四 再びまみえる白と金
「桜塚春香です。よろしくお願いします」
時間は一気に流れて、九月一日。
当初はトラウマのようにユヅル達のことを度々思い出していた僕も、夏休みが終わる頃にはすっかりいつものに日常に戻ることが出来ていた。
その中で、渚沙の存在は本当に大きくて……。前以上に渚沙のことが大好きになれたのは、あの事件のお陰に他ならない。
早くも一夏の恋は思い出になり、思い出が心のアルバムの中にしまわれようとしていた時、新学期一発目のホームルームで転入生が紹介された。
以前、渚沙が話していた引っ越して来た兄妹の妹の方なのは間違いない。そして、その容姿というのは……。
「桜塚はこの春までアメリカで生活していたので、日本のことには不慣れだそうだ。困っていたら、必ず助けてあげるように」
眩いばかりの金髪。その毛先はゆるくカールしていて、血を固めたような瞳からは貪欲なほどの生気を感じる。
高校生とはとても信じられない低身長ながら、そのスタイルの良さは大人顔負け。
帰国子女のように紹介されていたけど話す日本語も流暢……。全く同じ容姿の女の子を一人、僕は知っていた。
あの日、野宮さんを刺して、その上で拷問して愉しんでいた神の女の子。
彼女が結局、なぜ野宮さんやユヅルに刃を向けたのかはわかっていない。けど、自由に凶器を取り出せるような危険な相手だというのはよくわかっている。
僕は神じゃないから、ターゲットにされないんじゃ?なんて考えは、ふと目が合った時に向けられた殺意を含んだ視線に打ち消され、心臓は痛いぐらい早鐘を打つ。
今すぐにでも、逃げ出さないといけない。
本能がそう告げて、彼女は恐ろしいぐらい美人なのに、生理的嫌悪を覚えてしまう。
ホームルームの後の数分の空き時間、定番通りに彼女はクラスメイトに囲まれた。その隙に僕は、教室を飛び出した。
まずは学校を脱出する必要がある。そのまま下駄箱に向かいたいけど、先生に見つかったら面倒だ。保健室で正規の手続きを踏んで早退することにする。
階段を下りて、一階に移動する時間がもどかしい。もしかすると、彼女は僕が逃げるのを見越して、何らかの策を講じているかもしれないと思ったからだ。
まさか校内で生死に関わるようなことはして来ないと思う。その一方で、彼女なら、人が痛がるのを愉しむような彼女なら、校内にも死の罠を仕掛けていそうだとも考えられる。
人じゃない彼女は、きっと虫を殺すように人を殺せる。僕以外の一般人が巻き込まれたとしても、何とも思わない。むしろ、面白がるぐらいだろう。
大変であろう後処理も、神である彼女であれば暗示でも何でも出来る。情けないけど、僕が自分の身を守るためにはユヅルの所へ急ぐしかない。
「先生。すみません、急に気分が悪くなってしまったので、早退させてもらっても良いですか?」
形式上、体温を計らせられる。結果が出るまでの数分が、途方もなく長い時間に感じた。
仮病なのだから、熱なんてある訳がない。それでも、顔色は本当に悪かったものだから、あっさりと早退の許可は降りた。
それもそのはず。心臓を掴まれているような悪寒がずっとしていて、まるで生きた心地がしないのだから。
やや乱暴に保健の先生の判子の押されたプリントを受け取って、その辺りの一年の生徒にそれを押し付ける。知らない顔だったけど、もうそれに構っている余裕がある訳ない。
チャイム直前。廊下を走ることは黙認される時間となっているので、皆とは逆の方向にダッシュして、上履きのまま外へと飛び出した。
あの川は、学校とは正反対の方角にある。距離はかなりあるけど、家の前を通ることが出来るのはありがたかった。ちゃんとした靴に履き替えることが出来る。
家の鍵はズボンのポケットに入れるようにしていて良かった。鞄は学校に置いて来てしまったから、その中に入れてしまっていては家に入れないところだ。
家に着き、走りにくい上履きを捨てて、替えのスニーカーでひたすら走る。
平日に制服姿で学校と反対方向に走る学生なんて、目立っただろう。後で学校に連絡を入れられてしまったかもしれない。
でもそんなのに構うものか。先生のお説教と、死か、それに近い暴力。どっちが怖いかなんて、深く考えるまでもなく後者が恐ろしいに決まっている。
「ユヅルっ!ユヅルーーーー!!僕、永だよ。出て来てっ。前にここに来た神の女の子、春香が僕の学校にやって来たんだ!」
川まで続く森を走りながら、喚くように叫び続けて、川のほとりに着くと同時にそこにへたり込む。
彼女がいつもはどこにいるのかはわからない。ただ、かつての記憶では、必ず僕が来た十分後ぐらいには姿を現していた。
野宮さんが恐れていたような、あの切羽詰まった状況でもすぐには来なかった辺りから察するに、彼女はいつでもここにいるけど、実体化するのに時間がかかるのかもしれない。
なら、叫び続けることに意味はないのに、それを続けることはやめられなかった。
声を出すことで、恐怖を吹き飛ばしてしまいたかったのかもしれない。
「――今日ずっと感じていた胸のざわつきの原因はこれか。体細胞が恐怖を覚えているということかな。情けないやら、なんとやら」
最初に姿を現したのはユヅルではなく、野宮さんだ。
彼ともあれきりになってしまっていた。とりあえず元気そうで良かった。
「野宮さん。ユヅルは」
初めから彼をあてにはしていない、と言っているみたいで心苦しいけど、今頼りになるのはユヅルだ。後から謝るつもりで、開口一番そう言った。
「彼女もすぐに姿を現すよ。ユヅルはぼくや、あの子。ハルカだっけ、よりずっと神格が高いから、それだけ姿を形作るのにも時間がかかる。今日はずっと警戒しておいてもらったから、いつもより早いだろうけどね」
ユヅルを待つまでの間、野宮さんだけにも彼女の転入のことを話す。
どうやら、全く予測が出来ていなかったことでもないらしい。野宮さんは「野宮井波」という名前通りこの町の土地神で、他の神の侵入や、ある程度の行動は感じることが出来るという。
その力を持っていながら、有効な手を打てなかったのは自分の落ち度だと深く項垂れてしまった。
野宮さんは土地を治めるという力に特化している分、物理的な神や人への干渉はほとんど出来ないという話だ。
「金気が強まった。再び、あの子が動き出したということ?」
気が付くと、僕と野宮さんの傍にユヅルが舞い下りている。
際限ないほど長い風に流れる白髪、表情をほとんど映さない顔も、全て前の通りだ。
「そういうことになるね。彼の学校に生徒として入り込んで来たらしい。……ほとんど関係のない人間の子を積極的に巻き込むなんて、神の所業じゃないよ」
「邪神もまた神には変わりない。今に始まったことではないでしょう?呪う暇があれば、他にすることはある」
温厚そうな野宮さんも、あれだけ傷め付けられた過去があれば感情的になるようだ。対してユヅルは理性的に一喝を入れる。
容姿だけを見ていれば、なんだかおかしな構図だ。
「まずは、あなた……えっと」
「永です」
「永。永遠の永と書くの?私の好きな字」
「あ、うん。そうです」
やっぱり……と思うべきだろう。ユヅルは僕の名前なんて覚えていなかった。
でも、僕の名前の字が好きだと言ってくれた。その事実は単純に嬉しい。
なぜか敬語になってしまったけど、彼女とまた話せたのがたまらなく嬉しくて、それだけで胸がいっぱいになってしまう。ついさっきまで半泣きだったのに、おかしな話だ。もう、彼女のことはすっかり諦めていたはずなのに。
「脱線が過ぎた。永があの子に狙われているその理由をまず、教えておかないといけない。見当は付いているかもしれないけど、あなたの特異性は私と接触しておきながら、その記憶を残していること。後は、この町の住人という点も重要。つまりそれは、私と井波、二人と同時に関係が深いことになる」
「……ユヅルとも?」
僕の方に記憶があるというのは、一方的に知っているということに過ぎない。
さっきみたいに、ユヅルは僕の名前も覚えてなかった。それでは、関係が深いなんて言えないだろう。
「あの子はずっとあなたを監視している。あなたの私への私的な感情も全て把握していて、あなたなら簡単に口車に乗せられると踏んでいると考えるのが妥当。人目の多い場所に行くということは、彼女も相当なリスクを冒している。出来るだけ穏便に人質を覚悟したがっていると判断出来る」
――人質。僕には、人質としての価値があるというのか。
しかし、何のための?という疑問が新たに湧いて来る。
いや、それより……雰囲気を壊してしまうようで悪いけど、今ユヅルは何と言った?
僕のユヅルへの私的な感情だとか……私的な感情?それってつまり、そういうことなのか?
「彼女の目的も言わないといけない。推測でしかないけど、これ以外には考えられない。この川を私から奪い、過去を自分の意のままにしようと考えている。過去を変えれば、因果関係で今も変わる、未来も変わる。万物を支配したも同じことだから、神でもその力は強く欲している。私に一度負けた以上、人質を取るやり方で私を殺そうとしているのでしょう」
僕の赤面を無視して、ユヅルは続ける。
そうか、自分の治める土地の住人だから、僕は野宮さんの人質になるし、友人である野宮さんの人質ということは、ユヅルにとっても僕は人質になるのだろう。
……けど、僕はちょっと気が気じゃない。あんまりに自然にユヅルは言ったけど、絶対に僕の好意を知っている。
「別に私はどんな人を人質に取られても、手を出しづらいけど……彼女の尺度で考えれば、この井波町の人間である必要があるのか。他の誰かが代わりにされる可能性もあるけど、永、あなたが最有力候補であるのは間違いない。だから……しばらくはここにいて欲しい。私の方があなたの家に行く訳にもいかないから」
「それは……そうだね。食べ物さえ確保出来れば、いつまででも大丈夫だけど……夏だし」
九月といってもまだまだ暑い。少し地面は堅いかもしれないけど、寝袋なんかは必要ない。
家への連絡は、後で渚沙にしておけば良いだろう。相手に家を張られているなら、危害が及ばないか心配だけど……。
「その点は、ぼくが用意させてもらうよ。コンビニ弁当ばかりになってしまうかもしれないけどね。ああ、ぼく自身は、普通なら襲われないように工夫は色々と出来るんだ。ここは、ユヅルの気が強過ぎて僕の力は消えてしまうんだけど」
「コンビニ弁当、ですか」
神様がコンビニに行く。なんともシュールな図が浮かんで、ちょっと笑ってしまう。
でも、ということは、まるで僕が神様を使い走りにしてしまっているみたいな感じになって……物凄く申し訳ない。
けど僕が行けば危ないし、そんな勇気はない。お願いするしかないか。
「そうかと言って、学校を休んでもらう訳にもいかないか……。あなたの人生を、私達のせいで滅茶苦茶にはしたくない。お家の方には上手くあなたから話してもらうとして、学校にはなんとか通ってもらわないと」
「えっ……?そんな、学校で彼女と顔を合わせるなんて」
自殺行為としか思えない。そもそも、今逃げて来た学校にまた通うなんて、僕のノミの心臓が持たないだろう。
「人間の子は学ぶのが仕事。人が生きる手助けを私達はするべきなのだから、それを妨げてはいけない。……そう。相手がそう来るなら、私もそれをやり返せば良い。私も生徒として、あなたと一緒に登校する。一時もあなたと離れなければ、安心でしょう?」
強い決意の目で、ユヅルは僕を見上げた。
僕にはそれを断る勇気はないし、他に学業と春香からの逃亡生活を両立させる手段は見当たらない。選択肢はなかった。
――そして、内心すごく嬉しい。
まさか、ユヅルと学校に通うようなことになるなんて。
「相手のことも、把握しておく必要があるね。彼女はナイフや刀を操っていた通り、金の気を司る戦の神だ。信仰を失い、元いた土地を離れて来たのだろう。よくある例だ。……この国は平和になったけど、それは同時に戦神の信仰の枯渇を招いている。皮肉な話だよ。戦の神が自分で戦いを仕掛けて来ているのだから」
その晩、初めての野外での夕食の席で、野宮さんからこの国の神々について教えてもらうことになった。
まずは春香、目下の敵の詳しい情報だ。
「でも、すごく恥ずかしいことですけど、他の神様も僕達はもうあんまり信仰していないと思います」
「そうだね。初詣が最後詣、なんてのはよくある話だし、神々は等しく信仰を失っているよ。けど、神社にお賽銭が入り、絵馬が書かれ続ける限りは、神の力は失われないんだ。その分、戦神は悲惨だよ。戦時は持て囃されるけど、神社もないことが多い」
そう言われてみると、よくある神社というのは、天神様……菅原道真のものや、稲荷神社であって、それ等は勉学だったり、商売繁盛の神だったりする。
戦の神なんて、ぱっと名前を挙げられないぐらい知識がない。
「また、ユヅルみたいに伝説の残る土着の神は、それが語り継がれ、人々の記憶に残り続ける限りは力を失わない。ただ、ぼくはもうほとんど神の力がないも同然だね。神社もなければ、伝説もない。誰にも知られていない神だ。それでもかつては、土地神信仰はあったんだけど……」
農業をしている人の、大地の神様の信仰みたいなものだろうか。
誰もが農民だった頃は皆信仰していたかもしれないけど、神様や霊的なものがオカルトとして廃され、お金を用いた生活が当たり前になった今、もうほとんどの人が神様を生活の中で意識していないのは当然とも言える。
まさか、そんな存在が本当にいるとは思わないから。
「信仰の危機は、本当のことを言うと過去に二度あったんだけどね。一度目は仏教の伝来の時、二度目はキリスト教の伝来の時だ。朱子学が流行ったこともあったか。でも、それは一時的なもので、大打撃にはならなかった。……それに比べ、世界の不思議が解き明かされることは、同時に神を消滅させることでもあったんだ」
深く息を吐いて、野宮さんは話を締め括る。
その表情には嘆きも、怒りもなく、ただ諦めにも似た疲れがあった。
神は数千年もこの日本という国で生きて来たのだという。その疲れが、今こうして一気に出て来てしまったのだろうか。
「なら、あの子……春香も、力を失っていて当然なんじゃないですか?」
野宮さんが言う通り、春香が信仰を失ってさまよい出た神だというのならば、野宮さんと同じように人間程度の力しか持っていない方が自然だ。
それなのに、春香の力は人間のそれよりずっと強くて、自由に刃物を取り出すような特殊な力を持っていた。
学校への編入手続きに暗示を使ったのなら、それも人間にはない不思議な力だ。春香の力は強過ぎるように思う。
「それは……彼女が禁忌を犯しているからかな。神が神を殺すと、自身の力を強めることが出来るんだ。神が人を傷付けるのは最悪の悪徳だけど、神を殺すことはそれよりも道理に反した行為だ。それ相応のリスクも、あるにはあるんだけどね」
「リスク、ですか」
「神は神を殺すことで、穢れる。神は清浄な存在ゆえに老衰しないけれど、穢れた神の命は有限になる」
ユヅルが野宮さんの後を引き継ぐ。その口調はいつもよりゆっくりで、重みがあった。
寿命と引き換えに、力を手に入れる……何が彼女をそうまでさせたのだろうか。
必要がなくなれば、信仰を失くす人間への怒り?それとも、初めからユヅルみたいな時を操る神の座を奪うことを考えていたのだろうか?
少し落ち着いて心の余裕が出来たのか、相手の気持ちが気になっていた。
彼女は明らかに人を傷付けることを愉しんでいた。ただ、それが好きだからやっているのかもしれない。
でも、それなら対象は人間だけで良かったはずだ。神を殺すことにはリスクがあるのだから、力を欲しているとしか考えられない。でも、そう断定するのも早計か……?
相手の情報が、ほとんど何もわかってない現状があり、その限りは春香の真意もわかりそうになかった。逆に、相手にこちらの情報はほとんど筒抜けだという。
情報化社会の進んだ今の時代の人間だから、情報の大切さは僕が多分一番よくわかっているつもりだ。その僕から見て、この情報量の差は絶望的だった。
「――ユヅルはそうは認めたがらないかもしれないけど、ユヅルの武力は、神の中でもトップクラスだよ。だから永君、その点について君は心配しなくても良い。ユヅルがついている限り、君の身の安全は保障されているんだ」
「………………」
野宮さんの言葉を受けて、ユヅルは不快そうにそっぽを向いてしまった。
その表情に変わりはないけど、素振りで彼女の気持ちはわかる。
よくよく見てみれば、ユヅルは表情を変えることは少なくても、その行動に実は彼女の感情が強く反映されているのがわかる。
「ユヅル。別に謙遜しなくて良いんじゃ……」
「謙遜じゃない。私の力なんて、戦神以外の神にしては強いだけ。もしあの子が更なる神殺しを続けているのならば、今度対峙した時には対抗出来ないかもしれない」
言葉にはやや怒気が含まれている。厳しさではなく、彼女の単純な怒りの感情には初めて触れたのかもしれない。
まさしく神の威厳に満ちたその言葉に、思わず背筋を正してしまった。
「……別に、脅かすつもりはなかった。許して欲しい。ただ、井波も、私を買い被ることはやめて。神を殺した神の力は完全に未知数なのだから、常識で測ってはいけない」
取り繕うようにユヅルはいつも通りの静かな口調に戻って、僕と、野宮さんを見る。いつもは涼しさを感じる瞳が、この時ばかりは熱を持っているみたいだった。
そんな風に真剣に見つめられて、更にうだうだ言う訳には行かない。僕達は沈黙で応えるだけだ。
「神が、直接手を下さないのであれば、神を殺してもそれは禁忌ではない。あの子を、川に流すことも出来た。……私にも、責任はある」
呟いたきり、ユヅルは僕と野宮さんの所を離れて行った。
野宮さんが言うには、長く人の姿で居続けることは相当無理のあることらしい。神は、その神格が高いほど姿を現していられる時間が短い。これで活動限界だったみたいだ。
しかも、ユヅルは敵襲に備えて、完全に体を休める訳にもいかない。負担は並大抵のものではないという。
それを聞いてしまうと、彼女と学校に通えることを喜んでいた自分が、とんでもなく浅はかに思える。
学校に拘束される約半日の間を、ユヅルは人の姿であり続けないといけない。当然ながら春香も警戒しなくてはいけないし、川に戻って来てからも安心は出来ない。
神が人の姿を長時間保つことの負担が、どのような質のものなのか僕はわからないし、野宮さんも言ってくれなかった。
けど、言わないということは、余程辛いということなのだろう。
寝る直前、僕は川に向かって頭を下げていた。
それから、好きな人のことを思いながら眠りに就く。
――こうしてユヅルとの学校生活が始まった。
時川由弦。
それが、ユヅルの学校での名前だ。
神の名前には音だけが存在していて、字は決まっていないらしい。
そこで僕が思い付く限りの「ユヅル」と読める漢字を並べてみて、好きなものをユヅル自身に選んでもらって決めた。
あえて地味な、一般的な漢字を組み合わせた辺り、彼女らしさが出ている気がする。
結局、僕の考えた美しい字の「ユヅル」は全て却下となった。
苗字はそもそも神にない概念だったけど、響きが良かったので彼女の川の通称そのままだ。
ちなみに野宮さんに訊いたところ、地図に載っている正式名称では井波川というらしい。普通過ぎてちょっとつまらない。
「うん、よく似合ってると思うよ」
もう一つ、彼女が学校に通う上で必要だった事柄がある。
校則ではあまりに長過ぎてだらしのない頭髪は不許可ということになっていて、切り揃えるか、括らなければならない。
ユヅルの髪の毛がだらしないなんて思えないけど、ケチを出されるのも困るということで野宮さんがリボンを買って来て、適当にツインテールにしてくれた。
「本当?髪をこんな風に弄ったのは初めてだから、変な気分がする」
「そうだね。ツインテールなんてちょっと幼過ぎるかもしれないと思ったけど、ユヅルは落ち着いた雰囲気だし、全然変じゃない。そこらの高校生とそう変わらない見た目だよ」
豊かな白髪を青色のリボンで括ったユヅルには、いいところのお嬢様みたいな風格がある。
これまた野宮さんが買って来た制服を合わせると、洋装も似合っていて、学生の目を引くのは確実だ。
春香が転入して来た翌日に、またこんな美人がやって来るなんて、僕が当事者でなければ素直に喜んでいたかもしれない。
でも、片方には追われ、片方には守られる立場だ。しかもユヅルは相当無理をして学校に通ってくれることになる。そこに甘く楽しく、平穏な学校生活はないと考えるべきだろう。
「本当はぼくも先生として学校に通いたいところだけどね。ぼくは足手まといにしかなれないだろうし、やめておくよ。ユヅル、永君。どうか無事で」
僕も支度を終えて、野宮さんに見送りをしてもらう。
川から学校へと向かうなんて初めての経験だ。
「井波も気を付けて。あなたが狙われる危険も十二分にあるのだから」
「僕も、ユヅルには出来るだけ迷惑をかけないようにします。――では、いってきます」
朝の空気が、いつになく冷たく感じる。
いつもより学校から離れている分、早く出ているのも関係しているかもしれない。でも、主な理由は緊張だろう。
ユヅルを信用していない訳では決してない。むしろ、全幅の信頼を寄せていると断言出来る。
それでも、僕のことを狙う「敵」のいる学校に行くのは恐ろしいことだ。
間違いなく彼女は僕を人質にユヅルの命を奪おうとするし、気を抜いてしまえば無数にいる学生だって人質に取ろうとするだろう。
つまりユヅルは僕を守りながら、同時に春香を監視し続けなければならないことになる。熾烈な心理戦が繰り広げられるのは必至だ。
そして、僕はとにかく気を付けるということ以外、何も力を貸せないのが歯がゆくてたまらない。
正直なところ、学校に行くことを僕が放棄してしまえばそれだけで済むし、僕自身はそれで良いと思う。
――尤もユヅルは決して、それを認めてくれはしないだろう。彼女はきっと不器用で、優しくて、多分他のどんな神よりも人間のことを大事に思ってくれている。
今思えば、初めて会った時に彼女は過去を変えることを、あまり積極的には肯定していなかった。その危険性、ひいては僕に振りかかるかもしれない不幸を予期して、言外に忠告していてくれたのだろうか。
「ユヅル。変なことを訊いて良い?」
「良いけど、変なこと?」
少し唐突過ぎたかもしれない。でも、これだけはどうしても、一緒の学校生活を始める前に訊いておきたい。
「ユヅルは、僕じゃなくてもここまでしてくれた?」
自分自身の幻想を打ち砕き、気を引き締めるための質問。
僕は彼女の「特別」なんかじゃない。それをはっきりとさせておく必要を感じた。
これは答えのわかっている質問だから、きっと落ち込まない。そう思いながら彼女の返事を待つ。
「――何らかの手は打っていた。けど、あなたとずっと一緒にいようなんて思わなかったと思う」
「え?」
「人に好意を抱かれて悪い気持ちをする人はいないでしょう?私も同じ。私は今すぐにはあなたを好きにならないけど、あなたの好意を受け止めているし、好き合える関係になれれば良いと思っている」
「………………」
しばらくは何を言われているのかわからなかった。
ユヅルは全くの無表情で言い切ったし、彼女独特の言い回しで意味が伝わりづらい。
けど、これって、もしかして…………。
「私は種族や寿命の違いを言い訳に、逃げたりはしないから」
照れ隠しするように早口で言うと、ユヅルはさっさと行ってしまった。
僕はその言葉にまるで弾かれたように、その場で軽くふら付く。
玉砕は覚悟。と言うより、絶対に失恋すると思っていたのに、ユヅルの言葉は想像を大きく良い意味で裏切っていて、最後の言葉と彼女の行動から考えれば、十分脈ありとも言える。
彼女が冗談でそんなことを言うとは思えないし……とりあえず僕は、喜んでも良いのだろうか。
「あ、ユヅル、待って」
「登校初日から遅れる訳にもいかないでしょう?急いで」
「それはそうだけど、そんなに急がなくても……」
小走りになってなんとか追い付いてみると、ユヅルはやっぱり無表情。頬を赤く染めているようなことはないし、もう早口にもなっていなかった。
さっき照れている風だったのは僕の思い違いか、願望だったのかもしれない。
でも、僕は彼女が感情のない女の子じゃないということも知っている。
だからきっと、彼女はさっき照れていて、今はそれが失言だったと思っているから、殊更いつも通りの無表情を貫こうとしているのだろう。
それがなんだかおかしくて、だけどとっても可愛らしくて、ますます彼女に惹かれて行くみたいだった。
僕にもう少し蛮勇と強引さがあれば、ユヅルに手を伸ばし、その手に触れてみたりしてしまったかもしれない。
思わず変な気を起こしそうになる……それぐらいユヅルは僕にとって魅力的で、まるで天使のようで……もう気を引き締めるどころの騒ぎではなかった。
彼女への恋心ばかり強まって、気持ちはどんどん浮かれて行ってしまう。
それは危険だと自覚していたはずなのに、もうそれを制御することも出来ない。そしてそれが、まるで美徳のように感じられてしまった。
一度は終わらせた僕の初恋は、今改めて前より一層激しく燃え上がっている。それが自分でもよくわかる。
今まで恋をしたことがなかったから気付かなかった。僕はこんなにも恋愛に関して情熱的だったんだ。
渚沙に対する「好き」とはまるで違う……これが異性を強く愛するということで、永続的な家族への愛情とは全く異質のものだった。
そんな幸せに浸りながら行く通学路は、いつもよりずっと美しく見える。
普段は何の感動も覚えない植木鉢の花が、まるで二十年の途方もない時間をかけて咲いたかのようで、太陽はいつもよりずっと明るい。その光は全ての闇を照らしているように見えて、世界はパステル色に彩られているみたいだ。
――だからこそ、彼女を見つけた時は、背筋が冷えた。
いや、そんなものじゃない。死神の鎌を目の前に突き付けられた時と同じ戦慄。
昨日の、そして一月前の恐怖のフラッシュバック。
世界がユヅルから放たれた光で照らされていたとしたら、彼女は世界に巨大な影を映し出している。そんな気がする。
「おはようございます。昨日は朝から早退されたそうですが、もう体調は良いのですか?」
不自然に甘く、魅惑的な声音。彼女への恐怖の記憶がなければ、危うく騙されてしまっていそうだ。
「う、うん。もう大丈夫。心配してくれて、ありがとう……」
けど、僕は彼女のことを学校の誰よりもよく知っている。
食べたら胸焼けしそうなぐらいたっぷりと、ハチミツの塗られた罠にかかる訳がない。
「おはよう。今日から同じ学校に通うことになる時川です。よろしくお願いします」
春香がこちらに近付いて来ようとするのに気付いて、ユヅルが間に入ってくれる。
露骨に敵意を見せるようなことはしない。それなのに、春香は一歩引いてそれ以上の僕との会話を諦めた。
「そうなのですか。おはようございます。実は私も、夏休みにこちらへ越して来ましたの。……あら、自己紹介がまだでした。桜塚春香と申します。以後お見知り置きを」
スカートの裾を持ち上げて、取って付けたような礼をする。
と言ってもこれは僕の主観で、他の生徒には本当に彼女が礼儀正しいお嬢様のように見えるのだろう。
でも、彼女の本性は決してそうじゃない。優しいお嬢様というよりは、恐ろしい女王様だ。
「私は一度職員室に行かないといけないので、急がせてもらいます。……永、急ぎましょう」
「うん。それじゃ、桜塚さん。また教室で」
さすがに春香も、他の生徒や近所の人の目がある所で騒ぎを起こそうとはしないらしく、小走りに行く僕らの背中をそのまま見送ってくれる。
ユヅルは無防備そうに彼女に背を向けたけど、背後から襲われるようなことがあれば、きちんと対処出来たのだろう。
それぐらいはきっと過信ではなく、彼女の実力を考えれば信頼すべきことの範囲内だ。
「登校時間が重なるなんて、嫌な偶然」
「春香はユヅルだとわかって寄って来たのかな」
「確認のためだと思う。会話が出来るぐらいの距離まで近寄れば、私達は相手が神か人かわかる」
「じゃあ、早速正体がばれちゃったね」
「あの子の今までの行動から考えれば、数十分早まったぐらいで大きな影響があるとは思えないけど」
最初の強襲、そして今回の学校への転入。どちらも強引な力押しで、あまり小難しい策を弄するタイプではないということだろう。
僕が抱く春香の印象もそれと同じだ。キレやすく、自分の力を信じていて、嗜虐的……さっきの彼女は完全に別人に思えた。
「でも、あそこまで演技出来るなんて、正直思わなかったよ」
「あの子も私と同じ、数千年の時を生きている。自分を偽る技術なんてとっくに極めているはず。あの子が直情的に向かってくるのは、小細工や打算のやり方を全て学んだ上でそれを嫌ったから。必要に迫られれば、人間よりずっと上手くそれをやって見せる」
それが、たった十五年しか生きていない僕と神との差、ということだろうか。
現に春香はユヅルが登校して来ている事実に対して、驚いている様子はなかった。既に予測済みだったのかもしれない。
「じゃあ……向こうが積極的に小細工をして来ないなら、僕達の方がなんとか罠にはめることは出来ないかな?」
人を騙し、欺くことに抵抗がない訳じゃない。でも、これは言ってしまえば生きるか死ぬかの戦いだ。向こうが本気で殺しに来るのなら、こっちが全力でそれを無力化させようとするのは順当なことに思える。
「私も井波も、出来ることならそうしたい。ただ、向こうにも数千年分の知識と経験がある。私とあの子は全く同じ質、同じ量の情報を共有していると言っても良い。だから、互いに相手の考えが読めてしまう」
「それじゃあ、どんな巧妙に見える罠でも見破られる、と……」
「逆に、相手の行動に対しての先読みは十分可能だと信頼してもらっても良い」
結局、受け手に回るしかないということか……それなら僕は、春香が諦めるまでユヅルに守られるしかない。
いや、守られる対象は学校の生徒全員、ひいてはこの町の皆になってしまう。
僕はユヅルと井波さんにそんな負担をかけさせないといけないのか……?いくら二人がこの土地の神だと言っても、それはあんまりだ。すぐにでも春香を諦めさせるか、説得するかしたい。……それが難しいのはよくわかっているけど。
「永。私達も無策でいるつもりはない。まずはしばらく様子を見て、そこから対策を考えたいと思う。その時はあなたの知恵も借りたい。だから、そんなに気に病まないでほしい」
「……うん。ありがとう」
なんとなく考えが伝わったのだろうか。もしかすると、ユヅルは人の考えがわかるのかもしれない。神なのだし。
――好きな人で、この町の大事な神様でもあるユヅルの負担を考え、憂いていたけど、本人に気に病むなと言われたのだから、これ以上浮かない顔をしている訳にもいかない。学校生活にも差し障る。普段通りの顔を作って、職員室に向かった。
とりあえず僕とユヅルの関係は同い年のいとこ、ということになっているらしい。上手いことやってもらって、同じクラスの隣同士の席、しかも春香とは付かず離れずの距離という、これ以上がないぐらいのベストポジションだ。
「失礼します」
一応、僕が先に職員室に入る。ちょっと過保護に見えるかな。
「お、朝見に転入生の……時川か。おはよう」
担任の三村先生は既に登校していて、僕達を迎えてくれた。中年のこの先生は気さくで良い。
「由弦が迷ってはいけないので、一緒に来ました。僕と同じクラスでしたよね?」
「おお、そうだぞ。しかし、昨日の桜塚と言い、美人の転入生が多いよなぁ。しかも今度はお前の親戚なんて、変な関係になるなよ?」
「あはは……そんなことないですよ」
なんかもう、さっきから息をするように嘘を吐いている。
ユヅルと恋仲に発展したい僕としては、このいとこ設定は足枷な気もするけど、一緒にいても怪しまれないだろうし、仕方がないか。
「ん、それにしても、時川は元気ないな。低血圧か?」
「ごめんなさい。緊張してしまって。前の学校でも休みがちであまり学校に通えず、友達を作れなかったので……」
「そういや、こっちに越して来たのは療養のためだったな。朝見もいるんだし、何かあったら頼れよ。朝見、お前も友達紹介するぐらいしてやれ」
「は、はい。まあ、僕は男友達ばっかりですけど……」
「じゃあ、同じ転入生の桜塚はどうだ?あいつはもうクラスの人気者みたいだけどな。男女問わずに」
「へぇ……明るくて礼儀正しくて、感じの良い人でしたしね」
本当、春香は上辺だけなら感じが良く見えた。しかも甘え上手だし、容姿も華やかだ。
白髪は目を惹くけど、色々と控えめなユヅルより目立つだろう。
早速、二年ではアイドル扱いかもしれない。もしかすると、これも春香の狙いの一つだろうか。いざとなれば、彼女に近寄って来た生徒を盾にユヅルを狙えるのだから。
「お、そろそろ予鈴だな。じゃあ行くぞ、朝見、時川」
『はい』
職員室を出て、二階にある教室まで上がる。校舎は三階建てで、一年生は二階、二、三年生は三階という教室の割り振りになっている。二階には他にも理科室や視聴覚室があって、一階は保健室や家庭科室、その他の特別教室があるという構造だ。
一学年につきクラスは三つ。田舎だしこんなものだろう。
生徒の数自体がそんなに多くないので、転入生があったりした日にはすぐに噂が広がる。
春香のことはもう誰もが知っているだろうし、ユヅルも一日すれば有名人だろう。転入生でしかも美人なのだから。
「今日は昨日の桜塚に続き、もう一人転入生の紹介がある。本当なら昨日来てもらう予定だったんだけどな、引っ越しの都合で一日遅れることになった。入ってくれ」
教室の前まで着くと、先に先生が入って説明をして、後からユヅルと僕は呼ばれた。
紹介の時まで僕が一緒なんて、さすがにちょっとおかしいだろうか。でも、ユヅルは一瞬でも傍を離れない方が良いと言うし、仕方がない。
「初めまして。時川由弦です。永……朝見君とはいとこ同士で、この学校の勝手がよくわからないので、しばらく一緒にいてもらってます。……よろしくお願いします」
いつも通り静かで、凛とした声でユヅルは完璧に自己紹介をすると、僕に一瞬だけ視線を送った。どことなく保護欲をかき立てる弱々しい目だ。
ユヅルは学校では、こんな感じの気の弱い無口なキャラで通すつもりらしい。
容姿的に難しいけどあまり目立ちたくないのだろう。この一件が解決すれば、また元の神としての生活に戻るのだし。
「まあ、そんな感じで時川は人付き合いが少し苦手で、病気がちなので療養のためにこっちに来た。あんまり質問責めにしたりして、困らせるなよ」
一応先生がそう言うものの、休み時間の質問責めは免れないだろうな……ここは僕がマネージャーよろしく、上手く対処する必要がある。
どんな質問が飛んで来るかわからないのだから、嘘を吐き通すのが難しくなって来るかもしれない。そういう質問は僕が弾いていかないと。
と、これからのことを考えている内にホームルームは終わって、どっと女子がユヅルの方に押し寄せて来た。
女の子の転入生ということで、男子は興味があるけども近寄れないのだろう。予想以上に女子のスクラムが組まれるのは早かったし。
「永……」
「う、うん。皆、悪いけど、由弦への質問は僕を通してね。あんまりそう囲まれちゃうと、由弦がびっくりしちゃうから」
あんまり効果はないかな、とも思ったけど意外にも女子達は言うことを聞いてくれる。
これにはユヅルの名演も一枚噛んでいるだろう。通学路で言った通り、ユヅルも演技は得意みたいだ。見事なまでの小動物系を演じてくれている。これならクラスメイトに邪魔をされて、春香の監視や、僕の護衛が出来ないことはないだろう。
「好きな食べ物は?」
「何でもよく食べます」
「今付き合ってる彼氏は?」
「いません」
「えっと……好きなタイプは?」
「まだ、恋愛とかあんまりわかりません……」
「家はどの辺り……えっと、それはまだ変わる可能性もあるし、今は言えないかな」
「ごめんなさい。しばらくごたごたしているんです」
住所や、家族構成みたいな適当に嘘を吐いてしまうとまずい質問は上手くごまかして行く。
いざとなれば野宮さんに親役はお願いするとして、あんまり学校生活が長期化するなら、この辺りの設定はちゃんと作っておかないと。
「髪綺麗だけど、何かケアしてるの?」
「別に、普通に洗ってるだけです」
「ツインテール似合ってるね……って、質問じゃないじゃん」
「……ありがとう、ございます」
これには僕も同感。
「あ、そろそろ次の授業だし、また次の休み時間にでも」
――山のように寄せられる質問をさばくのは、意外ときつかった。
少しユヅルと打ち合わせをしておきたかったんだけど、授業中に手紙のやりとりでもすれば大丈夫か。席が隣同士だと、こういうことも出来て便利だ。
『そういえば、トイレとかはどうするの?』
早速ノートを一ページ分破り、ユヅルに送った。
基本的に僕とユヅルはいつも一緒に行動するということになっている。春香のこともあるし、彼女に仲間がいた場合も考慮すれば、自衛の手段を持たない僕が一人になる訳にはいかない。けど、さすがに男女が同時にトイレに立つというのは妙な話だろう。
ちなみにこの春香の仲間というのは、神には限らない。むしろ、神ほど大きな存在であればユヅル達が予め知っておくことが出来るから、人間の協力者がいる可能性をユヅル達は想定している。
『申し訳ないけど、春香が教室に確認出来る場合だけ、あなた一人で済ませて。神は食事も排泄も必要ないから。後、春香が休み時間などに席を立つ場合、私達も尾行する』
少しして、先生が黒板を書いている隙に手紙が返って来る。
とりあえず、春香の監視だけはユヅルがしておいてくれる、ということか。
――しかし、昨日の夜、今日の朝もそうだったけど、神というのは本当に人間とは全く違う生活をしている。
こんなに姿が似ているのに、どうしてもそれが不思議だ。
『じゃあ、ご飯の時は?春香も人間を演じている以上、食べるなり、一時的にクラスから姿を消すなりすると思うけど』
『やはり尾行する。普通に食事をするようなら、私達はそれを見張る。私はわざわざご飯を用意しないから、小食だとか適当に言ってごまかすつもり。隠れるなら屋上かそこらだろうから、そこまで追って行く』
一時も春香から目を離さない、また、僕は絶対にユヅルから離れない。これはやっぱり、基本になって来る。実際、行動に移してみるのは大変だろうけど、これしかない。
人質にされる危険性を考えれば、適当にクラスメイトの見張りを付ける訳にもいかないだろうし。
『あれ、そういえば僕の今日のご飯って……』
そう言えばなかった……な。うん。
『……盲点だった。私に食事の必要がないから、ついうっかり。……さすがに井波も忘れていたか』
今日、体育はなかったと思うけど、これは……中々辛い一日になりそうな気がしてならない。
まるでそれが当然であるかのようにお腹が鳴り出す昼休み。
ユヅルに向けられた質問は全て掃けてしまい、今度は逆に僕が男子に彼女との関係を色々と訊かれる番が来たけど、それもそこそこに僕とユヅルは教室を出た。
理由はもちろん、春香を追うためだ。彼女は意外にも鐘が鳴るとすぐに席を立ち、誰かとご飯を一緒に摂ることを避けるようだ。
神に食事が必要ないとはいえ、食べることは出来るだろうに。
「人間との生活を楽しむために学校に来ているんじゃない、ということでしょう。神は食事の習慣がないから、食事を準備するのが酷く面倒で無駄なことに思える」
自分からその面倒なことをしてまで、完全な人間を演じるつもりはない、か。何となく彼女らしい。
春香は人間を殺すことに抵抗がない、それが今までの僕の考えだった。でも、彼女が信仰を失い、ここまで流れて来たとなると、認識を改める必要がある。
彼女は殺人に抵抗がないんじゃない。むしろ、それを人間への復讐として率先してやりかねない。今までこの町で人が死んだという知らせがなかったことが、すごく幸運なことなんだ。
「……でも、私はそう思わない。食べ物の匂いは、すごく良いと思う」
美味しそう、という表現がなかったのは、食事を摂らないのであれば、そもそも食べ物の味という概念がないからだろうか。
廊下を歩いていると教室の方からして来る弁当の匂いに、ユヅルは少し明るい顔を見せた。
「多分、あの子は漂って来る良い香りにも、視界の隅にある奇麗な物にも気付けないぐらい、余裕がない。そんな時間を長く、長く送って来たんだと思う。そんな怠惰な時間はきっと、生きながら死んでいる感覚になるほど辛い」
僕達が追う春香の後ろ姿は、一度も前以外を見ることがなく、怒っているようでもあり、酷く寂しげでもある。
危険な相手だとわかっているのに、後ろから声をかけ、体に触れたくなるぐらいだ。
ユヅルの言う通りのつまらない人生を送って来た結果なのだろうか。今までの彼女の猟奇的な言葉が、全て虚勢に思えてしまう。この弱々しい背中は。
「こんなことをあなたに言っておいて、おかしいかもしれないけど……。あの子を野放しにしておくのも、人のことを想えばとても出来ることじゃない。もしこのままあの子が人目に付かないような場所に行くのなら」
ここで攻めても良いかもしれない、と続いたのだろうか。最後まで言い切られることはなかった。
言葉が途切れたのは、他でもない。春香の視線がこちらに注がれたからだった。
僕だけではなく、ユヅルも話すのをやめ、彼女に向き直る。
一色即発とは、こういう状況を言うのだろう。
「………………」
とはいえ、今は昼休みの教室前の廊下。生徒の目は無数にある。春香はすぐに前を向き、再び歩き始めた。まるで僕達を誘うかのように、今度は歩調を緩めて。
一度彼女はユヅルに完全に負けている。その事実は僕も見届けていて確実だ。
それなのに、余裕の様子の彼女がどうも気にかかる。けど、無力に限りなく近い生徒がたくさんいる校舎に、彼女を一人にする訳にもいかない。
今度は無駄なお喋りをすることもなく、ただただ彼女の背中を追い、辿り着いたのは予想通り屋上だった。
自分が四ヶ月通った学校でも、こんな所に来るのは初めてのことだ。確か屋上の扉は普通、施錠されているはずだし。
ただっ広いそこにはなぜか入口側に向けてベンチが一つだけあって、春香がそれに腰かけることで僕達と彼女は向かい合う形になった。
「ようこそ。アタシの専用部屋に」
不敵に春香は笑い、足を投げ出すと仰々しく組み合わせる。
身長は低いのに、スカートから伸びる黒のソックス一枚に覆われた足はすらりと長く、肉付きも良い。
まだ幼い女王様。そんな印象を与える妖しげな色気があった。
――けど、それだけだ。客観的に魅力があるとは感じても、僕は別の人のことが大好きだ。これは揺るぎようがない。
「部屋と言うには、少し風通しが良過ぎるみたいだけど?少なくとも、僕はここじゃくつろげないかな」
ユヅルが何か言葉を返す前に言い放った。予想通り、春香は笑顔を歪めて立ち上がる。
「アハハ、昨日はアタシの顔見て真っ青になって逃げ出したのに、今日は女の陰に隠れてそんなこと言うんだ?さっすが、人間は臆病な癖してすーぐ図に乗る。ま、それは昨日一日でよーくわかったけどね。やっぱり、人間なんてこの大地にのさばらせておくのに値しない」
何もない空間から瞬間的に刀が現れると、それが春香の右手に握られる。左手には以前にも見たナイフが現れた。二つの武器を構え、今すぐにでも飛びかかろうと戦闘態勢を取る。
「アンタ、ユヅルとか言ったっけ。人間の過去を変えてあげたり、命守ってあげたり、慈愛深いのは良いけどさ、そいつ等がアタシ達神がわざわざ心を砕いてやるのに値するかって、考えたことある?疑問に思ったこともないんでしょ。アンタ達土地神は世間知らずだから」
「心を砕くのに値するか、か。あなたは今までそんなことを考えていたの?人がこの島に国を作り、生活する二千年の間」
「当たり前でしょ?そりゃ、昔はアタシ達をちゃんとあいつ等は崇めてくれた。それには感謝してあげても良い。だから、アタシは戦に力を貸してあげた。刀の製法、扱い方、戦いの精神。全部教えてあげたわ。そしたら、あいつ等はまた感謝してくれた。すごく嬉しかった。それなのに……。
っ!なんでアタシがアンタにそんなこと言わないといけないのよ!楽してるのに、今も人間に忘れられてないアンタなんかに!」
春香の踏み込みと同時に風が吹いた。僕の目には捉えきれないほどの速度で振るわれた刀が巻き起こした突風だ。
その刃がユヅルに迫る、が最初の戦いの時のように櫂が刀を受け止めた。やはり刀は押し返され、追撃までもやはり同じ軌道で春香の脇腹、剣道でいう胴を狙う。
以前との違いは、それを予測していた春香が飛び退いたこと。それとユヅルがそれを見越して、左肩を狙う攻撃を続けて行っていたことだ。ここでユヅルがリーチで勝っていることの優位が働く。春香の刀の刀身の長さは八十センチ程度、百四十はあるユヅルの櫂よりずっと短い。
単純な回避だけならまだしも、攻撃を避けた後、自分が反撃することの出来る間合いで動くとなると、櫂から逃れようがないことになる。
「アハハッ、一回まぐれで当たったぐらい、何なのよ。どうせアンタはアタシを殺せない。だけど、こっちは一度当てれば致命傷なのよ。――それに、都合の良いことに人質も一緒だしねっ!」
そう言うと、なぜかユヅルを挟んで僕を見て……しまったと思った時には、彼女の手からナイフが離れている。
とてもじゃないけど視認出来ない速度でナイフが飛んで来ていて、気が付けば僕の足を狙っていたらしいそれは、狙いを全く過たずユヅルの足を貫いていた。
「……ユ、ヅル?」
「あなたが無事なら、それで良い。櫂では撃ち落とせない速度だと思ったから、こうしたまで」
僕のすぐ目の前にユヅルがいて、コンクリートの床には赤黒いその血が飛び散っている。
スカート越しに突き刺さったため、布地も血の色に染まり、足を伝う血が白いソックスをやはり汚した。
「ふーん、いよいよ甘ちゃんの本領発揮って感じね。で、次のアタシの刀はどう受けるつもり?その足じゃ跳んだり走ったりして避けられないし、力も満足に入らないでしょ?」
形勢逆転を悟った春香は、肩の痛みを忘れたように刀を弄び、にたにた笑う。
――ついさっき、彼女に同情していた僕が馬鹿に思えて来た。
僕の身代わりになったとはいえ、ユヅルが彼女によって血溜まりを作るような怪我を負わされている。その事実が怒りとも哀しみともつかない感情を湧き上がらせる。
まっすぐ立つことも怪しいユヅルの体を抱きかかえるように支えると、その重さに愕然とした。
人は死ぬと重くなるというけど、今の彼女は正にそれを彷彿とさせるほど、自分の力で立つことが難しい状態だ。
「ユヅル。今は、逃げて……」
「この状態で逃げられると思う?私もあなたも、まとめて串刺しにされるのが関の山。だから、あなた一人で逃げて」
「そんな……!ユ、ユヅルが死んだら、僕はっ…………」
「口封じか何かで狙われると思うけど、井波なら地の利を活かして時間稼ぎぐらいはしてくれる。その間に別な策を考えて」
ユヅルの口調は本当に弱々しくて、今にも崩れ落ちそうな気がする。なのに、最後の力を振り絞るように櫂を杖に一人で立つと、春香を見据えた。
……もし彼女が死ぬようなことがあれば、僕もきっと生きていることは出来ない。
春香に殺されるという意味ではなく、きっと精神的な意味で、だ、
二度目の初恋の終わりが、想い人の死だなんて、耐えられる訳がない。一度は彼女と一緒の学校生活を心から喜んでいたのに……!
「へぇ。アンタ、ここで死んでくれるんだ?じゃあ、その子は見逃してあげても良いわよ。どうせアタシ、あの川を奪えたら人間を皆殺すつもりだったけど、よくよく考えれば一人ぐらい信仰してくれる人間がいないと駄目だしね」
「そんなの、信用出来る訳ないだろ……」
「うっさい。アンタ、自分の立場がわからない訳?アタシが特別にアンタを生かしてあげるって言ってるのよ?泣いて感謝して欲しいぐらいだわ。ま、そいつと一緒に死にたいなら、望み通りにしてあがるけど」
ぎりっ、と歯が鳴る。
釈然としない。理不尽だ。どうしてこんなことになった?
様々なもやもやとした感情と、疑問、怒りが首をもたげる。けど、それを吐露することも出来ない。
僕に出来るのは、もう右足全部を赤黒く染めて、唯一の武器を身の支えにしている大好きな人を置いて逃げることだけだ。
「永。じゃあ……」
ユヅルは僕の方を向いて、なぜか笑顔を見せてくれた。
最期の別れぐらい良い顔で、とでも言うのか……?こんなにも早く、呆気なく、僕は彼女を失う……?
驚くほど素直に自分の死を受け入れているユヅルが、僕には信じられない。それと同じぐらい、ユヅルの見せた笑顔が最初で最後のものだと、深く考えるまでもなく自然に感じてしまった自分が、不思議で仕方がなかった。
――けど、人も神も、きっと最後はこんなものなのだろう。
ドラマみたいな劇的な死なんて現実にはない。死はいつも理不尽に、唐突にやって来るものなんだ。
二人に背を向けた僕は、きっと泣いていた。自分ではもう、実際に涙が流れているのか、涙を流しているのは心なのかわからない。
ただ、今まで味わったことがないほどの悲しみだけがあった。
*
「アハハ、遂にこの時が来たんだ……。あの子も現実味ないだろうけど、アタシだって現実味ないわよ……こんな簡単に全部手に入るなんて。ユヅル、アンタの浅知恵は結局、アタシのプラスに働いた訳ね。感謝してるわよ?」
勝利を確信し、春香は高らかに笑う。
「どういたしまして。お返しに、一つ私達土地神について教えてあげる」
「へぇー。遺言ってトコ?」
相当な量の血を流しながら、由弦もまた余裕の表情をしている。
まるで、これから逆転のカードを切ろうとしているかのように。
「あなたのような戦神は、本来的には土地に縛られない自由な神。ゆえに信仰を失った時、その影響が大きい」
「そうよ。すぐにアタシの力は失われて行った。今の力を取り戻すまで、どれだけ苦労をしたと思う?」
「逆に私のような一つの土地に縛られる神は、容易には信仰を失わない。代わりに、外の世界に干渉するには自分を具現化させる必要がある。そして、その維持には相当な精神的疲労がかかる」
由弦の体が薄れ、向こうの景色が透けて見える。これが、彼女の余裕の理由だった。
「なっ……アンタ、まさかっ!ちょっと、ふざけないでよ!」
「この姿は仮の物。このまま息絶えれば別だけど、いくら傷付こうとも私の存在は揺らがない」
そのまま由弦の姿は消え失せ、後には血溜まりと彼女の足に突き刺さっていたナイフだけが残された。
もしこの血が残らなければ、今日ここであった事件の全ては春香と永の妄想とでも思われていただろう。
逆に言えば、残された血は春香が由弦を傷付けたことの証拠だ。
「何よこれ……!あいつ、こんなこと言ってなかったわよ!?死ね!死ね!死ねぇ!アタシをこけにしやがって……殺す!まずはあのガキを八つ裂きにしてやるっ!」
自分の手に血をにじませることにも構わず何度も床を殴り、再び彼女が顔を上げた時、それは正に鬼の形相だった。
幼さを残した美貌も、お淑やかなお嬢様の仮面も、全て剥がれ落ちてしまっている。
「な、なんだこれは!?」
「はぁ!?何よ、アン、タッ……」
春香が思い切り睨み付けた相手は、彼女にも見覚えのある教師だ。
彼女、そして由弦と永が所属するクラスの担任である数学教師。春香はその名前を覚えていないが、まるでお父さんのような気さくな先生で、生徒の多くが彼を慕っている。
「桜塚、この血は何だ……?それにお前、それ、刀か?」
「な、なんで教師がここに来るのよ!……くそっ、学校で人は殺すなって言われてるし、こんな状況だと暗示もかけれない。あいつ、ここまで読んでたの?クソっ!!」
神はその多くが人間の精神を操る術を持つ。だが、春香のそれは自身の美貌と蠱惑的な魅力ある声を使ったものだ。
相手が同性だと通用しにくい他、雰囲気も大事になって来る。
由弦が残した血の臭いがまだ香り、物騒なナイフや刀が転がっている殺伐とした状況では、どんな美人にも警戒心を抱いて当然だろう。しかも相手は教師。生徒に欲情しかけても、自制の力が働くに違いない。
「どうする……?人質にする……でも、昼休みが終わってもこいつが戻らなかったら他の教師が騒ぐ……あいつを殺せてない以上、事を荒立てる訳にはいかないし、ああもう!!なんでこんなことになるのよ!」
「おい、桜塚。これはお前がやったのか?お前が怪我してる訳じゃないよな……」
「い、いや、違う、んです。私、時川さんに……。そう、あの人がいきなり私に刀で斬りかかって来て、私は逃げ回ったんですけど、時川さんが転んだ拍子に自分の持ってたナイフが刺さって、彼女は逃げました。私は無事だったので良いですけど、警察呼ぶべきですよ。あの人、どこかおかしいんです」
「……そうか」
「はい。全く、転入初日にこんなことするなんて。もしかしたら、私を狙ってやって来たり?……アハハ、そんな訳ないですよねぇ」
その場で浮かんだ嘘を並べて無理矢理説得するも、教師の顔から疑いは消えない。
「それはおかしな話だな。俺はついそこで朝見に会ったんだが、あいつはうわ言のように時川の名前を呼んでいたぞ。それから、お前が刺したともな。……それに、もし時川が血を流しながら逃げたのなら、階段にも血は残ってるはずだ」
「ア、アハハ。きっと、朝見君はあいつに脅されていたんですよ。血も、ハンカチなんかで押さえながら行けば垂れないですし」
「桜塚。お前だな?」
「ち、違うんです!アタシは悪くなくて、全部あいつがやったことで……。ほら!アタシの目を見て下さい。これが嘘を吐いてる人の目ですか?大体、ほら……こんなにスタイルも良くて可愛い人が、先生みたいな良い男を騙そうとする訳ないじゃないですか……?」
制服のボタンを上から順々に外して行き、豊満な谷間を露出させる。それに惹かれそうになるのを教師は理性で抑制するが、春香の方から近寄り、体を押し付けられると、もう逃れようがなかった。
「先生はアタシの言うことを聞いててくれれば良いんです……。先生は今日の昼休み、校舎の屋上で何も見なかった。朝見君にも会わなかった。そうですよね?」
潤んだ瞳で見上げ、腰に腕を回されると、妻子を持ったベテラン教師も頷かさるを得なくなる。それが春香の暗示のトリガーだ。
途端に教師は回れ右をして、職員室へと戻って行ってしまった。
「はぁ……もっと禁欲的な奴かと思ったけど、案外簡単に釣れるエロ親父で良かった……。これで、もし相手が女だったりしたら……」
口封じの方法は、殺害しかなくなってしまう。そして、それを実行に移せば春香はそれ以上学校に在籍出来なくなる。
そうなれば再び策を練り直さなければならない。今回の時点で十分な失策と言えるかもしれないが――。
「でも、何でよ……?今までも土地神を殺って来たし、この町の土地神も相当傷め付けた。なのに、あいつ等は姿を消すことがなかった。どういうこと?」
死よりも重いデメリットがあるというのか、神格の高い由弦だからこそ出来たのか。
いずれにせよ、神の質が異なる春香には答えの出ない疑問だった。
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自分で言うのも限りなくアレですが、楽しい作品だと思うんです。楽しくはあると