太陽海岸。コスタ・デル・ソルは土地の言葉でそう呼ばれている真夏の国だった。凶器みたいな日差しが照りつける街を歩いている人間は、それらしい格好をしてガイドブックを持った観光客ばかりで、地元の人間は見当たらない。賑やかさと静けさが同居したビビットカラーの街には、独特の過ごし方があるらしい。
こういう日はキンと冷えたトロピカルドリンクでも飲みながら、日陰でのんびりと昼寝でもしているに限る――そんな空気が町中に満ちている。地元の人はのんびりしていて、何に対しても警戒心というものがなくて、ユフィにはうらやましかった。神羅との戦いに敗れて以来、カンパニーの顔色をうかがいながら息苦しく暮らしている故郷の人々とは大違いだ。
そんなときにそれを見た。
見た瞬間、どうしても欲しい、と思った。
「あ」
子供が新しいおもちゃに吸い寄せられて自分の欲求がその一点に集中するときの体の奥底から湧き上がってくる、何が何でもそれを手に入れたいという感情は、大人になると叶わない恋心のように甘やかな痛みを残していくものだとこのとき初めて知った。
「ね、それ」
小ぶりなくせにしっかりと南国の太陽の光を跳ね返していく、遠目からもそれとわかる存在感。陽光を跳ね返しながら自身で光を抱え込んでいる。数多くのマテリアを見てきた、その道にかけては目利きのマテリアハンターのユフィを一瞬にして魅了した。あれはただのマテリアではない、と。
「ん、どうかした? ユフィ」
だがあいにくマテリアには、きちんとした持ち主がいて、その彼女の髪を結ぶリボンの中と定位置が決まっているらしい。そんな場所にあるものを、いかにハンターとはいえ、手を出すのは躊躇われた。
髪飾りよろしくのそれ。ロッドや腕輪に装着するわけでもなく、肌身離さずといわんばかりの場所にあるマテリアが、持ち主にとって特別な意味を持つことくらい、考えなくてもユフィにはわかった。
「ね、エアリス。その髪につけてるヤツって、マテリアだよね?」
ユフィがそう訊ねると、エアリスは不思議そうな瞳でこちらを見た。
「うん」
「何のマテリア?」
「さあ? なんでしょう」
エアリスは歌うようにそう言って、踊りに似たやわらかな所作で、くるりと体をひねらせた。結ばれた髪がその動きに合わせてゆらりと動いて、どこからともなくあまい香りが漂う。いいにおいだとユフィはその香りを吸い込んだ。こんな風にエアリスの体からいつも花のようなあまい香りがする。香水のような主張の強いものでもない。昔、故郷で生まれたての赤ん坊の家に行ったときに嗅いだような、ベビーパウダーとお乳のにおいが混じった甘いにおいに似ていた。
エアリスが香りのするものを身につけているのかはわからない。訊ねようとしていつも忘れてしまう。同じ宿に何度か泊まって同じボディソープを使っているユフィにはないものだった。エアリスはいったいどうやってその香りを身につけたのだろう。内側から漂うのは香りではなく、資質とかいうことばに置き換えられるような、彼女が持つ気配なのかもしれない。
「これ、大切なものなの」
「そうなの? それ、どんな魔法が使えるの?」
「うーん。魔法、使えないの。何も起こらないの」
「ハァ? だってマテリアでしょ?」
そう言ってエアリスは、その存在を確かめるように、頭上に戴くマテリアにそっと触れた。ユフィには、持ち主にしか許されない愛撫の仕方がひどくうらやましく見えた。
「そうなんだけど、これ、全然役に立たないの」
「なにそれ」
ユフィは息を吐いた。それを見てエアリスが優しくほほえんだ。
「残念?」
「まーね。もっとすごい魔法が出るようなヤツかと思ったのに」
そうはいいながらも、あのマテリアの価値が損なわれてはいなかった。むしろ、その謎めいたマテリアはますます、ユフィの中で輝きを増していくようだった。ただならぬ力を感じるこのマテリアが、ただのガラクタであるはずがない。
「でもね、わたしにとって、大切なものなの」
エアリスの「でもね」は、まるでユフィが心の中で考えていた言葉に直結するように思えてユフィは顔を上げると、目の前のエアリスがにっこりと笑った。
先手を打たれた、と思った。こうも穏やかに微笑まれては、エアリスからマテリアを奪うことなどできなくなる。
「……えと」
エアリスの笑顔は言葉以上の強い言語感があって、時々こうしてユフィの言葉をさらっていく。
何がどう大切なのかの理由もわからないけれども、ユフィは、なんとなくそれに手を出すのはやめておこうと密かに思ったのだ。
ゴールドソーサーの浮かれた空気は、このお化け屋敷を模したような宿屋のなかでうまく中和されて、ここだけが不思議な静けさが漂っていた。
明日は古代種の神殿に行くのだ。
「ね、ユフィはマテリアが、好きなの?」
エアリスにそう言われてユフィは「え」と息をのんだ。
食事も終わり、女性と男性がそれぞれの部屋に別れて後は眠るだけという、宿屋の中でのことだ。ティファはシャワーを浴びている最中で、部屋の中にはエアリスとユフィの二人だけだった。
「へ?」
「マテリア、好き?」
そのエアリスの口ぶりには故郷の同じ年頃の女の子たちがよく言っていた「○○君のこと、好き?」みたいな秘密を共有したがる女の子特有の空気があった。正直に言わないと仲間はずれにされそうな脅迫めいたあの空気を、なぜだかユフィは思い出す。
ユフィは、戦利品をベッドの上に広げて、一つ一つを吟味している最中だったので、エアリスがそう訊ねてきた経緯について思いを巡らせる余裕がなかった。
「え、ああ、そう、うん大好き」
マテリアは大好きだ。あんなきらきらして宝石みたいなのに、中に秘めたものが途方もない力を生み出していくなんて、これほどまでにかっこいい武器は見たことがないとユフィは思っている。
「ふうん」
会話はそれきりになり、エアリスはほどいた髪を丁寧に梳っている。エアリスもティファも、長くて綺麗な髪の持ち主だ。この二人のような年上の女性に接する機会があまりなかったユフィにとって、二人の持つ「女の子らしさ」に居心地の悪さを感じるときがあった。二人の前だと、自分はまだまだ子供だと思い知らされる。マテリアに夢中な自分がまるでおもちゃに固執しているようにすら感じるのだ。
ユフィはなぜだかエアリスに背中を向けた。
「……」
風呂上がりだといっそうエアリスの体から漂う香りは甘さを増している。
そんなときに、エアリスの白い手が降ってきた。
「ね、ユフィ、ありがとね」
優しくユフィの頭をなでるエアリスはいつの間にかユフィが店を広げていたベッドに腰をかけていた。
「え?」
なんて懐かしくて優しい撫で方をするのだろう。幼い頃になくした母親の記憶が不意に揺さぶられる。そんな愛撫をユフィは黙って受けながらも、脈絡のない「ありがとう」に遅れて反応をした。
「……ありがとうって、なにが?」
エアリスにっこりと笑った。
「うん?」
ああ、この笑顔だとユフィは思う。
エアリスの笑顔には、いろいろな秘密が詰まっている。柔らかな見た目に惑わされがちだが、彼女はなかなか自分の心の内を人には見せたがらない。人の世話は焼きたがるくせに、エアリスは弱音を決して吐かないし、足手まといになるのを極度に嫌う。頑固な部分をみんなこの蕩けるような笑顔でくるんでしまうから、余計にたちが悪いのだ。身に纏わせている出所不明のあの花の香りみたいに、エアリスには秘密が多すぎる。
だからそうやってエアリスが微笑むと、ユフィは少しだけ身構えるようになる。笑顔の裏に滲むものを、見逃さないために。
当の本人はお構いなしにあっけらかんとしている。
エアリスの手のひらには、恋い焦がれた例のマテリアが握られている。
秘密を共有するときみたいに、エアリスは声を落とした。
「だってウータイに行ったとき、わたしたちのマテリア、みーんなもっていっちゃったのに、これだけは残してくれてたでしょ。なんかそれ、嬉しかったから」
ユフィはそそくさとベッドに広げていたマテリアを、袋の中にしまった。
「イヤ、だって魔法も使えないようなマテリアなんて、アタシいらないし」
「そぉ? だってユフィ、あのとき、わたしのマテリア、とっても欲しそうなカオ、してた」
ユフィは自分でも顔が赤くなるのを感じないではいられなかった。大人にいたずらを見とがめられたかのような気持ちになる。エアリスには何もかもお見通しなのだ。
「なんか綺麗だからいいなって思っただけ! でも魔法が使えないんじゃ意味ないし、実用と観賞用は別なんだから!」
狼狽するユフィを、大人のまなざしでエアリスが見つめている。
「綺麗?」
「うん」
「そっか。そう言ってくれたの、たぶんユフィが、はじめて」
「そうなの?」
「だってね、クラウド、このマテリアが役に立たないっていったら、ものすごくどうでもいいような顔、してた」
「クラウドねぇ……」
ユフィはエアリスの言わんとしていることがつかめずに、ぼんやりとした相づちを打っていた。エアリスはまだ、謎めいた微笑を崩していない。
「わかってくれたの、ユフィだけ、ね」
「……」
ユフィははっとしてエアリスを見た。
エアリスは芯の強いように見えて、放っておいたら傷だらけになってしまいそうなほどのもろさを抱えているのかもしれない。こんなにも強さと弱さが極端すぎる人間は、神羅の顔色をうかがいながら日々を暮らしていた故郷だったら出会えなかった。
「エアリスあのさ――」
「わたしが死んだら、このマテリア、ユフィにあげるね」
またもや二の句を継がせまいというタイミングで放たれた言葉に、ユフィがぎょっとしてエアリスを見た。
「は、はぁ? ちょっと何言ってんのエアリス」
「もしもの話、よ。もしかしたら六十年後かもしれないけど」
エアリスはもう一度、あの謎めいた笑顔を作ってゆっくりと髪を梳りはじめた。
何か言いたいことや聞きたいことがあったのに、すべてうやむやにされてしまったような気がする。
その後しばらくしてエアリスは姿を消した。
「あーあ」
ユフィは夜空に浮かぶ赤く燃え立つメテオを睨んでいた。昼も夜も同じように赤い。日を追うごとに空を占める大きさが増えている。
マテリアを通してエアリスと交わしたやりとりが、甘やかな痛みを残している。そんなときに思い出すのはあの言葉だった。
――わたしが死んだら。
ユフィの故郷には言霊信仰というのがある。良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされたあのかび臭い迷信を、あの奇妙なエアリスの言葉に思わず重ねてしまう。
「エアリス、なんであんなこと言ったんだろ」
あのときの、すべてをうやむやにするような笑顔の行方を知ることもなく、エアリスだけがいないという現実にユフィは時々やるせない気持ちになる。
結局ユフィのマテリアの目利きは確かなものだった。どうしても手に入れたかったマテリアは、古代種の知恵の結晶、世界を救う魔法「ホーリー」を唱えることができる、最後の切札だったのだから。
「やっぱ盗んでおけばよかったんだ」
そうすればエアリスが一人でこの、忘らるる都に行くこともなかったかもしれないのに。
白マテリアを挟んで共有したものをもっと延長していったら、違った未来が見えたのだろうかと、あの日からユフィは考え続けていた。
「一生の不覚だわ」
夜が明けた。
「なんて場所なんだろ……」
青く光る忘らるる都の風景は、一人で身を置くには寂しすぎる。こんな場所に、あの寂しい人をひとりで行かせたくはなかった。
「さて……と」
ユフィは最後の戦いへと向かうために、仲間のもとへと向かうことにした。
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エアリスとユフィのお話です。