それは寒さも幾分緩んできた昼食後の平凡な出来事。
自室での作業も大体のメドが付いて残すのは仕上げの工程のみ。若干、繊細な技巧を要するその作業にとりかかる前に
一息つこうと、久遠寺有珠が居間に顔を出したときの事だった。
「あら、珍しい・・」
朗らかな太陽の光がルームライト代わりの薄暗い居間のソファでクウクウと寝息を立てる人影がひとり。
それは、冬の頃・・、今より少し前の季節からこの館で同居生活を始めた静希 草十朗の姿であった。
彼も幾分、この館に馴染んできたのか、時折りこのような無防備な姿を見せるようになっていた。
同じ同居人である青子、曰く「最近、たるんでる・・!夕食も質素になってきたし!・・夕食も質素になってきたし・・!」
と、まぁいつもの剣幕で怒ってたりするのだが。有珠にとっては彼のこのような無防備な姿を見るのは
案外、気に触るものではなかった。廊下をくるくると見回し、居間に滑り込むと木製の扉を音を立てないように静かに閉める。
一歩、二歩、近づいてそっと顔を覗き込んで見る。静かな寝息を立てるその姿は普段の朴捻とした感じとあまり変わらず
若干緩んだ口元だけが、彼の今の精神状態を物語っているようだった。手元には若奥様御用達の料理本が一つ。
開いたページには「簡単!お手軽!家計にも優しい!今日の裏奥義滅殺メニュー・・」と書かれている。
おそらく今日の夕食の献立を練っていてそのまま寝てしまったのだろう。努力は認めたいが、もう少し選ぶ本のチョイスを
どうにかしてもらいたいとも思う。書かれているのはごく普通の野菜の煮物だし・・。
その本とそっと抜き取ると、「超ボリューム!お腹満足!絶叫!若鶏の唐揚げ」が載ってる雑誌にバレないようにすり替えておいた。
これで、今日の夕食は精がつくものになるだろう・・。今日の作業は何分体力を使う。せめてこれのくらいのボリュームは
あって欲しいものだ。有珠はこの館の冷蔵庫に「肉類」なんてものが【存在しない】ということをすっかり失念していて、
口元を隠しながら不敵な笑みをこぼしていたのだった。
それを窓の外から眺めていて、文字通り青い顔をしながら飛び去っていった駒鳥の「なんてこった!これは今日はオイラが
死亡フラグって奴ですかぃ!そりゃあ、ないぜ!マイ・マスター!ちょっくら高飛びさせて頂きやすぜぇ~!」
・・なんて、絶叫を聞いたのは、自室で春物のファッション情報を収集していた青子だけであったとかなかったとか・・。
自分の見事な仕事ぶりにすっかり満足した有珠は草十朗の斜め向かいのソファに腰掛け、お気に入りの紅茶を楽しんでいた。
ふくよかな茶葉の香りが、今までの作業の疲れをそっと取り去ってくれる。この分なら、夕食前には全て終わらせることが出来るだろう。
そうしたら、またこの場所で台所から流れる小気味良い包丁のリズムを聞きながら、数日前から読みふけっている
小説の続きを楽しむことができる。・・それは、とても良いことだ。そう思うと多少気分が明るくなる。
・・しかし。それにても今日はよく眠っているわね・・。有珠はいまだ寝息をたてる草十朗の方を眺めて、思う。
時計をみるとかれこれ居間にやってきてから三十分が経とうとしていた。その間、ずっと彼は眠ったままだ。
別に、青子がなんらかの魔術を行使している様子もないし・・。居間にはそのような魔力の乱れもない。
おそらく、ほんとうに、ただ、単に眠っているだけなのだろう。ティーカップを片手にそうぼんやりと考える。
ふいに席を立つ。彼の近くに寄ってそっと手を伸ばす。別段、思うところは無い。そう、髪に糸くずが付いていただけ。
髪に糸くずが付いていただけだから・・。少しばかり速くなった鼓動にそう言い聞かせる。初めて触れた髪の毛は少し硬質で
自分のものとは少し手触りが違っていた。前髪の上の辺りを撫でるように触れてみる。チクチクとした肌触り。
少しだけ暴れる心臓を左手で抑えるようにして、有珠はもう一度だけ草十朗の髪に触れる。
「ん?どうした?有珠?」
思いも掛けない問いかけに有珠は
「――ぽ」
「いや、少し前から目が覚めてたんだけど、有珠が静かにしてるものだからこっちも静かにしといた方がいいのかなって。
うん?髪の毛になんかゴミでもついてた?」
と自分の髪の毛をポンポンと触りながら、草十朗は言う。有珠は顔をこっちに向けることもなくブンブンと大きく顔を縦に振りながら
大慌てで居間を出て行ってしまった。若干、こころなしか顔が赤かったような・・。
草十郎は、「あれ・・?また何か余計なことを言ってしまったのだろうか・・」と首をかしげながら今日の献立の続きを練ろうとして
「あれ、何だこれ」
手元の雑誌の異変に気がついた。ああ、これのことかな、と、草十朗なりのどこかズレた気遣いをして、今日の献立は若鶏の唐揚げに
することに決めた。ほぼ空の冷蔵庫を眺めると、玄関先で
「ちょっとこれから買い物に出てくるからー」とどれに向けてでもない大きな声を掛けて、大きな扉を開いて外へ飛び出して行った。
それは寒さも幾分緩んできた昼食後のとある平凡な出来事。
何も知らない青子は、静けさの戻った居間で有珠の残していった紅茶を拝借しながら、のんびりと音楽雑誌に目を通し、
いつの間にか大きないびきをかいているのであった・・。
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魔法使いの夜の二次創作SSです。こんな日があってもいいじゃまいかと。まほよは有珠が一番好きです。