No.465444

落日を討て――最後の外史―― 真・恋姫†無双二次創作 ⅹ

ありむらさん

独自解釈独自設定ありの真・恋姫†無双二次創作です。魏国の流れを基本に、天下三分ではなく統一を目指すお話にしたいと思います。文章を書くことに全くと云っていいほど慣れていない、ずぶの素人ですが、読んで下さった方に楽しんで行けるように頑張ります。
魏国でお話は進めていきますけれど、原作から離れることが多くなるやもしれません。すでにそうなりつつあるのですが。その辺りはご了承ください。
あと私の描く一刀さんは悪鬼と相成りました。皆様が思われる一刀さんはもういません。ごめんなさい。
それでもいいじゃねえかとおっしゃる方。
ありむらは頑張って書き続けます。どうぞ、最後までお付き合いの程をよろしくお願い致します。

2012-08-05 15:43:58 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:10476   閲覧ユーザー数:8199

【ⅹ】

 

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「おかえりなさい。蝶々仮面のおにーさん」

 

 眠ってしまった華琳を城に連れて帰ると、門をくぐったそのすぐ先で夏侯淵が待ち構えていた。穏やかに笑んだ彼女に華琳を預けると、彼女は何も云わず礼をするように暫し瞑目し、そして何か云いたげに微笑んでその場を去っていった。

 青白い月が出ていた。

 風はあまりなかったが、かと云って過ごしづらい夜と云うわけでもない。今夜はよく眠れそうだと、根拠のない思いを胸に抱きながら、一刀は部屋に戻った。

 そんな彼を待ち受けていたのが、この一言だったのだ。

 部屋の寝台にあぐらをかいて微笑んでいる少女がひとり。彼女を見て、そして彼女が一刀に向かって放った言葉を聞いて、先ほどの夏侯淵の表情を思い出す。

 夏侯淵は云っていた。

 盗賊退治の時に保護した少女がひとり、一刀に会わせろと云って城に居ついてしまっていると。

 つまり、眼前で笑んでいる少女こそがその居坐り娘なのだろう。

「どうして俺の部屋に?」

「男前のおねーさんに案内してもらった」

 夏侯淵を評してそう云っているのだろうが、云われた本人が聞けばきっと複雑な顔をするのだろうな、と思う。

「城に居ついてるんだって?」

「そそ。おにーさんに会うまでは死んでも帰らないぞーってさ、壁に噛り付いてたの」

 愛らしく小首を傾げて、少女はそんなことを云う。

「どうして――」

「どうして帰らないのか。そりゃあ、おにーさん。あてには帰る場所もなけりゃ、帰る気もないからに決まってる」

 月明かりだけが差し込む薄暗い部屋、一刀は取り敢えずライターで行燈に火をともした。ただ少女はライターを目の前にしてもまるで驚いた様子を見せなかった。

 部屋に明かりがいきわたり、少女の姿が鮮明に浮かび上がる。

 腰のあたりまで伸びた艶めく淡い灰色の髪。長い睫毛を備えた美しい二重瞼の下には、好奇心の光に彩られた猫のような灰色の眸。やや太い眉はけれども丁寧に整えられ、白絹のような肌と共に、気品のある顔立ちを一層引き立てている。けれども気さくな彼女の言動から、彼女は自身の纏う上品な気配を活かす気がまるでないのだと、悟ることが出来た。するりとこちらの心に入り込もうとする彼女は、まさに抜け目のない猫のよう。

 ただ――。

「あれ、あの時こんなやついたっけなー。そう思うおにーさんなのでした」

 楽しげに笑って、少女は一刀の思考を先取りする。確かにその通りなのだ。この少女ほど美しい娘であるなら、見覚えがないと云うこともないはずなのだが、生憎覚えがない。こんな娘があの砦にいただろうか。

「あの時、あては痩せてやつれて酷い有様だったし、おにーさんは『人質の中身』なんかに興味なかったでしょ? 盗賊をぶっ叩いて、あの砦から蹴りだして、あてら人質がまとめて無傷なら御の字。ひとりひとり顔を覚える必要なんてないしねー。盗賊が逃げ出した時点で、お仕事しゅーりょーって感じだったんじゃない?」

「……」

「ちなみにあては、あの時今にも犯されそうになってた悲劇の美少女」

 少女は軽口をたたきながら何やらおかしな恰好をとる。それが彼女の中にある『美少女のポーズ』なのだろうか。

「取り敢えず、名前を聞こうか。俺は――」

「北郷一刀。へへ、そんな顔しないでよ、おにーさん。あの男前のおねーさんに聞いただけだから」

「それで、おまえの名前は?」

「ないよ」

 事もなげに、少女は答える。まるで「今日のおやつは?」と云う問いに対する「ないよ」であるかのように、軽い調子だった。

「ないよ。名前」

 再びその事実を告げる彼女の微笑みからは、いまいち感情が読み取れなかった。

「あては捨て子でさ。拾われた村の村長が育ててくれてたらしいんだけど、あてが自分の名前を理解する前に死んじまったみたいで。それからは村長の奥だって女が親代わりみたいなもんだったんだけど、呼ばれるときは『おい』か『おまえ』の二択だったし。あ、たまに『あれ』とか『これ』とか『それ』の時もあったかな」

 彼女は昨晩の夕食を思い出すかのように、語る。

「まあそれでも飯は、残飯もどきだけど食えてたし? 奴隷同然にこき使われたのは、別にいいとしてもさー。最後は痺れ薬盛られて、米や酒と一緒に盗賊に差し出されたんだぜ?」  

「それで、帰る気も場所もないと」

「そうそう。と云うわけで、おにーさんにもらってもらうことにしました」

「……なに?」

「邪魔なことはしないけど、必要なことは何でもしてくれる――さり気なく、ことごとく、尽くす女。おにーさんが助けてくれたおかげでまだ処女だし。胸はあんまし大きくないけど、形色張り艶は文句なし。お尻と脚には自信あり! こんなに都合のいい女いないよ? お買い得だぞこのやろー」

 ふざけたような調子で云うと、娘は寝台を下りてこちらに歩いてくる。

「おにーさんはこの陣営に加わって日の浅い軍師」

「……」

「必要なのは、使える手足」

 そう告げる娘の目には静かな光がともっていた。

「あて、ただの村娘じゃないよ」

「――そうか」

「うん。ねえ、おにーさん。あてのこと、使ってみない?」

「力のない手足はいらない」

「じゃあ、これでどう?」

 そう云うと、娘はためらうことなく、するりと衣服を脱ぎ、その白い裸身を晒す。灰色の髪を揺らし、こちらに華奢な背中を見せつける。

 そこで一刀はふと気が付いた。

 彼女の右肩の辺りに、火傷の痕がある。

 否。

「それ、は――」

「ふふ。これだけでもあてが使えるってわかったでしょ。これ、知ってるのはおにーさんだけだよ」

 少女は裸身を隠そうともせず、すっと一刀に身を寄せる。娘の身体の凹凸が、部屋の明かりに晒されて、その白い肌に妖艶な陰影を刻む。

「なにが望みだ」

「ん?」

「見返りに何を求めるのかと、それを聞いてる」

 小柄な娘は一刀の腰にそっと手を回し、胸に顔をうずめて云う。

「名前、おくれ」

「――名前」

「うん。それから、おにーさんの心のはじっこに、あての席をちょうだい。それだけあれば何もいらないから」

 少女は静かにそう云った。

「なぜ――」

「おにーさんだけだったから。あてのために身を挺してくれたのが」

「そうか」

「そう」

 腰に回った少女の手に僅か力がこもる。

「ちょうどいい」

「へ? なにが?」

 こちらを見上げて首をかしげる少女あたまをそっと撫でる。

「ついでだと云ったんだ」

 そう云っても、少女はよく分からないようだった。

「それから、さっそく仕事がある」

「ほんと? わくわく」

 白い歯を見せる少女の耳元に、顔を寄せ、一刀はそっと囁いた。

 下準備は済ませてある。

 華琳には一応報告せねばならないだろうが、彼女も許してくれるだろう。

「で? あては何すればいいの?」

「ん――ちょっと手伝いを頼みたい」

「わかった。何でもどーんとこい!」

 ふ、と苦笑し、一刀は少女の灰色の眸を覗き込み、声を伏せてこう呟いた。

 

「天の御遣いを、殺してしまおうと思うんだ」

 

 

 

「今日で謹慎は終わりだ」

 

 そう告げられたのは一週間前のことであった。謹慎が解かれたあかつきには、一刀に何か料理をふるまって、詫びと礼に替えよう――そう思っていた流琉であったが、この一週間、ほとんど一刀に話かれられずにいた。

 理由はいくつかある。

 一刀は滅多にひとりでいることがなくなった。

 一番多く見かけるのは、程昱――風と共にいるところである。風は正確には一刀の麾下の軍師であると云うことになるのだから、仕事の都合上一緒にいることも多かろうが――多すぎる気がしなくもない。このふたりが共にいるとき、その周囲にはそのふたりしかいないように見えたりもする。ただ、一刀と風がそう云った関係なのかと問われれば、流琉の女の勘は否と答えるだろう。だからこそあのふたりが不思議に見えて仕方がない。仕事だけの関係でもなければ、男と女の関係でもない。あのふたりがつくりだすのはまさに『不思議空間』であってそこに余人の入り込む余地はない。

 次に多いのは夏侯淵――秋蘭である。一刀と秋蘭、冷静で大人な雰囲気を持つ彼らが並んでいると、似合いのふたり過ぎて近寄るのが躊躇われる。自分が加わることによって絶妙に保たれていたはずの『大人空間』が害されてしまいそうな気がして、気が退けてしまうのである。

 そして意外なことに、荀彧――桂花も一刀と共にいることが多い。男嫌いで有名な桂花であるが、人物の好悪と仕事に必要な人材か否かは、別物であるとわきまえているらしい。このふたりは共に軍師であるからだろう、彼らのところから聞こえてくる話は、ややこしく複雑で流琉に理解出来そうなものは少ない。一刀と桂花が作り出すのはまさに『難解空間』であって、そこに加わっていけるのは、風か秋蘭か華琳くらいのものだろう。

 と云うわけで、『不思議空間』『大人空間』『難解空間』に阻まれているがゆえに、一刀に近づくことが出来ない。これが流琉が彼に話し掛けられずにいる第一の理由である。

 ふたつ目の理由は、北郷一刀が変わってしまったこと。否、きっと彼にとっては、元に戻ったと云った方がいいのだろう。

 依然感じたような『作り物めいた』感覚が、彼から全く発せられなくなった。自然体になったのだろう、彼は。

 ただ、そんな彼が流琉にはどうしようもなく遠く感じられてしまうのだ。

 声を掛ければ届く距離にいたのだとしても、彼はそれよりもずっと遠くにいるような気がしてしまう。自分のすぐ前に立っていながら、彼が全く別のところに立っているような錯覚を覚えてしまうのである。

 そして、決定的な理由が――。

「これは、典韋さま」

 視線の先で開いた扉から現れた男がこちらを見て、礼をとる。

「こんにちは、万徳さん」

 万巧賢(ばんこうけん)――一刀の副官としてつけられた男である。精悍な顔立ちをした彼は、真面目で硬派、北郷一刀の副官としては適任であるように思われた。

「虚(うつろ)さまでしたら、執務室に」

 こちらの考えを見透かしたように万徳は云う。

 彼の言葉に、最後の理由があった。

 北郷一刀は、北郷一刀でなくなった。

 五日前の朝議で華琳より発表されたことである。

 

 彼、曹孟徳の『従僕』北郷一刀は『虚』と名乗る。北郷一刀と云う名には真名と同じ重みを与え、許しなく呼ぶことを禁ず。

 

 流琉は驚いた。まずは華琳が一刀のことを『臣』ではなく『従僕』と呼んだことに。彼女は自分の臣に対してそのような呼び方を用いたことがない。その場にいた夏候惇――春蘭、秋蘭、荀彧の反応を見てもそれは明らかであった。一刀だけが臣ではなく、従僕と称されたのである。

 そして、最も驚いたのが、虚と云う一刀の新しい名。

 うつろ――内部がからであること、空洞、からっぽ。

「典韋さま?」

 万徳が訝るようにこちらを見る。あまり表情に変化のないこの男には珍しい顔だった。

「あ、いえ。大丈夫です」

 適当にごまかしてその場を離れる。万徳は別段追求してこなかった。

 やはり、一刀には会えない。否、今は虚――だったか。

 兎に角、今の彼を何と呼んでいいのかが分からないのだ。

 今まで通り『兄様』と呼びかけていいものか。

 それとも『虚さん』とでも呼べばいいのか。

 まるで分からない。

 風は『お兄さん』と呼んでいる。

 秋蘭は『虚』と。

 桂花は『ちょっとアンタ』と呼んでいるところしか見たことがない。

 春蘭は一刀と話しているところを見たことがない。

 華琳は『一刀』と呼んでいる。

 肝心なのは季衣だ。

 思い出すに、一刀が虚になってから、季衣が彼のことを呼んでいるのを聞いたことがない。あの娘は一体彼のことを何と呼んでいるのだろう。彼がいつもの通り『兄ちゃん』と呼んでいたのなら、自分も『兄様』と呼んでいいはずだ。そんなことを思う。

 一刀の部屋から離れ、回廊を行く、朝の日差しは白く爽やかで、午後からの調練は頑張れそうな気がする。

 その前に、厨房に行かなければならない。

 話し掛けられないではいるのだが、料理の練習は怠らない。食事はなるべく厨房を借りて自分で作るようにいている。

 流琉は気を取り直すように厨房に向かう――その途中。

 中庭から、勇ましい声が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声に、流琉の足が自然と中庭に向かう。

 重量感のある轟音と鋭い剣戟――中庭で鍛錬をしていたのは季衣と春蘭だった。春蘭は今朝方盗賊討伐から戻ったばかりの筈であるが、その動きに鈍さがないあたり、疲れを知らないようだ。

 一段落ついたのか、流琉が近づくとふたりは笑んで迎えた。

「流琉ー」

 季衣が能天気に手を振り、

「三日ぶりだな」

 と春蘭がいつもと変わらぬ様子で声を掛けてくる。

「おかえりなさい、春蘭さま。近頃多いですね、盗賊」

「そうだな。一様に黄色い布を付けていると云うのが何とも――」

「何とも……?」

「趣味が悪い」

 春蘭の言葉に流琉が苦く笑う。「気味が悪い」だとか「不穏」だとか、そう云った感想が出てくるのかと思ったのだが、冷静に考えてみると、春蘭が賊ごときにそのような感想を抱くはずもない。

 ただ気味が悪いのは事実だった。

 あちこちに現れる黄色い布の盗賊――黄巾賊。

 散発的に表れる彼らが一様に黄色い布を身に着けていると云うことは、当然彼らは同一の集団に属していると云うことになるのだろうが――。

「流琉は何してたの?」

 季衣が小首を傾げて尋ねてくる。

「これから厨房に行こうと思って」

「何か作るの? あ、もしかして天の料理?」

 季衣の眸が輝いている。

「うん、そうだよ。食べる?」

「もちろん! 春蘭さまも一緒にどうですか?」

 季衣が問うと、春蘭は申し訳なさげに眉をひそめた。

「すまん、もう済ませてしまった。是非とも相伴にあずかりたいのだが、あまり食べすぎると太ると云って、秋蘭が怒るのだ」

 その言葉に、流琉は季衣と共に小さく笑う。

「今日は一緒できんが、今度は絶対にいただくとしよう」

「はい!」

「じゃあ、私たちはこれで」

 挨拶をすると、春蘭に見送られながら季衣と共に中庭を離れた。

 爽やかな風の中、回廊を季衣と共に進んでいく。

「ねえ、今日は何作るの?」

「うーん、どうしようかなあ。卵がたくさんあるし……」

 流琉は少し首をひねって、

「うん、『おむらいす』にしてみようかな?」

「なにそれ」

「炒めごはんを卵で包んだ料理」

「うわー! おいしそうかも!」

 季衣が飛び跳ねながら云う。

 苦笑しながら、流琉は彼女のそんな様を見ていた。季衣に食べさせるとなると相当の量を作らねばならないのだが、季衣ほどおいしそうに食べる娘もそういない。おいしそうに食べてもらえることが、作り手としては最もうれしいことであり、次はどんなのを作ってやろうかと云うやる気にもつながるのだ。

「あれ――?」

 唐突に、飛び跳ねていた季衣が動きを止める。そのまま駆け足で回廊を抜け、建物の中に入っていってしまう。

「ちょっと待ってよ季衣!」

 流琉も慌てて追いかける。

 すると、季衣が走り出したわけが分かった。

 甘く、香ばしい匂いがするのだ。誰かが厨房を使っているらしい。 

 ――もう、季衣ったら。食べ物のこととなるとこれなんだから。

 困ったように微笑むと流琉は季衣の後を追って、厨房に入った。何やら楽しげな鼻歌が聞こえるが、それは季衣のもではなくて――。

「ねえ、兄ちゃん! 何作ってるの?」

 その声に、流琉の足が止まる。

「ん? クッキーって云う、天の国の菓子だな。うまいぞ、焼き立て」

 季衣の隣には男がひとり。名を変えてから、彼の目印でもあった白い服を着なくなってしまった男が、前掛けまでして厨房に立っている。

「あ、流琉! ねえ見て! 兄ちゃんすごいよ!」

 けれども流琉はその場から動けなかった。

 一週間の間下手に話せなかったばかりに、ここぞと云う今、どうすればよいのかが分からない。

 たじろいで視線を彷徨わせていると、彼の方がこちらを見ているのに気が付いた。

 淡く笑んでいる彼は、やはりどこか遠いところにいるような気がした。

「流琉もひとつどうだ?」

 彼はそう云いながら、焼けたばかりの『くっきー』を更に並べ始める。見れば、犬や猫と云った動物を象った菓子で、とても可愛らしい。

「ね、兄ちゃん! 食べていい?」

「ああ、いいぞ」

 彼の返事が早いか季衣の行動が早いか、季衣は素早くクッキーを摘まむと口に放り込み、そして言葉にならぬ声を上げた。どうやら相当においしいらしい。

 となると、流琉にも俄然興味が湧いてくると云うもの。

「流琉もおいで」

 その言葉にゆっくりと近づいていく。これでは人を警戒する野良猫のようではないかと自分で思いながら、それでも流琉の足取りは中々素直になってくれなかった。

「あの、に……」

「に?」

「に……にい、さま?」

 恐る恐る呼んでみる。季衣も『兄ちゃん』と呼んでいたのだ。大丈夫だろうと思う。

 しかし――そう呼んだ途端、彼の表情から感情が読めなくなった。

 流琉の身体が固まる。

 なにか、いけなかっただろうか。

「流琉――」

 彼は静かに云うと――淡く笑む。

「変な気を遣わせたな」

「へ……?」

「俺のこと、どう呼ぼうか分からなくなったんだろう?」

 核心を突かれ、流琉はこくこくと頷く。

「いつもどおりでいいよ」

 その言葉に、胸につかえていたものが取れたような気がした。

 そして気が付く。彼が遠くに立っているように感じたのは、自分のせいだったのだと。自然体になった彼に対して、腰が引けていたのは自分だったのだ。

 気分が軽くなると、視野は広がり、思考は軽くなるもの。流琉はひとつ気付いたことを口にする。

「兄様、さっきまで執務室にいたんですよね?」

「あれ、よく知ってるな」

「万徳さんに会って」

 とすると、やはり少しおかしなことが出てくるのだ。

 ――お菓子だけにね、なんちゃって。

 馬鹿なことを考えるのはやめて、流琉は話をもどす。

「いつ、作ったんです? このお菓子。出来立てみたいだし」

 そうなのだ。

 彼が先ほどまで執務室にこもっていたのなら、いま『出来立て』のこの菓子を作る暇がないはずなのである。

「ああ、今朝は早く目が覚めてね。仕込みはその時に。火加減はさっきまで別の人に見てもらっていたんだ」

 事もなげに彼は云う。

 別の人とは誰だろう。

 流琉には心当たりがなかったが、侍女の誰かだろうか。もしかしたら彼は、侍女の誰かとそう云う関係になっていて――。

 流琉の妄想は止まらない。

「流琉?」

「へ、は、へ? な、なんですか兄様」

「隙あり」

 彼の言葉と同時。

 口に菓子が放り込まれる。 

 甘味と香ばしい匂いが口の中に広がる。確かに、相当に美味しく、また知らない味だった。

「すごい……兄様、料理できたんですね」

「ああ、バイト先――じゃなくて、天の国にいた頃は料理屋で働いていたことがあったんだ」

「ほんと? 兄ちゃんすげー」

 彼の言葉に納得する。

 彼の記した『天上料理白書』は実にすばらしい出来だったが、あれに書かれていた料理の多くは、彼の働いていた料理店の菜譜にある料理なのかもしれない。

「ねえ、兄ちゃん」

「ん? なんだ?」

「流琉がね、今からお昼ご飯作ってくれるって!」

 季衣が元気よく云う。

「ちょ、季衣!」

 勿論、今更止めてももう遅い。

「へえ、俺も一緒していいか?」

 構わない。

 むしろ歓迎したいのだが――。

 どうして今なのだろう。

 彼に料理をふるまうのであれば、もっと色々凝った準備をしたかった。

 ただ、この場で彼を拒絶するなんてできるわけがないし、したくもなかった。

「勿論、いいですよ!」

 元気に云ってみる。

「お、なんだか期待できそうだな」

「ふふ、任せておいてください!」

 ぐっと力こぶを作って彼に見せると、彼は目を細めて笑う。それはどこまでも優しい笑顔で、やはり彼は遠くになどいなかったのだと、実感させられる。

 だから、少し恥ずかしいけれど。

 ここで云ってしまわねばならない言葉がある。

「兄様?」

「ん?」

「その……ごめんなさい。ありがとうございました」

 一瞬、彼はわけが分からないと云う顔をした。その顔がどこか可愛くて笑ってしまいそうになったけれど、先にしなければならないことをする。

 たどたどしい言葉でこちらの意図を説明すると、彼はそっと抱きしめて頭を撫でてくれた。

 もうそれだけで、なにも云えなくなってしまう。

 出会ってからまだ短いと云うのに、先ほどまで彼を遠くに感じていたのに、今はとても近く、頼もしく感じる。

 しばらくそうして撫でてもらっていると、隣から季衣の不満の声が上がって、結局、ふたり一緒に撫でてもらうことになった。

 このあと作る『おむらいす』はきっと、今までで一番の出来になるだろうと思った。

 

 

 

 

 初めて入るわけでもない部屋に入って、けれども確信した。

 椅子に腰かけ、こちらをその澄み切った眸で見ている男を見て、悟った。

 彼に、掌握されている。

 自らの奥にある者を見透かされ、握られている。

 そんな感覚が体中を駆け巡る。

 そもそも彼とは、立っている場所、見ている景色が違うのだと、思い知らされる。

 そこには心優しい青年の姿も、勇敢な軍師の姿もなかった。あれらの姿は仮初めのものであったのか、それともただ自分が見ていた幻想であったのか。

 そのような思考も、この場では碌々意味を成してはいなかった。

 兎に角判明していることは、彼が上でこちらが下であると云う事実のみ。

 向こうはこちらの最奥を見抜き、いつでもそれを斬断できる。本能が警鐘を鳴らす。逃げろ、ではなく、従えと、己の根源が訴えかけてくる。

 彼は超越者であり、絶対者なのだ。

 人は、生まれた瞬間は、純なる存在である。

 八人兄弟の長兄として、生まれたばかりの弟たちの姿を見てきた万徳はそう知っている。

 先日陣営に加わったこの青年も、そうだったはずだ。

 生まれたばかりの彼は、真っ白な存在だったはずだ。

 それが、どうしてこうなってしまったのだろう。

 何が彼を『こんなもの』にしてしまったのだろう。並みのことでは、人間は『こう』ならない。

 これが彼の本性か。

 これが彼の自然体だと、包み隠さぬ姿だと云うのか。

 これまで多くの人間に出会ったが、こんなものに出会ったことがない。

 夏候元譲のように、常態ですら闘気を纏っている、と云うわけでもない。 

 曹孟徳のように、こちらを圧倒する王気を纏っていると云うわけでもない。

 ただ、今、彼の放っているものは、こちらの最奥から大切なものを容赦なく奪っていく。室内の気温が徐々に下がっていくような錯覚を覚える。指先がかじかんでくる。

 立っていられない。

 対抗できない。

 それは――そう感じるのは、彼に従っていないから。彼と対等に対峙できる存在でもないのに、彼に服従せぬからだと万徳は考える。

 だから万徳はためらうことなく彼の前に進み出ると、その場に跪き、臣下の礼をとった。

 刹那、彼を襲ったのは陶酔感であった。

 まるで、極上の美酒の中に浸されたよう。

 そして理解する。

 この男は王なのだ。

 ただ。

 慈しむ王ではない。

 導く王でもない。

 統べる王でもない。

 彼はそこに在るだけの王。

 臣がこうべを垂れるのに、彼のいかなる所作も必要としない。

 彼に敵対する者は、瞬時に己の死姿を幻視するだろう。

 そして彼に下る者は、何の疑いもなく、意図の欠片もなく、彼の前へ当然のごとく平伏する。それが世の摂理なのだと、信じて疑わぬ。本能の根底から支配される。それを望み、喜ぶ。

 その喜びこそが、万徳の感じている陶酔感の正体であった。

 そして万徳は知る。

 だからこそ、彼は王たろうと思わぬのだと。

 彼は他者を掌握すると同時に、己をも掌握している。

 彼は知っているのだ。己が王であって、王でないことを。

 ゆえに、彼は覇王に下った。

 事のあらましは知らない。しかし万徳は思う。事の本質はそこにあるのだと。王たり得ぬ王が、王たり得る王に下った。それが、事態の核心である。

 今、我が陣営にはふたりの王がいる。

 万徳はその『おぞましい方』にこうべを垂れている。これから彼のものとなる。否、彼のものとなることが出来る。

「久しぶりだね、万徳」

 気安く、友に語りかけるような声。

 その声はさながら、空の青さのよう。

 しかし、その優しげな声の奥に響く、冷え切った『何かしら』の残滓を万徳は聞き逃さない。

 聡く、敏感な万徳は、ここで確信する。

 彼の優しさと恐ろしさは、全く同一の根源から発生している。

 ただ――例えば、愛と云う根源から喜びと憎悪が発生すると云うのとは、全く異なる。そう云う次元ではない。

 これは一本道だ。彼の喜怒哀楽とは切り離された、全く別のところを走っている一本道。

 それこそが彼の異才であり、優しさと恐ろしさの根源。否、こちらが『優しさと受け取っているもの』と『恐ろしさと受け取っているもの』の根源なのだ。

「はっ。健やかなるご尊顔を拝し、恐悦の極み」

 だから、顔を上げることもない。

 この青年と自分との距離は絶対に埋まることはない。そのことを理解したから。それは臣下が王に対して抱く心情としては当然のものなのかもしれない。ただ、通常の臣下が通常の王に抱く心情と、万徳が眼前の青年に抱く心情は、言葉に出来ぬ決定的な差異を有していた。

「堅苦しいのはよしてくれ。得意じゃない」

「は。心がけます」 

「で、だ。用事は分かるな?」

「曹操さまより預かりになられた兵五千について」

「そうだ」

 短く云うと彼は――『虚(うつろ)』は腕を軽く組んだ。そう、彼はもう『北郷一刀』ではなくなっていた。その変化を表しているかのように、彼の顔色は酷く白い。それはまるで――。 

「取り敢えず立ってくれ万徳。話しづらい」

「は」

 万徳はためらうことなく従う。

「兵は」

「は。親衛隊より千。夏候惇隊より二千。夏侯淵隊より二千。計五千。荒くればかりにございます」

「――そうか。装備は」

「二日後には調練用のものも含めて全てそろうかと」

「調練用のものはしばらくいらんだろうな」

 声音を変えぬまま、彼はそんなことを云った。

「は?」

「しばらく調練は必要ないだろう。黄巾の賊を相手にすればいい」

「恐れながら。先ほど申し上げました通り、集められた五千は荒くればかり。調練なしでは、碌に統率することも――」

「必要ない」

 虚は断ずる。

「陣形も、策も必要ない。ただ突撃させればいい」

「しかしそれでは被害が――」

「黄巾相手に死ぬ兵など、遅かれ早かれすぐに死ぬ。必要なのは強者のみ」

 その答えは、どこか予想していた。

 万徳は副官として必要なやりとりを行ったにすぎず、そして到達する結論に変わりが生ずるはずもなかった。

「装備はなるべく急がせてくれ。俺の予想ではそろそろ――」

 そこで虚は言葉を切った。

 その理由は、部屋に飛び込んできたもうひとつの声であった。

「流石の読みだね、おにーさん」

 風通しのために開けられていた窓から、するりと猫のように娘がひとり入ってくる。

 灰色の髪に灰色の眸、白絹のように白い肌――少女は躊躇うことなく虚に歩み寄って、その膝に座った。

「早かったな、慧」

 慧(けい)と呼ばれた少女の不遜な態度に、虚は咎めることもない。恐らく、程昱と同じく彼のもっとも近しい部下のひとり――程昱については、部下と云う表現がうまく当てはまらぬようにも思うが、万徳は虚と程昱の詳しい関係は知らない。もっとも、己が踏み込むべき領域ではないことは重々理解していた。

「ねえ、おにーさん」

 そして、慧の言葉は唐突であり、端的であった。

 

「黄巾賊が冀州で蜂起したよ」

 

 夕食の献立を知らせるかのような調子で、慧は報告した。

「動いたか」

「数は数十万って話。それに元々、黄巾が出てたのは冀州だけじゃない。この辺りもしょっちゅう、うろついてやがったみたいだし、南陽の方も喧しいからな。連動してあるよ、こりゃ」

 その言葉に、虚の眸はただ静かだった。  

「荀彧の細作も掴んでいるだろうが、一応華琳に報告しておいてくれ」

 虚がそう云うと、慧は素早く虚の頬に口づけた。

「なんだ?」

「あいじょーひょーげん。報告はしとく」

「報告が終わったら、洛陽の細作を倍に増やせ。それから、おまえは陳留(ここ)に残れ」

「あい。おにーさんの傍にいるよ」

 慧はそう云って再び窓から、猫のように出て行った。

「虚さま――」

「ああ。一週間と少し前になるか。俺の子飼いの細作部隊をあれに任せているんだ。涼伯(りょうはく)と云う。知っておいてくれ」

「は。突然のことに挨拶も出来ませず――」

「あれは万徳のことを知ってる。これで万徳も涼伯のことを知った。それでいいだろう」

「は」

「それよりさっきも云ったが装備の準備を急がせてくれ。慧の云う通り、事は冀州だけに留まらないだろう。すぐに出ることになるかもしれない」

「分かりました。すぐに。――それにしてもついに一斉蜂起ですか」

 万徳は呟くように云う。

 このところ散発的に起こっていた黄巾賊による略奪に、曹操軍は振り回されるように対応していた。

 まるで本拠地も、首領もわからず、討てども討てども、次から次に現れる、形のない靄のような――黄巾はそんな賊だった。

 それが今回、一斉蜂起したと云う。

 つまり、本陣を敷き、そこに首領がいると云うことではないか。

 しかし、虚は大して表情を変えることがなく、冀州黄巾党蜂起の知らせにも全く動じる様子がなかった。

「虚さま――」

「ああ。さがっていい」

「は。それでは」

 万徳は礼をとり、虚の執務室を後にした。

 その直後、視線の先で何やら戸惑うようにしている少女がひとり――典韋である。

「これは典韋さま」

 万徳は先んじて声を掛けた。

「あ、万徳さん」

「虚さまでしたら、執務室にいらっしゃいますよ」

 そう云ったものの、典韋はどこか上の空だった。

「典韋さま?」

「あ、いえ。大丈夫です」

 典韋はそのまま走り去ってしまう。

 仕事中であると云う虚を気遣ってのことだろうか。

 しかし――あのように純朴で幼い少女が虚に懐き、彼を訪ねてくる。彼女は虚のあの恐ろしさを知っているのだろうか。

 もしかしたら虚は、見せていないのかもしれない。

 必要がないからか。

 それとも彼女を気遣う優しやゆえか。

 そのどちらも正解であり、どちらも誤解なのだ。なぜなら前者も後者も、きっと根源を共有しているだろうから。根っこのところでは、恐らく同じことなのだろうから。

 万徳は視線を上げて歩き出す。

 仕事が増えた。

 世情は悪化の一途をたどるばかり。

 ただ彼の心の中では、それらを憂う感情は端へ追いやられている。

 今、彼の心を占めているのは、本当の意味で虚へ仕えることになったと云う高揚と、云いようのない誇らしさだった。

 

 

 

 

 日が暮れてからの招集、碌なことではないだろう。

 荀彧――桂花は速足で玉座の間に向かっていた。

「桂花ちゃん、そんなに怖い顔していると、若いうちからしわだらけになってしまうのですよー」

「風、アンタはもう少し緊張感を持つべきね。黄巾賊冀州蜂起の知らせが入ったのが昼間よ? そしてこの招集。どう考えても」

「そですねー。どう考えても、この辺りで連動して動いた集団がある。お兄さんの予想がぴたりと当たりましたけど、まさか今日の夜にいきなりとはー」

 相も変わらず眠たげな半眼を前に向け、風はのんびりとした掴みどころのない口調で云う。しかし、彼女もこちらに遅れず速足である点、心うちは真剣なのだろう。

「それでもまー、このところ黄巾賊の略奪が散発的に起こっていたにもかかわらず朝廷は知らんふりでしたからねー。ここで一発やらかしてくれた方が、朝廷も動くんじゃないですかねー」

「遅いってのよ! まったく。使えないったらないわ。それにここのところ散発的に暴れてくれていたおかげで、みんなヘトヘトなのよ。すぐに動かせる部隊は――」

 思考を巡らせながら回廊を抜け玉座の間に至ると、そこには華琳は勿論、春蘭、秋蘭、季衣、流琉、そして虚(うつろ)が揃っていた。

「遅くなりました」

「ましたー」

 桂花は急ぎ華琳の傍らに立つ。風は顔色一つ変えぬまま、虚の傍らに。

「春蘭」

 華琳が促す。

「冀州の蜂起と連動して、潁川で黄巾の賊徒が蜂起した」

 季衣、流琉が顔色を変えるが、他の面々は冷静なものであった。

「後手に回っているわね……桂花、すぐに出せる兵はある?」

 華琳が問う。

「春蘭の隊は休息を取らせていますし――虚、秋蘭の部隊も物資の搬入が明日の払暁になると。出られるのは当直の隊だけになります」

「……そう。間の悪いことね」

「はい。これは散発的な略奪ではなく蜂起。規模がこれまでとまるで違います。相手は今までのような烏合の衆ではなく、恐らくそれなりに統率された集団であるはず。万全の態勢で臨みたくはありますが」

 そうも云っていられない――その言葉を桂花は呑み込む。云うまでもないことだ。

「私が当直の兵を率いて参ります」

 申し出たのは春蘭だった。

 だが。

「だめよ春蘭。あなたは今日戻ったばかりでしょう。無茶はさせられないわ」

「しかし――」

 春蘭は食い下がろうとする。

「よしなさい春蘭。云ったでしょう。なるべくなら万全で臨みたいと。アンタ、このところ出ずっぱりじゃないの。ちょっとは考えなさい」

 桂花はそんな春蘭を窘めた。

 春蘭は気に食わないとばかりに反論しようとするが、それを先んじた声があった。

「わ、私が行きます!」

「……流琉」

 流琉は幼い眸に、これまでにない力をこめて主張する。彼女の頭の中にあるのは、恐らく初陣での失敗。それを晴らしたいと云うのだろう。

 それに彼女が用意しているのは感情的な理由だけではない。謹慎のこともあり、将の中で今最も休息をとれているのが流琉なのである。彼女の眸はそのことも併せて、自分に向かわせろと云っている。

「――いいでしょう、流琉。あなたが先発隊として、当直の部隊を率いなさい」

 流琉の表情に覇気が満ちる。

「はい!」

「補佐には秋蘭を付けましょう」

「へ?」

 流琉は素っ頓狂な声を上げる。

「おや、私では不満か?」

「いいいいい、いえ! その、逆じゃないのかな、って」

 慌て始めた流琉に、華琳は淡く笑む。逆、と云うのは、むしろ自分が補佐役なのではと云いたいのだろう。

「秋蘭もここのところ忙しくて疲れているから、指揮は任せたくないのよ。ただ、撤退の判断は秋蘭に任せるから、流琉は絶対に従うこと」

「はい! 秋蘭さま、よろしくお願いします!」

「うむ。よろしく頼む」

 流琉と秋蘭が頷きあう。基本的に冷静なふたりである。小規模にならざるを得ない先発隊を任せるには適任であろう。

「本隊もすぐに追いつくわ、無茶だけはしないこと」

 華琳が流琉に云いつける。

「はい!」

「秋蘭も頼んだわよ」

「御意」

 先発隊が決まると、華琳の視線がこちらを向く。

「桂花、風。後発部隊の再編成を急いでちょうだい」

「御意」

「はーい」

「春蘭。払暁なんて待ってられないわ。今すぐ物資を取りに行って。明日の朝には出発するわよ」

「わかりました!」

 華琳の鋭い支持が飛んでいく。

 しかし、次の指示でその場が硬直する。

「一刀は流琉の代わりに、本隊に加わりなさい」

 その指示は――。

『流琉の代わり』に――と云うことは。

 虚に、『武官』としての働きをせよ、と。

 そう云う、ことなのだろうか。

「華琳さま、恐れながら」

「桂花。――大丈夫なの」

 そこで、桂花は次の言葉を呑み込んだ。

 主がそう云うのだ、これ以上詰めることはない。

「華琳。万徳を連れて行く」

「わかったわ」

 虚の言葉に華琳が許可を出す。

「今回の本隊は私が率います。――解散ッ」

 最後の言葉に、皆が慌ただしくその場から姿を消していく。

 戦場へ、死の狂演へ赴くために。

 

 ここに、黄巾の乱が勃発し、世の流れは、乱世へと大きく傾いていくこととなる。

 

 

 

 

「指揮官殿、指示を」

 飛び込んできた男がそんな馬鹿なことを訊いてきた。

 指示。

 この場で指示など、必要あろうか。

 だから、その馬鹿な部下を切り捨てた。否、斬り捨てた。

 鮮血が舞い、その一滴が頬に跳ぶ。部下は地面に転がると、痙攣し、そしてすぐに動かなくなった。

 高台から見下ろす。

 そこには三万の同志たちがいた。

 男は立ち上がり、彼らの前に姿を現す。すると先ほどまで波を打っていたざわめきが、すっと静まった。

「諸君。――同志諸君」

 男は朗々と語りだす。

 三万の聴衆はそれにじっと聞き入っていた。

 男の声は大聴衆相手だと云うのに、不気味に浸透していく。聞き漏らすものは誰もいない。

「ついに立ち上がる時が来た。ついに舞い上がる時はきた」

 刹那、男は大仰に両手を広げ、衆目を己へ引き付ける。

 同時に、三万の心をわしづかみにした。

「大願成就の時が来た! 息の詰まるような諸君らの夢が、血涙をこぼすような我らの夢が、姿かたちをもって顕現する時が来た!」

 男の弁に熱がこもる。

「拳を握れ! 声を張れ! この世の果てまで届かせよ! 赤は黄に変わり、火は土に変わるッ!」

 男は腕を振り、黄巾の聴衆を鼓舞する。

 そう、必要なのは、指示などではないのだ。

 

「天すでに死すッ! 黄天まさに立つべしッ! 歳は甲子に在りて、天下大吉ッ!!」

 

 瞬間、歓声が上がる。

 大地を割り、大気を震わせんがばかりの大歓声が上がる。

 士気は上々。

 死をも恐れぬ、狂信者の大集団が誕生した。

 男はそれに満足し、踵を返す。

 聴衆の眼前を離れ、奥に、天幕の中に入っていく。

 そこには三人の娘。

 男は顔をゆがめる。

 ――薄汚い女ども。

 男は女と云うものを忌み嫌っていた。男は女と云う存在を嫌悪していた。己が女の腹から生まれたのだと云う事実すら忌まわしく思っていた。

 しかし、今、この三人娘と云う道具を手に入れ、そして大願成就が果たされようとしている。

 ――贅沢は云ってられんか。

 三人娘はこちらを睨んでいる。

「あんた、何やってるのか分かってるの」

「分かっているぞ、張宝。冀州の同志はすでに立った。南陽もじきに立ち上がるだろう。我々も進軍する。手始めに、潁川群を手に入れ、陳留を叩く。そのうち南陽を落とした同志が洛陽へ攻め上がるだろう。我らも陳留を落としたのち、洛陽に向かう」

「狂人! みんな私たちの歌が好きだって集まってくれた人たちなのに……」

「そうだ。あの狂信者どもは朝廷を倒し、おまえらのために国を作るため必死なのだ。崇高な志じゃあないか」

「何が崇高よ! いろんなところで略奪させてるくせに」

「大願成就のため、必要な物資を鹵獲させているだけだ」

 張宝が歯噛みする。

 しかし次に声を発したのは張梁だった。

「無理ね。潁川は別にしても、たった三万で陳留を落とすなんて無理」

「ふ。誰がたった三万だと云った?」

 男は不気味に口角を釣り上げる。

「陳留には八万で攻める」

「なん、ですって――」

 驚愕して声を漏らす張宝。

「あんた、八万なんて」

 その問いに答えるように、男は懐から一冊の本を取り出した。

「太平要術(これ)があれば、何の問題もない。すでに残り五万の手筈はついている」

「あんた――返しなさいよッ!」

「馬鹿な、真価を知らぬ貴様らに、これを持つ資格などない」

 男は酔ったように語りだす。

「貴様らはこれを集客手引書とでも思っていたらしいが、まるで違う。これはな、人心掌握のための妖書。洗脳の手引書だ」

 そう云うと張梁は何かに気付いたかのように顔色を青くした。

「くくく、気づいたようだな張梁」

「なんだってのよッ!」

「ふ、姉の方は理解が追い付かんか」

 そして男はおぞましい真実を口にした。

「黄巾の狂信者どもは別におまえたちの歌のために集まったわけではないのだ。ただ、太平要術の人心掌握術に踊らされただけ。文字通り狂わされただけ」

 

「おまえらの歌には、微塵の価値もない」

 

「ありもしない価値をあるものとして尊び、貴様らのような汚らわしい偶像のために、吹けば飛ぶような夢のために、命をかける。――違うな、命を投げ出す」

 男は鼻で嗤う。

「滑稽だ」

「――あんた」

「俺は同志諸君の夢を喰らい、俺の大願を果たすのみ。そのために、貴様らも遠慮なく使わせてもらう」

「協力なんてすると思ってんの?」

「拒否する余地があるとでも? 何なら黄巾党は別に皆殺しになってもいいのだ。太平要術があればいくらでもその『替え』を作ることができる。しかし、おまえらの歌にひかれた『と思い込んでいる』あの哀れな『同志諸君』は死ぬ。惑わされているとは云え、おまえらのようなしがない旅芸人を支える愛すべき支援者じゃないのか?」

「……人質ってこと」

「ふ。事が終わるころには、何人残っているのか分からないがね。おまえたちが協力的であればあるほど、多くの『同志諸君』が生き残るだろう」

 張宝が刺殺さんばかりの視線を向けてくる。

「あんた碌な死に方しないわよ。――波才」

 呼ばれた男は張宝を見下す。

「別段、死に方にこだわりはない」

 そう云い残し、波才は天幕を後にした。

 結局最後まで、張角は会話に入ってこなかった。

 あの女にはすべて分かっていたのだろう。もはや自分たちの力では状況を脱することが出来ないと云うことを、理解していたのだ、あの女は。

 だから何も口をはさまなかった。

 惑わされたとは云え、やはりあの女たちにとっては、黄巾賊は愛すべき支援者。その支援者をひとりでも死なさぬため、張角はひたすら考えていたのだ。

 ――腐っても長女と云うわけか。

 それでも愚かしい女に違いないと、波才は嗤う。

 

 ――さて、血霞の狂宴を始めようじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 虚は城壁の上に立っていた。

 見下ろす先には、物資の到着を待つばかりとなった兵一万が整列している。

 黄巾の乱がおこった。

 冀州、そして豫州・潁川――そしていずれ。

「南陽も、すぐだな」

 呟くように云うと、背後から声が掛かった。

「お兄さんもそう思いますかねー」

「風、兵の再編成は終わったのか?」

「ふふ。勿論なのですよ」

 答えると、風は「少し冷えますねー」と云いながら、身を寄せてくる。虚は風の頭をそっとあやすように撫でる。そうしてやると、風は心地よさそうにため息を漏らすのだった。

「春蘭さまが早く帰って来ないとまずいですねー」

 虚はその言葉に黙って首肯する。

「結局先発隊は四千で出たんだったな」

「そですねー。このままいけば長社で籠城と云う流れになると思うんですけどねー」

「向こうの数は分かったのか?」

「いえいえ。ですが、四千でどうにかなる数ではないと思いますよ。冀州の蜂起にこれだけ早く連動してくると云うことはですねー、行き当りばったりに追従したわけではなく、はじめからそう云う計画だったと云うことになります。冀州、豫州・潁川、そして南陽。その三方から洛陽に攻め上がる手はずなのでしょう。恐らく潁川の一団は陳留に上がってくるはずですから、相応の戦力を保持していると考えてまず問題はないはずなのです」

「三万、ってところか」

「それだけ集まれば上々ですねー。初動であまり数が多いと動きが鈍りますから、陳留に攻め上がる途中で、追加の兵力を拾っていく手はずなのでしょーねー。どんどん膨れ上がりながら攻め上がれば――」

「心理的にも圧迫できると」

「そですねー。その目論見は悪くはないのです。相手が華琳さまでなければ、ですがねー」

 風は口に手を当てて、「ふふふ」と笑う。

「お兄さん」

「ん?」

「お兄さんが何だったとしても、何になっても、風はお兄さんのものなのですよ?」

 微笑みながら風はこちらを見上げてくる。

 ただその眸には真剣な光が宿っていた。

「分かっている」

「だったらいいのです」

 風はそっとこちらの腰に手を回し、一層身体を密着させてくる。甘い、女の匂いがした。

 しかし、そんな時間は長くは続かなかった。

『風ー! ちょっとどこいったのよー!』

 荀彧の声が轟く。

「おやおやー。桂花ちゃんが怒り狂っているのです。慌てても仕方がないのに、困った桂花ちゃんですねー」

 風はすっとこちらから身を離すと、再びじっと見つめてきた。

「それではお兄さん。風は桂花ちゃんの小じわが増えるのを防ぐため戻るのです」

「ああ。それじゃな」

 そう返すと、風は踵を返し、小さな歩幅で城壁を下りて行った。その緩やかな足取りを見ながら、もう少し急いでやってもよかろうにと苦笑が漏れる。

 北郷一刀は、名を変えた。

 否。それすらも、主である華琳に献上したと云っていい。

 北郷一刀に宿っていた全てをささげた己に、『虚』の仮名は相応しい。

 ただ華琳は北郷一刀の名を、再びこちらに与えた。真名、と同等のものとして。恐らく、社会的関係を築くための、ひとつの『道具』として用いよと云うことだろう。それ以外に、意図など思い当たらない。

 そもそもこの世界に降りた際、北郷一刀と名乗ったのが甘えだったのだと、今ならば分かる。

 例えば、妖道仁斎でもよかったのだ。

 或いは、華蝶仮面を名乗り続けてもよかったのかもしれない。

 北郷一刀は嘗て、選択を迫られた。この世界に降りてくる以前のことだ。

 立ち止まることは出来ず、しかして戻ることなど叶わず、ただ進むためには選択をせねばならなかった。

 ふたつにひとつ。

 人間の面をつけるのか、悪鬼の面をつけるのか。

 素顔のままでいると云う選択肢は、なかった。

 人間の面をつけ、緩やかな下り坂に身をゆだねるのか。

 悪鬼の面をつけ、奈落の底へと飛び降りるのか。

 北郷一刀は迷うことなく、後者を選んだ。

 一度つけた悪鬼の面は、もう二度と外れることはなく、それどころか、北郷一刀を浸食し、北郷一刀を食ってしまった。悪鬼の面は呪いの面だった。

 だから、もう北郷一刀はいないはずなのだ。

 否、自分は北郷一刀であってはならないのだ。そのようなことが許されるべきではない。自分は過去の北郷一刀とは切り離されなければならない。

 自分の意思で――そう決めたのだから。

 ゆえに、北郷一刀の名も必要なかった。

 北郷一刀の名こそが、自分が人だったころの、最後の残滓であった。最後の甘えであった。

 だから本来、もう北郷一刀の名は必要なかったのだ。

 主の命さえなければ。

 だが、命はあった。

 なれば、北郷一刀の名は『道具』。真名の返礼として、切り売りするためのもの。それ以上でもなければ、それ以下でもない。

 己は虚。

 悪鬼の面にその身を食われ、中身を失った、がらんどう。

 空虚のみを、己の実とする。

 矛盾の体現者。

 虚の澄んだ、澄み過ぎた眸に、人影が映る。

 眼前、少女が階段を上ってくる。

 主が――覇王が、こちらにやって来る。

 孤独な王が、夜風に吹かれ、その黄金色の髪を揺らしている。

 虚は見た。

 童女を慈しむ彼女の姿を。民を導かんと奔走する彼女の姿を。

 その背中は語っていた。

 救いのない世に覇を唱え。

 己が道を覇道と称し。

 己が行いを覇業と称し。

 己を覇王と称する。

 その背中は、物語っていたのだ。

 民を救うのは、強き王。      

 覇王なのだと。

 そして、今の世にそれはいないと。

 

 覇王がいないのならば、この私が覇王となると。

 

 己の才覚を見誤らず、あの少女は覇道を突き進む。

 そんな娘は、前を向いていればいい。

 ただ前進すればいい。

 そして掴みとればいい。

 孤独な覇道の先に、孤独な玉座を掴みとればいい。

 自分は傍らにいよう。

 悪鬼に身をやつした自分は、人の形をしたどうしようもない人でなしは。

 血と汚泥にまみれたこの両手で、その小さな背中を守ろうではないか。

 臓腑を踏みにじったこの脚で、立ちはだかるものを打ち砕こうではないか。

 人心を噛み砕いたこの忌まわしい脳味噌で、張り巡らされた謀略を引き裂こうではないか。

 少女の覇道を阻むものは、微塵の例外もなく叩き出そう。

 一木一草尽く、一切の例外を認めず、邪魔者を掃滅しよう。

 反逆者を屈服させよう。

 主の前に引きずり出し、平伏させて見せよう。

 己の全てを燃やし、暗き覇道を照らして見せよう。

 さあ、進め。

 前進しろ。  

 そう、眼前の少女へ視線をもって語る。

 黄金色の王気を纏うその小さき覇王は、艶然と微笑んでいる。

 夜風がふたりの王の間を駆け抜けた。

 ひとりの少女と、ひとりの男は。

 ひとりの主と、一匹の走狗となった。

 互いの首輪を血の鎖で繋ぎ、一蓮托生の盟約を、呪われた約定を結んだ。

「物資が届いたわ」

「そうか」

「夜が、明けるわね」

「そうだな」

「出陣するわ」

「わかった」

 背を向け、歩き出した主の傍らを行く。 

 乱世への門を共に潜るために。

 戦乱の世へと、漕ぎ出すために。

 動乱の世を突き進むために。

 

 ――さて、血霞の狂宴を始めようじゃないか。

 

 

《あとがき》

 

 ありむらです。

 

 まずは、ここまで読んでくださっている読者の皆様、コメントを下さったかた、支援をくださった方、お気に入りにしてくださっている方、メッセージをくださった方、えっとそれから……兎に角応援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。

 皆様のお声が、ありむらの活力となっております。

 

 それから前回励ましのお言葉をくださった方。ありがとうございます。あのような弱音を吐き、お恥ずかしい限りなのですが、己への戒めとして残しておこうと思います。

 

 さて今回は黄巾の乱突入編ですね。

 お分かりと思いますが、一刀さんがついに本領発揮。と云うより完全に北郷一刀でなくなってしまいました。貂蝉との旅を終えたその後の三年間に、彼に何があったのか。それはもっと後になってから明らかになるとして。

 これからは所謂『一刀さんらしさ』はどんどんなくなって行くと思います。けれどもゼロになってしまうことはないでしょう。

 

 さて次回は長社防衛戦。

 その次は――ちょっとわかりませんが、ここから数回戦争回が続くと思います。

 少々暴力的な表現も増えると思いますが、なるべく皆さんに楽しんでいただけるよう頑張ります。

 

 さてさて、今回はこの辺で。

 

 

 

 コメント、感想、支援などなどじゃんじゃんください。

 

 

 その全てがありむらの活力に!

 

 

 次回もこうご期待! 

 

 

 ありむら

 

 

 あ、追伸で。

 

 原作が手元にないので聞きたいんですけど、原作メンバーのお互いの呼称が分からないんです。

 

華琳→基本的に真名呼び捨て

風→基本的に真名にちゃん付け。+華琳さま、お兄さんは例外?

春蘭→基本的に真名呼び捨て +華琳さま

秋蘭→同上

桂花→同上

季衣→流琉は呼び捨て+華琳さま、春蘭さま、秋蘭さま、兄ちゃん 他分からない汗

流琉→季衣は呼び捨て+華琳さま、春蘭さま、秋蘭さま、兄様 他分からない汗

凪→基本的にさま付け。+隊長 凪もあまりわからない汗

真桜→基本的に呼び捨て+大将、隊長、春蘭さま、秋蘭さま 

沙和→基本ちゃん付け+華琳さま、隊長、春蘭さま、秋蘭さま

 

 こんな感じでしょうか。

 うーん、どうだったかな。

 不足分や、間違っているところを教えていただけると助かります。

 

 ありむら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
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