No.429963

あやせたん 通い妻る 前編

10巻発売前に予想みたいなので書いたやつ

Fate/Zero
http://www.tinami.com/view/317912  イスカンダル先生とウェイバーくん
http://www.tinami.com/view/331833 あの日見た僕(サーヴァント)の名前を俺達はまだ知らない。

続きを表示

2012-05-29 23:53:58 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:4460   閲覧ユーザー数:4274

あやせたん 通い妻る 前編

 

 

 わたしは築10年、徐々に年季が入り始めている安普請なアパートのとある一室の扉の前へとやって来ました。

 部屋に入る前に右手に提げているスーパーのビニール袋の中身を確かめて買い忘れがないことを確認します。

 調理に必要なものが全て揃っていることを確認するとインターホンを押しながら室内の部屋主に向かって来訪を告げました。

「お兄さ~ん、こんばんは~。今日もお夕食を作りに来ましたよ~」

 そしてお兄さんから預かっている部屋の合鍵を使って部屋の中へと入っていきます。

本来なら部屋主であるお兄さんの返答を待つべき所なのでしょう。

けれど、お兄さんの食事を作りにこの部屋の出入りしているのも毎日のことです。なので面倒なプロセスは省きたいです。それに、わたしたちは……。

「あやせ、その挨拶はダメだって毎日繰り返して言っているだろ」

 8畳間のテレビもない殺風景な和室でちゃぶ台を広げて勉強していたお兄さんはブスッとした顔でわたしを出迎えました。

「えっと、わたし、どんな失礼を働いたでしょうか?」

 お兄さんが怒っている理由がわからなくて困ってしまいます。わたしは一体どんなヘマをしてしまったのでしょうか?

「この家に上がる時はこんばんはじゃなくてただいまだろ。それに、お兄さんじゃなくて京介さんだろうが」

 京介さんはブスッと、でも頬を染めて照れながらわたしの間違いを指摘しました。

 その指摘を聞いてわたしの顔が一瞬にして燃え上がりました。

「そ、そうでしたね。ただいまです、京介さん」

「そ、そうだ。それで良いんだ」

 京介さんの顔もまた真っ赤になっていました。

 そうです。

 今のわたしたちは正真正銘の恋人同士なのでした。 

 京介さんが受験勉強に専念する為に独り暮らしを始めてからわたしたちはお付き合いを始めました。

 今ではこのアパートに足を運ぶのが日課になっています。

 そんなわたしに対して京介さんはここがわたしの帰る場所であることを強調します。

 それはつまり、京介さんはわたしをこの部屋の住人と考えている訳です。言い換えればそれはわたしのことを家族として考えているということです。

 京介さんの家族……つまり、わたしは京介さんのお嫁さんになってしまう訳です。

 “ただいま”の意味を考えるとわたしの頭は沸騰してしまいそうになります。

 でも、その沸騰はわたしにとってとても心地良いものなのでした。だからわたしももっと意識して“ただいま”を使わないといけないかなと思います。

 だって、京介さんに対して“ただいま”と言える関係であることはわたしにとって何よりも幸せなことなのですから。

 

「それじゃあ、お夕飯を早速作り始めますね」

 京介さんと2人で買った真っ白な前掛けエプロンをしながら調理に取り掛かります。今日は京介さんの大好物のカレーライスを作ろうと思います。

 早速買って来たお野菜を洗うことから調理を始めます。

「あやせぇ~」

「えっ?」

 ニンジンを袋から取り出していると突然後ろから強く抱きしめられてしまいました。

「京介さん。ダメですよ。今はお料理中ですよ」

 犯人は振り向くまでもなくわたしの彼でした。

 この温かさ。この匂い。この感触。間違える筈がありません。世界にたった1人だけの人、高坂京介さんがわたしを包み込んでいたのです。

「台所に立つあやせの後姿を見ていたらムラムラがどうにも抑え切れなくなってな」

 話しながら京介さんはわたしを抱きしめる手の力を一層強めます。逃げられません。逃げる気もありませんが。

「京介さんのバカ。エッチ……」

 口で文句を言いながら、ニンジンを流しに置いて自分の体重を京介さんに預けます。

 わたしと京介さんは恋人同士です。

 そしてわたしたちは毎日この部屋で時を過ごしています。京介さんは受験生で外に出ることは滅多にありません。室内に2人きりで親密に過ごしているのです。

 ですから、その、わたしたちは、あの、その、もう既にそういう関係です。平たく言えばわたしの身も心ももう全部京介さんのものです。京介さんだけのものです。

 昔のわたしだったら今のわたしを見て不潔だと言うに違いありません。まだ中学生の分際で破廉恥だと非難すると思います。

でも今のわたしは自分のことを不潔だとは思いません。愛する人と結ばれて幸せの最中にいる自分を誇らしく思っています。自分を誉めてあげたいとさえ思います。

「だって俺はあやせたんのことが大大大大好きなんだも~ん。世界で一番愛してるぜ~」

 無邪気に述べる京介さんがわたしの体を引っ繰り返して正面から抱きしめてきます。

 わたしの視界は京介さんの胸板でいっぱいになりました。

「本当……バカなんですから」

 顔を左右にゆっくりと振ります。顔が擦れてお兄さんの温もりと匂いがわたしを包み込みます。

文字通りわたしの全ては京介さんに包まれていました。この世界で最も愛しい人に。

「わたしの方が……もっと京介さんのことを愛していますよ」

 京介さんの背中に手を回してわたしも彼を抱きしめます。京介さんの想いの強さに負けないぐらい強く、激しく、愛おしく。

「あやせ」

 京介さんが目を瞑って顔を近付けて来ました。

 それが意味する所はわたしにとってわかり過ぎたことでした。

「京介さん」

 わたしも目を瞑りながら彼を受け入れる体勢を取ります。

 そして重なる2人の唇。

 それは既に何度も繰り返されて来た慣れた筈の行為。なのに、キスする度にわたしの中で京介さんへの愛情が新しく激しく燃え上がるのです。

 わたしは愛情と情熱をもって京介さんの唇と、それから舌を受け入れました。

 唇を離して目を開けると熱っぽい表情をした京介さんの顔がすぐ側にありました。きっとわたしも似たような表情をしているのだと思います。

「あやせっ!」

 京介さんがわたしの名を再び大きく呼びながら強く強く抱きしめてきました。

 そしてゆっくりと、でも荒々しくわたしを畳の上へと押し倒してきたのです。

 そう言えば初めての時もこんな風に畳の上で布団も敷かずに突然だったなあ。あの時は2人ともぎこちなかったよね。なんて、少しだけ前のことを思い出しました。

 抵抗はしません。でも、京介さんにはきちんと確かめておかないといけないことがありました。

「京介さん……もし、赤ちゃん出来ちゃったら絶対に責任とってもらいますからね」

 お料理を途中で妨害されたことに対する若干の非難を込めながら警告を述べます。

赤ちゃんが出来たら絶対に産もうと思っています。誰が何と言うとです。でも、京介さんにはきちんとパパになってもらいたいです。

「赤ちゃん出来なかったら責任とらなくて良いのかな~?」

 京介さんはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべています。この人はわたしの嫌がることが昔から大好きなんです。本当に困った性格の持ち主です。

 だからわたしはガツンと言い返しました。

「赤ちゃん出来なくても責任とってもらうに決まっているじゃないですか。わたしを世界で一番幸せなお嫁さんに絶対にしてもらいますからね!」

 京介さんにはわたしを幸せにする義務がある。そしてわたしにも京介さんを幸せにする義務があるんです。

 中学を卒業したら……京介さんにはわたしのこれからの人生を半分背負ってもらおうと思います。勿論わたしも京介さんの人生を背負おうと思いますが。

「じゃあ、幸せの前祝いってことで」

 京介さんが再び顔を近づけて来ました。

「前祝でこんなに幸せじゃ……本当のお祝いになったらわたし幸せ過ぎて死んじゃうかもしれませんよ……」

 わたしは京介さんの首の後ろに手を回しながら彼を受け入れます。今度のキスでは京介さんはわたしの唇を解放してくれませんでした。

 今夜の夕食もまた遅くなってしまうに違いありませんでした…………。

 

 

 

「廉価なアパートはお隣さんに声が聞こえちゃんじゃないか心配~~♪」

 両手を振り上げながら上半身を起こします。

 とても気分の良い朝です。

 こんな気持ちの良い朝は久しぶりです。

「思い切り声を響かせてお隣さんを悶々とさせてしまうのも良いかもしれませんね」

 自分でも何の話だか全くわからないことを口走ってしまうほどに気分が良いです。

 何でこんなに気分が良いのか。

 それはおぼろげにしか思い出せない夢の内容が良かったからだけではありません。

 先日、とても素敵な情報を偶然仕入れてしまったからです。

 加奈子より偶然に仕入れた素敵情報。それは──

「お兄さんが独り暮らしを始めるなんて……これはもう、天佑としか言いようがありませんよねえ~♪」

 お兄さんがこの近所にアパートを借りて独り暮らしを始めたというものです。

 鏡を見ればグラビア撮影で一度も見せたことがないような満面の笑みを浮かべた自分の顔が映っていました。

「桐乃との関係をお義母さまに疑われるなんて、本当にお兄さんはおっちょこちょいな人ですよね~♪」

 お兄さんが独り暮らしを始めた理由。

表向きそれは受験勉強に集中する為ということになっているようです。

 でも、実際は違います。お義母さまがお兄さんと桐乃に対して近親相姦の疑いを抱いて2人を引き離したからだそうです。

 2人のデートシーンをご近所さんに目撃されたとか、桐乃が兄と妹がエッチするPCゲームばかりしているとか、何よりお兄さんの異常な妹愛がその原因なのでしょう。

 勿論わたしは2人の関係がそんな関係にないことは知っています。

 お兄さんが恋愛対象にするのは妹みたいに思える年下の女の子であって、妹そのものではないのですから。桐乃が恋愛対象の筈がないんです。

ちなみにわたしはお兄さんから見て妹みたいに思える血の繋がりのない年下の女の子ですよね。フフフ。

 とにかく、お義母さまに疑いを抱かれたお兄さんは事実上追放されるような形で実家を追い出されたのです。そして、独り暮らしを始めたのです……。

 

 ちなみにこれらの情報に関して桐乃は一言も漏らしてくれません。

 桐乃はお兄さんが家を出てからも少なくとも学校では平素通りに振舞っています。まさかお兄さんが家を出るなんて考えていなかったわたしもすっかり騙されていました。

 そんなわたしに新事実を教えてくれたのは加奈子でした。加奈子は桐乃が送信したメールから異変を感じ取りお兄さんに直接問いただして真相に至ったそうです。

 加奈子もたまには役に立つのですね♪

 情報を得る為に多少の暴力は行使しましたが。かなりの暴力を行使しましたが。

 とにかくこれでお兄さんと桐乃は物理的に切り離されたのです。

 そしてお兄さんは狭い室内で1人きり……ハァハァ。何故か知りませんが息が荒くなってきます。

「あの抜けているお兄さんのことですから、毎日ろくなモノを食べていないに違いありませんよね~♪」

 お兄さんは今家庭の味に飢えているに違いありません。

 飢えたお兄さんはどんな犯罪行為に手を出すかわかったものじゃありません。

 わたしにはお兄さんの犯罪行為を予防する義務があります。今そう決めました。

 そんなわたしが義務を果たす為にできること。それは──

「だから、わたしはお兄さんに手料理を振舞うことを強いられているんだ~♪ なんです」

 大好きだったガンダムAGEの台詞を真似てみながら自分の決意を口に出してみます。

 お兄さんを犯罪者にしない為には、わたしがお兄さんに手料理をご馳走するしかありません。

 それも1回だけじゃ足りません。わたしの料理の腕に感激したお兄さんはきっと何度もご飯を作ることを要求するに違いありません。

きっとわたしは毎日お兄さんの元にご飯を作りに通い続ける日々を送る嵌めになるに違いありません。

 お兄さんの部屋に毎日通う。それって、それって──

「それって完全に通い妻じゃないですか~~♪」

 思わず大声を出してしまいます。

 わたしはお兄さんのことなんか何とも思っていません。セクハラ大好きな変態としか認識していません。でも、わたし以外にその認識は通じないと思います。

 第三者的にわたしは京介さんの元に毎日足を運ぶ通い妻と思われてしまうに違いありません。ううん。第三者だけじゃありません。

 調子に乗ったお兄さん自身もそう思うに違いありません。

 お兄さんのことですから図に乗ってわたしのことを自分の女扱いするに決まっています。そしてお兄さんの頭の中でそれが段々と事実として認識されていくのです。

 お兄さんはわたしに対して恋人のように振舞うことを命じて来る筈です。

繰り返しますが、わたしは変態お兄さんのことなんて何とも思っていません。けれど、下手に逆らって機嫌を損ねてしまうとお兄さんは犯罪者への道をまっしぐらです。

そうなってはご飯を作りに来ている意味がなくなってしまいます。だから仕方なくお兄さんの要求に従ったフリをします。

 そうするとお兄さんはますます図に乗り、恋人同士として、その、わたし自身を求めて来るに違いありません。

 勿論わたしは拒みます。

 でも、場所はお兄さんと2人きりのアパートの一室。誰の助けも期待できません。そしてか弱い少女であるわたしが大人の男性であるお兄さんに力で敵う筈がありません。

 成す術もなく押し倒されたわたしは涙を流しながら天井の染みを数えることになるに違いありません。

 そんなこと。そんな屈辱的で、あまりにも残酷なこと……。

「よしっ。今日から早速お兄さんの部屋に手料理を振る舞いに行きましょう♪」

 一番可愛いと思うお気に入りのオレンジ色のセットの下着を選んで手に取り、軽やかにスキップしながらお風呂場へと向かいます。

 今日はとても良い日になる。

 そんな予感がしました♪

 

 

 

 

「ねぇ~桐乃~」

 放課後、ランニングウェアで陸上部の部活に出掛けようとする桐乃に声を掛けます。

「何、あやせ?」

 髪をポニーテールに絞った桐乃が振り返りながら尋ね返します。

「最近、お兄さんはどうしてる? 受験勉強で忙しいんだよね?」

 モデルで培った作った無邪気な顔を見せながら桐乃に何気なく探りを入れます。

「べっ、別に。何も変わりはないわよ。受験生だもん。遊べる訳ないじゃない」

 桐乃の返答はちょっとどもりました。目も露骨にわたしから逸らしています。

 この子はかつてオタ趣味を隠すのには長けていました。というか誰もオタ趣味を持っていると思っていなかったから疑いもしませんでした。わたしも予想していませんでした。

 でも、嘘であることを隠し通すのは極めて下手です。顔にすぐ出ます。基本的には根が生真面目なので嘘をついていることが心苦しくて我慢できない子なのです。

「ていうかアタシ、アイツとは全然仲良くないし。普段全然喋んないし」

 鼻息を荒くする桐乃。こうやって必要以上に強く出ることでしか自分を誤魔化せないのです。

「じゃあ、お兄さんは今日も桐乃の隣の部屋で熱心に勉強中なんだね」

「そっ、そうよ」

 桐乃は完全にそっぽを向きながら言い切りました。

 本当、わかり易い反応で助かります。チョロいです。所詮は桐乃ですね。

「何であやせがアイツの行動なんか気にするのよ? アイツのこと、毛嫌いしていたじゃないのよ」

 唇と目を尖らせた桐乃から反撃が来ました。

 昨日までのわたしならこれで当惑していたかもしれません。でも、今日は違います。

 一番可愛い下着を身に着けている今日のわたしは一味違うんです!

「ほらっ、わたしって最近お兄さんと和解したじゃない。だからお兄さんの受験も応援したいなと思ってね」

 大人の態度で爽やかに笑って桐乃に返します。

「なぁ~~っ!?」

 予想以上の驚きを桐乃は見せてくれました。目なんか大きく見開いちゃって、まるでお化けでも見ているかのようです。

「それで、お兄さんに何か差し入れをしたいと思うのだけど、何をあげたら喜ぶかなあ?」

「要らないっ! アイツに差し入れなんか持っていく必要は全くないっての!」

 両手をブンブン横に振りながら必死に否定する桐乃。

「いつ、高坂家にお邪魔したらお兄さんに会えるかなあ?」

「しばらくは来んな~~っ!」

 廊下の中央で絶叫する桐乃。

「じゃ、じゃあ、アタシはこれから部活だからもう行くわね。じゃあね!」

 言うが早いか桐乃は廊下を走り去ってしまいました。

「あれでまだお兄さんの秘密を隠し通しているつもりなのだから……桐乃ってば本当にピュアよねえ」

 外を向きながら小さく呟きます。

 エッチなゲームが大好きという女子中学生にあるまじき趣味を持つ桐乃。ですが、色んな部分でまだピュアというか幼さを残しています。

「貴方にはわたしを義姉ちゃんと呼ぶ未来しか待っていないというのに」

 開いていた窓から一陣の風が吹き込んできました。

 

 

「今日のお料理はやっぱりカレーライスにしましょうかね?」

 帰り道、わたしは1人スーパーへと寄っていました。勿論お兄さんに振舞うお料理の材料を調達する為です。

「えっと、カレーに必要なのは、ニンジンとジャガイモとお肉と……後、何だろう?」

 そして野菜を手にとって確かめていた時にふと重大なことに気付いてしまいました。

「どうしよう。わたし、お料理全然できませんよ……っ」

 わたしは人並み外れた料理下手だったことにです。

 新垣家ではわたしが台所に立つことが禁じられています。危ないからという理由でです。

わたしが調理中に怪我をしたら危ないからという理由ではなく、わたしの料理を食べると命の危機に瀕するからという理由でです。

 残念ながらわたしの料理の腕前はそんな風に漫画級です。

 そんなわたしがお兄さんに手料理を振舞えるのでしょうか?

 不安と焦りが全身を包み込んでいきます。

「だ、大丈夫よね。料理は愛情だって言うし、お兄さんへの愛情なら誰にも負けないからきっと料理も上手くいく筈よね」

 自分に言い聞かせながら食材を手に取ります。

「えっと、カレーライスに他に必要なのは納豆とカラシと薄力粉とお豆腐とコーヒー牛乳だったわよね」

 テキパキと材料を集めながら自分の心を必死に静めます。

「大丈夫。プロモデルでもあるわたしならきっとできる!」

 自分に強く言い聞かせてレジに食材を運びます。

「これっ、彼へのプレゼントなんです。包装お願いします!」

「当店ではそのようなサービスを実施しておりません。新婚ゴッコは他所でお願いします」

 大丈夫。絶対何とかなる。絶対どうにかしてみせる。

 そう心に強く念じながらわたしはスーパーを後にして京介さんのアパートへと足を向けたのでした。

「わたしは味皇を超える存在になってやりますよぉ~~っ!」

 わたしの中で今、料理が熱いのでした。

 

 

 

 

「遂に、辿り着いてしまいました」

 目の前に立つ3階建てのアパート。アパートと呼ぶべきなのか低層のマンションと呼ぶべきなのかよくわからない壁が厚くなさそうな鉄筋コンクリート建ての建物。

 これが現在のお兄さんの住まい。そして、今日からはわたしが帰るべき場所です。もう素直に新しい我が家と呼んでしまいましょう。

 我が家の様子を更につぶさに観察します。

 実家である新垣家と比べても仕方ないのはわかっています。あんな大きな家に京介さんの稼ぎで暮らせると思うほどわたしもネンネではありません。

問題はこの新しい我が家にわたしが暮らすようになった時、どれだけの水準の生活を送れるかということです。

「1戸1戸の幅を見る限り……8畳ぐらいは最低でもありそうですね」

 お兄さんの甲斐性から考えて4畳半で2人という生活を想定していたことから比べると生活環境は格段に良さそうです。

 玄関の横には各戸に洗濯機が備え付けられているのが見えます。コインランドリー通いを想定していたのに比べるとお洗濯は楽そうです。最近の洗濯機は安いのでコインランドリーの方が高く付くのですけどね。

 次に建物の敷地をぐるりと回りながら裏側からも見てみます。曇りガラスが各戸についています。

「あのガラス……お風呂用のものですよね」

 各戸にお風呂が付いているのは間違いなさそうです。お風呂があるということはトイレも当然あるでしょう。もしかするとお風呂とトイレが一体化したユニットタイプかもしれませんが。

 お兄さんの稼ぎでは風呂なし、トイレ共同を予測していたので嬉しい誤算です。

「なんだ。快適な生活を送れそうじゃないですか♪」

 最低限度の生活を送る上には何の問題もなさそうです。

 しかもここの立地は実家から歩いて5分の地理にあります。つまり、学校に通うのに必要な時間は今までとほとんど変わりがありません。

 ここはわたしが住むのに至れり尽くせりな環境なのです。

 

「後は内装ですが……こればっかりは直接見てからでないと何もわかりませんよね」

 どんな間取りなのか。床はフローリングなのか畳敷きなのか。

 どんな家具が備えられているのか。

 実際に見てみるまでは全くの未知数です。

「できれば大きなベッドが欲しいですが……お布団の方が部屋の有効活用を考えた場合には良いでしょうね」

 部屋のレイアウトをあれこれと考えてみます。けれど、イメージが漠然とした状態から結局抜け出られません。今現在の部屋の状態がわからないからです。

 お兄さんがあの性格上、家具や間取りにこだわっているとは思いません。

 でも最近では短期の滞留者の為に家具一式がフル・オプションで備わっている場合も多いです。既に用意されている可能性も十分高いのです。

 家具がないならわたしのセンスの見せ所です。部屋にマッチする最高の家具をお手頃価格で調達したいと思います。それが内縁の妻としての責務だと思います。

 家具が備わっているなら、それをどう魅せるかにこだわりたいと思います。それがやっぱり内縁の妻の責務だと思います。

 でも、それはあくまでも部屋の内部を見てから判断すれば良いことです。

 

「さあ、いよいよ新居に足を踏み入れる瞬間がやって来ましたね」

 カレーライスの食材が入ったビニールの袋を持つ手にも力が自然と篭ります。

 ここで呼び鈴を押せば、わたしはこれまで過ごして来た世界に戻ることはできなくなるでしょう。

 新しい新垣あやせ、ううん。暫定高坂あやせとしての生活が始まるのです。

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

「あなたぁ~。もう起きてくれないと会社に遅刻しちゃいますよ~」

 わたしの夫はお寝坊さんです。

 すぐ側でわたしが朝食の支度をしているのにも関わらず目を覚ましてくれません。

「本当、毎朝困った人ですね」

 お味噌汁が完成した所でガスの火を止めます。

 それから振り返って夫の下へとゆっくりと歩いていきます。

 夫はとても幸せそうな表情を浮かべながら寝ています。

 そんな夫に対してわたしは毎朝の日課を施して起こすことにしました。

「ほらっ、あなた。起きて下さい」

 ゆっくりと寝ている夫の顔に自分の顔を近付けます。そしてその無防備なほっぺにキスをしたのでした。

「あやせ……ほっぺじゃなくて唇にチューを所望なんだが」

 目を覚ました夫は挨拶もなしに真顔で願望を口にしたのでした。

「あなたが今すぐちゃんと起きて朝ごはんを食べて会社に行ってくれるのなら、行ってらっしゃいのキスをしてあげますよ」

「よしっ。今起きる。すぐに起きるっ!」

 夫は布団をテキパキとたたみ、洗顔してスーツに着替え始めました。

 ほんのついさっきまでぐっすり熟睡していた人と同一人物とは思えません。

「そんなに、わたしにキスして欲しいですか?」

「当たり前だろ。何たってラブリー・マイ・エンジェルのキスなんだからよ」

 夫は爽やかな笑みを浮かべながら返しました。

 結婚して1年になりますが、夫の愛情表現は結婚前と同じでとても熱烈です。

 訊いたわたしの方が恥ずかしくなってしまいました。

 夫はその後もテキパキと動き続け、あっという間に朝食も済んで出社の時になりました。

「じゃあ、行ってくるぞ」

「車に気を付けて下さいね」

 夫はちょっと抜けている所があるので、毎朝見送る際にはちょっとだけ不安になります。

「大丈夫だって。俺には愛するあやせたんがいるからな。自分1人の体じゃないんだから、車にも怪しい人にも気を付けるって」

 夫は爽やかに笑いました。

「それよりも、起きた時の約束を守ってくれ」

 夫は自分の唇を何度も指で突付きながら催促して来ました。

「本当に……いつまでも子供みたいな人なんだから」 

 背伸びして夫の首の後ろに手を回しながら顔を近づけて行きます。

 そして唇を重ねて心の中でゆっくりと3つ数えました。

 これ以上キスしていると夫が暴走するのは経験則から知っているので顔から離れていきます。

「あやせ~。もっと激しいやつを頼むよ~」

 夫はちょっと不満そうです。

「遅刻しちゃうからダメです」

 わたしも内心は物足りなさが燻っているのですが、夫を遅刻させる訳にはいきません。

 心を鬼にして夫の要求を跳ね除けます。

「その代わり……帰って来たら。ねっ」

 鬼にはなりきれませんでした。ううん。きっとわたしも夫を求めているからだと思います。

「よっしゃあ~っ! 今日も1日精一杯働くぞ~っ! そして帰って来たらあやせたんからご褒美を貰うんだ~っ!」

 夫はとても元気を出しました。

「お仕事、頑張って下さいね」

「おうっ。任せておけっ!」

 夫は足取りも軽く、スキップしながら家を出て行きました。

「今夜は報告しないといけない、とても大切なお話があるのですから」

 わたしはお腹を優しくひと撫でしながら夫の背中を見送ったのでした。

 

 

 

 

「桐乃には10代の内に必ず叔母さんになってもらわないといけませんね♪」

 その為の第一歩が今ここに始まるのです。

 わたしは喜び勇んでインターホンを押しました。

 

 

 

 

 

 インターホンを押して待つこと数秒。

 わたしへの応答なくドアがさっと開きました。

「おかえりなさい、京介」

 中から顔を出してきたのは、黒いゴスロリファッションに白いエプロンドレス型のエプロンを付けた同年代の女の人でした。

「えっ?」

「えっ?」

 顔を見合わせたわたしたちは互いに驚きの声を上げました。

 前髪を切り揃えた綺麗な長髪のその女の人はとても綺麗な方でした。モデルになっていてもおかしくないぐらいです。

 でもだからこそわたしはこの女性に見覚えがないことがはっきりわかりました。こんなに綺麗な女の人と挨拶したことがあるなら忘れる筈がありません。

 だけど女の人の反応は違いました。

「スイーツ2号……新垣あやせ…………」

 女の人は目を細めて額から汗を垂らしながら嫌そうにわたしの名前を呼びました。

 この女性の方はわたしのことを知っているみたいです。ということは、わたしたちは以前会ったことがあるのでしょうか?

 全然記憶にありません。

 とても怒っているとか、心身喪失状態にでも陥っていた時にでも会ったことがあるのでしょうか?

 ううん。今重要なのは何故この女の人がわたしのことを知っているのかではありません。

 何故、この女の人がお兄さんの部屋から出て来たのでしょうかということです。

「あの、貴方は一体?」

 口に出して訊いてみます。

 この人はお兄さんの部屋の中にいてもおかしくない存在のようです。“おかえりなさい、京介”と口にしていましたし。

 ということは、ということはですよ……。

 この人はもしかしてっ!

 先ほど思い描いていた妄想が再び浮かび上がって来ました。

 それも今度は同じ光景でお兄さんのパートナーがわたしではなく目の前の女の人に変わっていました。

「そ、そんなあ……っ」

 お兄さんは夏の終わりに彼女さんと別れた筈です。

 なのに、なのにもう一緒に住んでいる新しい彼女がいるなんてぇ……。

 目の前が突然真っ暗になりました。

 こんな絶望感、お兄さんを家に招いたら彼女がいると聞かされたあの夏の日以来の大衝撃です。

 今度はもう、立ち直れないかもしれません。

「何を1人でさっきから百面相をしているの?」

 女の人がジト目でわたしを訝しがっています。

 この人にはわからないと思います。

 わたしがどんな複雑な葛藤の果てにお兄さんのことを想うようになったかを。

 そして、わたしの想いがセクハラばかり仕掛けて来るお兄さんに如何に報われないかを。

「何で今度は泣きそうな顔になっているのよ?」

 女の人は大きな溜め息を吐きました。

「こんな玄関先でそんな表情されていると近所に要らぬ誤解を招きそうだわ」

 女の人がわたしの手を取り引っ張りました。

「とにかく上がって頂戴」

「えっ? えっ? ええっ?」

 女の人に手を引っ張られてわたしは室内へと入っていきます。

 果たして室内でわたしを待ち受けているものは一体何なのでしょうか?

 そしてこの女性は一体誰なのでしょうか?

 

 

 

 

 後編に続く

 

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
8
1

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択