「別に先に帰ってくれてもよかったのに」
「用件を頼むだけ頼んで、それでお先に失礼、なんてできるわけないでしょう」
「そっちの調べ物はもう終わってんじゃん。今のは、あたしの個人的な作業。部に関係あることでもないしね」
「わたくしのお願いで、手間を掛けたから余計に時間を食っているのでしょう。なおのことですわ」
「相変わらずカチンコチンなんだから」
ここは秋津学園高等部の部室棟。その一番奥まったところに、ひっそりと看板を出しているのが社会科学研究会だ。
一台のパソコンと、壁一面を埋め尽くす書棚を別とすれば、とりたてていうべき備品も持たない零細クラブだった。
部員も四人しかおらず、内二人がこの日は休みという有様で、開店休業の様相を呈していた。
「今日はえみりはどうしたの?」
出席側の一人、ディスプレイの画面を眼鏡に反射させながら、やや猫背気味に室内唯一の貴重品であるパソコンにのぞきこんでいる栂丈京は、欠席側の一人の名前を挙げてたずねた。
「講演を聞きにいくとおっしゃっていましたわ。たしか、演題は、そうそう『ポストグローバリゼーションの世界における日本』でしたわ」
窓際に椅子を引き、読んでいた本から顔をあげて、もう一人の部員梁木那緒はこたえた。
「好きねえ、あの子も」
「そちらこそ、ミーナさんはどうなさったんですの? まさか、欠席?」
「それこそ、まさか、だよ。もちろん出席してたわよ。ただ、ホームルームが終わるなり、担任追い抜かしてどっか飛んでっちゃった。『今日はクラブに行けないヨウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ』とかいいながらさ」
ドップラー効果まで交えて説明する。
社会科学研究会の四人は、それぞれ外部進学を目指す特進クラスに所属しているが、教室は分かれていた。
しのつく雨がスクリーンのように窓の外を覆っている。けれども細い糸のような雨で、窓際の那緒が耳を澄ましてようやくサラサラと降る音が聞こえるくらいだった。
梅雨時のけだるさを流してしまう、静かな雨だった。
「珍しいですわね、この二人だけで部室にいるというのも」
「珍しいっていうか、初めてじゃない? 高校生になってから、ずっとバタバタしていたしさ」
「新しいお友達も増えましたものね」
幼稚舎から大学までエスカレーターの秋津学園で、那緒と京は内部進学組で、話題に出たえみりとミーナは高校からの編入組だった。
「おまけにかなり突飛だからね、二人とも」
「貴女に突飛呼ばわりされては、お二方も立つ瀬がありませんわね」
「なーにをおっしゃいますやら。あたしはこの部の良識と良心を一身に背負っているんだから」
「まあ大変、社会科学研究会が無秩序と無節操に支配されているとは、今の今まで存じ上げませんでしたわ」
「そりゃどういう意味よ」
「どういう意味でしょうね?」
もちろん二人とも本気でいいあっているわけではない。なにしろ箸が転がってもおかしい年頃のこと、真剣なそぶりをしているのが気恥ずかしくもあり、たちまち相好を崩して、吹き出してしまった。
そうして、しばらくの間、社会科学研究会の部室は、ころころと弾む笑い声で満たされた。
「あー、おかしい」
京はひとしきり笑いおえた後、目に浮かんだ涙をすくった。
「まったく、まじめな、顔で、おっしゃるんです、もの」
腹を抱えて体を震えさせながら、なお那緒は笑いを抑えきれていない。
ひとしきり落ち着くまで、もうしばらく時間がかかった。
「正直なところさ、那緒とこんな風に笑いあえる仲になるなんて、初めて会った頃には思いもしなかったのよ」
「そうですわね。初等部の二年生の時でしたっけ。わたくしたちが初めて同じクラスになりましたのは」
「そうそう。そりが合わないっていうやつかな、もう毎日ケンカしてさ。不思議なものよねえ、それが三年生になったら、百八十度変わっちゃったんだから」
「子供心なんて変わりやすいですからね」
「そうなんでしょうけどさ。二年生の頃は学校に行くのもいやになったこともあったのよ。幼心に本気で悩んだもん。どうしてこいつはこんなにまであたしを目の敵にするんだろうって」
「わたくしもご同様ですわ。あの当時の京さんてば、小さかったというのもあったのでしょうけど、悪ふざけにも愛嬌がありませんでしたもの。もう毎日泣かされていましたわ」
「那緒があ? うそでしょ、あたしが泣きこそすれ、あんたが涙見せたところなんて居合わせたためしがなかったわよ」
「京さんこそかんちがいなさってますわ。わたくし、それこそ毎日、京さんのいたずらで、教室でも有名になるくらい泣いていましたもの」
「うそうそ、そりゃあたしだって。もういつも泣いているから、しまいには男子にもからかわれるようになっていたんだから」
京と那緒の間の空気が、どんよりとよどみはじめた。
まだ窓の外では、相も変わらず細い雨が、長く足を伸ばして静かに降り続いている。
「わっかんないなあ。もう八年も前の話じゃない。なんでそんなに意固地になってるの」
「頑ななのは、京さんの方じゃありませんの。それは、今になって大人げなかったと思われるのはわかりますが、なにしろ当時は子供だったのですから。別にいいじゃありませんか」
「いやいやいやいや、おかしいから。あたしがいじめてたみたいになってるから、それ」
「いじめていたなんて申し上げておりませんわ。ただ、ほんの少し度が過ぎていたというだけで……」
「それがおかしいっての。あたし、一度も那緒にやり返したことなかったじゃないの」
ピタリと両者の間に沈黙が流れる。もちろん、互いに納得し合ってのことではない。その証拠に、見る見るうちに、那緒のトレードマークの額まで真っ赤に血が上って染まっていく。
「やり返した? それでは、まるでわたくしの方から、突っかかっていったみたいじゃないですか」
「みたいじゃなくて、そうだっつってんのよ。初めて会った時のこと覚えてないの? あたしが握手しようと差し出した手を、あんた払いのけたのよ」
「いうにことかいて、よくもそんな記憶の改竄ができたものですわね。あの時、思い切り平手で打ちつけてきたのは、京さんだったじゃないの」
「なんですって」
「なんですの」
しばらくの間、距離をおいたまま歯を食いしばっていがみ合っていたが、やがて大きく息を吸い込むと、
「下足箱に入れておいた上履きを箱の上のあたしじゃ手の届かないところに置いたり、かばんを男子の席に置いておいたり、朝礼とか集会のある時には決まって後ろから膝の裏を小突いてくるし、教室移動があるって時には見当違いの部屋に案内して自分だけはさっさと先に行っちゃうし……」
「給食では口に物を含んでいれば脇をくすぐりにきますし、プールの後には制服を隠して水着のままで授業に出席させようとする、トイレに入れば名前を呼びながらしきりにノックをする、黒のボールペンと赤のボールペンの中身を入れ替えておく、たて笛にティッシュを詰め込んで音がでなくされていたこともありましたわ……」
双方ともに、過去の相手の行状を一気にまくしたてはじめた。
「運動会の時、先生から頼まれた準備の道具一式を運んでたら……」
「その最中に、足を引っ掛けて転ばせてくれましたわよね」
「人の話を横から取らないでよ」
「そちらこそ、先にいおうとするなんてずるいですわよ」
京のキーボードをたたく音が激しくなり、那緒は本を何度も何度も自分の膝にたたきつけた。
二人の争いはまだ続いた。
「先生まで引き込んでえこひいきしてもらって、おかげで授業中になにかあっても、先生に怒られるのは、あたしばっかり」
「それこそわたくしのセリフですわ。いったい、どれだけ佳奈枝先生から叱責を受けたと思っていらっしゃるの」
京の耳は感情に押し流されながらも、ある一言を聞きとがめていた。
「ナカエ先生? 担任て福池由希先生でしょ」
「なにを仰ってますの。兆佳奈枝先生じゃないですか」
「おかしいわよ、二年一組、二の一の福地先生っていえば、当時有名だったじゃないの」
「だからいっているんですわ、わたくしたちは二の二の兆先生に教わっていて……」
「ちょっと待って!」
京は両手の平を開いて、相手を制止する。
「二の二?」
「ええ。二の二の出席番号三十八番ですわ」
「二の一の三十二番」
鼻先に人差し指を突きつけて、京は自身を示した。
「うそ」
「そういってくると思って、昔の出席簿を調べてみたんだけどねえ」
おいでおいでをして、那緒を窓際から呼び寄せる。
秋津学園のサイトからパスワードを使って生徒用の学生検索サイトを開けると、那緒と京の初等部二年生の頃の出席簿がクラス順で表示される。
たしかに主張する通りのクラスと出席番号で、二人の名前が見出された。
けれども、
「それって、つまり……」
「うん、あたし達が初めていっしょのクラスになったのは、初等部三年生の時ってこと」
「おかしいですわ。だって、わたくし、毎日のように京さんと会っていましたもの」
「あたしもだよ。でもさあ、あたし、ちょっと変なこと思い出したのよね」
「変なことといいますと?」
「ある時のことだけどさ。授業中だってのに、またいつもみたいに、那緒があたしにちょっかいかけてきたのよ。二学期に入ったばかりの頃だったと思うんだけど、あんまり腹が立ったものだから、とうとう先生に―福地先生にいったのよ。『先生、梁木さんが、わたしにいじわるをします』って。でも、先生は『馬鹿なことをいわないの』ってすごく怒りだして、逆にあたしだけがものすごいお説教を受けることになったのよ。今の今まで、あれはひいきだと思っていたんだけどさ。もしかして、先生には、あの時の那緒が見えてなかったんんじゃないかな」
途中で口をはさむこともなく、話を聞いていた那緒は、京が語り終えたと知ると静かに、
「わたくしにも同じような経験があるといったら、京さん、疑います?」
京はただ黙って首を横にふるふると振るばかりだった。
沈黙が部室を支配する。普段は軽音楽部や演劇部の活動で騒がしい部室棟も、今日に限ってひっそりと静まり返っている。
「ずいぶんと遅くなってしまいましたわね。そろそろ帰りましょうか」
腕時計を確認しながら、那緒が提案すると、京もそれに同意した。
かばんに荷物をまとめ、パソコンを終了させようとしたその時、
「あ」
小さく京が声をあげた。
「どうかいたしまして?」
「うん。さっきの名簿から、当時のクラス写真にリンクが張ってあるんだけど、どうする? 見ておく?」
その時の那緒の引きつった顔を見て、京もぎこちない笑みをたたえながら、黙って電源を落とした。
いつの間にか外の雨はやんで、沈みかけた太陽を離れれば、紺色の空が広がりはじめていた。
Tweet |
|
|
1
|
0
|
追加するフォルダを選択
日本の民俗学黎明期にかかわりがあった人々を少女化して、舞台を現代に移した日常系小説です。日常系? 今回は柳田国男の少女化した梁木那緒と、宮武外骨がベースになっている栂丈京だけのストーリーとなっています。 元の柳田と外骨は水と油といいますか、火の如き柳田に外骨が油をそそぐといいますか、ほとんど接点がない割に柳田がほとんど一方的に外骨を嫌っているという関係です。けれども、この二人、方法論的にはすごく似たものがあるように思うのですねえ。