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初夏を迎えたばかりのその日。
毒草園の庭には、強いひざしが降り注いでいた。
芽吹いたばかりの木々には鮮やかな葉が茂り、その足元では色とりどりの花たちが妍を競う。
華やかな光景が広がっていても、ここが毒草園であることに変わりはない。ほとんどの植物が毒を持ち、なかには人を死に追いやる猛毒を持つ種類もある。見た目の美しさだけを愛でる人間には、ひざしが生みだす影の濃さに気づくことはないだろう。
そして平屋建ての母屋の奥で、漆黒の闇たちが息をひそめていることにも。
そんなことを考えながら、毒草園の主である
湯気をたてる茶碗を乗せた盆を持ち、目指したのは庭に面した縁側。ガラス戸を開け放ったそこにはほどよいひざしが差しこみ、風の心地よさを堪能することができる。
七生が台所にいたのはわずかな時間。だがその間に、縁側にいたはずの客と猫の姿が消えていた。
客が携えていた革製のトランクは残されたままだから、帰ったわけではないだろう。母屋に侵入された気配もない。我知らず吐息をもらしながら、庭に視線を投げる。
自分を呼ぶ猫の鳴き声が聞こえてきたのはそのときだ。
縁側でまどろみを楽しんでいた猫の琥珀は客が現れてもその場を動かず、体を丸めたまま冷ややかな視線で客をみつめていた。自分こそが毒草園の主であると錯覚している猫だ。主の許可も得ずに客が敷地内をうろつくことを見逃しはしないだろう。
盆を置いて、七生は庭に降りた。
琥珀の声が聞こえてきたのは台所の裏あたり。石造りの蔵もあるが納めているのはがらくたばかりで、その周囲で稀少な毒草を育てているわけでもない。客の真意がつかめないまま母屋ぞいに歩いていくと、地面に座る琥珀の姿が目についた。蜂蜜色の双眼が、じっと何かをみつめている。
その視線の先に、客がいた。
白い長袖のブラウスに紺色のスカート。うなじでまとめた髪型も、時代錯誤なほどに地味だ。だが不思議と野暮臭さはなく、涼しげな雰囲気を漂わせている。
「すみません。懐かしくなって、つい」
七生に背をむけたまま、女がみつめているのはバラだ。母屋ちかくの小さな花壇では杏色のバラが咲き乱れ、独特な芳香を漂わせている。
「毒草園のことを思いだすと、決まってこのバラが脳裏にうかんでくるんです。別の場所で、おなじ品種を見たときも。だけどこれほど美しい花には出会えませんでした。やはり特別な肥料を使っていらっしゃるんでしょうね」
「ろくに手入れもしていませんよ。放っておけばそのうち枯れると思ったのですが、なかなかしぶとくてね」
もとは観賞用として植えた苗だ。初心者でも育てやすく、丈夫な品種を選んでやった。
楽しげに花の手入れをしていた人間はすでにいない。だというのに、バラはいつまでも七生の元で咲き続けている。
「そういえば、あなたは昔からバラがお好きでしたね。来るたびに花壇の前にしゃがみこんで、一輪さしあげるまで動かなかった」
「いただいた花は私の宝物でした。枯れたあとも捨てることを拒否して、あの人を困らせたこともあるんですよ」
最後に花を渡したとき、女は十七、八歳だった。あれから十年は過ぎているはずだが、目の前に立つ女は二十歳程度の外見を保っている。
だがその程度では、女が不老を得たという証拠にはならない。
「お望みなら後でお分けしましょう」
子供の頃、毎年のように毒草園を訪れていたのは彼女の意思ではない。いつしか姿を見なくなり、連絡を受けるまで彼女の存在すら忘れていた。
そう。単身で毒草園に現れた女の目的は、花を見るためではないはずだ。
世間話に時間を割くのも馬鹿らしい。茶が冷めてしまうからと促して、七生は女に背をむけた。
あらためて客間に通そうとした七生を制して、女は縁側に腰掛けた。いまはその立場にないと、しおらしく謙遜してみせたのだ。
自分は七生の目にかなう人間ではない。その自覚を持ちながらも、七生が白磁の湯飲み茶碗をさしだすと、ためらいもなく手を伸ばしてくる。
「いいにおいですね」
湯気とともに立ちのぼる芳香はあまく、最高級のダージリンを連想させる。だが独特の渋みはなく、一口飲めば口内に柑橘類のさわやかさだけが残る。
その変化に驚いたのだろう。茶碗から口を離した女は、瞬きも忘れて茶に見入っている。
「お気に召したようですね」
「ええ。口をつけたときは甘いと思ったのに。……薬効をおうかがいしても?」
「それはサンプルです。たいした効果はありませんが、皮膚の新陳代謝を整えるぐらいはできるでしょう。どのみち、あなたには必要のない薬ですが」
肌の代謝を整えれば、キメが整う。はやい話が美肌効果だ。だが女の肌は茶碗に引けをとらぬほどに滑らかで、そして白い。
だが肌が美しい分、右目の下にあるちいさなホクロが目立ってしまう。
「商品になったら、声をかけてくださいね。かならず購入させていただきます」
「私の顧客になりたい、と?」
毒草園の看板を掲げる七生の職業は薬種商だ。それも医術と妖術の区別がなかった時代の薬種商である。毒や薬と考えられたものであれば、それがミイラだろうと宝石だろうと取り扱い、七生自身も薬類の調合を手がけている。需要が高いのは薬草茶で、薬効ではなく味そのものに価値を見いだす顧客もいるほどだ。
とはいえ多くの顧客が望み、毒草園に利益をもたらしているのは不老不死の妙薬だ。なにしろ調合を手がけた七生自身がその効力を証明しているのだから、客が減ることはない。
「顧客に加えていただけるなら光栄ですけど、高望みはしていません」
「では、何をお望みです?」
七生は客を選ぶことで知られた人間だ。わずか一時間前に電話をしてきた女を招き入れたのは、めずらしく好奇心がうずいたからにすぎない。
そう。この女の姿を、いまさらこの目にするとは思っていなかった。
人が良さそうに見える表情を崩さないまま、七生は棘を秘めた言葉を女に投げつける。
それに気づかないほど鈍くはないだろう。女は艶のある微笑みをうかべて厭味を聞き流してしまう。
「今日はご挨拶にうかがっただけです。わたしのことなど、あなたはとうに忘れていると思っていたんです。だから思いだしてもらうことが目的だったとも言えますが」
答えながらも、女の手は傍らに置いたトランクに伸びていた。まだ真新しいトランクを膝に乗せて、蓋を開く。かすかに漂ってきたのは漢方薬を思わせるにおいである。
「どうぞ。お納めください」
トランクから取りだした品を、七生の前に置く。真田紐がかけられた桐の箱だが、茶碗箱というには大きすぎる。おそらくは特注品だろう。
蓋を開くと箱の内部には仕切りがあり、それぞれにガラスの小瓶が納められていた。
「これは
瓶をひとつずつ手に取って、中身をたしかめる。どれも古来から名の知れた薬種である。たしかな薬効を持つが故に乱獲され、いまでは想像の産物だとされるもの。あるいは紛い物が本物として堂々と流通している品たちだ。
「この時代に、これだけの品を揃えられる人間は少ない。この質を保てるのであれば、行商人として立派にやっていけるでしょう。いままであなたの名前を聞かなかったのが不思議なくらいだ」
複数の毒草園を所有する七生だが、現存するすべての薬用植物を育てているわけではない。薬の材料には動物や鉱物などから採れるものも多い。当然それらはどこからか入手しなければならない。
七生のような薬種商や業者たちの拠点は世界中に点在しており、気軽に行き来できる距離でも、また信頼関係も薄い。
そんな両者の間を取り持っているのが行商人だ。顧客の間を渡り歩いて、売買を仲介する。自ら調合を手がける人間も多いから、渡りの薬種商と呼ぶべきだろうか。
「十年ぐらい前に日本を出て、中東にいたんです。師に独り立ちを許されてからも、しばらくはむこうで仕事をしていたんですが……師の機嫌を損ねてしまったようで」
行商人が仲介するのは物品の売買だけではない。秘め事の多いこの業界にあって、彼らは貴重な情報源でもあるのだ。そして行商人を手なずければ、敵対する同業者の動向を探らせることもできる。
むろん情報を流される場合もあるから、行商人たちとのつきあいには慎重さが求められる。実績を持たない女は、そう簡単に顧客を得ることはできないはずだった。
「わたしは幸運に恵まれて、すぐに有力な客を迎えることができました。わたしの独立を聞きつけて、むこうから連絡をくださったんです。それも数人。行商人としての実力は師よりもわたしのほうが上だと判断してくださったのでしょう」
つまり女は、師匠の顧客を奪ったのだ。
「中東に拠点を置く行商人には心当たりがありますよ。抜け目のない男でしたが、弟子に出し抜かれるような失態を犯したとあっては、彼の命運もつきたということだ」
七生のような古い時代の薬種商が存在するのは、彼を必要とする人間たちがいるからだ。数千年の寿命を誇る錬金術師や、神の血を引く男勝りの女王など、例を挙げれば切りがない。だが死をも拒否した彼らはそろいもそろって我が強く、自分の目的のためであれば他人を陥れることも躊躇わない。否。他人が堕ちてゆくさまを笑って鑑賞する人種なのだ。
そんな世界にあっては、たったひとつの失態が命取りになりかねない。つきあうに値しないと判断されれば、男は命をも奪われてしまうだろう。
「わたしが師に選ぶほどには、したたかな人です。そう簡単に脱落するとは思えません」
告げて、女は艶然と微笑んだ。
「それにわたしが仕事を続けるには、日本を拠点にしたほうが都合がいいんです。ここにはあなたもいますしね」
笑顔に艶があるのは濡れたような瞳と、泣きボクロのせいだろう。ちいさなホクロだがその色は漆黒に近く、意識していなくても視線を引きつけられる。
「昔はおとなしいだけが取り柄のつまらない娘だと思っていたのですが。人は変わるものですねえ」
おおげさにため息をついて、肩をすくめる。
平然と師を裏切る女だ。質の良い薬種を運んでくるからと気を許せば、いつ秘匿している情報を盗まれるか分からない。
「私にも数人、懇意にしている行商人がいます。それぞれに優秀な方々ですからね。あらたな行商人を招く必要はありません」
「そのうちの誰かが欠けても?」
七生の答えを予想していたのか、拒絶しても傷ついた表情すら作らない。
「佐伯さんは、わたしにバラを分けてくださった。わたしがどんなに嬉しかったか、あなたには理解できないかもしれませんが。わたしにとって、毒草園は特別な場所なんです」
訴えるような視線で見上げられても、白々しさが募るだけだ。女の懇願を聞き流して、七生はゆっくりと茶を飲み干す。
「あなたへの恩を忘れたことはありません。……これが、その証にはなりませんか?」
女があらたに差しだしたガラス瓶の小瓶には、艶やかな青緑色の粉末が納められていた。
「ああ、これは美しいですね」
その色合いも形状も、岩絵の具の
「つい先日、わたしが生成したものです。最も美しいのは生成した瞬間。それから、徐々に色が褪せてしまうんです」
色の変化と薬効は比例しない。だが美しさが失われてしまうのは残念でならないのだと、女は吐息をもらしてみせる。
岩緑青に似た物質にどんな薬効があるのか、七生が知らないはずもない。そう理解しているから、女も説明を加えない。
幻と言われるほど稀少な品だ。それを生成できる人間は、この世にただひとりだと言われていた。女はちいさな小瓶ひとつで、己の実力を示してみせたのだ。
「あなたの言葉が事実なら……なかなか楽しそうなことになりそうだ」
喉を鳴らしながら、七生は小瓶を弄ぶ。そしてふと、薬種を納めた箱の片隅に、折りたたまれた和紙をみつけた。どうやら見落としていたらしい。
和紙の包みを手に取ると、その表には墨で品名が示してあった。
形状は丸薬のようだが、薬というより香の一種と呼ぶべき品だろう。
「……魂返す
落語のセリフをつぶやいて、女は猫のように目を細める。
「あなたの嗅覚にも狂いが生じたようですね。甦りというのはどうにも胡散臭くてねぇ。これは私には必要のない品ですよ」
「それは残念です。ですが、一度さしあげたものを返していただくつもりもありません。どなたか……それを必要とする方にでもお渡しいただければ、それで」
口角をわずかにあげて、ニイッと笑う。
初夏を迎えたばかりの昼さがり。降り注ぐひざしは縁側にいる女の姿を明るく照らしだしている。
だが彼女の瞳を輝かせているのは、内面から滲みでる闇によるものだ。
「惜しいですねえ。あなたが単に毒を求めて来たのであれば、喜んで顧客に迎えたのですが」
ため息まじりにつぶやくと、眠っていたはずの白猫が同意するように短く鳴いた。
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「わたしは暗闇のなかで、黄泉の薫りを嗅いだ」
行商人の宇奈月が佐伯七生から譲り受けた香は、死者とのつかの間の再会を果たすという反魂香だった。
亡き妻を黄泉からとりもどすために香を焚いた宇奈月の前にあらわれたのは……。
現代ファンタジー+ミステリ小説「猫と琥珀と毒草園」シリーズの番外編(読み切り)
サイト→ http://www.ne.jp/asahi/yakou/saien/
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