き方はすっかり染み付いている。

「むっ。わたしに絶対向けたことのなさそうな優しい顔してた」

「そうか?まあ、あいつはお前と違って可愛げもあったし、普通に僕の好みだからな」

「だからあんなこと言ったの?そんなことばっか言ってると、絶対痛い目見るんだから……」

「妬いているのか?ああ、そういえばレヴィアならお前より長く地獄に住んでるだろうし、脱出の方法も知ってるんじゃないか?お前を頼るより……」

「あの子がそんなこと知ってると思う?後、バハルドもぶーらぶらして生きてるだけで、知らないから」

「……そうか。世の中ままならないな」

 結局、頼りになるのはこいつだけか……残念だ。

相変わらず読めなくて、扱いづらさでは余裕でレヴィアの上を行く相手だからな……。

 もうしばらく、こいつの「友達」を続けないといけない訳だ。

「友達と言うより、奴隷か下僕じゃないか?これ……」

 先を思いやると、頭が痛くなって来るようだった。

 結局、レヴィアが口を付けなかった紅茶を飲もうとすると、すんでのところでミントに取り上げられてしまう。

 先に断ったのは僕とはいえ、絶対に飲ませてくれないんだな。恐ろしい女だ。


 
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