皓々(こうこう)とした月明を引き込む窓のある一室。春風駘蕩たる鉄紺色が硝子越しの空を蓋(おお)う。懈怠(けたい)を増幅させる気温は、ただひとつの明かりの波長と同期して揺れ動く。颯々(さつさつ)とした一陣が鼓膜を震わせ、嗅覚は神秘的な夜を捉える。月明を半身に浴びるベッドの枕上では音の無い時計が淡々と時を刻んでいる。しかしベッドとは別に、部屋へ影を落とす者がいた。
「……偶には良いもんだな」
ぼそり、と独り言(ご)ちるようにその口から声が漏れ出た。窓の桟に凭れる如く腰を下ろした彼は、耳元へ携帯電話を持った右手を添えている。携帯電話の画面は当然『通話中』の文字が明滅していた。彼は双眸こそ左側、窓外の明かりの主を月よ星よと眺めているが、意識は耳に届くここにいない声へと向けていた。
『ごめんね』
女性の声が漏れ出して、ほんの僅かに部屋へと転がる。その声音はどうしようもない諦観に包まれていた。彼は耳へ侵入した声に気付いた筈だが、それそのものに応える事はなかった。時計に表示される緑色の数字がひとつだけ変わる。ふたつ。みっつとまた変わる。その間、部屋は無言がひしめいていた。通話が切れたわけではない。ただ、無言だった。そしてまた変わろうとした時、思考の隘路から抜け出したのだろうか、彼は平静でありながらどこか清爽の気を含んだ声を携帯電話へ託した。
「いや、いいさ。明日返してくれれば良い」
それが届いたのか、相手のくすりと笑った音がした。彼は若干の羞恥を顔に浮かべる。視線の先の月は確固たる輪郭を伴った雲に隠れる。それに対応して室内は途端に明度を落とす。それでも空は未だ色を残しており、その光景は月の絶対的な存在を示しているようだ。
『……じゃあ、そうさせてもらえる?』
「構わないさ」
また彼の相手は一瞬だけ笑い、その後で通話は切れた。終了の音が断続的に彼の耳へと響く。それは脳を伝って広漠な夜に溶ける。隠れていた月が顔を出し、また彼の視界を月明が支配した。数秒感じなかっただけで光への慣れは消えていた。そのために、殊更彼には再度現れた夜の灯りが眩しく感ぜられた。部屋は隅々まで照らされ、存在は遍く暴かれる。しかし表があるなら裏もまた然り、彼の心は一層影を強くした。二値化された感情は影と共に室内へ投影される。彼はおもむろに携帯電話を閉じると、ベッドへと倒れ込んだ。
「明日……か」
いつ来るのかも知れない『明日』を待ち、数刻後、彼もまた夜の一員となった。
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相手は引越し前夜かもしれません