階段を上り、紅葉は向かう。
春花と歩んだ日々を、幸せだったあの頃のまま、汚さずに置いておきたい。
そう思い、あれからここへ足を踏み入れてはこなかった。
春花がもういないことを意識しすぎるこの場所へ。
でもそれは自分が傷つくことをただ恐れていたにすぎないのかもしれない。
ノックをする。
―「どうぞ~!」―
ドアノブに触れる。ひやりとした感触に一瞬ためらうが、そのまま捻り、体重をかける。
閉ざされた、その先へ。
―「どうしたの、お姉ちゃん?」今日もまた、私のそばに笑顔が咲く――。
窓の外、海に波が寄せる。
その笑顔が、私は何よりも好きだったのに――。
* * *
この島には野生の猫が多いそうだ。
戦争の影響で多くが野良化したから、ということらしいが、真偽のほどはわからない。
この日紗雪は子猫と出会う。
あまりに儚く、ともすれば辺りにとけてゆきそうなその姿に、
彼女はかつての自分を重ねた――。
夕暮れに近づき、辺りは色づき始める。気の早い月が淡く、白く、光っている。
人生は選択の連続だと言うが、生まれるときはその限りではない。
選べたなら、私はどうしただろうか。選んだならどう生きただろうか。
当時、戦争孤児は決して珍しいわけではなく、私もそのうちの一人にすぎなかった。
私のいた孤児院にも必然そんな子達が身を寄せていたわけだが、
幼い私に見える世界はまだ小さく、自らの境遇にただふさぎこむばかりだった。
自分とは違い、家族がいて、幸せそうに暮らす人たちを見ることがあると、胸にたまった涙を、ぎゅっと絞られるような思いだった。
―なぜ私のお父さんとお母さんは迎えに来てくれないの?―
あの頃の私に問うたならあるいは、自分を生んでくれた親とは違う親のもとに生まれることを望んだかもしれない。
* * *
春花の部屋。紅葉は唇をかみしめる。
時は残酷にも、ここだけはあの時のまま。ただひとつ、春花を除いて。
机には一冊の日記帳が置いてある。
きっかけは何だったか――。二人の、それぞれの日々を一冊に書きつけた日記帳。
開くと、1ページ目、幼い春花と私の、拙くも懐かしい字で、
「ふたりの毎日を ずっと忘れないように。」
潮騒が街に響く。
この日記は二人の物語。
春花、そして私の日々を、こんな結末にしたくて描いてきたわけじゃない。
また一緒に「物語」を描いてゆくために――。
私は彼女の代わりに筆をとる。
春花の物語、その続きを綴るため――。
太陽も傾き、空に星があけた隙間から、赤く色が滲み出す。
* * *
その白い子猫を抱き、紗雪はその背中を撫でる。
生まれるべくして生まれたその先で、私は生まれ、人と出会い、生きてきた。
両親の声や顔さえも分からない。
それでも、戦争の最中でも私を生むことを〝選んで″くれた両親のもとに生まれつけた、そのことは、選べなかったからこそ、尚更私は幸運だったのだ。
――この娘の髪はけがれのない、雪のように輝く白。
そんな絹で織った織物で、そっと、やわらかくくるむように
この子を、世界がやさしく包み込んでくれますように――
私の名は両親がつけてくれたもの。
紗雪と刺繍が入った母の手作りの服、それだけは孤児院のころから大事にとってある。
* * *
家を出て、紅葉は丘の上に立っていた。
ここから見た街はなんだかちっぽけで。
近くで見ればつぶさに見えることも、ここからだとまるで見えない。
この世界にとって、春花は多数の人間の一人でしかなかったのだろうか。
春花にいちばん近いのは私だった。その私が春花を世界から守るべきだったのに。
あの時、私は〝選ばなかった″のだ――。
無邪気な子供が花を千切るように。気が済めば宙に散らすように。
風が木々を揺らした。
かすかな緑の香りを、空にゆだねながら、名残惜しそうに、けれども逆らうことなくその葉は舞う。
春花はもう心にとどまるのが精いっぱいの存在。
春花の笑顔をこめたこのペンダント。少しでも近く、傍にいれるようにと胸に架けたのはいつのことだったか――。
世界が私たちの物語を曲げるなら、私はそれに抗うまで。
掴みとれ、春花に捧げる、次の一行を。
暮れも深く、世界が彼女の色に染まる。
* * *
子猫を連れ、紗雪はある場所へと向かう。猫の集う、彼女のお気に入りの場所だ。
私の白銀の髪はどちらに似たのだろう。
猫が好きなのもあるいは両親が好きだったのかもしれない。
私の中で、命を吹き込んでくれた両親の想いは今もかわらず息づいている。
私が今ここに生きているということ。私を彩る全て。それは両親の祝福の証なのだから、
感謝こそすれ、その両親の想いを否定することなど、今の私に出来ようか。
血の繋がりもないのに、両親のかわりに「家族」を教えてくれた黒羽家。そして兄さん。
それはまるで、冷たく胸を貫いていた寂寥感を遮ってくれているようで。
輪郭がおぼろげだった私という存在が、あの時、初めて「私」になった気がした。
その出会いは、両親の最後の贈り物だったのかもしれない。
赤が濃くなり、夜の始まりを告げる。空に浮かぶ月は縁をかたどり輝きを増している――。
掴みとれたこの〝道″を、私は決して離さない。
* * *
大地を撫でる風が春を萌し
紅葉は帽子を抑え
真紅の髪が風の軌跡を描く。
子猫は丸くなり、
紗雪に抱かれ夢を見る。
世界は二人を乗せ、ただ、進み続ける。
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紅葉と紗雪の対称的な生い立ちから展開し、
戦いへと身を投じる二人の、決意に至る
その内面の動きを中心に描きました。
紅葉の過去に関しては、想像で書くことも考えましたが、
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