崖山の、間に合わせにも程がある行宮では、誰も帝に構ってなどくれなかった。
異母兄、端宗と諡された昰を喪ってからは、いよいよ孤独も深まった。
時折、祖父の兪如珪等が会いに来てはくれるものの、彼等にも役目がある。丞相の陸秀夫や礼部侍郎の鄧光薦の講義が終わると、日がな飼っている鳥と戯れるだけだった。唯一の友と言っても良いかもしれない。
白い、尾長で細身の鳥である。福州にて献上され、兄と共に可愛がったがその兄ももう居ない。籠から出しても逃げず、肩や指先に留まって軽やかに啼いた。
その日も何時もと同じ様に、粗末な行宮の欄干に凭れ、小鳥を肩に留まらせて撫でていた。
「名は、何とされたのですか」
声がして、面を上げる。八歳の自分と、同じ高さに目が合った。陸秀夫が、土の上に寸毫も躊躇わず跪いていた。
「鳥の事ですか?」
腹違いの兄の母に当たる楊太后は、今や帝たる彼の育ての母だった。彼女の群臣に対する態度から、彼は多くを学んでいた。誰に対しても慇懃であり、敬語を崩さない。元来帝位に就ける身分で無かった身の上も影響して、名ばかりの即位の後も敬語が取れなかった。咎め立てする者も居なかったし、第一年上の、己よりも見識も教養も勝った者に、易々と口を利くのは気が引けた。故に、陸秀夫にもその儘敬語で訊いてしまう。
「ええ」
帝は返答に困って、とりあえず鳥を籠へと返した。名づけよう等と考えても居なかったのである。名が思いつかないとか、付けたくないとか、そういった理由ですら無かった――そもそも名づける事に、考え至らなかった。
「丞相でしたら、何と名付けますか」
は、と当惑した様な相槌が返って来た。鳥籠を金具に掛けると、彼は眼前に跪いて目線を同じくする陸秀夫を見る。
困らせる気は無かったのだ。現に己自身が、何と答えれば良いやら困惑している。
「私にもよく解らないのですけれど、今丞相に名を問われる迄、名付けるという事を思い付きませなんだ」
何故だろうか、と彼は自問する。兄の死、忠臣の死、兵士の死。過去にちらつく死の影が、物言わぬ友に名付ける事を阻んでいる気がした。名付けて、信じて、愛着が湧いてしまうのが怖かった。
過去に纏わりつく死の影に恐ろしくなって、蒼穹を一望する。次いで眼前に広がる海原を見る。靑に囲まれ只ぽつねんと、己や己の為に死を待つ者達は、寄り辺無く所在莫く身を寄せ合っている。
「宋」という「何か」が「何」で在るのかはいっかな解せぬが、間違い無く、今やそれは、人の死を徒に早めるだけのものに成り下がっていると感じた。
――それが、天命を失うという事なのだろうか。
己の所為で、己の生の所為で人が死ぬ。殺している様なものだと、彼は思った。
生きていたくない、徐にそう思った。己一人がこの世への未練を断ち切れぬ所為で、何千何万という数の命が灰燼に帰したと思うと、恐ろしかった。只々、怖かった。これからも大宋の祭祀を継ぐという一縷の望みを己の命が繋ぐ限り、際限なく人を殺してゆく事になるのかと思うと怖かった。
丞相、と幼帝は陸秀夫に駆け寄って、袍を掴む。
「名を付けたら、別離が辛うなる」
消え入りそうな声で、やっとそれだけを言った。陸秀夫の驚愕と動揺の気配を感じて、言葉を続けた。
「丞相の、忌憚の無い意が聴きたいのです。大宋の命脈は、後どれ程残されて居りますか」
僅か八歳の黄口児と雖も、南宋軍が、否反乱軍が、もう幾らも保たない事位はわかる。群臣という名の大人達の顔に焦りの色が見えていたし、南へ南へと落ち延びていくその状況が、海上への滅亡を嫌が応にも連想させた。
陸秀夫は酷く狼狽していた。この、冷静沈着な男も狼狽える事があるのか、と幼心に意外に思った。陸秀夫は頭を垂れ暫し黙考すると、再度主の双眸を見据えた。
「――…畏れながら、皇上に申し上げます。臣の鑑みる処、長くとも半年後迄には蒙古軍がこちらへ参りましょう。幾ら水上の戦が宋の得手とは云えど、劣勢は火を見るよりも明らかに御座います。勝ち目は御座いませぬ」
長くとも、半年。現実味のある重い台詞が、妙な得心を去来させた。
籠の中で、小鳥が軽やかに啼いた。それは宙に霧散し、絶望への現実感を更に鮮明にさせる。
陸秀夫を更に困惑させると解っては居たが、余りの現実感に堪えかねてつい、零す。苦手としていた、君主の口調で。
「朕が、朕が死ねば。死んで皆が蒙古に降れば、何人の命が助かるのだ。宋の正朔を辞める事で、どれ程の家の祭祀が続くのだ」
その言葉を呼び水に、抑え込んでいた恐怖と涙が一緒くたになって溢れ出る。苦悶を刷いた面差しの陸秀夫に、そのまま抱きついた。
「大宋の、趙の家の存続の為に、一体どれ程の命が消え、これから幾ばかりの命が消えるのだ!」
小さな体躯を抱き留めつつも、陸秀夫の脳裏は焼ききれた様に真っ白になる。肩に回された細い腕の感覚と温みを頼りに、その儘主をゆっくりと抱き上げる。泣きじゃくる幼子を如何やって慰めてやれば良いか分からず、小さな背なを遠慮がちに撫で、ぽつりぽつりと言葉を口にする。
「皇上は、死が恐ろしゅう御座いますか」
肩口に埋められた顔が、僅かにたじろぐ。肯いと受け取って、陸秀夫は続ける。
「それは、誰の死に御座いましょうや」
幼帝は嗚咽混じりに陸秀夫を見上げる。涙を溜めた瞳を見返す男の目は、高く澄んで凪いで居た。迷いながらも彼は、言葉を返す。
「朕を――私を生かさんとして、誰かが次々と死んで逝く。その死の事です」
陸秀夫は、幼い主が思っていた程、内心冷静では無かった。如何宥め、説得すれば良いのか。如何すれば納得し、理解して頂けるのか。幼子に己の矛盾を言い当てられた気がしたのだった。
――平和な御世に在れば、さぞ聡明な君主に御成りあそばしたであろうに
愛情故の贔屓目である事は自覚しているが、それでもこの命を愛惜して已まない。稚いこの命を、愛(お)しみ惜しんで已まなかった。
「御身の死は、如何でしょうか」
己の死。帝は問われて只、その途方も無さに思いを馳せる。純粋な恐怖であるそれが、目前に迫りつつある事を、ひしひしと感じた。
「――恐ろしいです。けれど、私の所為で人が死ぬ事の方が、もっと恐ろしい。ねぇ、君実殿」
丞相、と呼ぶのは好きでは無かった。陸秀夫ではなく、陸秀夫の座る席を呼んで居る様な気がしたのだ。今彼が求めていたのは形式ではなく、逃亡の最中彼を背負い、儒学を講義し、時たま遊び相手となってくれた陸秀夫本人だった。それが分かっていたから無碍にも出来ず、甘える様に縋ってくる幼子をきつく抱き締めて、陸秀夫は言う。
「――臣が、間違って居るのやもしれませぬ。蒙古は、降伏した者は喩え宗家の者であれ丁重に遇すると聞き及んで居ります。我らが抵抗などせず、臨安府陥落の際に助命嘆願を乞えば、今頃皇上は、権こそ捨てる事になっては居りましょうが、安寧の中に在ったやもしれませぬ。その様な未来を独断で切り捨て、逃亡を強要し、何れ入水なり服毒なりを迫る事になるのは我等――否、この陸君実に御座います。皇上の存命を阻み、都合が悪しくなりせば殺し、大宋の名の下に命を切り捨てるのは、他でもない、臣に御座います」
幼い命を、多くの兵や臣下の命を、大義名分の為等と考えずに救えば良かったのでは無いのか。文天祥の様に、国家や君主、つまるところの宗家の祭祀と玉座という「理念」を信じ切る事の出来ない陸秀夫には、どうしても腕(かいな)に抱く小さな命一つ、守ってやれないことが情けなく、歯痒い。玉座というものは坐(いま)す者が居て始めて機能するのだと、言い訳の様に己を偽って来たが、要は陸秀夫は国家の為でも誇りの為でも無く、只この幼子が愛おしかったからこそ崖山くんだり迄来ていたのだった。
酷い矛盾。国が大事なればこの命を己諸共水中に没さねば為らず、命が大切なれば国を裏切り蒙古に降らねばならない。宋の再興の望み等どちらにしろ、無い。
「臣は不忠者、売国奴に御座います。皇上の御身を案ずればこそ、もっと他に為す可き事があった筈。儒を教え清談を論ず前に、もっと」
陸秀夫の頤から、温かい雫が一筋伝った。血潮とも海潮とも思えたそれを、帝は反射的に、手を伸ばして拭った。この男も泣くのだと、驚きを禁じえなかった。
「皇上に何ら罪咎は御座いませぬ。糾弾されるべきは臣の不断と身勝手に御座いますれば、如何様にも御処断下さいませ」
嗚呼死ぬのだ、と幼い心は実感する。己も、己に尽くし従うこの男も。
宋が死に滅ぶ、天の運命(さだめ)はそれを変えない。
「――君実殿、矢張り鳥に、名は付けませぬ」
ややあって、彼はやっとそれだけを言った。呼応するかの様に、白い鳥はまた一つ、囀る。
「私も君実殿も、最早死を避けられぬのならば、それも亦た一つの選択なれば、せめて離別の辛う無い様にしたいのです」
不思議と、投降し生き残る事に希望は見出せなかった。この男に永の暇乞いをされる事は、死よりも耐え難い、それは恐れではなくはっきりとした苦痛だった。喩え己が生き残った処できっと一人、この男は忠義と義憤に挟まれて死んでしまう。縦しんば生きたとしても、ニ度と会う事は出来ないだろう。蒙古の、元の臣として、己に背を向けて生きなくてはならないだろう。元主に陸秀夫を取られたく無いと、八歳の己からしても酷く子供じみた事を思った。
「それが貴殿の身勝手なれば、私の死に、どうか最期までお付き合い下さい」
鳥の様に穹の蒼へと還れぬのならば、只水底の靑に没するのみ。
流した二人の涙が辛いのは何の因果かと、どちらとも無く思って泣いた。
了
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南宋滅亡直前、崖山の行宮にて祥興帝(衛王趙ヘイ)と陸秀夫が話してます。読了後直ぐに書いたせいで田中芳樹の『海嘯』準拠っぽいですが、二次創作という程でも無いかな。