■星史郎と昴流についてあれこれ1
友達に東京BABYLONの1〜3巻を貸してたのですが、返って来たので改めて通読しました。で、最終巻から一巻に立ち戻る、という読み方を初めてしたのですが、凄い吃驚して。
答えは全部書いてあるんだなぁと…
BABYLONの究極的なテーマって、『寂しい』なのかなと思います。寂しいで始まり寂しいで終わってるんですね。しかも最初と最後で解釈とか発言者とか、全てが対称的で。 一巻で星史郎が「『寂しい』から人を好きになる、そうすれば夢が見られるし、人は夢を見ないで生きられるほど強く無い」みたいな事を言ってるんです。で、最終巻の番外で、女の子の霊が昴流に「悪い事をする人はみんな『寂しい』のかもしれないね」と言って消えていく…。けれど昴流は(多分)それを胸中で否定してるんですよね、「あの人に限ってそんなことは無い」って。
まああの時期の大川さんなので、全部計算ずくの構成なんだと思いますけども。素敵。
そうやって見た時に、星史郎が自身を説明する為に発した言葉はどういう意味だったのかなと。
「人と物の区別がつかない」とか、「昴流を『特別』だと思わない」とか、それを真に受けてるのは昴流で、というか彼だけで…。本当に心情から見ると一対一の関係だから、それは嘘だとか欺瞞だとかって実は言えない構造になってるなぁと。
逆に言うと天の龍の神威が発した「(人と物の区別がつかないという事は)物が人と同じ様に見えるということか」という文句はかなり的を射てるのではないかと。
『寂しい』から本当は殺すべき人と「賭け」をしたのかもしれない、『寂しい』から本当は殺すべき人を見逃したかもしれない、『寂しい』から本当は殺すべき人を『特別』だと思ったのかもしれない。 『寂しい』から『特別』が『好き』とは違うものだと気付かなかったのかも、見てみぬフリをしたのかもしれない。
そういう風に思ったんです。
Xで明らかになっているのは星史郎の昴流への認識の誤り(昴流の望みは自分を殺す事だろうという推測)ですが、実際のところ昴流も星史郎を勘違いしていて、前述の言葉を其の儘使うとすれば、「星史郎に限っては『寂しい』人間である訳が無い」という半ば確信に近い思い込みがそれに当たると思います。
そう考えると星史郎の誤解は解ける訳だけれど昴流の誤解は星史郎の死後、その左目を昴流が継ぐ辺りまで解けない訳ですよね。
だから昴流が星史郎が死の間際に言った例の言葉に関して「貴方はいつも、僕の予想したとおりの言葉は言ってくれない」と言い、「人が最期に言う言葉は嘘なのか、本当なのかわからない、もう聞くこともできないから」と言ったのは、その誤解が解けないからこそなのかな、と思った次第です。
一寸話は移りますが、Xの17巻で昴流が地の龍の神威から星史郎の形見かつ遺体である左目を一切合財受け取りますが、その時に地の龍の神威が「どうも他の男のつけた傷がお前(昴流)に残るのが気に喰わなかったらしい」みたいな事を言ってたと思うのですが、「自分以外の人間が昴流を(特に物理的に)傷つけたら殺す」という彼の心情はBABYLONで既に相当しっかり貫かれてるんだなと思いました。地の龍の神威が殺されなかったのは彼がああいう立ち位置(上位概念的立ち位置のキャラとでも言えば良いのか…)だからですよね多分。本当は殺したかった感が作中に漂ってる。
でも自分は好き放題傷つけて良いんだなぁ…と思うと、この心理って単なる独占欲で片付けて良いものかどうか。 星史郎というキャラの「何処かしら狂った感じ」というのの根本を探っていくと、結局は基本的に「昴流から見た星史郎」に依存する結果になるんだと思います。逆にXでの星史郎が何故かマイルドに見えるのは、暗殺業を行ってる現場が見えない事もあるとは思いますけど、それ以上に「昴流の中にある『あるべき姿』をした星史郎に囚われないで」星史郎を見られる事が大きいのかもしれない。
では前述の昴流の星史郎に対する認識の歪みを差し引いて尚、彼に残る「どことない狂気」は何を原因としているのか。そう思うとただ単に、やっぱり「昴流への執着」へと帰着してしまうんですよね。
その「執着」の在り様が、彼をあんな面倒くさいキャラにしてるんだろうなと思うのです。つまり上に戻りますけど、「自分以外の人間が昴流を傷つけたら殺す」のが心情の癖に「自分は好きなだけ傷つける」けど「殺さない(しかも万が一の為に、受動的にであれ自分の命を差し出す事で昴流の命を担保している=北都の術に甘んじている)」という。 「昴流を傷つけるものを排除する」事は「執着」という言葉の指し示す具体的な感情の範疇に収まりますし、また「殺さない」の理由は恐らく明瞭で、つまり「殺したら傷つけられない」からだと思います。でもじゃあどうして「傷つける」のかな、と。
彼は『賭け』の内容として、「好きになった人に対してするであろう事全てを一年間行う」という様な事を言っていますが、考えてみると彼のその想定は何処までも「一般論」でしか無くて(つまりその時点まで彼は『特別』な人なんて居ない訳ですから)、しかも彼にとって昴流が果たして(一般的な意味での)『好き』な相手なのかと考えると、酷く疑わしい。むしろ『特別』という言葉の含みを考えるべきだと思います。 『特別』という言葉を東京BABYLON作中で最も積極的に使っているのは、北都です。 昴流にとって星史郎は『特別』になれる人だ、と彼女は前もって確信して居た訳ですよね。彼女が言うところの『特別』は昴流にとっての『特別』ですが、面白い事に星史郎もまた、九歳の昴流に対して『特別』になれるかなれないか、という事を『賭け』の内容として提示して居ます。そして彼の言う『特別』が北都の言うところのそれとは違う。『特別』=『好き』であるという定義がそれです。
ここに含みがあると思う。
昴流にとっての『特別』は、『好き』に合流するかに見えますが、作中で一度『好き』は粉々になります。けれど昴流にとって星史郎が『特別』で在り続ける事は何の変わりも無いんです。 逆に星史郎の言うところの『特別』は彼の心に遂に立ち現れませんでした(少なくとも『東京BABYLON』の作中では)。だからこそのラストエピソードなのですが、では彼の心には何も現れなかったのかというと、多分そうではない(そこを昴流は「彼の心は何も変化しなかったのだ」と勘違いしてしまうのですが)。立ち現れたのは『好き』というよりも『賭け』をしたという事実に依拠する独占欲だと思います。
けれど其処も入れ子構造になってて(此処からはまだ考えが煮えきって居らず推測なのですが)、多分『賭け』をしようと思う事自体が既に、星四郎にとって昴流が『特別』である事の証左なのではないのか…と思うのです。
互いに、自身とは真逆の人間に惹かれたけれど、その「惹かれる」事自体が初めてだった、二人の『寂しい』人間の話――というのが東京BABYLONを表す最も普遍的な言葉なのではないかと思う次第です。
2012.05.31
■星史郎と昴流に関してあれこれ2
ざっと原作に目を通して確かめたのですが、『東京BABYLON』での『好き』の定義は「その人を特別と感じているか」という事なので、つまり『好き』≒執着なんですよね。
だから少なくとも『東京BABYLON』の時点では、星ちゃんは昴流に執着してるけどその執着の内容については考えを巡らせて居ないのでは(多分)。
え?昴流に執着してるの?と思う方も居ると思うのですが、『X』で明らかになる北都ちゃんの死ぬシーンで、「人を愛しちゃいけない人は居ない」っていう言葉を星史郎に北都ちゃんは遺して逝くのですよ。その言葉を具体的な方向で解釈するなら、「お前の昴流への執着は、そのまま持っていて良いものなんだ」という意味なんじゃないのかな、と私は思っていて…。でもあの北都ちゃんの術と言葉は本当に罪作りだと思いますよ。だって星史郎の昴流への執着を肯定・後押ししただけでなく、「執着故に」昴流に対して我儘になる星史郎に「昴流に殺される手段を持たせる」事をしちゃった訳ですから…。 でもその執着を、地の龍の神威に昴流の右目を潰される迄(正確にどこら辺で開き直ったのか定かじゃないけども)どういうものか気付かない辺りが星ちゃんの大人な様で大人じゃないところなのかなぁと思います。
あ、書きたい事見失った。
何かこう、昴流と星史郎は経済で言うところの「欲望の二重一致」状態にあるのかなぁと思ったのですけど、違うかも。
星史郎は地の龍の神威が言うとおり、昴流に対して(というか好きなものに対して)とことん我儘で残酷な最低な男なんだが、昴流も昴流で、そんな男に骨の髄まで尽くしたいっていう重病人なので、その「尽くさせたい」と「尽くしたい」の需要と供給が完全に一致してるのかなぁと思ったんです。 でももしかして、昴流は星史郎が死んだ後に「本当は自分は星史郎さんの願いを叶えたかったんじゃないのか」っていう疑念に駆られて居た堪れなくなったというのが本当かもな…とも思うし。実際17巻で「だが桜塚護の願いは叶える事が出来る」と言われた時の昴流の必死さったら無かったので…。
「星史郎を憎み、果てに殺す」事とか「星史郎からだけ傷つけられる」事とか「桜塚護を受け継ぐ」事とか「星史郎の目と力とを引き継ぐ」事とか、昴流に降って来たものって最終的にどういうものかと言えばそれは星史郎の願いなんですよね。地の龍の神威が言った「つくづく我儘な男」ってそういう意味なのかな…と。
だけど昴流の願いと星史郎の願いって別に一致してる訳じゃないし、そもそも星史郎の願いというのは天邪鬼…というか「昴流がより傷つく(けど死なない)」みたいなラインを狙ってる風があるので、願いというよりも昴流に依存した、どちらかというと昴流への要請なんですよね。そう思うと別に「一致」というよりも、そういう苦しみを味わわせて苦しむ昴流くんを見るのが好きな最低な男桜塚星史郎かな…という 何を言いたいか最早分からぬ…
結局のところ、星史郎は昴流に執着しては居るんだけど、一般的な「好意」とか、その後のCLAMP作品に表れる『好き』とは余りにも違うベクトルでの執着だなと(ただ私は先代桜塚護の遺言からして、星史郎は昴流のこと好きなんじゃないの、とかって思ってますけど)。昴流は昴流で、星史郎への『好き』は殆ど病的なものがあって、最終的には姉への想いすら捨ててしまうという。
だから星史郎は「殺してもらって漸く自分が昴流の事好きだったんだと実感する」みたいな感じだったのだろうか…星史郎の中での昴流への好意は推論でしかなくて、死に瀕して初めて分かったとか。もういいよわかんないよ大好きだよ二人とも… 書くだけ書いて満足したけどやっぱり大川ワールドの深淵に片足すら突っ込めてませんでした。
2012.05.24
■星史郎と昴流に関してあれこれ3
もう読む度に新しい発見があるんですけど、今回とりあえず星史郎さんが昴流を「好きなの嫌いなのどっちなの」って事に関して一つ解答が出ました。
今迄は「要は好きなんでしょ」と思ってたんですけど、違うなぁって。つまり「好きも嫌いも捨てられない」ってことなんじゃないですか……
昴流が「予想した最期の言葉」は「好き」なんだけど、多分星史郎さん本人が言ったのは「好きだし嫌い」みたいなことなんじゃないのかなって……
嫌いって感情を捨てることすら勿体無く思う「好き」なのかなって。
それくらいに特別な人なのかなって。
今迄は星史郎さんのお母さんが言ってたみたいに殺される人=好きと考えていたのですが、皇と桜塚が一人に集約されるというモチーフからも、愛憎半ばというかむしろどっちも、みたいな感じの方がしっくり来るんではないですかね……
2009.10.22
■帝釈天と阿修羅王の関係に、初読から四年後に漸く気付いた人の日記
帝釈天が最終巻で何度も「愛する者の居ない世界で一人残るのは辛く苦しいことだ」と言っているのですが(正確には二回だが…)、これを帝釈天が言うということが今迄どうも腑に落ちなかったのですが、今日読んで一つ思ったのは、帝釈天にとっての「愛する者」が誰だったかというと、阿修羅王だったんじゃないのか?ということです。
個人的には帝釈天の言葉が全く歪曲されていないとしても、帝釈天にとっての阿修羅王は単なる「欲しいもの」でしかないのだと思ってたわけです。
多分欲しい理由はその強さなり、幻力なりだと思うのですが。
でも、何というか阿修羅王の最期のシーンの台詞がかなり矛盾というか、納得行かない感じですよね、それだと。と思ってたし、実際この漫画でそこまで重要な部分じゃないじゃないですか、帝釈天の感情なんて。
だけど実は阿修羅王が「愛する者」で「欲しいもの」だった場合の阿修羅王と帝釈天と阿修羅、というのはそうでない場合と比べると大分変わるのでは…と。
つまりは、帝釈天から阿修羅王への想いの強さを感じ取った封印の解けた阿修羅は物凄く(無意識のうちに)帝釈天に嫉妬してる訳だし、帝釈天が守りたい「約束」は此の世で最も大切だった人との「約束」であると考えると凄くすんなりいくわけです。
蘇摩と乾闥婆王の死を見たときに、蘇摩の血を与えることを邪魔し、その後で上記の台詞を吐いたのも、それが全て「自分が身を持って知ったこと」だからでは?しかも阿修羅城から阿修羅が出てくる瞬間に彼は「阿修羅王を永遠に我が物にする代わりに」と言ってます。これは単にカニバリズムということではなく「阿修羅王を自らが殺して喰らう」ということ、幻力や天眼はその証だ、ということなのかなぁと。
だから阿修羅王が「欲しい」とは、阿修羅王を自ら「殺して」自分だけの「永遠」にしたい、その代わりに六星を集わせない、集ってしまったら次代の阿修羅を殺す、という約束をしたのかなぁと思うわけです。
2009.08.16
■CLAMPワールドって…という妄想
『ツバサ』と『xxxHolic』で一つ気になってるのは、所謂総括的な作品の『X』や『合法ドラッグ』ですらキャラを垣間見ることができたのに、何故か『Wish』の世界観が全く出てこないんです。『Wish』は『こばと。』との関連性があるから『ツバサ』に敢えて出さなかったのかな?とも思いました。あれだけファンタジーな作品でも、『xxxHolic』や『合法ドラッグ』寄り、なのかなあと。
雰囲気ですが、「ツバサ側」の作品と「Holic側」(合法ドラッグ側?)の作品があるかな、と私は考えています。ツバサ側というのは、主に異世界が舞台の作品。『聖伝』、『新・春香伝』、『CLOVER」等。これを異世界側とします。
Holic側というのは、主に擬似現代日本を舞台の作品。『カードキャプターさくら』、『ANGELIC LAYER』、『すき、だからすき。』、『こばと。』等。これを擬似現代側とします。
他に、この二つをまたいでしまう作品が『魔法騎士レイアース』、『Wish』、これらを超えているのが『東京BABYLON』、『X』、『CLAMP学園三部作』なのかなと。
超えている作品にどうして『X』以外が上がるかといえば、『東京BABYLON』と『CLAMP学園三部作』は『X』とクロスオーバー、或いはハイパーリンクの関係(ハイパーリンクにしては見え見えかな?)にあるからです。あの世界は一種の「異世界」であり、『X』の完結によりその世界の話は途切れる、と見てもいいですが、にしては東京の設定がリアルすぎます。よって「超えた」という位置づけにしました。擬似現代側の作品として取り扱わないのは、街があれだけ壊れることで他の作品とのハイパーリンクが成立しなくなってしまうからです。これを夢側とします(牙暁の言葉より)。
Holic側=合法ドラッグ側?としていることに今回少々触れようかと思います。
まず第一に、上記の分け方に従えば、『xxxHolic』も『合法ドラッグ』も、擬似現代側に入ると思います。
『xxxHolic』ですと十字学園やテレビ局、スーパーマーケットの存在、『合法ドラッグ』ですと桜都高校や緑陵高校、薬局の存在、ベッドやスニーカーやフライパンの存在から確認することができると思います。第ニに、二つの作品の骨子(依頼主が運んできた用件を解決する)が非常に似ています。花蛍が侑子、風疾と陸王が四月一日(と百目鬼)と重なることからもこれは言えます。
この二つから導き出せる結論としては、『xxxHolic』は擬似現代の「世界」の境界としての役割、つまり異世界側と擬似現代側の境目としての役割を果たしているのに対し、『合法ドラッグ』は擬似現代側通しの境目の役割を果たしているのでは無いでしょうか。
『合法ドラッグ』でのエピソードを考えると、『すき。だからすき』のキャラとの交差、『xxxHolic』とのハイパーリンクがあります。しかし『xxxHolic』と『すき。だからすき』の世界が一緒というのは幾らなんでも無理があります。理由としては『xxxHolic』と「合法ドラッグ」とのハイパーリンクである壺中天が、モコナの力で世界を移動したものだという可能性が十二分にあるからです。そう考えると(そして「合法ドラッグ」が長編になりそうな気配からすると)『合法ドラッグ』は擬似現代側の作品の間仕切り役と考えるといいのではないでしょうか。『xxxHolic』の占い師は『こばと。』にも登場しますし、『こばと。』にも上田店長や木之本桃矢、鈴原みさきなどが登場し、世界観では『Wish』も混じります。(『こばと。』の考察ももう少し物語が進んだらしたいです)そうやって擬似現代が無数に繋がっていく事を思うと、合法ドラッグは間仕切り役なのではないかと思えてくるのです。
2009.12.23
■江戸川乱歩『孤島の鬼』を読了後、CLAMP作品に出てくる『好き』って何かなと考えた時
ちょっとCLAMP作品に限った話になっちゃいますけど、全作品を通して、好意が好意以上の噛み砕かれ方をして無いのが、実は凄く好きなんです。
桜ちゃんも「私の一番好きな人」という言い回しをしてますし、昴流も「僕は星史郎さんが好きだった」と言ってますし…。
その「好意」、「好き」はそれ以上でも以下でも無いという考え方、感じ方に影響されてたのかな、と思いました。
其処にはありとあらゆる種類の「好き」が混在してて、そういう「好き」こそ、私は「本当だ!」と思うのです…。
だからこそ(話が大幅に戻りますが)諸戸の蓑浦への愛情を知って吃驚したんです。本当だなって思いました。「友情なりとも受け取って欲しい」「生きて欲しい」と言いつつ、それでも蓑浦を諦めきれない諸戸の気持ちが物凄い生々しいのに初々しくて。そういうのが本当だと思いましたし、これからもそう思うだろうなと。何にもそういう本気のものを求めてる訳では無いけど、「同性愛」っていうものを描く時に、自分の知らない世界だからって「好意」を安く見積もってはいけない、むしろ深く重く受け取らなくてはいけないのだろう、と感じたのです。
あとはもう一つ、これは完全に私の好みの話になってしまうと思うのですが、「誰かを好きになるというのは(たとえ気持ちの上であれ)命懸けだ」という(これまた暗黙値の)理解があって。そこらへんも、大衆消費されつつあるBLはアウトだろ…って思いました。そういう意味でセブンデイズは良い作品だった!と思いました。
「命懸け」というのは、全力を意味するという事ではなくて、(昔の旅の危険とかを考えると分かりやすいかもしれないのですが)「もう帰れない、戻れないかもしれないという事を思いつつ、でも好きだ」みたいな事を言いたいんです。決意に代償はつきものだというか…。「好き」って口に出して言う事への「決意」を重々しく捉えすぎなきらいがあるサブカルですけど、実際「好き」と思う事自体大きな決断だと思うのですよ…。例えば単純に「憧れ」でしかなかったものを、その「憧れ」を含む一つ上のディレクトリである「好意」へと昇華させる訳だから。
これだと一目惚れ完全否定論みたいですけど、一目惚れの凄いところは、「好意」の認識と決断が一度に迫ってくるところなんじゃないのかなって。だから衝撃的なんじゃないのかなと…
夢見すぎなのかなぁ。
2011.11.13
*そもそもは違う流れでの記事だったのですが、割とこれ私の中で外せないなと思ってここに入れました。
■『ツバサ』のインフィニティについてあれこれ
インフィニティですが、あの世界だけは本当にオートザムなんじゃないかと考えているのです(考察というより妄想ですが)。ていうかもっとぶっちゃけるとCLOVERの世界とオートザムとインフィニティは、同世界の違う時代なのではないかという邪推。
まずツバサのイーグルが侑子にどうやら願いを叶えてもらった、それ故に対価としてサクラの願いを叶え小狼達に(結果として)協力した、という様な描写があります。
これってイーグルは何を叶えて貰ったのだろうかというところから私の邪推は始まります。これが一つ。
もう一つはイーグルが「ヒカル」を使役していること。つまりラスボス位置や自分がマスターである場合の武器、戦闘要員として「ヒカル」を据えている事からも一つ考えたいと思います。
その他上記の三つの作品に跨る同一世界という考えの根拠を後押しするものとして、チェスゲームの仕組みが、チェーンを媒介とした、どうやら数値変換される「意志」であることや、一こま映る町の荒廃した様子、晴れたことの無い空、機械人形(オートマタ)という言葉等を考えています。
私の考えでは(妄想入りますよー)、イーグルはセフィーロに永い間意識の無い状態で留まっていましたが、侑子に「再び起きる」ことを叶えて貰ったのではないかと。
でもその時に光がどうなっていたのかという話で、光が何らかの理由でセフィーロにいない、又は生きていないという状態が発生したのではないか(妄想)。
つまり例えば「意志の力」で長寿を保てるのは「セフィーロ」に於いてであり、光はセフィーロに居ない時間には普通に成長、老いを体験するわけで。或いは光はセフィーロに何らかの理由で来なくなった、来られなくなったという可能性もある。
だとしたらあのイーグルですから、直ぐにグレます(え)。大統領の息子で軍部で重要なポストについていて議会に根回しが効く、となるとインフィニティのイーグルと被ります。
彼は故郷に戻って、ああなっちゃったんじゃないかと(適当だなおい)。
光に執着する余りの「ヒカル」かな、と思ったんですよ。イーグルさんならやりかねん。
CLOVERの世界はオートザムの前段階ではないかなぁと思っているのですが。国土統一されてないとか(和彦は峠の向こうはアズライトだと言っていました)。機械の雰囲気が似通っているし、町の雰囲気も。生き物が高値で取引される辺りも、オートザムの劣悪な土壌汚染から考えると頷ける話です。
でもこれは私の妄想かつ邪推です。この考えには齟齬があって、まずジェオが老けてない。それからランティスが就いてくる理由が無い。ただ光がもし居なくなったんだとしたら、彼もセフィーロに全く執着しなくなりそうですけども。それから、レイアース内でイーグルはその内目覚める可能性もある、という記述がある。そして光の生まれた世界はどうやらセフィーロよりも断然時の巡りが遅いので、光が死んでしまうというのは余り考えられない。
と思うのですが、もっと酷い妄想をするならばランティスとイーグルのせいで光が消えてしまう、故に二人でオートザムに(略)というまさかの親友どっちも不幸オチも考えられなくは無いです。ジェオ可哀想。
でも光に異常に執着するイーグルというのを考えたら何だか凄くありそうだったので思わず吐き出してしまいましたその思いを(笑)個人的にはイーグル派です……え、知ってる?あ、さいでっか
2010.11.5
■『ツバサ』の星史郎と昴流についてあれこれ
ツバサ内の星史郎と昴流の関係は何なのかと。これは完全に考察というか邪推というか妄想というか、話をこねくり回して遊んでるだけです。
まず一つに星史郎は誰かに吸血鬼の事や自分の生業について、或いは自分の願いについて話すときに「『二人』の吸血鬼を追っている」と答えています。つまるところ彼は昴流だけ、神威だけということではなく「二人」との接触を願っている。
逆に双子の方は(特に神威)は星史郎に見つかるまいとしている。昴流はどちらかというと詮方なく、という雰囲気。
普通なら狩られるから逃げるのだろうと思いますが、昴流の星史郎への思い入れやそれに対する異常なまでの神威の不快感、「昴流の血はもう誰にもあげたくない」という言葉や神威のみが逃亡を強く希望している事、更に封真が昴流に告げている「会えるまで探し続けると(星史郎が言っていた)」という言葉等から、違う可能性も考えられないかと。
星史郎は狩りたくて二人を追っているわけではない、と仮定すると、ではその理由は何なのか。
まず考えなくてはならないのは、吸血鬼ハンターが吸血鬼を「狩る」という場合、それは「殺す」と同義なのかという事です。
神威が「昴流があんなやつ(星史郎)に血を与えたから…」と言う場面があります。額面通りにとるならば、昴流が星史郎に自らの血を分け与えた=星史郎は吸血鬼である、という事なのではないでしょうか。吸血鬼ハンターが吸血鬼だというのは何だか可笑しな話ですが。(LaLaの漫画にそんなのがありましたね^^;)けれどもし星史郎と双子のファーストコンタクトがそれならば、二人は「狩」られて居ないけれど血をあげた、という何とも良く分からない状態になってしまいます(謎めいた関係の核はここら辺だと思うのですが)。
しかも星史郎が吸血鬼であるとすると、彼の魔力はどうなってしまうのかと。ファイが吸血鬼になった際に「左目の魔力が戻れば吸血鬼の血は打ち消される」と侑子が言っているのですから、星史郎にもこれが適用できるはずなのです。
考察の順序が混乱しましたが一応の仮説を立ててみますと、吸血鬼ハンターは吸血鬼を殺す為に存在するのではなく、吸血鬼の血を採取する為に居るのではないか。何故かは分かりませんけど…。そして星史郎が昴流を「会えるまで探し続ける」理由の答えには、全くなっていないのですけど…。「会えるまで」という事は、最早「狩り」の対象では無い事を意味して余りある様に思うのです。昴流はその事を何となく勘付いているけれど、神威は分かってない(また狩られると思っている?)、という事なのではないのかな。
多分間違ってるんですみません…『xxxHolic』の連載が再開したら、そこらへんできっちり収拾がつくと良いな…。
2010.11.5(2012.6.2加筆)
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ブログ記事を切り張りしたりしてまとめたやつです。主に星昴とかの考察。二次創作ではありません。作品種は二次創作にしてあるけど…。CLAMP作品の二次創作はしたくない(出来ない)ので、大体考察ばっかりです。