甲府に武田家臣団を集住させることで城下町を形成させたのは信虎である。
その信虎が自身の館として普請した躑躅ヶ崎館は、その名称通り、城というには防備は薄い。堀や石垣もあるが、城郭というほどではない。その点からすれば脆いと言ってもいいだろう。敵がどこから攻めてきてもわかるような位置に建造し、常より館から毎日強面で山々を睨むような信虎の居館が脆弱というのも、一見矛盾しているように見える。
しかし決して信虎は無能ではない。
躑躅ヶ崎館の周辺には詰め城として要害山城があり、周辺にも湯村山城や舞鶴砦が築かれている。規模という点でそれらは小さい方だが、ある意味、躑躅ヶ崎館を中心にした広域の府中防衛体制が敷かれていると言えるだろう。相模の北条の小田原城は日ノ本でも数少ない総構えと呼ばれる、城郭と城下町を丸ごと城壁で囲んだものであるが、小田原城を人工の要塞とするならば、武田の体制は鎌倉幕府の拠点であった鎌倉に似た、天然の中に人の手を加えた構えと言えるのではないだろうか。
他にも、躑躅ヶ崎館を中心にして家臣団の屋敷が並び、城下町が広がるその様は、京の都に倣ったと見られている。これを信繁は信虎が常々朝廷や幕府との関係を模索していた証なのではないかと推察していた。京の都を真似ることで、京の文化を知っていると内外に広告しようというのだ。先日やって来た左大臣三条公頼の口ぶりでも、やはり京から見ると東国とは文化を知らない野蛮な山猿だの田舎侍だのと馬鹿にする傾向があるらしい。その意味では、この甲府の街並みや信繁が披露した和歌は公頼の印象を覆すことができたのは吉と評すべきであろう。
……縁談というおまけによって信玄や信廉の不評を買ったが。
「さあさあ、若! どうなされた! もっとかかってこられよ!」
「ふう……参る!」
京の公家の認識を改めさせた甲府の街、その中の武家屋敷の1つ。差異はあれど、周囲の屋敷と大きさや形は似たり寄ったりである。その中庭から、再び小気味のいい音が響く。
小刻みに打ち合わせる乾いた木と木がぶつかる音。そこに時折、一際強く打ちつける音も混じる。足が地を絶え間なく擦り、時に踏み込み強く腹に来る低い震動が、そばの池に波紋を起こす。足元に砂埃が立ちこめ、その中で動く二者の起こす風が舞い散らして。
「せぇ!」
「おお!」
信繁の上段から振り下ろしを、木刀を額の前で横にして受ける男。何と片手でだ。
着物の裾が手繰り上げられて露出している男の二の腕が大きく膨らむ。
「うむ。良い踏み込み! 鍛錬は欠かさずにおられたようでござるな」
「1日でも欠かすと『甲山の猛虎』の拳骨を浴びてしまうからなっ……!」
男は信繁より身長も体格も大きい。身長が伸びぬと悩む兄貴分である昌景とは対極的。
豊かに生える髪は丁寧に手入れされているが、今は動き回っているので乱雑になりつつある。しかしそれがこの男の本来の髪型。癖毛らしい。昌景もそうだが、その点は叔父と甥で似通ったのか。
「ではわしから1本も取れなかった場合、拳骨と参ろうか」
「そういうことは始める前に言うべきであろう、虎昌殿。それと言っておくが、私に拳骨を浴びせて困るのは虎昌殿でもあるのだぞ?」
「……信玄様と信廉様でござるな」
「左様。たんこぶや青痣を作るたびにやりすぎだと泣いて怒って大変なあの2人に詰め寄られ、果ては傅役の板垣殿と上原殿にも冷たい態度を取られても耐えることができるのであらば、好きになさるがよろしかろう」
「若。それはちと無情な仕打ちではないか――」
「隙ありぃぃぃぃ!」
「っぬう……!?」
男が悲しそうに僅かに目を閉じた隙。それを見逃さなかった。
ちと卑怯であることは承知の上で……信繁はさらに木刀を押し込む!
四股を踏む要領で再び足を地に叩き付け、それと同時に腰を落とす。その体重を、木刀に乗せて。
咄嗟に男が――『甲山の猛虎』が左手を木刀に添えた。
信繁が、そして男も一泊遅れて、共に不敵に笑う。
「武士にあるまじき卑怯! この虎昌、そのような手は好ましく思わぬぞ!」
「ふふ。戦の最中に敵から目を逸らす方が武士としてあるまじき所業では?」
「口は達者でござるな……甘利の老あたりからの差し金かな? なれどまだまだその程度!」
「くっ!」
男が両腕を大きく広げ、その勢いで信繁の木刀を弾く。
彼の膂力に耐えきれないと咄嗟に判断したのが功を奏した。信繁はわずかに体勢を崩されるも、勢いを利用して後ろへ跳ぶ。
――止まるな!
本能の訴えに、信繁は異もなく突っ込む。すると申し合わせたように男もまた信繁の懐へ飛び込んできた。
交差。同時に木刀がぶつかり合う。
今度は鍔迫り合いに……ならない!
返す木刀が袈裟斬りと下からの打ち上げで激突。次は逆に打ち上げと袈裟斬りで。
そのとき。
信繁は顔を一瞬歪めた。苦悶の呻きは抑えたけれど。
(やはり私と虎昌殿では身体能力が違うか……!)
腕力が違う。筋力が違う。膂力が違う。
前世からの積み重ね。戦の経験。
それら『質』によって、まだ20に満たぬ体で『甲山の猛虎』についていっているが、やはり経験に体が追いつかない。
前世の信繁の最盛期であれば、それこそあの川中島合戦時の体であれば、その経験を生かし、虎昌との打ち合いも今しばらく続かせることとてできよう。
が、今は違う。あくまであるのは経験だけ。体は未完成なのだ。
腕の痺れは震えに変わる。拳にだんだんと力が入らなくなって……。
「さてさて! これにて決着かな!」
「なんの! 勝利を確信するには早かろう!」
最後の一撃。食らえとばかりに信繁は体ごと捻り倒して横薙ぎの一閃!
対して虎昌は上段からの振り下ろしで応戦!
木刀と木刀が十字を描くように交差し――衝突! と同時に真中から折れた。双方とも。
2人が込めた力――というより、八分以上は虎昌の剛力にのせいだろう。振り回された木刀も、それを受け続けてきた木刀も耐えられなかったのだ。
破片が飛び散る。頬を掠って。
それでも2人は互いを見据えて――笑っていて。
「まだまだあ!」
動いたのは虎昌の方が早かった。信繁の懐に手を伸ばし、襟を掴む。
そのまま一気に背負い上げて……一本背負い!
させるものかと信繁は無我夢中で両腕でしがみつく。虎昌の体に。
「うぬ……! 若、往生際が悪うござるぞ!」
「勝利への執念と言ってもらおう……!」
「ほほう、その意気やよし! しかしいつまで持つかな? その震えた腕で」
虎昌の言う通り。もはや震えを隠せない腕は力など入らない。もう片足を引っかけて必死にしがみついているだけだ。
傍目に見れば実に格好のつかないことだろう。
虎昌はからかうように時折グイグイと襟を引っ張って牽制してきている。いつでも投げられるとばかりに。
このまま体重をかけて逆に投げてやりたいところだが、生憎とそれができる力がない。もはや本当に為す術がなかった。
しかしこのまま一本も取れないままに終わって拳骨を食らっては兄の威厳に関わる。
ここには信玄も信廉も信龍も、それ以前に虎昌の配下や小姓1人もいないが……後でたんこぶを作った理由を聞かれて一本も取れないままに負けて拳骨を食らいましたでは、あまりに情けないではないか。
信繁にも面子や自尊心というものがある。
とは言え、ここからどうしたものか……それを考える暇すらない。
「もはや打つ手なしのようですな。なればもう終わらせるとしようか!」
「ぐっ――」
虎昌が腰を落とす。同時に片足を上げ、信繁の足を払った。信繁の体が宙に浮いて。
が。
そこで信繁が引っかけていた足がいい具合に虎昌の脛を捕えた。
虎昌も片足を上げている状態。一方で軸となる足を引っかけられるとたまらない。
「お? お、お、お!?」
「おお、と、虎昌殿! このままでは池に――」
よろけて池の方へと向かっていく虎昌。信繁は抱え上げられた状態で何もできず、虎昌は虎昌で信繁を抱えたままなので余計に不安定。
そしてそのまま……
「おっとっとっとっとぉぉぉぉ!?」
「ああああああああ!」
2人して池に落ちるのであった。
頭から池に落ち、激しく水飛沫が上がる。浅くもないが深くもないので溺れることはなかったが、いくらか水を飲んでしまう。
しばし水中で2人して絡み合った手やら足やらを解きつつ、空気を求めて水上へ勢いよく出す。
「「ぶはぁっ!」」
空気を吸い込もうとして咳き込み、苦しくなってまた吸おうとして咳き込み……その繰り返しをしばし続ける。
それがようやく落ち着くと、2人して互いを見やる。
「……ふっ……」
「くく……」
前髪から垂れる水滴にも構わず責任転嫁の視線を互いにやり取りし合い、そしておもむろに破顔し――
「「はーーーーっはっはっはっはっは!」」
びしょ濡れの体で、豪快に笑い合う。
武家屋敷の並ぶ通りに、一際愉快な笑声が響くのだった。
小姓なり女中に替えの服を用意させようとした虎昌だが、屋敷中に人払いをかけてあったため、やむなく自身で着物を取りに行った。
しかしこれが難航。
飯富家当主であるため、自身の屋敷のことは当然熟知しているのだが……あくまでそれは武人としてのこと。一方で服はどこにしまっているのか、調理道具はどこかなどの日常的なことになるととんと無能を晒してしまう。普段からもう少し家のことに気をかけるべきと家内の者たちから忠言されてきたようだが、どうもこちらの方面にはてんで疎いのは昔からの欠点。それを今回のことで痛感したか、頭に手をやって平身低頭の虎昌に、信繁は苦笑しながら一緒になって家中を濡れた体で着物を探し回った。
「あとで屋敷中を拭き回らねばならぬな……っくしょい!」
「まことに申し訳ない。頭が上がり申さん……ぶえっくしょい!」
ようやくのことで替えの着物は見つかったのだが、まだまだ暑さが続く時期とは言え、濡れた体で長時間いたのが悪かったか、くしゃみが止まらない。
仕方がないので服を持って風呂場へ。
どのみち一汗かいた後で入ろうと思って先に女中たちに用意させていたようで、すでに湯はいい加減に温まっていた。
体を洗ってから湯に浸かりたいところであるが……冷えた体は先に湯に浸かることを求めており、2人揃って軽く体を洗った後、思い切り飛び込んだ。
「「……あ~~~……へっくしょい!」」
実に絵にもならない格好を揃って晒す。鼻をぐずらせながら共に失笑した。
「こんなところを信玄たちに見られたら呆れられること間違いなしだな」
「わしもこんなところを信方めらに見つかったら、小言どころではござらん」
「その光景、容易に浮かぶぞ。まあ、妹たちに振り回されている傅役たちだ。小言を吐ける機会とあれば遠慮容赦なくかかろう」
「まったく。血も涙もない連中でござる」
「『甲山の猛虎』も形無しだな」
「虎とて敵わぬものはあり申す……へえっくしょいぃ!」
飯富の屋敷の風呂はそれほど広くない。とは言え、男2人が足を伸ばす程度は問題ないが。
虎昌は浴槽のふちに両腕を乗せ、豪気な性格そのままの姿を見せていた。信繁も信繁で片腕をつきつつ手拭いを頭に乗せて。
しばしお互い天井を見上げたり、目を閉じて静かに息をついたり……そうして音も立てず、ただ湯気だけが立ち上っていく。
……沈黙が漂う。決して苦ではない類の。
信玄と信方、信廉と昌辰、信龍と虎泰にもそれぞれで信頼関係がある。だがそれを以ってしても、信玄や信廉、信龍は時折不思議に思っているのが、この信繁と虎昌の無言の間だった。言葉なしでも通じ合うというのは信繁と彼女たちの間でもままあること。それ自体は不思議ではないのだ。しかしながら信繁と彼女たちの間で読み取れるのは互いの思考に限られる。
そこにどんな感情が籠っているのか?
この点において違った。思考と感情。それが同時に伝わっているかどうかの違い。
信玄たちはそこに信繁への不満と虎昌への嫉妬を抱いており、信方たち傅役に尋ねたことがある。その時、傅役たちを代表して答えたのは虎泰であった。
――『姫君方にも板垣殿、上原殿、そして私も含めて、一言で言えば絆と申せるものがございましょう。特に信玄様と板垣殿、信廉様と上原殿は女同士。男ではわからぬものもわかりましょう』
――『男同士……だからこそわかるものがある、と?』
信繁はその場に居合わせなかったのだから知る由もない。
されどこのときの虎泰の表情は、信玄の答えに笑みを以って頷きながらどこか侘しさのようなものがあった。例えて言わば……息子が欲しかったが娘ばかり生まれてきたときの男親とでも形容しようか。
――『わしも信龍様の傅役を務めておりますが、その過程でやはり性別が異なることでわからぬことも多々ございます。傅役は同性が務めるがこの世の慣わしでございますが、その理由は、こういうところにあるのやもしれませぬな』
飯富・板垣・上原・甘利。武田の四名臣。
その中で最も歳を重ねた老臣の言葉に、信方も昌辰も静かに頷いていた。それを見ては、信玄も信廉も信龍も続ける言葉がなかった。
虎泰も、もしかしたら信繁の傅役を務めたかったのかもしれない。決して信龍の傅役であることを不満に思っているというのではなく、男として男を育て上げてみたかったという、息子を欲する男親の心情のようなものがあったのだろうか。
信玄たち姉妹に、そして虎泰・信方・昌辰らにも立ち入れぬ、虎泰曰く『絆』を持つ当の信繁と虎昌は、今まさに彼らがある種の羨望を抱く理由である沈黙と無言の時を楽しんでいた。
「――その点」
先に沈黙を破ったのは虎昌であった。変わらず天井を見上げたままで。
「若は手のかからぬ方でござった。ゆえに、小言などわしにはあり申さん……あり申さんのだが」
そこで顔を信繁の方へやり、虎昌はその豪気な性格には珍しく、少し寂しそうな顔をした。
「敢えて申すのならば、手のかからぬことこそが物足りなんだということか」
「……そうか」
謝るところではない。それは虎昌が求めているものではない。
付き合いは長いのだ。特に信虎から疎まれ始めてからこの方、信虎に似て気の強いこの男は、信繁には本当の『父』と言っても遜色ない存在であったのだから。疎まれている信繁の傅役であることに文句を言わず、信繁を侮辱する者には信玄でさえ喉を鳴らす一喝と拳骨を以って対し、どこまでも信繁を武田一門として恥じることの無き人間へと育て上げようとしてくれた。
それだけではない。
何より、信繁には前世の記憶という、異端とも言うべき要素がある。これは信繁にとって利点と言えたが、同時に前世の人々と完全に切り離された孤独を否が応にも自覚させる欠点もあったのだ。妹である信玄だが、信繁にとっては正直、別人であるという印象がどうしても抜けない。信繁にとって武田信玄と言えば第一に前世の兄であり、現世の信玄はどうしても実の妹というより、急にできた義理の妹くらいの感覚なのだ。だから血の繋がりがあるのに実の妹と思いきれず、彼女が慕ってくれても心から受け入れることはできなかった時期がある。
ここに信虎から疎まれるという要素が加わると、一層信繁の孤独感は助長されることになった。生前は愛してくれた父が自分を遠ざけるのだ。これを情と完全に切り離して別の世だからという理由だけで堪えられるはずもなかった。
それでも信繁が毅然と立っていられるのは、偏に信玄が魅せてくれる器量と才覚、そして虎昌と昌景のおかげであった。
いや、むしろ虎昌と昌景の存在があったからこそ、妹の信玄を妹として受け入れることができたと言うべきだ。
豪放磊落な虎昌だが、相手の心情を察する繊細さも持ち合わせている。その繊細さがあったからこそ、苦しむ領民のために信虎へも一時は反抗した。
虎昌の育て方は一言、『不器用』に尽きる。虎泰・信方・昌辰と比べても、大雑把で少々無計画なところもある。
然れども、怒るべきは怒り、失敗は次に繋げればよろしいと豪快に笑い、共に初陣を飾って酒を飲み……その育て方に『間違い』と呼べるものはない。そう信繁は思っている。『不器用』とは言っても、それは器用に立ち回ることができないだけだ。虎泰のように言葉の裏に教訓を滲ませるだとか、信方のように不得手なことにも信玄のために卒なくこなせるようになる柔軟な対応ができるだとか、昌辰のように多彩な方面に至るまで広く教養の手が及ぶとか、そういうことができないだけで。その分、彼は真っ直ぐに信繁にぶつかり、対等に接し、時に言い合い、時に肩を並べた。主君の子の傅役になったとは言え、間違っていると思えば躊躇なく拳骨を食わらせるなど、虎泰にも信方にも昌辰にもできはしない。
――『若! 身内を身内と思えぬとは何事! 若が何故信玄様を遠ざけられるのかは、この虎昌、とんとわかりませぬ! 若には若なりの考えもござろうが……しかし! 人を真っ直ぐに、その人そのものを見ようとせず、ただ自分の考えや立場に固執して遠ざけるなどと、武田一門がどうとか以前に、1人の兄として、1人の人として、そして1人の男として、恥を知りなされ!』
――『太郎。お前が次郎様のことを受け入れにくい何かを抱えていることは察する。わしとてこの成長せぬ体が時に憎く、時に鬱陶しい。しかしな、この体は父上と母上がくださったもの。そしてわしという人間を構成するになくてはならぬもの。この体があってわしは生かされておる。だからわしは憎くとも鬱陶しくとも、同時にこの体に感謝もしておる。のう、太郎。お前も1つ、次郎様に対するしがらみを一度全て捨ててみてはどうじゃ? それができれば苦労はせんと言いたいだろうが……お前とて、自らを兄上と慕う女子を泣かせてそのままにしておける奴ではあるまい。このまま嘆いておるより、苦労を受け入れてでも気張ってみる方が、建設的だとは思わぬか?』
『父』と『兄』の言葉を、今でも信繁は一言一句、間違いなく諳んじることができる。それだけ2人の言葉は信繁を信繁足らしめる何かに――きっと魂と称するのがいいのだろう――訴えかけた。いや、虎昌の場合は訴えというより、拳骨を以って叩き直されたと形容すべきだろうが。
それからだ。現世の信玄を受け入れ、彼女の兄として支えようと思えたのは。前世の武田信玄に囚われていた自分を振り払うことができたのは。
虎泰・信方・昌辰でもきっと、別の手段で信繁を導くことはできたかもしれない。けれど信繁は虎昌が一番自分にはよかったのだと思う。実際はどうなるかわからないけれど、虎昌が傅役になった現実においては、間違いなく彼こそが最も自分の傅役に合っていると確信すらしている。
……信玄たちに理解できぬものがあるのは当然と言うべきかもしれない。この信繁と虎昌、そして信繁と昌景の間にあるものは、決してこれを知らぬ余人には立ち入ることなどできないのだから。
「若を武田家当主にしようとはわしは考えておりませなんだ。なるもならぬも当人次第。わしはただ、若が当主になるに当たって必要なものは全て揃えるつもりでござった。いざ若が当主になると覚悟をお持ちになった時、不足などないように。いつでも若が当主になれるように」
「…………」
「周囲が反対するのであればわしは全力を以って信繁様を支え、必要とあれば武力を以ってお守りする所存にて今日まで若の傅役を務めて参った」
大家の当主になるのは当人次第――そう虎昌は言う。
もちろん、当人の意思は無視できない。しかし当人の意思が絶対ではない。当人にその意思があろうと、周囲がそれを許さぬ時がある。当人にその意思がなくとも、逆に抱え上げようとする者もいよう。だからその点で虎昌の考えは甘いと言える。実際、信方などは信玄こそを当主に据えるつもりで信玄を育て上げていると聞く。
だが虎昌には虎昌なりの考えがあった。
信方同様、必要だと判断すれば知識でも技術でも叩き込む。自分で無理なら学者でも武芸者でも連れ込んで。そして信繁が当主になるに必要なものはすべて身に付けた上で、なおも周囲が反対するのなら、その周囲を叩き伏せる覚悟で。それが話し合いだろうと戦となろうともだ。ただただ、信繁の意思が周囲に左右されることなどないように。当人の意思こそが絶対ではないのなら、当人の意思こそを絶対になるようにする――それが虎昌のやり方だった。
「わしは間違っていたのでござろうか……? わしのやり方は誤りであったのでござろうか……?」
「――これは『甲山の猛虎』飯富兵部少輔虎昌の言葉とは思えぬな」
虎昌の覚悟は本物であろう。信虎に疎まれた信繁を、それでも何ら変わらず支え育ててきたのだ。
信虎としては、信繁が愚かであるのならば尚の事家中の意見を信玄に統一しやすい。なのに虎昌はそれをさせじとしているに等しい。ある意味で反逆行為である。
そんな虎昌が零した弱音に、信繁はそんな虎昌は見たくないと、割り込むように言葉を挟み込んだ。
虎昌の弱音の原因は、何よりも自分にあることを信繁とてわかっていないわけではない。
最初から当主としての器ではないと思っている信繁。それは虎昌のこれまでの傅役としての在り方を崩すようなものだ。今日までの彼の忠義を無にしかねない……いや、すでに無にしているのである。
慰めなどに意味はない。しかしそれでも、信繁は虎昌に自信を持っていてほしかった。貴方の育て方に間違いなどなく、信繁に前世の記憶がなかったのならば、間違いなく当主としての器を持った人間が育ったであろうと。
(……そうか、それこそ私の思い違いか)
信繁は改めて自身の軽挙を恥じた。
虎昌は当主になるかならないかは信繁の意思に任せたが、当主として必要と思われるものをすべて信繁に教え込んだのだ。その育て方に間違いがないと言うのであれば、尚の事前世の記憶など関係ないではないか。当主として申し分ない能力があると自信を持つことこそが、虎昌の労に報いる何よりの答えだ。
しかし自分は本当に当主足りえるのか。そう考えたとき、いつも信繁の脳裏に浮かぶのはやはり『兄上』だ。
(……それが間違いなのだな)
『武田信玄』こそが武田家当主。
固定化したその概念こそが間違いの原因。
これでは信玄に家督を譲るという話も、前世をすべての言い訳にしているようなものとなってしまう。自身の至らなさを前世のせいにして、当主の座から逃げていると受け取られかねないではないか。
――『信繁様は武田家当主におなりになる覚悟はありや?』
先日、勘助にそう問われて信繁は結局答えられなかった。
あのときは当主になる覚悟はないなどと言ってしまえば、あまりに情けなく、傅役である虎昌は責任を取らされるかもしれない……そんなことを考えたものだが、結局のところ、それは言い訳に過ぎなかったのだろう。本当は、覚悟のあるなしを問われ、前世や副将という便利な言葉に逃げただけだ。
そもそも副将とは。
大将にいざ何かがあった時、代わりに全軍の指揮を引き継がねばならない。軍だけではない。その後の家のことについても考えねばならない。
ましてや信繁は武田一門。『武田信玄』の弟だ。信玄の子らがまだまだ当主として未成熟であったことを考えれば、信玄に何かあれば信繁が武田を率いる立場となった可能性は非常に高い。それを、『武田信玄』がわかっていなかったなどということがあろうか? 否、あるはずがないのだ。ならばその『武田信玄』が副将を任せた信繁に、当主の器はないなどと、自分で認めていいのか? それは『兄上』の考えと信頼を裏切ることではないのか。
考え直せ、武田信繁。お前は『武田信玄』から、そしてこの世にて飯富虎昌から何を学んできた。何を得てきた。
武田家当主として遜色ない知識を、武芸を、そして――武田の誇り、武田の魂ではないか。
ならば!
覚悟のあるなしを聞かれたとき、答えるべきは1つしかないではないか。
「――私は武田家当主となる覚悟がある」
その時の虎昌の顔を、信繁は生涯忘れないだろう。
信繁の言葉を吟味するように静かに閉じられた彼の目から落ちた滴。彼は湯を顔にかけて隠したが、その震える口は隠せていない。そしてその口がゆっくりと左右に広がり、穏やかな笑みへと変わり。1つ、深く、深く……息を吐いて。
相変わらず片手で目元を覆ったままなれど、彼はきっと満足してくれているはずだ。
「然れども、武田家の次期当主には信玄こそが相応しい。それが私の考えだ、虎昌殿」
「なぜ若が武田の主になろうとなさらぬ?」
「私より信玄の方が器量も才覚も勝る……武田家のためを思うのならば、信玄こそが当主になるべきだ。それは虎昌殿とてお分かりであろう?」
「理解してござる。然れども、わしは若にその気あらば、全力でこれを実現させるために――」
「虎昌殿。それ以上は口にするな。武田を割るおつもりか?」
「……そうでござるな」
少し身を乗り出した虎昌を、信繁は手で制する。虎昌は何度か瞬きをしてから静かに引き下がった。
勘助と昌景が持ってきた書状。あれは今、信繁が丁重に預かっている。
四名臣たる虎昌たちが署名されていない状態では有効性はかなり疑問だ。例え虎昌たちを説得できても、まだ小山田氏と穴山氏の件があるが、まずは1つずつ。それゆえの今回の訪問だ。
「虎昌殿。信玄の方が武田家当主に相応しいことを理解していながら私を推そうとするのは何故か」
「……それを、私の口から言えと?」
「いや。これは尋ねるつもりで言ったのではない。その答えはとうに得ている」
虎昌が少し怒ったように睨んできた。さすがは『甲山の猛虎』と恐れられるだけあり、体にある傷も相まって実に怖気をかき立てる。今も昔も、そして前世でも、この男は怒らせたら怖い。震えが声に乗らないようにするので信繁も必死だった。
虎昌が信玄の方が相応しいと悟りながら信繁を推そうとするのは……自らが傅役を務めた信繁への遠慮。そして何よりは今しがた虎昌も口にした、自らが信繁の傅役になるに当たって決めたやり方――つまりは信念によるところが最大の理由。周囲がどう言おうと、信繁の意思がすべてを決めるように動く――それゆえに周囲が信玄こそ相応しいと言おうと動じない。動じてはならない。
「しかし虎昌殿。貴殿の在り方に寄るならば、私が当主になる意思はなく、信玄に譲ると言えば、それを受け入れるということでもないのか?」
「……それが本当に、若の意思であるならば」
「私の意思に、当主への未練や執着が感じられると? 失礼ながら、虎昌殿の方にこそそういったものを感じるのだが」
「感じずにはいられぬのでござる」
虎昌がふと視線を逸らし、格子状の窓へと顔を向けた。
まだ夕方というにも半刻から一刻は時もあろう。この日の長い時期だ。まだ夕焼けにも早かろう。その証拠に外は青空である。
虎昌は真っ直ぐな人物だ。隠すということができない。
だから彼の顔に表れている複雑な表情は、そのまま彼の苦渋の心情を表しているのだろう。
信繁は声をかけることなく、此度は彼の言葉を待つ。
「わしは、武田家に一度、刃向かっております」
信虎よりその名の一字を賜るほどの忠臣にして武田四名臣の1人である虎昌は、過去に一度、栗原信真・大井信業・今井信是ら甲斐国人らと共に信虎に対して反旗を翻している。当時、すでに信虎の武略一辺倒に不満を持つ国人や領民は多く、虎昌はこれに呼応したのだ。そんな虎昌も御岳合戦にて信虎に敗れ、信虎にしては珍しく虎昌の帰参を許している。
「わしは許されました。本来ならその場で首を刎ねられても当然の立場でありながら。であるがこそ、わしは武田家に一層の忠勤を見せねばなりませぬ」
「…………」
「傅役を任されたとあり、わしは何よりの機会と思うた。若、貴方はわしの希望でもござった」
「虎昌殿……」
「わしは先ほどああ申し上げたが……その実、わしは若を当主にしたかったのやもしれませぬ」
裏切ったからこそ、許されたとあっては誰よりも働き、武田家に尽くさなくてはならない。そう考えた虎昌の働きは信繁をして文句などない。虎昌は今の武田家にとってなくてはならぬ存在だ。だからこその武田四名臣ではないか。
だが虎昌は周囲がどう言おうとも信繁のためにと、愚直にそのやり方で育ててきた男だ。周囲の評価で自身はよくやっているとは思えない性格なのかもしれない。あくまで自分が納得できる成果を出さなくてはならないのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
だからこそ、この男は『不器用』なのだ。
しかし傅役となれば、やはり自身が育てた一門こそが当主となってほしいものである。それも信繁は長子である。順当にいけば、信繁は自動的に家督を継ぐ身なのだ。当主として育て上げて当然と言えば当然なのだ。武田のために尽くすと決めた虎昌にしてみれば、どんなに言い繕っても信繁こそを当主にするという思いがあってもおかしいことではない。
「若を立派な当主に育て上げ、そうすることで武田家への忠義として示そうといたした」
これは言ってみれば信繁をそのための道具のように扱ったにも等しいことであるが、信繁が怒る理由にはならなかった。この虎昌もまた、山県・馬場・内藤・工藤ら亡き4将と同じ忠義の臣。信虎を諌めようとするその心を、どうして怒れようか。
それに信繁は決して虎昌が自分を道具扱いなどしていないことはよくわかっている。幼い頃に食らった拳骨と先の言葉、あれのどこに、信繁を道具として見ているような色があろうか。信繁を正しく、人後に落ちぬ人間に育てようと真っ直ぐにぶつかってくれた男の言葉、疑う余地などあろうはずもなし。ここで疑うほど、信繁は人後に落ちているつもりはなかった。
「しかし……ある時より、若には当主になるつもりはなく、信玄様こそを推そうとされておられると知るに至り、わしも悩み申した。それが若の意思なれど、そこは戒めて若を奮起させるのがわしの傅役としての責務であり、御館様への忠義ではないかと」
「何故、そうされなんだ?」
「是非もござらぬ。若の意思こそを尊重せんと育ててきたわしが若に当主となることを強要することは、わしがわし自身を否定することに繋がる。それは若に対しても、御館様に対しても、わし自身に対しても、不忠でござろう」
自分が信繁の意見を左右させる存在になってしまうわけにはいかなかった。そんな矛盾を抱えた人間が傅役であるなど、信繁の生涯の汚点となってしまいかねない。一度は裏切った自分が非難されることは当然なれど、信繁にまで非難が波及することは避けたかった。
信繁は、この豪気な男が豪快な笑みの奥に隠してきた悩みに、人知れず謝罪した。謝罪など求めていないと知っていても、この男の願いを叶えてやることができなかったのは事実であり、その忠心に応じられなかったことは不徳の致すところ。信玄が継ぐべきだという意見に変わりはない。然れども、その選択の陰で、こうして期待を裏切り、悲しませてしまっていることを忘れてはいけないのだから。
信繁は心中で謝罪しつつ、そして虎昌に頭を下げた。
「虎昌殿。貴殿の篤き忠義にはこの信繁、心より痛み入る。然れども、私は跡継ぎにはやはり信玄こそを推す。どうか、理解してほしい」
「…………」
虎昌は顔を信繁の方に戻し、自分に頭を下げる信繁を見据えた。
「若。1つお訊ねしたい」
「うむ」
「それは、若がかつて言っておられた、前世の御自分のことがおありになるからか?」
驚くことはない。
信繁はこの世において、2人にだけ――虎昌と昌景にだけは、前世のことを話していた。
信玄との問題を解消した後、切欠を与えてくれた2人に対して真実を話しておくことは責務であるような気がしたからだ。それに、虎昌も昌景も信繁の能力に関して不可解さと一種の恐ろしさを抱えていたのを、信繁には感じ取れていたのも理由の1つである。何も虎昌と昌景に限った事ではなく、武田家中でも信繁が幼い頃からすでに知っていたが如き言動を繰り返すことに、例え信繁がそれとなく隠していても気づく者は決して少なくなかったのだ。優秀な武田家臣団を前に、如何に信繁であろうとも隠し通すことは難しかった。
虎昌と昌景は最初こそ話半分だったが、信繁がそれまでそれとなく隠していた能力を全開で見せる――体は当然幼いままなので、その辺りの限界はあったが――と、2人は信じられない思いを抱えながらも理解はしてくれた。
「けだし、理由の1つではある」
信繁は嘘など吐くことなく、正直に答えた。
武田の副将としての在り方は、完全に前世から受け継いだものである。これなしにして信玄への家督譲渡は語れない。
しかし虎昌の顔は一層の厳しさを増す。少しでも嘘を吐こうものならば斬られるのではないか……そんな尋問されているが如き緊張感が信繁を襲う。だがこれに打ち負けるわけにはいかない。『甲山の猛虎』飯富虎昌を説得しようというのだ。この程度に恐れをなして縮こまっていては、その先などない。
「若。無礼は承知でお訊ねするが、若は前世の御自分を理由に武田家当主に相応しくないと思っておられるのではあるまいか? 実は若は前世にて当主を務め、そこで何らかの失敗をなされた。その再現を恐れて当主の責務を信玄様に譲ってしまおうとなさっているのではないか?」
「……逃げているのではないかと、そう言いたいのだな?」
「左様」
虎昌は浴槽の縁にかけていた腕を組み、まるで軍議の席に在るかのように、四名臣としての威厳を発していた。そこに傅役であることで信繁を庇おうなどの甘さはない。武田一門として、そして武田を支える重臣として、男たちの一対一の対等な勝負。互いに己の中にある信念をかけて。
すぐには信繁も答えなかった。答え方を選んでいると、虎昌には映るかもしれない。しかしそうではなく、信繁は今一度それはないことを、改めて自身に問いかけているだけだ。そしてその間はほんの僅か。
「それはない」
後は、出た答えを、はっきりと口にするだけだった。
虎昌は動かない。目線も、口も、体のどこも。推し量っているのかもしれない。
信繁は続きを促されていると読み、先を続けた。
「こればかりは信じてもらうしかないことだが、前世において私は武田信玄の弟であり、兄より武田の副将を任されていた。私が当主に相応しくないと思うのは、私が副将としての在り方に特化しているからであって、けだしこれは前世のせいだとも言える」
副将としての在り方が身に染みているのは確かに前世のことがあるからであり、それが当主に相応しいと言えない要素になりえるのならば、すなわち前世の自分に原因があると言えよう。利点であると同時に欠点でもあること。これは認めなくてはならない。
信繁は湯の中に沈む己の手を見下ろす。水に揺れる己の手を。
「正直に申せば、つい先ほどまで私は逃げていたと言えよう。前世、副将……その言葉に依存していた」
「いきなり心変わりされたと?」
「わかったからだ、虎昌殿。本物の覚悟というものを。家を率いる者としての覚悟を。虎昌殿と『兄上』が、教えてくれたことだ」
「……そうでござるか」
「だが例え前世のことがなくとも、副将でなかったとしても。私よりも信玄こそが武田の当主に相応しいことは変わらない」
「器量と才覚があるからでござるか?」
「如何にも。だがそれだけではない」
虎昌が何事か続けようと口を開いたが、信繁はそれを封じるように言葉を重ねた。
器量と才覚。それが武田家当主としての器量と才覚であることは事実だ。
信繁もまた、今しがた武田家当主になる覚悟はあると言った。副将に特化していることも事実なれど、いざというときには武田を率いる立場であったのだ。信繁は自らに当主としての器があるとして考えたが、それでもやはり武田家当主としては相応しいのは信玄であると断言できる。
「虎昌殿に逆に1つ問う。私が当主になったとして、武田家は天下を狙えると思うか?」
「っ! 若。天下と、そう申されたか?」
「左様。天下だ」
「…………」
虎昌も戦国の世に生を受けた武士。天下への野心がないわけがない。武田の騎馬軍団であれば天下を狙うこともできるだろう。
だがその道のりは険しい。そんじょそこらの『優秀』なだけの人物では天下に号令することなど無理だ。実際、信虎でさえ今だに甲斐一国に留まっており、近隣でも相模の北条、駿河の今川も優秀な当主が治めている。彼らもまた天下を狙える立場である。日ノ本全土で見れば、毛利元就・大友宗麟・龍造寺隆信・島津貴久・三好長慶などの強豪がひしめいている。彼ら大大名は元より、最近名を上げつつある奥州の伊達政宗や、彼女と奥州の覇権を争う最上や蘆名、南部、そして各地方で有力な力を維持し、虎視眈々と覇を狙う佐竹や織田、尼子や長宗我部。天下を狙うのならばそんな彼らを下していかねばならない。優秀なだけの当主では生き残れない。時に狡賢く、時に正々堂々と、時に冷酷に、時に正義に満ち、一際存在感を持つ者でなければならない。
「私には前世の記憶がある。だから甲斐一国や、信濃、上野、下野、駿河、遠江……そのあたりまでくらいなら可能かもしれない。しかしそれ以上となると、私の手には余るだろう。しかし信玄は違う。あれの器量と才覚は、日ノ本をも治めることができるだけのものだ」
「武田が天下を獲ること……それが前提での、信玄様の推挙でござるか?」
「当然だ。私は甲斐一国や関東甲信越程度の一地方大名で武田を終わらせる気などない。もう一度言うがな、虎昌殿。私は武田の副将だった。そう、日ノ本全土を統一し、天下に号令しようとした武田の副将だ。一地方大名で武田を終わらせる気なら、信玄に任せるまでもない」
多少強引な手を使おうとも、歴史を改変する覚悟を以ってかかっていこう。1つの歴史の先と、37年に及ぶ武田一門としての前世の記憶や知識、経験があればできる。信玄や信廉、信龍も優秀だし、武田家臣団も精強揃い。むしろ前世より充実しているとさえ言える。この条件で関東甲信越に覇を唱えることは決して不可能ではない。いや、むしろそれくらいできずして天下に号令をかけようとした武田の副将など名乗れるわけがない。
以前も思ったものだが、気持ち1つでここまで変わるものなのだろうか。信繁は自らがまだまだ視野が狭いと断じた。
「……ふ……くく……だーーーーっはっはっはっはっは!」
静かに信繁が感慨に耽っていたのを、台無しにするような高笑い。湯が波立ち、声が反響して浴場全体を震わせる。
その原因である虎昌は、まるで子供のように腹を抑え、体を揺すり、また堪えきれないように突然体を起こし、その勢いで天井を見上げながら大声で笑い続ける。さすがの信繁もこれには唖然とするばかりだ。
「はっはっは! 天下! 天下と申された! この若が! ついつい先ほどまで当主としての覚悟が見えなかった若が! はっはっはっはっは!」
「…………」
何だか馬鹿にされているようで、少々信繁は顔を顰めた。しかしそんなこと露とも知らず、虎昌はまだ笑い続ける。
が、突然。
虎昌が両手をかざしたと思いきや、胡坐をかいた自身の膝へと叩き下ろす。
湯が思い切り爆ぜ、高々と湯が舞い上がり――信繁へと降り注ぐ。
幾ら何でも無礼が過ぎるではないかと信繁が抗議しようとした、そのとき。
「――その意気やよし!!」
虎昌が吠えた。まさに猛虎が雄叫びを上げたかのようだ。
信玄とはまた違う、腹に響く重い覇気。だが不思議と、恐怖など感じなかった。
それは……虎昌が浮かべている顔が、これ以上ないくらいに満足そうで楽しげなものだからだろうか。
「よくぞ申された、若!」
「虎昌殿……」
「そうじゃ。わしが育てたのだからそれくらい言ってもらわねば、わしは認めませぬ。しかし天下か。わしも天下を狙いたいと思うていたが、いつの間にやら天下のことより甲斐のことばかりに目がいっておったわ。歳か? いやいや、わしはまだまだ若うござる! のう、若!」
「……当たり前であろう。こんな元気な老いぼれがいて堪るものか」
「わっはっはっはっはっは! けだしその通りでござるな! 若も言うようになられたものよ! はっはっはっはっはっは!」
またひとしきり笑い、信繁ももはや虎昌を止めようとはしなかった。心底満足そうな顔をして、そして豪気な性格そのままに豪快に笑う彼を見ていると、信繁もまた何とも言えない温かい気持ちになるのだ。
感無量。
ふと信繁の脳裏にそんな言葉が浮かび、これがそうなのかもしれないと思った。
「わかり申した。それが若の本心であるのなら、わしは喜んで若に従おうぞ」
「虎昌殿。感謝する……!」
「しかし若。本題はこれからでござるぞ?」
「わかっている」
信繁が顔を上げると、そこには厳しい表情で睨みつけてくる虎昌がいた。
いや、虎昌としては睨んでいるつもりなどないのだろうが、彼が真剣みを帯びると自然とこういう顔つきになるのだ。猛虎と称されるのはここに一因があるのかもしれない。
とにもかくにも。
虎昌の説得。その難儀をこなしたが、まだまだ課題は山ほどある。
信虎からどうやって当主の座を信玄へ譲渡させるか。信玄自身の説得もせねばならないし、家臣団の結束も固めねばならない。特に小山田氏の動向にきな臭いものがあると勘助が伝えてきたこともある。北条や今川は同盟状態にあるも信用は完全ではない。そして信濃の勢力は必ず何か動きを見せるだろうから、これを牽制しなくてはならない。亡き4将の領内の不平不満もどうにかして抑えなくては。これを上手く抑えれば4将の遺族や領民の支持を取り付けることも可能だろう。
つらつらと課題を頭の中で並べていると、少々ぐらりと体が揺らいだ。思考が一気に崩れ、気づけば目の前も何だかぼやけているではないか。
「……いかん。考えてみればどれだけ湯に浸かっているのか……」
「……おお、そ、そうでござった。むう、この飯富虎昌が湯当たりで倒れたなど、飯富家末代までの恥じゃ。信方めらに笑われかねん」
「虎昌殿、足がふらついておるぞ? しっかりいたせ……」
「若こそ、どこを見ておられるか。わしはこっちでござるぞ……」
いい年をした男2人、ふらふらと千鳥足で風呂場から出ていく。
しばし後、脱衣所で揃って半裸の状態でぼうっとしていた2人が女中と小姓に見つかり、風邪をひきますよと怒鳴られ、さらには屋敷中濡れた跡があると叱られる羽目になる。
ちなみに。
翌日、見事に風邪をひき……
「っくしょい!」
「兄上! 風邪をひくなど鍛えが足りないぞ!」
「ぬう……面目ない」
「仕方ないですね。兄上、こっちを向いてください。鼻を拭かなくては」
「助かる、信廉」
「まったく……兄上は自覚が足りないのでは? いろいろと」
「……返す言葉がない」
事情を知った信玄・信廉・信龍に何をしていたのかと呆れられ……
「自覚が足りな過ぎるわね。ああ、こんなうつけが私たちと並ぶ四名臣だなどと嘆かわしい……」
「ええい、やかましい、信方! チクチクチクチクと嫌味ったらしいことこの上ないわい!」
「此度ばかりは援護の余地もありませんわね。信繁様にまで風邪をひかせるなどと……」
「自業自得じゃろう。少しは反省されるがよい」
「ぐぅ……そう言わずに助けてくれい、昌辰殿。老も。この信方め、朝からずっとこれじゃぞ。しつこいにもほどが――ぶええっくしょぉい!」
「ぎゃああああああああ!? ケダモノの汚物がああああ!」
「誰がケダモノじゃ!――ぶへえっくしょいぃぃぃ!」
信方・昌辰・虎泰には小言を食らって、げんなりする信繁と虎昌の姿があったそうな。
――続く――
【後書き】
信繁の前世については誰にも知らせないか、少しなりとも知っている人を作るか。これは拙作を執筆するに当たってずっと悩んでいたことでもありました。今話を執筆するまでずっと悩んでいたのですが、結果的に虎昌と昌景にだけは知らせることにしました。今後知ることになる人物が出てくるかについても考えてはいます。ただホイホイ知らせていいことでもありませんので、要注意なのですけれども。
一度信虎に反旗を翻している虎昌だからこそ、信繁が信虎を当主から引きずりおろそうとしていることに関して、簡単に頷かないのではないかと考えたのが、今回の説得に繋がっています。ただ、虎昌は史実において信玄の子である義信の件で切腹しています。なので私は虎昌が結構野心的な人だったのかもしれないと思い、拙作においてもそのように描く方向でも思案していました。実際のところ、史実では信虎追放は信玄が主導したというのが一般の認識として半ば以上定着しているのですが、信玄以上に武田家臣団によるものが大きかった可能性もあります。
武田家臣団は独立性の強い性格で、主家に対する忠義よりも自家の存続や繁栄を第一に考える気質があるとも言われます。信虎を追い出したのも、武田家に与するにおいて信虎より信玄を支援することで、信玄が当主になった際の影響力を持とうと考えたり、武田家と近い家柄や深く関わっている者の場合、武田家が崩壊すると自家もただでは済まないからそうなる前に信玄を当主にしようとしたり……とまあ、こういう考えもあるようです。
そう考えると武田家臣団は随分と忠義とはかけ離れていて、武人らしくないと捉えられそうですが……「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」の言葉で有名な藤堂高虎も何度も主人を変えています。実は儒教広まった江戸時代以前では、自分が仕えるに相応しい主人を見つけるために点々と鞍替えすることは決して悪いことではなかったとされており、武田家臣団が特殊だったわけでもないようです。まあ、義に厚い上杉謙信がいたように、この時代にもこれを不忠だと批判する人間はもちろん当時にもいたようですが。
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戦極甲州物語の7話目になります。
本日7月20日、にじファンがとうとう閉鎖……にじファンへのせめてもの感謝を込めて、今話を更新いたします。
2010/07/21 指摘を受けて誤字修正
ご指摘ありがとうございます。