世界は相変わらず理不尽で迷惑極まりなくて。自分じゃどうしようもない事や、自分みたいなちっぽけな存在じゃどうしようも出来ない事があって。大切なものも守れない。
ついに自分の“不幸”に全部諦めて、ただ笑うしかなかった僕は…どうしようもなく無力だったからなのだろう。
「くッ。はっあ…ッ!」
男の脇腹に突き刺した果物用ナイフを抜き取ると、男――綾瀬梓(あやせあずさ)は苦しげに脇腹を抑えながら微かに呻き声をあげた。その隣では姉の遠野歌音(とおのかいん)が理解不能という表情で此方を凝視している。
「…そっか。キミはこうなる道を選んだんだね」
梓は血だらけの手で僕の頬を撫でる。触れたその手は既に冷たくて、ペタリと無機質なオトがした。直に、動かなくなるだろう。
「僕は世界で一番…嘘付きなキミが大嫌いだったよ、梓」
「そうかい。オレは唖鈴ちゃんの事、大好きだぜ?」
そう言って梓は完全に意識を放棄した。僕の頬に触れていた左手は力無く垂れ、その目に光はなかった。
「……うそつき」
綾瀬梓とはいわゆる。幼馴染という関係であり、腐れ縁でもある。顔は彼の黒くて真っ直ぐな前髪で相変わらず見えないけれど。見えた所できっと意味はない。なぜなら彼、綾瀬梓にはおよそ感情と呼べるものがなく。全てが作り物だからである。
「どうして…?」
今まで一言も発しなかった歌音は悲痛に顔を歪め、僕に問い掛ける。僕はそんな歌音もまた愛おしく感じながら使い古した言葉を紡いだ。
「おはよう、歌音。いい朝だね。でもまだ明朝だし。風引くよ?」
「どうしてッ…ねぇ、唖鈴? いっ、一緒に…みんなで、幸せに暮らそうって…言ったじゃない…っ」
「幸せなんて要らない。キミが居ればいいよ」
これでいい。これでいいんだ。全部。僕が消えれば唖鈴は消えなくて済む。歌音に会えなくなるのは少し寂しいけど、我慢しよう。
「やっと、叶ったと思ったのに…っ。どうして壊すの? 唖鈴が…ッ、唖鈴が死ねば良かったのに…ッ!」
「うん。キミが言うんだ。きっとそうなんだろうね」
「消えろ、消えろ、消えちゃえっ!」
「…うん」
「死んじゃえっ」
―――ドンッ
「……うん。さよなら、歌音」
とうとう無表情の僕が怖くなったのだろうか。歌音は酷く怯えたように僕を突き飛ばした。普通なら尻餅を付いて終わりだろうが、しかしここは屋上で。身体を支える金網も無ければ、背後を気にしていたワケでもなかった僕はそのまま転落した。
「大好き、歌音」
きっとコレが最後になるであろう会話は、たった一言で終わりを告げる。これは僕自身が招いた事。悪いのは…僕だ。
「あべッ――」
勢いよく落下していく。やがて地面との距離が僅かに迫って来た頃からか、誰かの悲鳴を聞いた気がした。誰のかはわからない。
歌音の狂った発狂かもしれないし、はたまたは偶然僕が落ちて来る所を目撃した第三者の悲鳴かもしれない。そしてもしかしたら。僕の、悲鳴かもしれない。
どちらにせよ、僕はただ落ちていくだけ。何も変わらない。何も考えない。
ただ世界は暗転していくだけだ。僕だけを残して。
例え『聖物語』のカインのように、憎悪を抱かれ僕自身が歌音の手で葬られる事になろうとも、構わない。
だって。最愛のヒトの手によって殺されるって事は、きっと凄く素敵な事なのだから。
さよなら…言えなかったなぁ。
――グチャッ
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出逢いは偶然だけれど、全ての別れは必然的だ。永遠なんてある訳なくて、逝きとし生けるものや無機物までも必ず終わりが訪れる。―――――――――――――――――――――――僕らはそれに抵抗するすべをもたない。故に過消失(ぼくら)は永遠のモノを望むのかもしれない。例えそれが嫌悪や、憎悪であっても…過消失(ぼくら)は求め続ける。――――――――――――――――――だって、過消失(ぼくら)には何もないのだから。