―――後漢末期
ここは、涼州武威郡。
後世、「三国志」と呼ばれる物語が始まる、まだ十年も前の話。
その晩、武威の太守・馬騰は、その日の政務を終えて、一人の母親としての時間を過ごしていた。まだ幼い我が娘・馬超と、その従妹で、我が子同然に育てている馬岱の二人を、寝かしつけていたのである。
「かあさま」
子守唄を歌ってあげていたとき、不意に、まだ幼き馬超が聞いた。
「なあに、翠?」
「あのね、わたしのごせんぞさまって、どんなひとだったの?」
「あら、突然ね。どうしたの?」
「あのね、きいてよ。きょう、きんじょの『劉』おばあさんのがきんちょがね、『おれのごせんぞさまは、こうていへいかだったんだぞ! だから、おれはえらいんだぞ!』なんていったんだよ。わたし、どうしてかわからないけど、すっごくくやしくて……」
「あらあら。おもしろい子がいるものね」
「ぜんっぜんおもしろくないよ!」
「落ち着きなさい、翠」
馬騰はそう言って我が子をなだめると、優しく撫でてあげながら、話を続けた。
「ご先祖様がどんなに偉くても、それで威張っているようなのは、よくないことなの」
「でも……」
「いいから聞きなさい。まあ、ちょうどいいわね。せっかくだから、今夜は、翠に、『私たちの立派なご先祖様』のお話を聞かせてあげようかしら」
「わたしのごせんぞさま?」
「そう。だから、静かに聞いてくれる?」
「はい、かあさま」
「あ、たんぽぽも!」
「あら、蒲公英も起きちゃった。仕方ないわね。それじゃ、お母さん、今夜は二人に、『ご先祖様』のお話を、たくさん聞かせてあげるわ。だから、静かに聞いていてね」
『うん!』
こうしてその晩、馬騰は寝床で、愛する娘と姪の二人に向かって、ご先祖様のお話を始めたのであった。
「むかしむかしのお話です。あるところに、一人の女の子が住んでいました。その女の子は、姓は
―――時をさかのぼること、およそ二百年前の前漢末期。まだ王莽が漢の「安漢公」だった頃。
ここは
大漢帝国の黄金時代の皇帝であった、武帝・劉徹の陵墓がおかれているこの地に、その少女は暮らしていた。
「
天下の富豪が大勢住む茂陵の、とある邸の中で、一人の幼い女の子が、おそらくは彼女の兄であろう、若い男に向かって、トコトコと走ってきた。純粋無垢な笑顔を振りまきながら。
「なんだい、
「きてきて~!」
そう言うと、珠寿と呼ばれた、まだ五歳くらいの小さな女の子は、その小さな手で、自分よりもずっと大きな兄の手を掴むと、そのまま中庭の方へと案内した。
(いったい、なんだろう?)
妹に手を引かれつつ、ふと疑問を思い浮かべる兄の況。もっとも、疑問と呼ぶには、取るに足らないほど小さなものであった。
なにしろ、中庭に辿り着けば、すべてわかることであるし、その中庭は、本当にすぐそばなのである。
かくして、妹・珠寿に手を引かれているうちに、あっという間に中庭に辿り着いた況は、そこで己の妹が、どうして自分を案内したかをすぐに理解した。
「みてみて~!」
中庭にある「ソレ」を指差しながら、珠寿がはしゃいだ。
「これ、しゅじゅがね、しゅじゅがつくったんだよ~! すごいでしょう!」
そう言って目をキラキラとさせる珠寿。そんな彼女が指差すものを見て、況は息を呑んだ。
妹の指差す先には、中庭一面に広がる、「芸術」であった。
あちらこちらに砂や土を盛って、小さな「丘」を作り、その「丘」や「谷間」の広がる一帯には、粘土で作られたのであろう、小さな丸いものがたくさん群がっており、そして、その「野原」の外側には、「柵」を模したのか、たくさんの枯れ枝が、「野原」一帯をぐるりと取り囲むかのように、地面に均等に差し込まれていた。
「珠寿。これはなんだい?」
況は優しげな表情で、目の前の「野原」を作った張本人に聞いた。
「これ? これは、『ぼくじょう』だよ」
そう言うと、珠寿は中庭に降りて、解説を始めた。
「『おやま』とか、『のはら』とか、ぜんぶ、しゅじゅがつくったんだよ? そして、これは、『さく』だよ。おうまさんとか、ひつじさんとか、うしさんとかが、にげないようにしたの」
「へえ~。ところで、そのいっぱいいる、小さいのは何かな?」
妹の解説を聞きつつ、況はあちこちに群がる粘土の塊を指差した。
すると、珠寿は胸を張って答えた。
「これは、おうまさんや、おうしさんや、ひつじさんだよ。いちばんおおきいのが、『おうしさん』で、ちゅうくらいのが『おうまさん』。いちばんちいさいのが、『ひつじさん』だよ~!」
そう言って、粘土の塊を指差しながら、一つ一つ説明する珠寿。
なるほど、確かに彼女の言う通りであった。所詮、五歳児が作ったものに変わりはなく、粘土の塊は、どれもこれも、ただの塊でしかない。「家畜」の形をしたものなど、どこにもなかった。その代わり、彼女の言う「馬・牛・羊」ごとに、大きさを変えていたのである。
珠寿の言うとおり、「牛」は大きく、「馬」は中くらいで、「羊」は小さく作られていた。その大きさの差は、わかりやすいほど歴然としていた。このあたり、珠寿という女の子は、五歳という年齢にしては、かなり手先が器用なようであった。
「すごいなぁ、珠寿は。賢い子だね」
そう言って兄・況は中庭に降りると、珠寿の近くに寄った。そして、彼女の奇麗な栗色の長い髪の上から、頭を優しく撫でてあげた。
「わーい、ほめられちゃった!」
そう言って喜ぶ珠寿。その笑みは、本当に子どもらしい、無邪気なものであった。
だが、そんな彼女の喜ぶ姿をみて、兄・況は微笑みつつも、内心、次のようなことを考えていた。
(ああ。珠寿はせっかくいい子なのに……。ご先祖様のやったことのせいで、こんないい子が世に出られないとは……)
彼は内心、そう思って憂えていたのである。
それはいったい何であるかを話す前に、まずはこの少女・珠寿と、その家系のことについて語らなければならない。
「珠寿」というのは、むろん、「真名」であり、この少女の姓は「馬」、名は「援」、字は「文淵」という。
そして、この少女・馬援や、兄の
単なる金持ちではなく、その先祖をたどっていくと、さかのぼること五百年以上昔の戦国時代に登場した、「馬服君」の称号を持つ、趙の名将・
趙奢はもともと徴税官の出でありながら、軍を率いる将軍として数々の戦いを勝利して名を馳せた名将で、「
彼が「馬服君」に封じられた由来から、珠寿こと馬援たちの一家は「馬姓」を名乗っていた。
それほどの人物を先祖にいただいているにも関わらず、馬況がそのことを憂えているのはなぜか。それは、この「趙奢の家系」が名門中の名門であると同時に、とんでもない「いわくつき」の家系でもあったからだ。
それは、名将・趙奢の死後、その息子の
趙奢の息子である趙括は幼少時より兵法に通じており、ときには父親を論破するほどであったが、それは典型的な「机上の兵法」に過ぎないものだったのである。
そのため、生前の父親からも、「あれが将軍に任命された暁には、我が趙軍の敗北は必至であろう」と危惧されていた。
はたして、父親の言うとおり、趙括は初陣である「長平の戦い」において総大将として指揮を執ったところ、秦の名将・
それだけでも十分、不名誉なのだが、姓を「馬」に変えた「趙奢の末裔」には、さらなる不運が付き添った。
それは、馬援の曽祖父・
武帝の長男にして、後年、
高祖・劉邦が漢王朝を建国して以来、初めて都・長安で市街戦が行われ、官軍・反乱軍・市民など併せて数万人もの死者を出したあげく、皇太子は敗走。一ヶ月後に潜伏先を見つかって包囲されて自殺し、この反乱は幕を閉じた。
そして、馬通は反乱鎮圧に功があったため、「重合侯」に封じられた。
さらに同じ年には、馬通は四万騎を率いて酒泉から天山にいたり、西域の一国、
ところが、都・長安に意気揚々と凱旋してきた馬通を待っていたのは、一家を恐怖のどん底に陥れる凶報であった。
先年に馬通が討伐に一役買った、皇太子・劉拠の反乱は、実は、
武帝の寵臣であった江充は、かつて、皇太子・劉拠との間に因縁があった。そのため、武帝亡き後に皇太子が皇帝の位に就けば、自分の立場は危うくなるであろうと考え、皇太子を陥れて亡き者にしようと画策したのである。
そんな江充が目を付けたのは、
迷信深い当時、人形と絹の文書を使った呪いで人を殺すことができると信じられており、それを行った者は極刑に処せられていた。ことに、晩年の武帝は被害妄想が激しく、自身が病気になるたびに、「誰かが呪術で朕を殺そうとしている」と、口走るほどになっていた。
そこに目を付けた江充は、都・長安のあちこちに呪いの人形と絹の文書を埋め、それに酒を注ぎ、呪いの儀式を偽装したのである。
下準備が済むと、江充は自らが巫蠱について調査すると武帝に進言し、調査を命じられるや否や、あらかじめ仕組んでおいた人形を掘り起こし、無実の人間を次々と逮捕して、処刑していった。
そうこうしているうちに、ついに皇太子の住居の地下から大量の人形が出土したのだ。
ことは、初めから仕組まれていたのである。それに気付いた皇太子は、怒りに身を任せて挙兵すると、江充を逮捕して、その首を刎ねた。
だが、老いたる武帝には、皇太子は、武帝自身が病気で都を留守にしているときを狙って反乱を起こしたかのようにしか見えなかった。だから、我が子を「反逆者」として討伐するよう、てきぱきと命令を下したのだ。
だが、皇太子の死から一年が経ち、事件の真相が明らかになってくると、武帝は大いに後悔した。
無理もない。怒りに身を任せて、すでに還暦を迎えていた、皇太子の母親にして皇后でもあった
自らの手で我が子一家を尽く殺してしまった武帝は、皇太子が死んだ場所に宮殿を建てて、その霊を弔ったが、その一方で、自分を騙した江充のことを激しく憎んだ。
それから始まったのは、血で血を洗う粛清劇であった。
大激怒の武帝は、皇太子を陥れた張本人である、江充の遺族を「三族皆殺し」にし、さらには江充と組んで皇太子を陥れた宦官を捕え、
さらには江充の徒党とみなされたものが次々と殺され、そしてついには、皇太子を追い詰めて自殺させた役人たちまでもが、恩賞を剥奪されたばかりか、一族皆殺しにされたのである。
もっとも、一番悪いのは、江充に騙された武帝本人にほかならないのだが。
さて、そうなると困ったのは、馬通たちであった。
昨年、皇太子が「謀反人」だから討てと言われたので、詔を奉じて討ったのに、一年後にはこの有り様なので、馬通の立場は極めて微妙なものになった。しかも、運の悪いことに、馬通の兄で、
このことが武帝に知れ渡れば、いつ殺されるかわからない。
そう思った馬何羅・馬通兄弟は、「巫蠱の獄」の三年後に、弟の馬安成と共に、武帝暗殺計画を実行に移した。
馬通と馬安成が宮殿の外で兵を集め、馬何羅は夜間に単身、白刃を懐にして宮殿に忍び込んだ。計画では、馬何羅が武帝を暗殺し、その後、馬通たちが兵を動員して宮殿を占拠。それによって、「連座」を免れることができるであろうというものであったが、誰がどこから見ても、浅はかな計画以外の何物でもなかった。
案の定、計画は失敗した。
武帝の寵臣に、もと、匈奴の
その結果、逃げようとした馬何羅は背後から金日磾に抱きつかれてしまい、もみ合いの末、髪の毛を掴まれて投げ飛ばされてしまい、あまりにも呆気なく捕まってしまった。
こうして、あまりにもお粗末な「武帝暗殺未遂事件」は幕を閉じ、大逆罪で、馬兄弟は仲良く死刑となった。
不幸中の幸い、その子どもたちは死を免じられたが、それ以来、馬家は漢王朝から遠ざけられ、「出世できない家」となってしまったのである。
馬況が妹を見て憂えていたのは、まさにそのことだったのだ。
(この子が大人になるころには、世の中が変わっていたらいいのだけどな……)
馬況は、妹の馬援こと珠寿の小さな体、を両腕で抱き抱えてあげながら、秘かにそう思っていた。
―――七年後。
十二歳になった馬援こと珠寿は、地元、茂陵にある「学校」で「詩経」を習っていた。
着慣れない白黒の「女性用儒服」に身を包み、老師が読むのに従って、竹簡に書かれている詩経を何度も読んで覚えようとしていた。
だが、いくら竹簡を読んでも、老師の教えることを何遍聞いても、珠寿はあまり多くの詩経を暗記することができなかった。
念のために言っておくが、彼女は決して脳筋ではないし、勉強嫌いでもない。
文字の読み書きなど、単純な知識水準だけを見れば、名門出身だけあって、その辺の庶民よりは、はるかに秀でていたのである。
それなのに、どうして勉強が身に入らないのかというと、それにはいくつかの理由があった。
当時、まだ「紙」らしい紙は発明されておらず、「学校」に通う学生は、竹簡に書かれていた文章を丸暗記しなければならなかったし、また、当時の詩経が政治的な暗号を含んでいたこともあって、回りくどかったのである。珠寿はそういう回りくどいものは苦手であった。
だが、彼女の場合、もっと複雑な事情があった。
(あーあ。勉強なんかしたって、どうせ、あたしの家は、出世できないんだ……)
彼女はまだ十二歳の幼さで、早くも「出世」を諦めていた。
無理もない。「ご先祖様の失態」のせいで、彼女の家は、祖父の代から下級役人止まりだったからだ。実際、ついこの間に亡くなった彼女の父親もそうだったのである。
祖父の代から、「どうせ勉強しても出世できない」という意識が刷り込まれてしまっているのだから、どうしようもない。
もっとも、馬家を「反逆者扱い」していた漢王朝は既に無く、王莽なる人間が立ち上げた「新」王朝の時代となっており、馬況を始め、珠寿の三人の兄はいずれも「二千石」という高い位の官吏に出世していたのだが、幼少の頃から、彼女自身意識せずに抱いていた悲観論は、そう簡単に打ち消せるものではなかった。
それだけではない。珠寿がやる気を無くしてしまった最大の原因は、この教室にいる、一人の少女の存在だった。
「それでは、
「はい!」
老師に呼ばれたのは、珠寿の隣に座っている、彼女より少し年下くらいの、薄紫色の長い髪の、真面目そうな顔つきの少女であった。その少女は、姓を
近所と言っても、家からあまり外に出歩いたことがない珠寿には、もともと面識がなかったのだが、父親の葬式の時に、その手伝いに来て、珠寿の長兄・馬況と話していたので、珠寿はよく覚えていたのである。
珠寿が着慣れない「女性用儒服」をきちんと着こなし、また、利発そうな子であったこともあって、馬況は、
(これは利口な子だな。珠寿の勉強の競争相手にちょうどいいだろう)
と、考えていた。ところが、実際にはそうはいかなかったのである。
馬況は朱勃のことを、「庶民育ちの、普通に利口な女の子」と考えていたし、珠寿もそう思っていた。
ところが、朱勃はそこらの子どもたちとは違い、大がつくほどの天才だった。
現に今、珠寿の隣に立っているその少女は、昨日習った所を、一字一句余さずに、全て暗唱してのけた。
十歳の子どもで、まして貧しい庶民育ちであるはずの朱勃の才能の前に、珠寿は呆然自失してしまった。
その結果、ますます強い劣等感を持ってしまったのだ。
(あーあ。こんな秀才がいるんじゃ、あたしの出番なんか、どこにもないな。どうせ、あたしは役人なんて勤まらないし)
行きついたのは、そんな考えであった。
(ああ。この子は、名門なのにちっとも勉強ができないあたしのことを、白い目で見るだろうな……)
珠寿は隣に座る朱勃を見て、そう思っていたのである。
ところが、当の朱勃はそのようなことなど、ちっとも考えていなかった。
それどころか、「史記」に名を連ねる英雄・趙奢の子孫である馬援こと珠寿のことを、尊敬の眼差しで見ていたのである。
(あの英雄、趙奢の子孫で、しかも、やろうと思えば、何でも出来そうな人なのに、才能を鼻に掛けず、全く驕らないなんて、文淵さんは、本当に凄いお方ですね)
朱勃は珠寿のことを、そんな風に見ていたのであった。
この辺りを見ると、どうもこの両者の間には、訳のわからない空気が流れていたようである。
もっとも、その当事者である本人たちにさえ、それが何かはわからなかったが。
ともあれ、もともと悲観的で、その上に朱勃の才能を見せつけられて劣等感を抱いてしまった珠寿は、ある日の夜、思い切って、長兄・馬況に自身の胸の内を打ち明けた。
「況兄様。あたし、勉強とか全然できないよ。おまけに、あの子、朱勃が、すっごく頭がいいんだ。あたしが頑張らなくたって、あの子、きっといいお役人になって、あたしの分まで活躍してくれるよ」
「ははは」
妹が涙ながらに話すのをよそに、馬況は右手で杯を手にしながら、優しげに笑った。そして言った。
「珠寿。そんなに気にすることはないよ。いいかい。人には『大器晩成』の器の持ち主と、『小器速成』の器の持ち主とがいるんだ。兄さんが見るに、朱勃ちゃんは、『小器速成』の器だと思うな。たしかに今は、すっごく頭がいいだろうけど、多分その程度。せいぜい、県令止まりだと思うよ。逆に珠寿は、兄さんが見るに、『大器晩成』の器だと思う。珠寿なら将来、きっと大物になって歴史に名前を残すと思うよ。そのうち朱勃ちゃんの方から、珠寿にいろいろと教えを請いに来るはずだと思うよ」
「そう……、かな……?」
「ははは。兄さんとしたことが、ちょっと難しい話をしてしまったね」
そう言って妹を励ますと、空いている左手で、そっと頭を撫でてあげる馬況。だが、珠寿はまだ納得できていないようであった。
「だけど、況兄様。あたし、勉強とかよりも、ここから遠い田舎で、牛とか馬とか羊とかを飼って暮らした方が似合っていると思うんだよ。どうかな?」
「ははは、なるほど。珠寿は牧場経営がしたいのか。たしかに似合っているかもね。でも、きっと大変だよ?」
「大丈夫だよ。あたし、頑張るから」
「そうか。なら、珠寿はやりたいことをやりなさい。兄さんは、全力で応援するよ。だから、もう少しだけ、勉強も頑張ってくれるかい?」
「うん!」
こうして珠寿は、将来、牧童になることを決意すると同時に、あと一息勉強を頑張ることを、兄に誓った。
だが、残念ながら、馬況は珠寿の成長ぶりを、ついに見届けることはなかった。
なぜならば、数ヵ月後、馬況は流行り病のためにこの世を去ったからだ。
珠寿は悲しみをこらえながら、喪に服し、それが済むと再び、あまり好きではない勉強生活に戻らなければならなかった。
―――五年後
ときに珠寿は十七歳。そして、例の秀才児・朱勃は十五歳になっていた。
あれから、二人の間柄はちっとも変わっておらず、「同じ学舎で学んだ者同士」以外の何者でもなかった。
そんなある日のこと、例の朱勃に、右扶風の役所から声がかかったのである。
聖人気取りの皇帝・王莽は、天下に賢人を求めており、茂陵一の秀才として名高い朱勃が、右扶風の長官の目に留まったのだ。
こうして右扶風の役所に呼ばれた朱勃は、さっそく役職を頂いて帰ってきた。
なんと、彼女は都・長安近郊の
念願の官職を頂き、有頂天になって茂陵に帰ってきた朱勃は、このことを今までお世話になった人たちに報告して回った。
そうして一通り回り終えたのだが、家へ帰る途中、朱勃は一人だけ、まだ会えていない人がいることに気付いた。
そう、馬援のことである。
「文淵さん……」
朱勃は、この五年間、ほとんど話もしなかった憧れの人の字を呟いた。
「もしかして、私が先に仕官しちゃったから、怒っているのかな……?」
そんな独り言を口にしながら、とぼとぼと歩いていたときであった。
「怒っているだって? 誰が?」
不意に、後ろから声をかけられた。
「え?」
朱勃は咄嗟に後ろを振り返った。そして見た。
「よっ!」
朱勃の瞳に映ったのは、夕陽を背にして立っている、一人の年長の少女。言うまでもなく、馬文淵その人だった。
「文淵さん!」
「おいおい、もっと肩の力抜けよ」
慌てて律儀に挨拶する朱勃に対し、馬援こと珠寿は、微笑みながらゆっくりと歩み寄った。そして、祝辞を口にした。
「おめでとう、叔陽。お前、やっぱ、すげえんだな」
「い、いや、その。それほどでもない、ですよ!?」
そう言って、朱勃は顔を夕焼け並みに赤くして、そっぽを向いた。そんな彼女の姿がおもしろかったのか、珠寿は大いに笑った。
「ははは! 緊張しすぎだぞ! これから役所勤めする者が、恥ずかしがってどうすんだ」
「そ、そうですね!」
珠寿が笑うのを見ているうちに、つい可笑しくなってしまい、朱勃も一緒になって笑った。夕焼けの中、声をそろえて笑う二人の少女。それは、出会って以来、今まで一度もなかった光景であった。
「さてと」
満足するまで笑い続けた後、珠寿は懐に手を突っ込むと、そこから木でできた、何か小さな物を取り出した。そして、それを右手に乗せると、朱勃の方に向けて突き出したのである。
「なんですか?」
「これをお前にやるよ。これ、お前の仕官祝いな」
そう言うと、おそるおそる出された朱勃の両手の上に、それを乗せた。
「うわあ……!?」
朱勃は息を呑んだ。珠寿から手渡されたものは、「馬の木製模型」だった。足の蹄(ひづめ)の形といい、頭から広がる鬣(たてがみ)といい、まるで本当に生きて動きそうなほど、精巧に作られた模型である。
「あたしが作ったんだ」
珠寿が得意気に話した。
「あたし、お前みたいに頭良くないけど、小さい頃から、手先だけは器用なんだ。ま、あたしの出来ることは、こんなものくらいだけど」
「すごいです!」
朱勃は感激して叫んだ。
「文淵さん、ありがとうございます! これ、ずっと、ずっと大切にしますね!」
「よせよ。照れるじゃないか」
そう言って笑う珠寿。それにつられて、朱勃も再び笑った。
「いやー、しかし、思えば、お前とこうやって話したのは、初めてだったな」
ふと、珠寿がこんなことを口走った。
「あ、はい。言われてみれば、そうですね」
朱勃が相槌を打った。たしかにその通りであった。二人とも、出会ってすでに五年目になるのに、面と向かって話したことはなかった。今、この場が初めてだったのである。
「いやー、お前が赴任する前に、こうして話せてよかったよ」
珠寿は微笑みを浮かべながらそう言った。
「そうですか?」
「ああ。なんとなくだが、あたしはもう二度と、お前とはじっくりと話などできないような気がするんだ。だから、お前がここに来るのを待ってたんだよ」
「二度と……?」
朱勃は疑問に思いかけたが、すぐに口をつぐんだ。
珠寿が「赴任したら二度とじっくり話ができない」と言ったのは、この広大な大陸では、決して過言ではないからである。
「ま、機会が会ったら、また会うとするか。とりあえず長生きしとけば、また会えるだろうし。それじゃ、仕事頑張れよ! 叔陽!」
そう言うと、珠寿は、そろそろ時間だと言わんばかりに、踵を返して歩き始めた。後ろに向かって手を振りながら。
朱勃はそんな珠寿の背中を見送り続けていたが、突然、何を思ったのか、大声で珠寿を呼びとめた。
「文淵さん!」
「ん?」
いぶかしげに振り向く珠寿に向かって、朱勃は叫んだ。
「……せんです……!」
「ん?」
「
そう言って、自分でもわからないうちに、涙を流しながら、自身の大切な「真名」を名乗る朱勃こと、英泉。
呼び止められた珠寿は、しばらく足を止めていたが、やがて、くるりと英泉の方に振り向いた。そして微笑みながら言った。
「英泉か……。いい名前だな。しっかり覚えておくよ」
そう言うと彼女は、また帰路の方へと振り向いたが、ふと、足を止めた。
そして、今度は振り向かずに言った。
「珠寿だ。それが、あたしの真名だ。お前ならもう、覚えただろ?」
「……はい!」
こうして真名を交換し合った二人は、夕陽が沈む中で別れたのであった。
馬援(珠寿)と朱勃(英泉)。友情と呼ぶには微妙な関係だった二人が、真正面から初めて語り合った瞬間であった。そして、同時に、これが真正面から語り合う、最後の会話となった。
―――それから一年後
十八歳になった珠寿は、ついに役人として仕官することができた。
もっとも、彼女が就いたのは、地方を巡察する役職である、「
来る日も来る日も、地方の囚人を、郡の「司命府」まで護送する仕事ばかりをやらされるのである。
そんなある日のこと、珠寿はその日も一人の囚人を司命府まで送り届けるよう、命令された。そして、その日の囚人は、白髪でよぼよぼの老人であった。
なんでも、人を傷つけたという理由で捕まったらしい。
しかし珠寿には、その老いたる囚人が、そのような罪を犯したような人間には到底見えなかった。
(こんなよぼよぼの年寄りが、どうやったら他人に怪我などさせられるんだ?)
疑問に思った彼女は、思い切って、囚人に聞いてみた。
「よお、じいさん。アンタ、どうしてまた、捕まったんだ?」
普通にそう聞いたのである。すると、聞かれた瞬間、老人はボロボロと涙を流し始めた。そして、よぼよぼの年寄りのそれとは思えない、はっきりした声で言った。
「お、お役人様。私は、本当に何もしていないのに、捕まったんです」
「な、なに!?」
どういうことだと、説明を求める珠寿に向かって、老人は語り続けた。
その後、老人は長々と語り続けてくれたのだが、その話を要約すると、次のようなものであった。
老人の家は貧しく、そのために一人娘をとある大地主のもとに奉公に出していたのだが、数日前、その娘が死んだという話を聞き、急いでその亡骸を引き取りに行った。
ところが、地主の方では、老人が引き取りに来るより前に、娘の亡骸を勝手に葬ってしまっていたのだ。
何かがおかしいと、不審に思った老人は、そのことを地主に問い詰めたのだが、地主は怒って逆上し、老人を追いかけまわした。
その際、地主は何かに躓いて勝手に転び、邸の二階の階段から転げ落ちて大怪我をした。
その怪我が、なぜか老人の仕業だということになり、地主の使用人たちに取り押さえられた老人は、そのまま役人に引き渡され、囚人にされてしまった、というのだ。
「なるほど、そりゃあ、災難だな」
珠寿は気の毒そうに言った。
「はい。悪いのは全て、向こうの方だといいますのに、誰も、私の言うことを信じてくれません」
老人は相変わらず泣き続けたままであった。
しばらくの間、珠寿は黙ってそれを眺めていたが、ふと、口を開いた。
「おい」
「は、はい?」
「じいさん。アンタの顔を見せてくれないか?」
そう言うや否や、珠寿は相手の返答も待たずに、老人の顔を覗き込んだ。
どれくらいの時が経ったであろうか。もう、十分すぎるほど覗き込んだ後、珠寿は顔を上げた。そして、驚くべき行動に出た。
「どうやら、じいさん。アンタは嘘ついていないみたいだな。よし、解放してやるよ」
そう言って、懐から鍵を取り出すと、老人の手枷の鍵穴に差し込んで回したのである。手枷が外れ、地面に落ちて音を立てたのを見て、両手が自由になったばかりの老人本人でさえも、何が起こったのか、わからなかった。
だが、自分自身が自由になったことを理解すると、老人は今まで以上に涙を流しながら叫んだ。
「お、お役人様! いいのですか!?」
「いいんだよ。アンタには罪は無いんだろう? なら、無罪放免ってことだよ」
「あ、ありがとうございます! で、ですが、お役人様! お役人様はどうなされるのです!?」
老人は感謝しつつも、珠寿のことを心配した。当然である。囚人を護送中に、勝手に釈放すれば、督郵である珠寿が罪に問われることは必至だからである。
だが、珠寿はしれっとした顔で言った。
「別にいいんだよ。どうせ、督郵なんてつまらない仕事、ちょうど飽き飽きしていた所だ。こんな仕事、もう辞めてやるよ!」
言うや否や、珠寿は首から吊り下げていた、督郵の印綬を外すと、
「こんなもの、ぽーいだ!」
と言って、道端に投げ捨ててしまった。
「ははは! あー、いいことすれば清々するなー! それじゃ、どこかいい所で健気に生きろよ!」
あんぐりと口を開けている老人を後目に、その場を去ろうとする珠寿。しかし、またしても老人が呼び止めた。
「お待ち下せえ!」
「なんだよ?」
「その、私はもう歳で、足腰が弱くて、あまり遠くまで歩けないのです……」
「なんだ、そういうことか」
珠寿は頷いた。確かに、老人はあまり遠くまで歩けそうにない。ましてや逃亡生活など、できそうにないようだった。
しばらく考えた後、珠寿はそのまま老人の方に歩み寄ると、老人に背を向け、その場でしゃがみこんだ。
「ほら、来いよ、じいさん」
「は、はい?」
「アンタ、足腰弱いんだろう? なら、アタシがおぶっていってやるよ」
「い、いいのですか!? そこまでして頂いて!」
「なにやってるんだよ! さっさと乗れ! でないと、他の役人に見つかっちまうぞ!」
「は、はい! では、遠慮なく……」
こうして、珠寿は老人を背負ったまま、やや北の方へと向けて出発した。
「あーあ。まさか、このあたしが、『お尋ね者』になるとは思わなかったな。こんな話を聞いたら、朱勃……、英泉のヤツ、きっと呆れるだろうな……」
歩きながら彼女は、一年前に別れた英泉のことを思い浮かべていた。
「おわっと!?」
「☆×○△□!?」
「あ、お役人様。すみません。手が滑ってしまいまして。いやー、しかし、お役人様はあまり大きくないみたいですな。私の亡き娘の方がずっと……」
「おい、じいさん。やっぱり役所に連れて行ってやろうか……?」
「ひっ、そ、それだけはご勘弁を!」
「わかったら、じっとしてやがれ!」
「は、はい!」
(畜生! どいつもこいつも、小さい小さい言いやがって! あたしは『大器晩成』なんだよ!)
道中、こんなやりとりがあったことは、別の話である。
なお、督郵が囚人を逃がし、自分も一緒に逃走したという話は、当然ながら、司隷中の役人たちの間に広まった。
当然ながら、そんな話を聞いた役人の中に、渭城県の仮県宰である朱勃こと、英泉も含まれていた。
だが、彼女は珠寿が考えていたように、呆れてなどいなかった。
それどころか、
「さすが、珠寿さん! 思い切ったことをする人ですね。おまけに、囚人が可哀そうだから逃がすなんて、本当に慈悲深くて優しい人だなぁ」
と、以前にもらった「馬の模型」を前に、感心して目を輝かせていたのであった。
―――それから六年後
ここは
司隷と涼州の境界付近にある平原地帯にて、二十四歳になった珠寿は念願の牧畜を営んでいた。
六年前に囚人と一緒にこの地に逃げ込んだ彼女は、いい機会だと言わんばかりに、そこで生活をすることにしたのである。
珠寿の罪状自体は、聖人気取りの王莽が頻繁に出した恩赦令のために、とっくに帳消しとなっていたが、彼女は故郷である右扶風に帰ろうとは思わず、北地に留まることにした。
もともと余所者の亡命者であったため、最初は大変苦労したものであったが、彼女はそれを耐え抜き、今では馬・牛・羊を併せて数千頭も所有する、「牧畜王」となっていた。
「やっぱりあたしは、役人なんかより、こっちの方が向いていたんだ。もっと早く、こういう仕事がしたかったな」
二十代にしては、まだ十代後半くらいの顔立ちのままの彼女はそう言って、日々、馬にまたがっては家畜を追いかけて管理し、牧歌生活を楽しんでいた。
おまけに彼女は家畜を丁寧に扱ったので、年が経つごとに、家畜の数は増え、それに従って、収益も鰻登りに増えた。
しかし、彼女は純粋に牧畜を楽しんでいたため、全く贅沢をしなかったのである。それどころか、どうやら彼女の頭からは、「欲望」の二文字が欠如していたようだった。
せっかく収益が増えて儲かっても、彼女はそれを必要以上には使わず、余った分を、家の使用人や近所の貧しい者、訪ねてきた友人・知人たちに分け与えたのである。
そのため、とある友人が、彼女にどうして銭を貯めないのかと聞いたことがあった。
すると珠寿は、きりっとした表情でこう答えた。
「どうして銭を貯めないって? 決まっているだろ。儲けた銭は、人にやることができるから、いいんじゃないか。それができないヤツは、単なる『守銭奴』だ」
そんな話が伝わるや否や、それを聞きつけた人間が次々と集まってきて、珠寿の牧場で働きたいと頼み込んできたのである。
珠寿はそういった人たちをどんどん受け入れたので、牧場はさらに大きいものになっていった。しかし彼女は、
「どうしてあたしの所にばかり、こんなに大勢集まるんだ? 他にも牧場はあるのに」
と、喜びつつも首をかしげていた。どうやら彼女には、自分自身がどれだけ他人から人気があるのかということが、わかっていないようであった。
それはともかく、そのようにして珠寿は自覚せずして、大勢の賓客を養う一大侠となった。
そんなある日のことである。
「ふー、今日もよく働いたな」
その日の仕事を終え、夕陽が沈む中、珠寿は自分が住む邸へと帰ってきた。
「お帰りなさいませ! ご主人様!」
邸の玄関から中に入るや否や、数人の「侍女」が、暖かく出迎えた。
「ああ、ただいま」
珠寿はそう言って挨拶を返すと、被っていた帽子を脱いで、侍女の一人に手渡した。牧場で働くようになって以来、珠寿は従来の「漢服」を脱ぎ、代わりに羊の毛皮で作られた上着と帽子、それから「
それはともかく、侍女に帽子を渡した珠寿は、ふと、何気ない一言を言った。
「いやー。こいつは本当に役に立つよ。なにしろ、強い日差しから頭を守ってくれるからな」
「そうですね。おかげで、ご主人様は、今日もほっぺたつるつるですからね」
侍女の一人が、上手にお世辞を言った。
「ははは。あたしは全然若いから、まだまだ気にする歳じゃないよ。ま、どのみち、何十年もすれば、あたしも、お前たちもみんな、ばあさんだからな」
そう言って、珠寿は冗談交じりに笑い、つられて侍女たちも笑った。気の済むまで笑った後、珠寿は笑顔を絶やさないまま、言葉を繋げた。
「ま、あたしは歳を取ろうと、取るまいと、気にしないよ。いいか。若かろうと、歳を取ろうと、富豪であろうと、貧民であろうと、人っていうのは、志を強く持たなくちゃ、生きていけないからな。『丈夫の志を為すや、窮しては
「はい!」
「さてと、今夜のご飯はなにかな」
そう言って食卓のある部屋へと行こうとしたときであった。
「あの、ご主人様」
侍女の一人が、そっと口を聞いた。
「ん? なんだ?」
「つかぬことをお聞きいたしますが、ご主人様の『志』とは何か、よろしければ、私たちにお話し願えませぬか?」
「なんだ、そういうことか」
照れくさそうに、わざとらしく髪をかくと、珠寿は語り始めた。
「別に、『志』と呼べるような立派なものじゃない。あたしがやりたいと思うことは、ただ一つ。あたしの家の『汚名』を晴らすことだ」
「『汚名』、ですか」
「ああ、そうだ」
きょとんとする侍女たちをよそに、珠寿は語り続けた。
「昔、あたしのひいお爺さんが、とんでもなく悪いことをして、家名を傷つけてしまったからな。それ以来、あたしの実家は落ちつぶれてしまっているんだ。でも、それもあたしの代で終わらせる。もっと小さい時、あたしはそう決めたんだ。どうやって、とかは聞くなよ。正直、今でもその方法がわかっていない。ま、役人勤めは向いていないし、そんなことで、この汚名が晴らされるとは思えないし」
「それなら、『この国一の牧畜王』になることを目指されてはいかがですか?」
「ははは。お前、おもしろいことを言うな。たしかに、それもいいかもしれないな。だけど、ちょっと違う気もするんだ。まあ、いいか。あたしが年老いて死ぬまでにやればいいだけの話だしな。さてと、それよりご飯食うぞ」
「は、はい!」
こうして、北地の夜は更けていった。
*
―――馬援、字は文淵、扶風茂陵の人なり。其の先の趙奢は趙の将と為り、号して馬服君と曰う。子孫因って氏と為す―――。(後漢書馬援伝より)
*
北地の牧畜王・馬援が、本格的に、歴史の表舞台に姿を見せることになるのは、もう少し先の話である。
―――小話
これは現代日本においては、「ハトムギ」という名前で知られ、効果としては、イボ取り効果や利尿作用、そして抗腫瘍作用もあると言われ、漢方薬や茶、健康食品の材料にされている。(ただし、妊娠中の女性は絶対に摂取してはいけない)
そんな薏苡仁だが、当時、珠寿が生きていた時代の中国大陸においては、貴重品だったことは言うまでもない。
漢民族の居住域である黄河流域一帯は比較的温度の低い上に、水はけもあまりよくない土地が多いため、薏苡仁はあまり育たず、仮に育っても、小さな実しかならない。
そのため、粒の大きい薏苡仁を得ようと思えば、はるか南の
そんな時代のある日のこと、北地にある珠寿の邸に、一人の商人の男が訪れた。なんでも極めて珍しいものを持っているのだという。
「遠路はるばる御苦労なことだな。それで、その品物ってなんだ?」
珍しいものと聞いて、話を聞きに来た珠寿の眼前で、男は懐から取り出した、一つの包みを開きながら説明した。
「はい。本日お持ちいたしましたのは、はるか南の、そのまた南の交趾より持って参りました、正真正銘の『薏苡仁』の種にございます」
「薏苡仁?」
いぶかしげに思う珠寿の目の前に用意されたのは、何やら数珠玉のような形をした、いくつもの小さな実であった。
「はい、さようで」
男は何としても高く買ってもらうと言わんばかりに語り始めた。
「ここら一帯ではまず獲れない、大物をお持ちいたしました。これの皮を剥きまして、ご飯と一緒に炊くなり、あるいはお薬として調合するなりしてお口にしていただきますと、あら、不思議。お肌はすべすべ。それだけじゃなく、体の中に溜まった悪い血や、病気の元も、なんと、○○と一緒に全部出て行ってしまうという優れものにございます!」
「なんだって? 凄いじゃないか!」
珠寿は感心した表情になって、大粒の薏苡仁の実を手にとってじっと見つめた。
しばらく何かを考えた後、彼女は大声で言った。
「よし、買った! 全部買ってやる!」
「本当で? あ、ありがとうございます!」
こうして取引は成立し、珠寿は薏苡仁を一包み手に入れ、商人は大量の銅銭をその手に納めた。
(フフフ、大任侠とはいえど、やはり女子よ。その性には勝てないようだな)
帰路、商人の男はそう思ってほくそ笑んだ。だが、珠寿の思惑は、彼の考えていることより、もっと大きかった。
(いくつかは、あたしが試すのに使うとしてだな……)
買ったばかりの薏苡仁を見つめながら、珠寿は常人なら考えない、壮大な構想を練っていた。
(残りは育て方の研究のために使おう。これをうまく育てて増やすことが出来れば、他の皆にも分けてやれるし、それにわざわざ交趾まで行く必要もなくなるしな。だけど、失敗したら元も子もないからな……。よし、いくつかは残しておいて、いつか実際にあたしが交趾に行ったときに、見分けがつくよう、見本にしておくか!)
そこまで考えると、彼女は買ったばかりの薏苡仁の実を、その用途ごとに分別するのであった。
彼女は知らない。
この「ハトムギ」によって、彼女の人生は、一つの諺が作られるほどの一大事を引き起こすことになろうと。
そして二百年後に、彼女の末裔に大いなる「悲劇(?)」をもたらすことになろうとは、誰も知らない。
*
(登場人物紹介)
・
出身地:司隷右扶風茂陵
『馬援伝』の主人公。現在、24歳。長くて綺麗な栗色の髪が特徴の女性。涼州北地郡にて牧畜王となっている。先祖は趙の名将の馬服君・趙奢。幼いころは、強烈な劣等感の持ち主で勉強が全く身に付かなかったが、反面、手先が大変器用であり、模型作りなどが得意である。恐ろしいほどの無欲だが、その一方で自分の近くの空気が読めないなどの欠点がある。曾祖父の時代以来、落ちつぶれてしまった家を建て直すことを、生涯の夢にしている。幼馴染の朱勃とは、「同じ老師のもとで学んだだけ」の関係。後に、歴史の表舞台に登場する。言うまでもなく、「三国志」に登場する、馬騰、馬超親子や、馬岱の「御先祖様」。(恋姫世界では、翠や蒲公英の御先祖様なのだが……。)
CVイメージ:小林眞紀
・
出身地:司隷右扶風茂陵
馬援より二歳年下の女性。現在、22歳。薄紫色の長い髪が特徴。貧しい庶民の生まれだが、十歳にして「詩経」を丸暗記するなど、滅多にいない秀才であり、それが馬援に変な劣等感を与えてしまったが、朱勃本人は、「史記」にも登場する英雄を先祖にいただいた馬援のことを、大変尊敬していた。だが、それが皮肉にも、二人を「友情」と呼ぶには微妙な関係にしてしまっている。現在、新王朝に仕え、渭城県の県宰(県令)を勤めているが……。
正史では、朱勃が堂々と登場するのは、馬援の幼き時と、馬援の死後のみである。
CVイメージ:遠藤綾
・
馬援の長兄。先祖の失態により、前漢時代は仕官できなかったが、王莽が漢から皇帝の位を簒奪した後、二千石の高官となっていた。昔から優しい性格で、妹である珠寿の成長を見守り、時には相談にも乗っていたが、残念ながら、彼女の成長を見届けることなく世を去る。
CVイメージ:鈴木琢磨
「馬援伝」いかがでしたでしょうか?
この度は、翠と蒲公英たちの「ご先祖様」に当たる人の物語を想像させていただきました。
ちなみに、今回の「小話」は、どうして翠が「○○」になってしまったかを、作者個人で勝手に想像させていただきました。
なお、馬援がハトムギと関わりをもつこと自体は史実でも有名な話ですのであしからず。
ちなみに、冒頭に登場した「馬騰」は、にじファン時代に「山の上の人」様の小説に登場していたキャラで、許可を頂いたうえで掲載させていただきました。
「山の上の人」様に、改めて御礼申し上げます。
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この物語は、翠と蒲公英の「ご先祖様」を想像して書いたお話です。
話自体は史実の流れに沿っています。
それでは、どうぞ!