No.438728

小石の頃 第01章(テスト版)

個人的事情をここに書いても仕方ないのでせうが、ここから先、構想はあるのですが他にいろいろやらなければならないことが出來てしまつた爲、當分筆は止まりさうです。でも必ずいつか歸つてきます!忘れないやう、未完成乍ら、上げておきます(だから「テスト版」なのです)。
(2012年12月12日に追記)本文が冗長過ぎる氣がしてきたので、少々削り、修正しました。この先の執筆と合せて、今後も考へていきます。

2012-06-18 00:06:26 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:541   閲覧ユーザー数:537

 七月のその日の朝、喫茶店のマスターは、水出し珈琲をガラスの裝置からポットへと移し替へてゐた。

「コン、コン」

 扉を叩く音が聞こえた。マスターはそれを無視した。開店前の札をかけてあるのだから、ノックの主はすぐに立ち去るだらう、とマスターは思つた。しかしノックはやまない。

「コン、コン」

 業を煮やしたマスターは、裝置のコックを閉め、ポットを置くと、扉を開けた。

「うるせえな!開店は十時……」

 するとそこには、タンクトップの上に薄物を羽織り、ふはふはとしたキュロットを穿き、素足にサンダル、大きなロゴがプリントされたキャップを目深にかぶつた、見たところ小學校高學年くらゐの子が立つてゐた。キャップからは、さらさらとした長い髮が溢れ出してゐる。

「びつくりした……」

 帽子の影になつてゐてもはつきりと目立つ大きな黒い眼を見開いて、その子はつぶやいた。マスターは少しうろたへた。

「あ、濟まん。開店は十時ですよ。後で來なさい」

 帽子をとり、小首を傾げて、眉を少し寄せ、その子は微笑み乍ら言つた。

「嫌だなあ伯父さん、ママから電話あつたでしょ?僕のこと覺えてない?」

「何だ、ママから電話つて……」

 マスターは一瞬戸惑つたが、昨日、妹から電話があつたことを思ひ出した。

 

「もしもし、奏ちやん?今忙しい?」

「おお、久しぶりだな笙子。何だ?」

「今年の夏休み、ヤスユキをアルバイトに使つてやつてくれない?」

「ヤスユキ?ああ、お前んとこの息子の那之か。隨分大きくなつたらうなあ」

「うん、今中三。奏ちやん、實は大きくなつただけぢやないのよ」

「何だか含みのある言ひ方だな。……しかし、知つてるだらう?うちはバイトが雇へる程の店ぢやないぞ」

「知つてる。夏の間の海水浴客からの上がりだけで、ほとんど一年やつていかなけぁいけないこともね」

「ひどい言ひ樣だなあ……」

「あはは、ごめんごめん。でもね奏ちやん、那之が行けば、上がるよ、賣上」

「どういふ意味だ、それぁ?」

「行つてのお樂しみ!ぢやあねー」

「あ、おい!……」

 

 マスターは思はず叫んでゐた。

「お前、もしかして……那之なのか?」

「うん。伯父さん、お久しぶりです。お世話になります」

 その子はお辭儀をした。そのせゐでタンクトップの中身が少し見えたが、そこに乳房のふくらみは見當らなかつた。

「まあ、入つてくれ」

 まだ少し慌て乍ら、マスターは那之を店の中に招き入れた。那之は大きめのキャリングケースを引き乍ら、店に入つた。

「うわ、素敵なお店……」

 那之の言葉に氣づかないふりをしつつ、マスターは言つた。

「そこに座つてくれ」

 マスターが指した席に、那之は腰掛けた。那之が羽織ものを脱ぐと、細い肩と鎖骨が露になつた。マスターは、さつきポットに移し替へた水出し珈琲をグラスに注ぎ、那之の前に置いた。

「ありがと。喉乾いてたんだ、今日も暑いねー」

 那之が珈琲を飮み、落ち着くのを待つて、マスターは切り出した。

「しかし、お前、本當に那之か?言ひにくいが、どうしても女の子にしか見えないが……」

「本當?ふふふ、嬉しいな」

 そこは嬉しがるところなのか?いぶかるマスターを前にして、那之はキャリングケースを開けて、寫眞を取り出し、テーブルの上に置いた。見ると、那之と同じくらゐの年頃の女の子達が、揃ひのメイド服を着て竝んで寫つてゐる。

「これは?」

「卒業式前の豫餞會の寫眞だよ。この左端が僕」

「ほう……」

 マスターは寫眞を取り上げた。贔屓目かも知れないが、左端の子が一番可愛いやうに思へた。マスターは記憶を探つた。小さい頃、何度か肩車をしてあげた那之、犬に驚いて泣いてゐる那之……その面影は、寫眞の中の女の子と、目の前に座つてゐる子にもかすかに殘つてゐるやうだ。

「やつぱり那之なんだなあ、全然信じられないが」

「だからさつきからさう言つてるぢやん!」少しふくれて、那之が返す。

「しかし、何でまた、女裝なんかすることになつたんだ?」

「うん、それはね……」

 

 二月のとある日、那之は學校から歸らうとしてゐた。しかし、いつも使つてゐる學生鞄が見當らない。

「あれ、僕の鞄無い……」

「縞田、縞田」

 呼ばれる方を振り向くと、同級の女子の小關が、那之の鞄を持つてゐた。

「あ!何すんだよ!」

「歸りたけれぁ、自力で取り返してみな」

 さう言つて小關は突然驅け出した。

「バカ!返せよ!」

 那之も走り出したが、小關の足は速く、なかなか追ひつけない。彼女は那之の鞄を持つたまま、廊下を驅け拔け、音樂室に飛び込んだ。那之もつられて音樂室に入つた。と、その途端、那之の背後で扉が閉まつた。

「えつ!?」

 氣が付くと、那之は、十人程の女子の集團に取り圍まれてゐた。

「捕獲しました」「ご苦勞」

 小關に應へて、三年生女子の江沼エリスの聲がした。

 江沼は美人の評判が高かつたが、反面、妙な噂も絶えなかつた。教師を懷柔して成績を水増ししてもらつてゐる、生徒會費を横領してゐる、各部活動の部長や大會代表選手の選拔に對して隱然とした發言力を持つてゐる、等々。擧句の果てには、ある日校門の前に犬の屍體のあつたことさへ、江沼のせゐにされた。それらに關與してゐるかどうか、江沼は自分からは肯定も否定もしなかつたので、噂が一人歩きをし、反感を伴つた恐れがいつも彼女にまとはりついてゐた。ただ、彼女の周りには、女子數人のグループが出來てゐて、いろいろと暗躍してゐるらしいことだけは確かだつた。那之は、そのグループにつかまつてしまつた恰好だ。

 鑢で爪を磨き乍ら、江沼は那之に物憂げに話しかけた。

「縞田、さ」

「何ですか?」

「あんた、豫餞會どうすんの」

 那之の通ふ學校では卒業式前に豫餞會がある。文化祭に次ぐ大きな催しと言へた。校内だけの行事なので、多少羽目を外しても許され、獨特の盛り上がりがあつた。

「出席しますけど……」

「さうぢやなくてさ。何かやるのか、つて訊いてんのよ」

「別に……」

「ふうん」

 江沼は磨いた爪をふつと吹いて、言つた。

「やつて」

 その聲を合圖に、女子達が那之に飛びかかり、彼の制服を脱がしにかかつた。

「うわ、何を?や、やめろ!」

 抵抗したが、那之はシャツもズボンも剥ぎ取られ、パンツ一枚にさせられてしまつた。續いて女子達は、間髮を入れず、那之に服をあてがつた。ワンピースにエプロン……女物のメイド服だ。無理矢理女の子の恰好をさせられた那之は、音樂室の床にへたり込んだ。

「あれ、變ね……」「もつと似合ふと思つたのに……」

 那之を取り圍む女子達のひそひそ話が聽こえる中、那之は半泣きの態で言つた。

「ひどい……何で僕がこんな目に……」

「それはあんたにやつてもらひたいことがあるからよ」江沼が言つた。

「な、何を……?」

「この子達、豫餞會で、合唱をやるんだつて。でも低い方のパートが見つからなくて、あんたに白羽の矢が立つたつて譯。あんた、歌、上手いんでせう」

「でも、それと、この服に何の關係が……?」

「この子達、揃ひのメイド服で歌ひたいつて言ふから。あんたも着るのよ」

「そんなのつて……」

「文句あるの?」

 那之は黙つた。正直、相手が江沼一人なら拒否を試みるところだ。しかしこの状態で無理に抵抗すると後でどうなることか……。那之が戸惑つてゐると、小關が不意に言つた。

「あたし、今日はもう歸る。縞田と」

「え、さう?」

 小關は床に散らばつた那之の男子用制服をぞんざいに丸めて、那之に突き出した。

「ほら、さつさと着替へろよ」

 勝手な、と思ひ乍ら、那之はピアノの陰に囘つて着替へた。

「いい、縞田。明日迄に、女の子に見えるやうにしていらつしやい」

 江沼は、ピアノ越しに那之に聲をかけた。

 

 あてがはれたメイド服が入つた紙袋を抱へた那之と小關とは、微妙な隙間を開けて竝び乍ら、通學路を歩いてゐた。紙袋の重みを感じつつ、那之は小關におづおづと聲をかけた。

「小關、何考へてんだよ」

「縞田こそ」

「何だよ」

「あんた、先輩のこと、どう思つてんの」

「……怖い人」

「ふうん。やつぱり、縞田はバカだ」

「何で僕が!」

「知らねえよ」

 小關は突然那之に近寄り、那之を眞直ぐに見た。

「縞田、逃げんなよ。女は怖いんだからな」

 小關はさう言ひ捨てて、急に驅け出して行つた。

「女は怖い、か……」

 那之はぼんやりとさうつぶやいて、マンションの入り口をくぐつた。

 

 那之は、自宅のマンションで、メイド服の一揃へを前に考へ込んでゐた。今日のことを思ひ起こすと、腹立たしいやうな氣もするし、かと言つて彼女等の指令通りに動かないと後が恐ろしいやうな氣もする。

 そこへ、那之の母の笙子が歸つてきた。手にスーパーマーケットのビニール袋を提げてゐる。笙子はチラシのポスティングのパートをしてゐるので、學校から歸つた那之が米を炊き、餘裕があれば簡單な副菜を作つて、それと笙子が買つてきたお惣菜を合せて夕飯にする、といふのが平日の習慣になつてゐた。

「あ、ママ、お歸り」

「ただいま。あー、今日も疲れたわ……ところでヤスユキ、何してんの?」

 那之は恥づかしいのを我慢して、思ひ切つて言つてみた。

「今度の豫餞會で、みんなで合唱をすることになつて……女の子ばかりのところに僕一人入るんだけど、見榮えが揃はないから、女裝するやうに頼まれちやつて……」

「本當!?今の子つて、變なこと思ひつくのね」

「それで、この服を借りてきたんだけど、着てみたら何か變になつちやつて」

「ふうん、メイド服か。どれどれ……」

 笙子は、メイド服を手に取つて、いろいろと調べてみた。

「これ、結構胸のある子用みたいね。那之だと、それぁ變になるわね、屹度」

「ぢ、ぢやあ……?」

「ねえヤスユキ、ブラ、してみる?」

「ええー!?それはちよつと……」

「何事も經驗よ」

 笙子はさう言つて立ち上がり、ブラジャーと靴下を何足か持つて戻つてきた。

「そら、さつさと脱ぐ脱ぐ」

「ママ、何で靴下持つてんの!?」

「胸に詰めるのよ」

 さう言ひ乍ら、笙子は那之を立たせ、服を脱がし、裸の胸にブラジャーを着けさせた。那之は胸に得體の知れないレースの塊がぶら下がつてゐることに戸惑ひと違和感を感じた。そんな那之に目もくれず、笙子はブラジャーのカップにぐいぐいと靴下を押し込んだ。

「うえー、何だか氣持惡い」

「我慢して!さあ、着てみて」

 笙子に促されて、那之はあらためてメイド服を着てみた。胸の收まりが良くなり、服がぴたりと合つたことに、那之はひそかに驚いた。ニーソックスとスカートの間にのぞく那之の太ももをちらりと見て、笙子は言つた。

「太もも見えちやふんだ。そこだけは、毛の處理もしないとだね。まあ、それは後でもいいか」

 笙子は兩手で、那之の顏を挾んだ。

「那之の顏つて、作りは女の子つぽいと思つてゐたけど、このままではやつぱり男の子ね……やりませうか」

「な、何をやるのかなー……?」

「お化粧よ。中學生なんだから、塗り過ぎるのはいけないんでせうけど、眉を整えてアイシャドウして、唇にグロスを塗ればそれなりになる筈だわ」

「え?そんな、服だけぢやなくて?やめてやめて!」

「大丈夫よ。卒業する先輩達の爲でしょ?」

「そ、それぁ……」

「かういふのはね、中途半端ぢや駄目よ。やるからにはつきつめなけぁ」

「……お任せします、母上!」

「良く言つた!じつとしてゐてね」

 笙子は樣々な化粧道具を持つてきて、那之の顏に細工を始めた。女の人つて、いつもこんなくすぐつたいことをやつてゐるんだ……と、那之は不思議に思つた。

「ちよつと古いけど、これも使ひませう」

 笙子は何やら、毛のかたまりを出してきた。

「ママ、それは何?」

「エクステ、エクステンション。まあ、付け毛つてやつよね」

 笙子は器用にエクステンションを那之の頭に取りつけ、ブラシで地毛に馴染ませた。頭のてつぺんにヘアタイを載せ、笙子は那之に言つた。

「はい、出來た。鏡見てご覽なさい?」

 那之は怖々姿見を覗いた。彼は鏡の中に女の子を發見した。しかし、それは飽く迄那之自身なのだ。

「ねえママ……僕今、猛烈に恥づかしいんだけど……」

「そんなことないよ、可愛い、可愛い」

「おや、今日は。那之のお友達?」

 そこへ那之の父の縞田智之が歸つてきた。彼は「東がつかり」の筆名で漫畫を描いてゐる。エロ漫畫から官公廳の刊行物のイラスト、兒童書の挿繪迄、何でもこなせる中堅所だが、まだヒット作と言へるものがない。笙子がパートに出てゐるのは、家計を助ける意味があつた。智之はマンションの同じ階に部屋を仕事場として借りてをり、毎日食事の時間に戻つて來るのである。

 戸惑ふ智之の樣子を見て、笙子は吹き出した。

「馬鹿ねえ。自分の息子を忘れたの?」

「お、てことはまさか……この子は那之!?」

「う、うん……」

「ちよつと待つて待つて」

 智之は慌ただしく出て行くと、やがてデジタルカメラを手にして戻つてきた。

「寫眞撮らせてくれ」

「え、寫眞なんか撮つて、どうするの?」

「別に惡いことに使はうつてんぢやない。ちよつと前、編輯部のはうから、男の娘漫畫の原作を見せられてね」

「男の娘?」

「うん、要するに女裝した男の子があんなことになつたりこんなことになつたりする話なんだが。パパぢや手に餘ると思つてゐたけど、身近にこんないい資料があつたなんて、お父さん俄然火が點いちやつたよ!」

「それでお金になればいいんだけどねえ……」

 呆れる笙子を知つてか知らずか、智之はシャッターを切り續ける。

「よーし、それぢや今度は足開いてみようか」

 笙子は智之の後頭部をポカリと叩いた。

「惡乘りし過ぎ!實の息子に何言つてんの!」

「實の息子にでもなけぁ、頼めないぢやないか、こんなこと」

「ああもう、いい加減にご飯にしませうか。那之、その服は脱いだはうがいいでしょ?汚しちやふといけないわ」

 

「縞田君遲いね」

ピアノにもたれ乍ら、女子達がおしやべりをしてゐる。

「練習なんだから別に着替へないでもいいのにね」

「先輩がプレッシャーかけるやうなこと言ふから……」

「大體さ、ちよつと低い聲が欲しいつてだけで、別に男の子を入れてつて頼んだ譯ぢやないのに」

「でも、縞田君脱がすのノリノリだつたぢやない」

「それはさうだけど……」

「ごめん、お待たせ……」

 音樂室に隣接する、樂器をしまつてある部屋で着替へを終へた那之が、音樂室に入つてきた。

「ど、どうかな……?」

「……」

 一瞬の沈黙の後、女子達の中から小關が前に進み出て、那之の首に手をかけた。

「縞田!あたしらより可愛いの禁止!」

 冗談なのだらうが、さう言つて小關は那之の首を締めてきた。那之は喘ぎ乍ら言つた。

「小關、喉締めるの止めろよ!歌へなくなつちやふだろ!」

「あ、ハハハ、濟まん」

 ピアノの前に座つてゐる、お下げ髮の子が、譜面をトンと叩いて言ふ。

「そろそろ練習しませんこと?」

「さうだね。縞田君、確か樂譜讀めるよね?」

「ねえ、ちよつと待つて。女の子だけつて設定なのに、『縞田君』てなんか變ぢやない?」

「ぢやあ、こんなのどう?」

 ピアノ伴奏の子がつと立つて、黒板に向かつた。

「……那之と書いて、ヤスユキ。でもこれ、ナノとも讀めるでせう?ナノちやん、でどうかしら?」

「……陶ちやん、それ、前から考へてゐたんぢやないの?」

「ヘヘ、バレたか」

「ナノちやんか、これぁ笑へるわ!ナノちやーん!」

「小關、バカ、止めろよ!」

「止めろよぢやないだらう、止めてよとか、お止めになつて、とか言へ!」

「あらあら、なかなか練習に成らないわね……」

 お下げの子が、いつの間にかピアノの前に戻つてゐて、突然伴奏を彈き始めた。女の子達はあわてて竝んで、歌ひ始めた。勿論那之もそれに加はつた。那之は驚いた。我乍ら良く歌へてゐるやうな氣がして。

 

 ポップスのバンドが出番を終へ、舞臺を降りた。講堂の舞臺の袖では、那之を含むメイド服の一團が圓陣を組んでゐる。

「いよいよ本番ね。皆さん、がんばりませうね」

 ピアノ伴奏の子が眞劍な顏で言つた。

「はい」「うん」「もちろん」

 樣々な返事がそれに呼應した。

「次は二年生女子の有志によるコーラスです。よろしくお願ひします」

 アナウンスの後のパラパラとした拍手の中、那之達は舞臺へ出ていつた。その途端、客席から、男子の聲が上がつた。

「おい、うちの學校にあんな可愛い子、ゐたか?」

「いや待てよ、あいつ、縞田ぢやねえか?」

「本當だ、縞田だ!」

「オーイ縞田、ちんちん切つたんかー?」

 觀客席がどつと沸いた。その途端、小關が前へ踏み出した。

「お前ら、うるせえぞ!」

 小關は小柄な體に似合はない大音聲で一喝した。會場が水を打つたやうに靜まり返る中、小關は、いきなりおしとやかになつて、スカートを少し持ち上げ、お辭儀をした。

「私達、卒業する先輩方の爲に、歌を歌ひます。『旅立ちの日に』聞いてください」

 さう言つて小關は元の場所に戻り、隣りの那之にささやきかけた。

「あんな奴らの言ふことなんか氣にするな」

「してないよ」

「ならいいけど」

 ピアノの伴奏が始まつた。

 白い光の中に 山竝みは萌えて——

 那之達は聲を合せて歌つた。練習の甲斐あり、和聲もしつかり決まつてゐる。會場も靜かに那之達の歌に聽き入つてゐる樣子だ。

 歌ひ終つた後、一瞬の沈黙——その後、會場から轟くばかりの拍手が卷き起こつた。中には「縞田付き合つてくれー」などと叫んでゐる者さへゐる。そんな中を、那之達は小走りに舞臺の袖へ引つ込んだ。

「やったねー!」

「すごく樂しかつた!」

「うん、本當!」

 緊張が解けたせゐか、少女達は、舞臺の袖で輪になつてはしやいだ。那之もそれに加はつた。こんなに自然にはしやいでゐる自分を、少し不思議に感じ乍ら。

 と、そこに、いつも江沼にかしづいている子が近づいてきて、言つた。

「縞田さん」

「あ、はい?」

「江沼さんが、音樂室に、今すぐ來てくれつて」

「さう?ぢや、みんなで行かうよ」

「あの……」

「何?」

「縞田さん一人で來てくれつて」

「……」

 那之は怪しさを感じて戸惑つた。

「行けよ縞田」

 小關が言ふ。

「う、うん……」

 那之はメイド服のまま、袖を降りて、體育館の横を拔け、校舍に入り、音樂室へ向かつた。

 

 江沼は音樂室の窗際に一人で座つてゐた。彼女は那之を手招きして言つた。

「ここに座つて」

「はい……」

「聽いた。良かつたよ」

「あ、ありがたうございます。でも、何故それを僕だけに言ふんです?みんなで一所懸命がんばつたのに……」

 江沼はその問ひには答へず、言つた。

「縞田。私の眼を見て」

「はい……?」

 言はれるがままに那之は江沼の眼を見た。彼女は那之の頬を兩手で包み、那之に突然キスをした。

 驚いた那之は、一瞬動けなくなつたが、急に怒りを感じ、江沼の手を振り拂つた。

「何すんですか!最低だ!」

「縞田……?」

「それぁ、先輩は怖い人だとは思つてゐました。でも、ずるい人とは思つてなかつたのに!大嫌ひです!」

 那之は憤然と、音樂室を出て行かうとした。

「待つて!」

 那之は江沼に後ろから抱きしめられた。首筋の邊りに熱い水が落ちる氣配がした。

「縞田、好きなの」

 那之はがたがたと震へ出した。もつれがちな舌で、那之はやうやく口に出した。

「……さうならさうと始めから言へばいいぢやないですか。何ですか、これは……」

 江沼が那之のメイド服のポケットに何かを忍び込ませた。その彈みで江沼の力が緩んだ氣がしたので、那之は彼女の腕から無理矢理に拔け出し、音樂室を出て行つた。

 那之が廊下の隅に立つて、走つて亂れた呼吸を整へてゐると、そこへ小關が近寄つてきた。

「あれ……小關。何でここにゐるんだよ」

「扉の陰で聞いてた」

「盜み聞きかよ。趣味の惡い」

「でもさ、男らしかつた、縞田」

「……大體さ、一人で行けつて言つたの、小關だろ?何でわざわざ」

「心配してたんだ」

「心配?」

「先輩つて、女の子好きつぽいところがあるから」

「ちよつとちよつと、話が見えない!順序立てて話してよ」

「……言つちまへば簡單なんだけどな。先輩は女の子が好きだ。でも、偶然、縞田が好きになつた。だからチャンスを探して縞田に女裝させた」

 那之は座り込んでしまつた。

「何だよそれ、いい迷惑……」

「でもさ、面白かつただろ?」

「小關、間に入つてゐるんだから、先に止めてくれてもよかつただらう?」

「あたしにそんなこと出來ると思ふのか?言つただろ、女は怖い、つて」

 さう言ふ小關だつて女ぢやないか……と思ひ乍ら、那之は言つた。

「あーあ、何かもう頭グチャグチャでどうでもいいや。みんなのところに戻らう?」

「さうだな」

 那之がふらふらと立ち上がると、何かが床の上に落ちるカツンといふ音がした。小關がそれを拾ひ上げて言つた。

「あ、これ……?先輩の爪鑢ぢやん」

「……あ、さうか。さつき先輩が、僕のポケットに何か押し込んだんだ。爪鑢だつたんだ、ポケットにちやんと入つてゐなかつたんだな」

「縞田、どういふ意味だと思ふ?」

「ま、まさか、これで手首でも切れつて……!?」

 青くなつた那之を、小關は笑つた。

「バカだな、爪鑢でそれはないだろ。思ひ出の品のつもりぢやないの」

 小關は那之の手に爪鑢を握らせた。

「縞田」

「ん?」

「これから何かあつたら、あたしが縞田を守る」

「なんだよ、急に」

 小關は急に赤くなつた。

「何でもない。さ、戻らう」

 

「で、それから髮を伸ばして、メイクも練習して、今はこんな感じ」

 長い話を聞き終へて、マスターは灰皿に莨を押し付けて言つた。

「何だかすごいゑぐい話を聞いたやうな氣がするな。しかし那之、さういふことだつたら、もう女裝しなくていいんぢやないか?」

「だつて、パパが漫畫のことがあるつて言つて、やめさせてくれないんだもん。それにこの恰好、樂つてぁ樂だし」

「樂?」

 マスターは眞意をつかみかねた。ただ、那之はかなり身長の低いはうだから、その面で何かコンプレックスがあるのかも知れない。それにあらためて見てみると、那之の大きな瞳、自然な仕種は、見てゐると何だか放つておけないものを感じさせる。もしかしたら、この恰好で、いろいろちやほやされたこともあるのかも知れないな……マスターは思つた。この可愛さなら、これを目當てに來る客もあるだらう。笙子の言つてゐたこともまんざら嘘ではないかも知れない……。

「伯父さん、お願ひ!僕、欲しいものがあるの。バイトさせて!」

 沈黙を不承諾と思つたのか、突然那之が手を合せて言つた。

「おいおい、拜むなよ。別に雇はないとは言はないさ。ただ、ちよつとテストをしよう」

「ええ、テスト?僕苦手ー」

「別に大したことぢやない」

 マスターはテーブルの上のメニューを取つた。

「オーダー取りぐらゐ、やつてもらはうか。うちはそんなに品數多くないから、すぐ覺えられるだらう。肝心なのは、『承りました』『お持ちしました』『ありがたうございます』を忘れないことだ。やつてみるか?」

 那之は小さくうなづいて、アタッシュケースから、今度はエプロンを出し、立ち上がつてそれを身に着けた。

「隨分用意がいいぢやないか」

「うん!」

「よし、やらう」

 那之は立ち上がり、マスターに訊ねた。

「いらつしやいませ。ご注文はお決まりですか?」

「アイスコーヒー」

「承りました。シロップとクリームはお使ひになりますか?」

「返してくるねえ。クリームだけ貰はう」

「はい。マスター、アイスコーヒーとクリームお願ひします」

 那之はカウンターに行き、お盆の上に何かを載せる身振りをした。テーブルに戻り、那之は見えないグラスを置いた。

「アイスコーヒーお待たせしました。ごゆつくりどうぞ。……つて、伯父さんどう?」

「一應オッケーだが、忙しくなつてきた時大丈夫かどうかだな」

「僕、がんばる!」

 マスターは壁の時計を見た。

「よし、そろそろ開けるか。がんばれよ……いや、待てよ」

「何?」

「その恰好で『ヤスユキ』なんて呼ぶと、お客に何か勘ぐられさうだな」

「ぢやあ『ナノ』つて呼んで」

「ああなるほど、漢字を讀み替へる譯か」

「うん、豫餞會の練習の時も、さう呼ばれてたし」


 
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