【12】
1
華琳は茶を一口啜ると、ほうとため息をついた。
昼下がりの執務室はいつになくさめざめとしている。
長社防衛から半月が経つ。冀州の黄巾征伐は中々ままならないようで、官軍の出動にとどまらず、諸侯には討伐の勅令が下された。
ただ、長社防衛の後見られた大きな動きは、黄巾の南陽蜂起だけであった。冀州は膠着状態であり、潁川においては蜂起前の散発的な活動に戻っている。
碌な指揮官も持たない烏合の衆があちこちで略奪を繰り返している。決してよいことではないが、先日の大規模蜂起を考えれば、そう慌てる事態でもない。
ただそれ逆に不気味だった。
楽進――凪から上がってきた波才と云う白髪の美丈夫。鋭い三白眼のその男は、凪を圧倒するほどの武芸の腕を持ち、また周囲を呑み込むような独特の気配を放っていたと云う。
最も気がかりなのが、その波才が口走ったと云うふたつの言葉。
ひとつは『張角さま』――これは恐らく黄巾党の首魁の名であると思われる。
そしてもうひとつ『太平要術』――波才がこれを保有しているだろうと云う事実は、看過できぬものであった。人心掌握の妖書たる太平要術をもってあれだけの軍勢を集めたと云うのであれば、あれから動きがないと云うのは少しおかしい。
「どう云うことかしら」
華琳は白い顎に手を当て思案する。
ひとつ考えられるのは、軍団を再編成しての長社再侵攻である。現在、皇甫嵩、朱儁が長社に入り防護を固めてはいるが、兵数は二万五千ほどで、やや心もとないようにも思える。黄巾の大規模蜂起を一応成功なさしめたのが一挙に揃った大兵力であるが、それが太平要術によって齎されたものであるのならば、二万五千程度、すぐに呑み込まれてしまうだろう。
次に考えられるのは、南陽への転進。潁川群は諦め、残存兵力を現在冀州に次いで苛烈な戦場と化した南陽へ兵力を向け、速攻で洛陽へと攻め上がる。諸侯の多くは冀州黄巾党の大兵力に矛先を向けている。官軍もそれは同様であるが、ここで南陽からひと息に攻め上がれば、少なくとも官軍は南陽黄巾軍に対応せねばならず、とすると冀州がどこまで支えきれるか、趨勢は分からなくなるだろう。
そして最後に考えられるのは、ここ陳留への攻撃。しかしこれは、あまり現実的ではない。陳留には長社から引き揚げた兵力も併せ五万の兵がおり、また陳留を攻めようものなら、潁川群から皇甫嵩、朱儁が進軍するだろうから、黄巾は背後を押さえられることとなる。
最も現実的なのは南陽への転進。ただ潁川群再攻略の線も捨てがたい、と云ったところだろうか。
「風は、南陽は持たないと云っていたわね」
それには同意する。南陽に攻め寄せている黄巾党は六万――南陽太守の手におえるものでもないだろう。ただ潁川群がいまだきな臭い以上、南陽方面へ軍を送るのは軽挙であろう。長社にもう少し、せめて五万の兵力があれば、こちらも色々動きようがあるのだがと華琳は眉をひそめる。
いや――。
あるいはそれが狙いか。
散発的とは云え、黄巾の略奪事件件数は決して少なくない。兵力の消耗は少ないが、将たちは出ずっぱりであるため、みな疲労がたまっている。
最も出動回数が多いのは虚の隊、それに次いで春蘭の隊である。ここ半月に虚の隊は七回、春蘭の隊は六回、それなりの規模の黄巾狩りに出かけている。
その分、秋蘭や季衣、流琉を温存できているのかと云えばそうでもない。黄巾党の蜂起に従って、それ以外の野盗盗賊の動きも活発になってきている。陳留周辺の治安維持にも思いの外、労力がかかっていた。
――このままではジリ貧かしらね。
幾ら兵数があったとて、将が本来の力を発揮できねば、数を生かすことも出来ない。数だけではどうにもならないと云うのは黄巾党に最も云えることである。だからこそ、そこを突いてきたと云うことか。
いや、そう考えたとしても、どこかやり口として中途半端な感が否めない。長社へ三万の兵をもって速攻を掛けた者のやり口ではないような気がする。
「――ッ」
そこで華琳の思考を走り抜けたものがあった。
「……そう云うこと。太平要術の力を見誤ってたわね」
同時、執務室の戸を『のっく』する者があった。
「風なのです」
「入りなさい」
相も変わらず眠そうな顔をして風が執務室に入ってくる。しかし、その半眼には真剣な色が宿っていた。
「おやおや。華琳さまはもうお気づきみたいですねー」
「ええ。あなたは、そのことを知らせに来てくれたのかしら」
「それもありますがー。少し遅かったかもしれないと云うことを伝えに来たのです」
「――なんですって?」
そこで華琳には、風が云わんとしていることが分かってしまった。そして彼女もわかっている。それが決定的なものではないと云うことを。
まだ十分に打つ手があるのだと云うことを。
「南陽太守戦死。宛が落ちたのです」
2
焚き木がはぜ、火花が散った。
鬱蒼とした森の中、日没を迎えたとなれば、辺りは愈々いっそう暗い。
赤い炎が闇を舐めているのを、虚はぼんやりとした目で見ていた。
「そうか、宛が落ちたか」
「そんでもって、南陽太守は戦死。宛の奪還には皇甫嵩が向かうらしい」
云いながら、慧は虚のあぐらの中で身を丸くしている。風にしても慧にしても、どうしてこう膝の上に座りたがるのか、疑問に思いながら虚は話を進める。
「結局宛にはどれだけ入った?」
「四万五千。凡才太守にしちゃ、よく減らしたってところだけどさ」
「皇甫嵩が連れて行くのは――二万ってところか。長社防衛に追加で一万入る」
「せーかい。おにーさん、あてらの他に細作持ってる?」
「少し考えれば分かることだ」
云ってやると、慧は拗ねたように顔を上げて、その美しい灰色の眸で見上げてくる。
「曹操には知らせなくていいの?」
慧の呟くような声が、首筋を撫でた。
「華琳や荀彧なら今後の展開は読んでいるだろう。よしんばそうでなくても、風がいる。ただ、まあ、一応知らせておいてくれ」
「宛、長社、陳留の三面作戦?」
「ああ。皇甫嵩は一万の到着を待たずに宛に向かうだろう。相手が仕掛けるのは、長社に一万が入ったその直後、長社の体制が整う前だ。ごたごたの内に、一気に長社を包囲する。同時に別働隊が陳留に攻め上がり、宛に籠っていた南陽黄巾軍は皇甫嵩を逃がさぬよう打って出てくるだろう」
「そして同時に冀州鉅鹿での攻勢が激しくなる」
「官軍の出来次第では、上党辺りまでは押されるかもしれないな」
「洛陽でもごたごたしてんのに洒落にならないね」
云いながらも、慧はどこか他人事だった。
「馬元義は失敗したか」
「……おにーさん。何で知ってんの」
「知っているものは知っている。とだけ答えておく。詳細を報告しろ」
「あい。おにーさんの云う通り。馬元義っておっさんが洛陽内での蜂起をはかったんだけど、あちらさんに裏切り者が出てあっさり露見。車裂きになりましたとさ。それから何進が大将軍に任ぜられて、洛陽の防備はがっちがち」
なるほど、と呟くと、虚は懐から自作のクッキーを取り出して慧の口に入れてやる。材料が完璧にそろうわけではないので、虚の思うクッキーとは少々趣が異なった『クッキーもどき』だが、基本的にウケはいい。
「おいし。ね、これちょっと甘くした?」
「口に合わないか?」
「ううん。あてはこっちの方が好きかも」
「そうか。――それで冀州の方はどうなってる」
問うと、慧はクッキーを頬張りながら話し始める。
「名を挙げたい諸侯がこぞって黄巾狩り。袁紹、袁術、公孫瓉、董卓、それから涼州の馬騰。ただ黄巾の数が数だからな。いまいち押さえきれてない。ただ、あてが気になるのは――」
「袁術の客将孫策。董卓麾下の呂布、張遼。馬騰以下、馬超、馬岱」
「だから、なんで知ってんの。孫策、呂布、張遼辺りはまだしも、馬岱なんてそんなにパッとしないでしょーよ」
「知っているものは知っていると云っただろう。だが、それだけいれば冀州は何とかなる」
「でもさ、曹操は冀州に出張らなくていいんかね。いや、三面作戦のことは分かってるけどさ。黄巾の首魁、張角だっけ? そいつ押さえりゃ大手柄なのに」
クッキーもどきを食べ終わった慧が、視線でもうひとつよこせと云ってくるので、一番大きなやつを口へ放り込んでやる。
「華琳が読んでいるのかは知らないが――」
「うに?」
「恐らく、首魁は冀州にいない」
その言葉に慧が黙り込む。
「それは、おにーさんの勘?」
「それもある。だが規模を見れば冀州黄巾党が本隊だと誰しも思うだろう。今回のような蜂起の場合は首魁を討ち取って自然消滅を待つのが基本的な対応だ。とすれば官軍も諸侯もこぞって冀州黄巾党を討ちに来る」
「そこで逆をついての宛、長社、陳留の三面? じゃあ、張角はこっちにいるの?」
「ああ、兵力もそれなりに揃えてくるはずだ。冀州で二十万だったか」
「二十五万。でもまだ増えるね」
「とすれば、こっちは三面合わせて十万、いや十五」
「あてらは皇甫嵩二万、長社一万五千、陳留五万で――八万五千か。やってやれないことはないね」
「ああ。基本的には雑魚の集まりだ。将の質が違いすぎる。ただ――あの波才と云う男。あれが問題だな」
「くさい?」
「ああ、くさい」
答えると、慧は喉を鳴らして笑う。
「で、陳留五万で迎え撃つ?」
「いや、陳留には四万を残し、一万は南陽宛城へ援軍だ。宛で皇甫嵩が破れれば、一気に流れ込まれる」
「長社は?」
「籠城していればしばらく持つ。一万五千で打って出るほど朱儁も馬鹿じゃないだろう」
ぱちりと焚き木がはじけた。
こちらの胸に寄り掛かっていた慧がすっと身を起こす。
夜風に灰色の髪が揺れ、たき火に白い頬が朱に染まっていた。
「あちこちで噂になり始めてるよ、おにーさん」
「俺が?」
「うん。真黒の虚旗を掲げる一団はイカれてるって。無策の突撃ばっかりしてるから」
「確かに、イカれてるかもな」
「はじめの五千。今どれくらい残ってる?」
「四千二百」
「あれだけやって損害八百か。まあまあだね」
慧は淡く笑んでいる。
白と、灰色。
冬空のような少女だなと思った。
「おにーさんが作りたいのはさ」
「ん?」
「強く、何事にも恐れず、そして――一切の戸惑いもなく、微塵の疑いもなく、忠実迅速に命令を実行する兵士」
「そうだ」
「どれくらいできた?」
「強さが、まだ足りないな」
そう云うと、慧は嬉しそうに笑って、唇をこちらの頬に押し当ててきた。
「いつもの、あいじょーひょーげん」
無邪気にそんなことを云う。
「すごいね、おにーさん」
「ん?」
「強さが足りないってことはさ。『強さ以外は足りてる』ってことでしょ」
何がそれほど楽しいのか分からないが、慧は随分とご機嫌だった。
「さて、あてはそろそろ行くよ。おにーさん、今夜はまた山籠もり?」
「ああ。相手の三面作戦はもう少し先になる」
「そなの?」
「大きく動いてくる前に、今起こってるケチな略奪が一旦やむ」
その言葉に慧が神妙な顔をして納得する。
「んじゃその前に、宛への援軍を準備だね」
「そうだ。さっきも云ったが数は一万。陳留には最低四万は残したいからな」
「曹操に伝えとく?」
「そうだな。俺も明日の朝には戻るが」
「りょーかい」
短く云うと、慧は潔く夜の闇に消えた。
※
無音が支配している、と云うわけでもない。
山中と云うのは思いの外音が多いもので、そこに焚き木のはぜる音や自身の立てる音まで加われば、或いは騒々しくすらある。
ただ、そう云った雑音が多い方が、己の内側へ埋没出来る。ゆらゆらと揺れる炎を見ていると、尚更だった。
虚は時間が取れるとき、こうして山にひとりで籠る。勿論、そんな機会はあまりないけれど。
じっとたき火の前に座り、山の景色の中に溶け込んでいく。
その勢いを利用して、己の最奥へと下りて行くのだ。
そして、流れを読んでいく。
虚には軍略の才があるわけでも政略の才があるわけでもない。ただ、そう見えるような才があるだけである。それに身を任せて、静かな時間の中で流れを読んでいく。
黄巾の乱は予想していた通り、と云うより、歴史として知っていた通り、張角が首魁であった。それがどのような人物であるかはわからない。恐らく張梁や張宝もいるのだろう。
虚に歴史の知識があると云うことは、華琳に伝えてはある。しかし、虚の知っている歴史とは完全に同一ではない。例えば長社で包囲されるのは夏侯淵ではなく皇甫嵩のはずだったのだ。他にも細かな差異がたくさんある。
とすれば虚の歴史の知識がどこまであてになるのかはわからない。華琳もそれは承知していて、だから歴史の話はしなくていいと云った。虚も読みに歴史の知識を動員することをなるべく避けている。
だから、相手が長社、宛、陳留の三面作戦を仕掛けてくるなどと云う読みが出てくる。しかし、それは的中するだろう。張角の人となりは知らぬ。ただ、あの波才と云う男が必ずそう持ってくるはずだ。
短い間に読み取った波才の人となり。冷静で理知的でありながら、あの男は己に狂っている。だから波才が打ってくるのは合理的な――奇策。
そこまでは読めている。
しかし、そこまでだ。
そしてそこまでではないのだ。なぜならこうして軽く考えただけで、その三面作戦は防ぐことが出来るからである。
三面作戦の肝は、宛で皇甫嵩を退けること。
だが最も戦力を必要とするのは陳留攻撃。とすれば相手の本隊は陳留に向かうはずである。
だから陳留は四万で防衛し時間を稼ぎ、宛を奪還した部隊で、長社、陳留の黄巾を挟撃すればいい。
南陽太守にてこずる程度の戦力しか宛にはないのだ。四万五千の烏合の衆である。
これが分からぬ波才ではあるまい。
そうすると、恐らく三面作戦にはもう一味ある。
その一味は――そう、再び思考を胸奥の泉へ沈め始めた時。
深山にふさわしくない音が虚の耳を叩いた。ある意味においては、ふさわしいのかもしれないが。
罵声。
怒声。
そして、豪快な破壊音。
「野盗でも出たか」
ただそれにしては妙に喧しい。
恐らく、一方的にやられているのではなく、それなりに応戦しているのだろう。
ともすれば助太刀は必要ないかもしれないが――と、思いながらも虚はその重い腰を上げた。
3
少女は学問を志していた。
日々机に向かい、友と語らい、教えの内容を精密に理解しようと努めてきた。記憶すべきことは全て記憶した。
充実した日々の中で多くを吸収し、大きなものを確かに得ることが出来た。
しかし、それでは足りぬと云うことが分かってしまった。
幾ら学び、理解を深め、論が達者になろうと、所詮それらは平らで綺麗な机の上で醸成されたものでしかなかった。
軍略も政略も、己の中ではすべて『文字』でしかなかった。
そんなものは死んでいる。
否、生きたことなどないのだから、死んでいると云うのは誤りか。いわば生まれていない。母の胎(はら)から出てもいない赤子が、どこぞに仕官し、偉そうなことをのたまったところで、誰が聞き入れようか。
書庫に行けば誰でも見ることが出来る物の『写し』でしかない自分は、人である意味などないではないか。己の中にあるものが『文字』でしかないのなら、己は『本』であればよい。
だから、『人』として己の中に得た物を振るうにはいかにすべきか。これまで机に噛り付いて醸成した自分を『産んで』やるにはどうすればよいか。
見なければならない。
知らなければならない。
経験しなければならない。
軍略が一体どのような結果をもたらすのか。政略が何をどのように変えてしまうのか。それを知らねば己は『産まれ』ない。胎におさまった『本』のままだ。
だからそれを成しうる力を得ねばならなかった。
世をまわるための力を。
戦場を練り歩くための力を。
だから師事した。学だけではない。その学を体現するため、己が先頭に立つ。立つことの出来るよう、力を求めた。
両手に握った白銀色の氣器。
体躯に恵まれぬ少女が目指したのは、俊敏性と氣の習得であった。そして、それは成った。世辞も云えぬ師は、彼に師事した門下のうち、誰よりも少女が優れていると評した。
しかし、師が告げたのは破門だった。
少女には分からなかった。律を破ったこともない、修行を疎かにしたこともない。自分はただひたすらに力を求め、己を高めるために邁進した。
学を実現するには、その際先頭に立つ力がなければならない。そして、それをもって、己の学がもたらした結果をその身に刻まねばならない。禍も福も、すべて受け止めねばならない。
それが出来て初めて、仕官し、意見し、民を導く一翼を担うに足る資格を得ることが出来る。
だから、分からない。師がなにゆえに自分を破門したのか。自分の何がいけなかったのか。それがまるで分からなかった。
そんな時だった。
少女は故郷に帰っていた。豫州潁川郡長社県――それが少女の故郷だった。
これまで少女は旅の中で戦場をまわっていた。
それなりに修羅場を見てきたつもりでもあった。だが、所詮それらは官軍の野盗狩りであって、一方的な勝利の現場だった。
少女はその時初めて体験した。
長社に押し寄せた黄巾党三万――それに包囲される長社の城壁。
比べてこちらの兵力は官軍義勇軍合わせて六千五百。
圧倒的兵力差の中、漂っていたのは敗北の気配。
放たれた火矢によって、燃える長社の街。
死の足音が、目前の曲がり角まで迫っていた。
なんと恐ろしいことか。
敗北のよぎった戦の、なんと恐ろしいことか。
そこで少女は知った。今までの自分がいかに脆弱であったかを。恐らく、自分を破門した師はこう云いたかったのだろう。
負けて来い。
道場や修練場でなく、戦場で死の匂いを嗅いで来いと。少女が更なる力を手に入れてしまう前に、その前に、死に触れて来いと。死に首筋を撫でられて来いと。
泣いて来いと。
きっと師はそう云いたかったのだ。
少女には力があった。頭脳もあった。知識もあった。
しかし、長社では何もできなかったのだ。
恐ろしく、おぞましい、真の戦場では、少女が積み重ねてきたものすべてが役に立たなかった。否、少女にはそれらを役立てることが出来なかった。
それでも立ち上がろうとしたのだ。
何か力になれまいかと思ったのだ。
だから加勢しようと思ったのだ。
するならばと、最も苛烈な戦場と化している西門付近へ、少女は足を向けたのだ。
しかし、そこで目にした光景。
少女の目の前で、門は破られ、黄巾兵はなだれ込んでくる。
第一防柵は脆くも破られ。
そして、第二防柵は突然に表れた敵将の一撃で打ち砕かれた。
恐ろしかった。
その恐ろしい敵将に立ち向かっていった味方の将がいた。けれども、彼女も敵わなかった。敵将は圧倒的な武力で、彼女を打ち倒した。
兵力も将としての力も、相手の方が上。
絶望的な状況。
助けなければならない。そう思った。勇敢に立ち向かっていったあの女の将を助けなければ、きっと殺されてしまう。同じ氣の使い手であるあの彼女を助けなければ。
少女は命じた。己の脚に動けと命じた。
しかし、再びすくんでしまう。
敵の白い将が放った圧倒的な殺気のために。
敵は本気ではなかったのだ。
彼女を打ち倒す最期の一撃の間だけ、本気を見せることにしたのだ。
少女は確信する。相手と自分との圧倒的な差に。勝てる可能性など皆無。彼女を救い出せる可能性など絶無。
だからなんだと云うのだと、少女は己を鼓舞した。
少女には勇気があった。
敵わぬと分かっても進むだけの心があった。
しかし、身体がそれを許さなかった。
動いてほしかった。
せめて、せめて。
今にも命を散らそうとしているあの彼女の前に立ちふさがるくらいのことはしたかった。
けれども少女の身体が心の支配を受け入れる前に、純白の敵将は拳を振り下ろした。
駄目だと思った。
しかし、その諦めを叩き壊した男がいた。
漆黒の男が、立ちふさがっていた。純白の敵将の前に立ちふさがっていた。少女がなそうとしてなしえなかったことを涼しい顔でやってのけた。
それどころか、漆黒は純白を圧倒した。まるで労することなく、叩き伏せて見せた。
今にも命を散らそうとしていた味方の将に優しい笑みを向け、見上げるような黒い馬に乗り、去っていった。
勝利の化身だった。
少女の目にはそう映っていた。
その後、彼が一体何者なのか必死になって調べた。
そして判明した驚愕の事実――彼は軍師だったのだ。陳留の州牧のもとで軍師をしていると云うのだ。
にもかかわらず、戦場の先頭に現れ、圧倒的な力を持つ敵将を、更に圧倒的な力で撃退してみせた。
憧れた。
理想だった。
目指すものがそこにあると思った。
それから少女は彼の動向を探り、彼が戦場に赴いてはその場所を訪れた。彼の戦いを見たかった。
彼の戦場を見るたび、少女は驚かされた。
彼は策らしき策を用いていなかったのだ。
ただ突撃あるのみ。
そして何より彼女を震わせたのは、いつもその先頭には彼の姿があったと云うこと。遠くから眺めていた彼女の眼にはいつも、真黒の巨馬にまたがる漆黒の男の姿があった。
彼はただその身ひとつで馬にまたがり、無手で敵に突撃していく。しかし、それでも彼に敗北はなかった。
敵陣の真っただ中において、彼は完全に無敵だった。
真黒の鬼神。
それ以外に彼を評する適切な言葉がなかった。
そして幾度か彼の戦を見て、彼が突撃ばかり仕掛けるわけが分かってきた。彼の従える兵たちの様子があからさまに変わってきたのだ。
何をも恐れず。
数の差をものともせず。
ただ突撃の命に忠実迅速に従う兵たち。
兵たちの眸には、先頭を駆ける漆黒の男に対する畏敬の念と心酔の光が宿っていた。
彼は、漆黒の彼はこの兵たちを作りたかったのだと、そう思った。
その意図に是非はあろう。事実、策を弄せば防げた犠牲もあっただろう。
しかし、今その兵を作らねばならない。
これから勝つために。
これから守り抜くために。
その覚悟は、誰にも先頭を許さぬ彼の背中に色濃く漂っていた。
彼は常に見せつけていた。
勝つと云うことを。
守ると云うことを。
殺すと云うことを。
そして――なにも恐れぬその魂を誇示していた。
少女は見れば見るほど憧れた。
彼しかいないと思った。
真黒の虚旗を掲げる彼しかいないと思った。
だから少女は急いだ。
いち早く彼のもとに行きたい。
彼のもとでなら、きっと自分は『産まれる』ことが出来る。
彼は陳留に戻っている。
もっとも近道なのは陳留南の山を越えていくこと。迂回などしていられない。早く早く、彼に会いたくて仕方がなかった。
だが、その焦りは彼女を縛ることとなった。
――囲まれている。
山中、木々が夜風にざわめく。
両手に握った二丁の氣器を構える。白銀色のそれらは引鉄を引くことで、指先に充填した氣を結集して放つための機構である。
――ただの野盗、と云うわけでもなさそうですね。
焚き木の火は随分と前に消していたはず。とすれば、それを目印に近づいてきたと云うわけではなさそうだ。
偶さか見つかったか。
あるいは――。
そう思った時、声が響いた。
「探しましたよぉ」
妙に甲高い男の声だった。
少女は警戒心を跳ね上げ、声のした方へ向き直る。
月の明るい晩――にやにやと嫌な表情を浮かべた男が、美しい月明かりの中に立っている。実に歪な光景だった。
少女は目を見張る。
頭髪、眉毛をすべてそり落としているその男の肩には、黄色い布。
「――黄巾党」
「我々も随分と有名になったものですねぇ。いやいや、はっは。どーも、南陽黄巾軍にて指揮官を務めております、わたくし、韓忠と申します、はは」
慇懃無礼に礼をとりながら、男はそう名乗った。
「あー、いえいえ、名乗っていただかなくっとも結構ですよ。まぁね、わたくしどもは見ての通り怪しい一団ですからねぇ。初対面で名乗っていただけるとはこちらも期待していませんよぉ。ほっほ、夜分にいきなり取り囲んできた相手に尽くす礼などないでしょうからねぇ」
いやに耳障りな声で男は続ける。
「ですがね? わたくしどもはあなたを同志としてお迎えしたいと思っているのですよ、ひっひ。『戦場見物』がご趣味とは中々粋でいらっしゃる」
「――ッ!」
「まあ、あつーい眼差しでご覧になっていたのは、わたくしどもではなく別の御仁のようですがねえ」
男――韓忠は小首を傾げながら、白い歯を見せつけて笑う。異様に発達した犬歯がこちらの嫌悪感を逆なでた。
「その白銀色の氣器。少々見覚えがございましてねえ。その、わたくしも少々氣を嗜むものですから」
そう云った刹那、韓忠の指先から禍々しい氣が立ち上る。灰土色をした醜い氣。それがこの男の内面を露骨に表現していた。
「私が同行するとでも?」
少女は鋭く云い放つ。
「して頂きますとも。なぁに、少々歩けなくなったところで人手はたくさん連れてきていますから、心配なさらずとも結構」
喉を鳴らして笑う韓忠に少女は白銀の氣器を向け、引鉄に指を掛ける。
「師父はそれをあなたに譲られた――なるほど、そのわけが分かります」
「……」
「その力強い眸に宿るのは、正義の光、勇気の煌めき。若く瑞々しい、命の輝き。いいですねえ」
韓忠は一歩踏み出す。
「欲しいですねえ、あなたが」
背筋に寒いものが走る。
「さて、おしゃべりはもういいでしょう」
韓忠のその言葉を皮切りにして、周囲を取り囲んでいた男たちがゆるりと下りてくる。
二十はいるだろうか。
「これが最後です。わたくしも手荒な真似はしたくありませんので。来ていただけませんか、我々と共に」
「お断りします」
その言葉に韓忠が苦笑した。
同時、韓忠の身体から氣が大量の放出される。やはりこの男、只者ではない。
少女も遅れず、白銀色の氣器に気を充填する。
そして、戦舞は始まった。
刹那――韓忠が跳び、空中で平手を付き出す。
すると、拳から雨のように氣弾が降り注ぐ。
しかし少女は二丁の氣器から氣弾を放ち、自身に向かう敵の氣弾を弾き飛ばした。
「ほう」
着地しながら、韓忠は感心したような声を上げる。
「やりますねえ、流石、その氣器を持つだけのことはあります。ひっひ」
「退くことをお勧めします。あなたでは私を倒せない」
「かも知れませんねぇ、ほっほ。ですが――」
瞬間、韓忠がこちらへ跳ぶ。
「それでも退くわけにはいきませんねえ!!」
少女は韓忠の一撃を左へ跳んで躱す。
韓忠の拳は先ほどまで少女がいた地点に突き刺さる。同時、その地点からあたりかまわず氣弾が飛び散った。
「――ッ!」
韓忠の氣弾は彼の味方を巻き込み周囲の木々を傷つける。
無差別に放たれる氣弾を、けれども少女は冷静に撃ち落としていく。
「まだまだぁ!!」
韓忠は地に拳を突き立てたまま、両足を振り上げ、そして地面に向けて踵落としを放つ。同時、衝突した韓忠の両の踵から再び無差別な氣弾が多数放たれる。
だがそれも少女は己の氣弾で防ぐ。
韓忠の猛攻。
少女の堅防。
韓忠は仲間を巻き込むのもかまわず、当たりかまわず大量の氣弾をまき散らしていく。ひとつひとつは大した威力ではないものの、一発受けると、以後連続で受けてしまうことが目に見えているため、すべて回避しなければならない。
少女は氣弾の対処に手いっぱいで中々攻勢に出ることが出来ない。時間を稼げばどうにかなるかとも思ったが、これだけ大量の氣弾を放っているにもかかわらず、韓忠からは氣の切れる気配がなかった。
むしろ、このままでは少女の方が氣の枯渇を迎えてしまうだろう。
意を決した少女は、白銀の氣器を強く握り、前進の構えをとる。
そして、地を蹴った。
韓忠に向かってではない。
右手に立つ太い木の幹に向かってである。
そして、その幹を蹴りつける。
次も、その次も。
乱立する木の幹を蹴っては、韓忠の周囲を高速で移動する。
その動きに、一瞬、韓忠の動きが止まる。
飛び回る少女の残像が韓忠を幻惑する。
瞬間、少女は連続跳躍を止めることなく、跳躍軌道の中心にいる韓忠へ向けて、氣弾を連射した。
一瞬で、韓忠は無数の氣弾に取り込まれ。
そして、全弾が韓忠に命中する。
着弾の轟音。
少女は跳躍をようやく止め、地に降り立った。どれだけの時間戦っていただろうか。相当の氣弾を消費した気がする。
息が切れている。
しかし、韓忠は地に倒れ伏していた。
最後の攻撃、韓忠は一挙に十二発の氣弾をその身に受けたのだ。
立てるはずがない。
立てる――はずが。
「……まだ、立ちますか」
「が、は――立ち、ますとも。はァ……流石です、ね。ひ、ひっひ。一瞬、の機転。効、果的な幻惑。虚を見逃さぬ優れた眼――あなた、武人と云うよりも……くっく。まあいい、でしょう」
韓忠はふらつく足で立ち上がる。
「まだやるつもりですか」
「はっは、勿論ですとも。今の技を見てますますあなたが欲しくなった。我々は人手不足でしてねえ。ひとりでも多くの同志が欲しい」
「私があなた方と志を同じくすることはありません」
「ひっひ、そのようなものはどうにでもなるのです。あの方の、あの本があれば、ね」
それに――と韓忠は続ける。
「こちらには加勢が来たようです」
「何をぐずぐずしている、韓忠」
背後から降ってきたのは大岩のような声。
少女は慌ててその場から飛び退く。
見れば、厳しい顔の大男が経っている。腕に、黄色い布を巻いて。
「くっく、趙弘さん。彼女中々手ごわいですよ」
「ふん。このような小娘ひとりに何を云っているか」
丸太のような腕を回しながら、趙弘と呼ばれた男が唸るように云う。
「これを連れて帰ればいいのだろう。ふん、さっさとするぞ。張曼成さまがお待ちだ」
云い終わるや否や、男はその巨躯からは考えられぬ速さでこちらに迫る。
少女は趙弘の振り上げた拳を躱すべく、後ろに跳ぶ。空振る拳、しかしそこからは死を感じさせる風圧が放たれた。
岩のような拳が地を砕く。
韓忠のような氣の使い手ではないが、趙弘と云うこの男、韓忠よりも――強い。
少女はすかさず氣を充填する。
しかし、刹那、背後に感じた気配に、思わず身を屈める。
そこには韓忠の放った蹴りが空を切っていた。
慌て距離をとるも、更に迫るは韓忠の氣弾による追撃。
少女はそれを氣弾で打ち落とす。
だが、その隙に繰り出される趙弘の剛撃。
緊急、それを紙一重で躱す。
ふたりの連撃に息をつく間もない少女は、跳躍ひと息ふわりと舞い上がり、木の枝に飛び乗った。
けれども――趙弘は信じられないことに、その拳でその木の幹を思い切り殴りつけた。すると、木はめきめきと嫌な音を立てて傾き始める。
慌てて飛び降りる少女。
しかし、その落下地点には――韓忠の氣弾が迫っていた。
不可避の一撃。
しかし。
「二対一は見逃せないな」
立ちはだかったのは、夜陰に溶け込むような漆黒の男。
男は韓忠の氣弾を、虫でも払うかのように裏拳で叩き潰した。
「……新手、のようですねえ」
韓忠の表情がなくなる。
「ふん。構うまい」
趙弘は突進を開始、漆黒の男に一撃を放つ。
「へ?」
漆黒の男は少女を抱えるとひらりとその一撃を躱す。
「趙弘さん、そこまでですよ」
「なに?」
韓忠が趙弘をたしなめる。
「ひっひ。曹孟徳が軍師、虚さまとお見受けします」
「……」
「くっく。趙弘さん。この方は波才さまのお気に入りなれば、我々に手出しの余地はありません」
「ぐむう。――致し方あるまい」
趙弘はその巨躯を揺らしながらこちらに背を向ける。
「俺が逃がすとでも思っているのか?」
漆黒の男が云う。
「はっは。その娘、相当の氣を消費しています。これ以上無理をさせぬ方が良いかと思いますがねえ。ひっひ」
韓忠は嘲るように笑う。
「さて、では我々はこれにて失礼すると致しましょう。なぁに、虚さま。互いに戦場に立つ身。どこぞで相まみえることもありましょう。それでは」
ふたりの黄巾幹部はそのまま夜の闇に消えて行った。
先刻までの騒動が嘘のように、辺りは静寂を取り戻す。
「あ、あの――」
少女は虚の腕の中で声を上げた。
「とりあえず、ここを離れるか」
虚はすっと、静かに視線を巡らせた。
周囲には――巻き添えを喰らって死んだ黄巾の部下たちの骸が、無残に転がっていた。
4
新しい焚き木をくべると、乱雑な扱いに抗議をするように、炎が一度激しく揺れた。
たき火をはさんで向かいに座る少女は、こちらをじっと見つめたまま唇を引き結んでいる。
美しい少女だった。
白い頬、大きな眸、背丈は風より少し高いくらいか。
白と藍を基調にしたワンピースのような服は、肩と背中が大きく露出しており、丈も短い。すらりと伸びた白い足はひざ上までの黒い長靴下に覆われている。
色の淡い髪は、これも白と藍を基調とした帽子の中へ仕舞われているので、どれほどの長さなのか判然としない。
「あの――」
意を決したように、少女が口を開いた。
「ん?」
「先ほどは、その、助かりました」
「ああ――」
虚はじっと揺れる炎を見ながら、視界の端で少女を捉えていた。
長社防衛線でも似たような展開があったことを思い出す。あの時は楽進と云う少女だったが――こうして他人の戦いに割り込んでいくのは、どこか水を差したようで、今ひとつ気分の良いものではなかった。
だが、そうは云っても、見殺しにするわけにもいかず――中々に難しいものである。
「えっと――」
「虚だ。好きに呼ぶといい」
短く名乗る。
「あ、その――」
少女は両手を膝の上で組み合わせると、視線を彷徨わせた。何をそんなに緊張することがあろうか。そう考えて、慧の言葉を思い出した。
真黒の虚旗は噂になっていると。
ならば少女は自分を恐れているのだろうか。それとも軽蔑しているのだろうか。無策に突撃を繰り返す、愚かな指揮官として。
「虚、さん?」
窺うような視線をこちらに送ってくる。
「白か」
「へ?」
「下着が見えている」
「わ! わ!」
途端に慌てて、少女は衣服の裾を押さえる。
眩しい脚の付け根が視界から失われてしまった。
「下着丸出しでは野盗に襲われても文句は云えないぞ。自分が見目良い女子だと自覚した方がいい」
「……え?」
「まあ、冗談はこれくらいにして」
「冗談……ですか」
少女は目に見えて肩を落とす。
「取り敢えず、名を聞かせてくれないか」
「あ! す、すみません。私、その――」
「落ち着け。何も取って食いやしない」
「うぅ……はい」
少女は鼻をすすりながら頷く。
そんな彼女を見て、虚は傍らに置いた黒い外套を放り投げた。それは上手く少女の肩にかかる。
「肩と背中を露出するのも止した方がいいな。こちらとしてはいい眺めだが、風邪を引くぞ」
特に白い脇がいいとは云わない。
「これは、その、氣を練るのに最も効率のいい衣装で」
「ならば今だけでもその外套を纏ってるといい」
「重ね重ねすみません」
「――で、名は?」
いそいそと外套を身体に巻きつけながら少女は一度深呼吸をする。彼女にとって、名を名乗ると云うのはそれほどに大事なのだろうか。
「私は徐庶――徐元直と云います」
その答えに、虚は微かに眸を揺らす。徐庶までも女人であったことに驚いたわけではない。
徐元直。
云わずと知れた、軍略家政略家である。しかし、彼女が先ほど見せたのは明らかに武人の動き。
「元直は、軍略家じゃないのか?」
その問いに徐庶が目を見開く。
「……どうして。私、どこにも仕官したことないのに」
「どこにもないのか?」
「はい……ありません」
徐庶の目に動揺が浮かぶ。
虚の知る歴史では徐庶は一時期劉備の元にいて、諸葛亮を彼に紹介していたはずだった。やはり、知っている歴史どおりではないと云うことか。それともこれから劉備の元に行くことになるのか。
「あの、どうして私が、その」
「軍略家だと分かったのか。戦っているところしか見ていないにもかかわらず」
「――はい」
「知っていた。俺は元直のことを知っていた、としか云えない」
そう答えると、徐庶の目はどんどん丸くなり、その表情は喜色に彩られている。
「あ、あの! 虚さん!」
「なんだ」
「私、その――あなたを追いかけてここまで来たんです」
この娘、何を云っている――虚は胸中で顔をしかめた。
「私、学問を志していました。学院で一生懸命勉強して――でもそれだけじゃ駄目だって、すぐに気付いたんです」
少女は静かに話し出す。
「軍略が一体どのような結果をもたらすのか。政略が何をどのように変えてしまうのか。自ら先頭に立ってそれを知らなければならない。自ら先頭に立つだけの力がなければならない」
「それで、氣か」
「はい。私には膂力がありませんから」
苦く笑んで徐庶は云う。
「あなたは、私の理想です」
「先頭で戦う軍師――そんなものは軍を混乱させるだけだ」
「だから、虚さんは程昱さんを麾下においてるんですよね」
「……調べたのか」
「とっても有名です。少なくとも陳留では」
「そうか」
徐庶は力強く頷く。
「虚さん、私をあなたの下においてください」
思い切り頭を下げた少女に、虚は僅かに困ったような視線を向けた。
徐庶は、自分を理想なのだと云う。
彼女は見誤っている。
虚と云う人間を誤解している。
徐元直が理想とするような人間ではないのだ、虚と云う男は。
「お願いします!」
可憐な少女は更に頭を下げる。白いうなじが見え、そして帽子が地に落ちる。色の淡い長い髪が露わになる。それはたき火の光を浴びて美しく輝いていた。やはり、相当に美しい少女だった。
この少女に現実を教えてやるのは容易い。
しかし、それを告げたところで、彼女は受け入れぬ。虚は思った。
彼女は虚の幻影を狂信しているのだ。
そして狂信は、ひとつふたつの言葉程度で払拭できるものではない。
それを叩き潰すのは、厳然たる現実のみ。
現実に晒され、彼女が自分で悟らなければならないだろう。
虚は自分の理想ではないと。
それまで、彼女はひたすらに虚を追いかけ続けるだろう。
「わかった」
ならば現実を見せてやろう。
彼女が虚と云うがらんどうに抱いた妄念を叩き潰してやろう。
それまで徐庶を近くにおいておくとしよう。
いずれ、彼女が虚に幻滅するその時まで。
そして、自由になった彼女は、またどこかへ飛び立っていくだろう。
「――!」
弾かれたように徐庶が顔を上げる。
「すでにひとりいるんだが――まあいいだろ。元直を俺の副官とする」
「ふ、副官!? ですか?」
「不満か」
「い、いいいいい、いえ。う、嬉しいです!」
両手をわたわたと振りながら、徐庶は慌てだす。
「明日の朝、山を下りて陳留に戻る。数日で出陣となるだろう」
「は、はい!」
あどけない美貌に、子供のような笑顔を浮かべて徐庶は頷く。
「あの――」
「ん?」
「神里(かむり)と云います。神に里と書いて」
「いいのか?」
「勿論です。いえ、あなたには真名で呼んで欲しいから」
夢を見るように徐庶――神里はそう云った。
「良い名だ」
正直にそう思う。
眼前の少女の美しさは淡く光を放っていて、『神々しい』ほどであったから。
「北郷」
「……え?」
「北郷一刀」
そう云うと、神里は分からないと云う顔をする。
「昔の名だ。真名を受ける返礼として教えることにしている。そっちで呼んでもかまわない」
神里の目が真剣なものになる。
真名の返礼――その重みを分からぬわけがないと云うことなのだろう。
「でも、今は」
「ただの虚だ」
「では……虚さんと、呼ばせてもらいます」
跳ねるように云って、神里は背筋を伸ばす。
「それではただいまより、曹操軍軍師虚さまの副官として着任いたします!」
「励んでくれ」
苦く笑いながら云うと、神里が固まる。
「ん? どうした」
「えっと、初めて、その――虚さんの笑ったところ、見ました」
「そうか。――では、俺からもひとつ、神里副官」
「は、はいっ」
神里は再び居住まいを正す。
「また下着が見えている」
彼女の頬が赤いのは、きっとたき火のせいだけではあるまいと、虚は再び苦く笑った。
《あとがき》
ありむらです。
まずは、ここまで読んでくださっている読者の皆様、コメントを下さったかた、支援をくださった方、お気に入りにしてくださっている方、メッセージをくださった方、えっとそれから……兎に角応援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
皆様のお声が、ありむらの活力となっております。
今回は考察編と、徐庶さん加入編。長社出身と云うことで加入させてみようかなあと。
んで思いつきで氣の使い手にしてみました。まあ、これから氣の使い手を出すかと云われればたぶんもうないと思います。凪、神里、韓忠さんで終わりかと。
読んでいただいてもうお分かりかと思いますが、神里の武器は銃ですね。氣弾撃ちます。豪天砲があるんだから氣銃があってもいいだろうと思いやってやりました。
でっかい氣銃二丁を操る美少女。どっかで見たことある気もしますが気にしません。
神里ちゃんの立ち位置は虚の信望者です。慧とはまた少し違います。
さていつかコメントを頂いたのですが――虚さん、一刀さんの麾下に入るのは風以外皆オリジナルかと云えばそうではないです。
すみません汗。
さて、では今回はこの辺で。
コメント、感想、支援などなどじゃんじゃんください。
その全てがありむらの活力に!
次回もこうご期待!
ありむら
Tweet |
|
|
63
|
2
|
追加するフォルダを選択
独自解釈独自設定ありの真・恋姫†無双二次創作です。魏国の流れを基本に、天下三分ではなく統一を目指すお話にしたいと思います。文章を書くことに全くと云っていいほど慣れていない、ずぶの素人ですが、読んで下さった方に楽しんで行けるように頑張ります。
魏国でお話は進めていきますけれど、原作から離れることが多くなるやもしれません。すでにそうなりつつあるのですが。その辺りはご了承ください。
あと私の描く一刀さんは悪鬼と相成りました。皆様が思われる一刀さんはもういません。ごめんなさい。
それでもいいじゃねえかとおっしゃる方。
ありむらは頑張って書き続けます。どうぞ、最後までお付き合いの程をよろしくお願い致します。
続きを表示