朝。
高崎《たかさき》 陽色《ひいろ》は眠さを隠す事無く登校した。はしたないとか、だらしないとか、気が抜けているとか、まあ色々と言われても仕方が無い体では有るが、それを隠す事が出来ないという事もまた、仕方が無い。制服のリボンすらも眠たげに揺れている様な気がして、なんだか鬱陶しかった。愛用の、とても大切にしているカチューシャをトップに付けて、やや後ろに集めた髪はとても艶やかな黒色で…………しっかりと覚醒している部分といえば、それくらいか。
夏休みが明けて、体育祭が終わり、中間テストと学園祭の準備に追われる季節。
秋の到来。
残暑は未だ厳しい。湿気は抜けてきているが、暑いというのはそれだけで体力と気力を奪っていくのだろう。事実、気だるさも極まって困り果てる。それが怠惰に繋がらなければ、いくらでも極まれば良いとは思っているが。友人曰く、『何時も何と無くだるそうだけれども、サボらない所が陽色の長所』らしい。
ともあれ、登校して間も無くの事である。
ホームルームまではまだ時間が有ったが、それでも教室には数人のクラスメートが登校してきていた。教室に入り、それなりに親しくしている友達に挨拶をする。
着席して、何の気無しに文庫本を開いて読んでいると、
「ひ、久しぶり…………だね」
唐突に話しかけられて、その声を天使のそれの様に感じてしまった、と言うのは大げさな表現なのかもしれない。天使に出会う事が奇跡であると言うならば、奇跡というものは唐突に起こるものだ。では唐突で有るからと言って、それが奇跡に値するかと問われれば、もちろんそんなずは無い。奇跡はそんなに安くない。しかしあるいは本当に天使なのかもしれないと感じてしまっても、それは仕方の無い事ではなかろうかと、陽色は思った。もちろん、陽色は天使など見た事が無いし、その存在も信じていない。しかし、確かにそう聞こえたのだ。耳に心地よいとは、あるいはこの事か。
かけられた声に、陽色《ひいろ》が呆然として答えられなかったのには、しかしそれだけでは無く、それなりの理由が有った。
「本当はもっと、早く声をかけようと思っていたんだけれど、遅くなっちゃった」
それにも答えられ無かった。それほどに余裕を失っていたという事なのだろう。申し訳なかったと考える余裕が出来たのは、もう少し後の事になる。まあ、動揺していた。叫んで逃げ出していても、おかしくなかったのではないだろうか。
それでも、彼女の声に対する思考だけは、何とか出来ていた。
入学後半年も経った今の時期に、改めて声をかけてきた事を指して『遅くなった』と表現しているならば、それは確かに遅いと言わざるを得ない。中学一年生の時からだと考えれば、どんな事でも遅いと表現して間違いでは無いだろうし。だが、陽色にしてみれば、きっと何時、どんなタイミングで声をかけられようが、一年前だろうが二年前だろうが、それに対するリアクションとしては大差無かっただろうと思えるので、遅かろうが早かろうが、それこそどちらでも大差無かっただろう。何しろ、訳有って四年ぶりだ。
声をかけてきたのは同じクラスの曽谷《そたに》 花樫《はなかし》同級生。クラスの中では割と目立つ方で、率先して物事を片付けたがるのと、真面目な性格が災いして、あるいは彼女にとっては幸いして、クラス委員長等も勤めている。その辺りは昔と変わっていないな、と陽色は思った。
ポニーテールの髪型も昔と変わっていない。その髪の毛を纏める、オレンジ色のリボンも変わっていない。少し緩めのまなじりと、色素が薄めの瞳、微笑んだ時に眼を一瞬閉じる癖もだ。快活さというか、内に秘められたエネルギーの様なものが見え隠れするのも、また変わっていない。
中学一年生の頃とは色々と変わってしまったし、それはそれだけ時間が流れたという事なのだろう。時間はあらゆる物に対して平等に作用するし、花樫と離れている間にも当然流れっぱなしだった。だが、陽色はあの時以来、彼女の事に関しては、ずっと同じ時間で足踏みをしている様に感じていた。
変わっていない所だらけなのだが、それでも陽色が過去にタイムスリップしたのだと錯覚しなかったのは、単純に変わっている所も明確だったからだ。髪型は変わっていないが、昔よりもかなり長くなっているし、容姿や体格もちゃんと成長しているし、何よりも雰囲気が大人びていた。昔から快活ながらも大人びた雰囲気を持った彼女だったが、しかし今はより一層落ち着いた印象を受ける。オレンジ色のリボンもまた、古くなって以前の鮮やかさが消えていた。しかし、大切にしている印象を受けた。大切にしてきた年月が、そのまま彼女に流れた時間そのものだった。
そして…………昔よりも、もっと綺麗になった。
彼女の香りが鼻に届いて、頭がクラクラした。どんなシャンプー・リンス・トリートメント…………まあ、その様な物を使っているのだろうか。同じ人間とは思えないほどに(失礼にも程があるが)、魅力的で扇情的な香りだった。
赤面を隠しつつ、やや俯いて。それは内心の動揺を隠すためでもあったが、果たして上手くいっただろうか。
「ひ、久しぶり。花…………曽谷さん」
声が上擦っていたのが自分でも分かった。そして、自分で言っておいて、胸が少し痛んだ。
「どうしたの? 私に何か用?」
私なんかに。
何の用が有るというのか。
陽色は自分を卑下する様に、そんな事を考えていた。自らを貶める事を趣味としているわけでは無いし、それが習慣化している訳でも無いが、どうしてもそう考えてしまう。
「用って言うか…………まあ、そう、用、なのかしらね」
花樫は落ち着かない用に、なんだか緊張している様子すら見せて(それは陽色もそうなのだが)、ポニーテールを弄りつつ、
「ちょっと、お話したいんだ。お昼休みに、時間、作れないかな」
その言葉に、陽色は今度こそ大いに動揺した。
ドッ。
という、何か大きな音が聞こえた様な気がして、それが自分の心臓が跳ねる音だったのだと理解したのは直後だった。思わず立ち上がってしまい、その勢いは椅子を倒してしまうほどで、その音のお陰で若干の冷静さを取り戻す事が出来たのは僥倖と言えよう。
本当に走って逃げてしまう所だった。
「陽色? あ、あの…………」
花樫も驚いた様だった。そして、陽色は花樫が未だ、自分の事を名前で呼んでくれるのだという事に、嬉しさや恥ずかしさや、気まずさを味わった。噛み締めて広がったその味は、離したいような離したくないような感覚だった。
「あ…………ごめん、今日は…………その、お昼は用事が有るから」
椅子を直しながら、何とか言葉を紡ぎ出す。
「そ、そう? じゃあ、放課後に…………」
「ごめん、放課後も用事が有るんだ」
「そう…………」
俯いて落胆した様子の花樫を見て、胸の奥が痛んだ。
もしかして…………、
(あの時も、そんな顔をしていたの?)
問い掛けそうになって、堪えようと踏ん張る。
だが、堪えようが無かった。しかし、堪えた結果、口から出た言葉は別のものとなっていた。
「明日なら」
「え?」
「その、明日なら…………明日の放課後なら、大丈夫だから。それで、良いかな。その、教室で。私、教室が掃除当番だから…………ま、待ってるから」
口を開いて衝動的に出した言葉が、それで良かったのかどうか。そのまま誤魔化してしまえば、姑息では有るが、あるいは逃れる事が出来たかもしれないのだ。
確かな事が一つ有る。
それは花樫にとって、望外の喜びだったのだろうか。
陽色の言葉を聞いて、花樫がとても嬉しそうに微笑んでいて、だから…………。
(可愛い、な。やっぱり。…………綺麗だよ)
良いかどうかはともかく、彼女のそんな表情を正面から再び見る事が出来たのは、単純に良かったとしか言い様が無かったのであった。
「何をぼーっとしてるかな。意味分かんない」
「ん…………ああ、ごめん」
同級生の八坂 かんざしに怒られて、忘我の果てに有った陽色の意識は現実世界に引き戻された。考えていたのは当然、花樫の事である。
かんざしはその名前の通り、髪に簪《かんざし》を挿して纏めている、古風なヘアスタイルの少女だった。彼女自身も簪に特別な思い入れが有る様で、色々な種類のそれを持っているらしく、髪に挿されるそれは毎日異なっていた。とはいえ、では彼女のアイデンティティがそうしたクラシックスタイルに傾倒しているかというと、決してそうでは無い。何しろ、普段着はゴスロリだ。背は小さい方で可愛らしく見える。見えるだけだが。
昼休み、昼食も取らずに陽色は教室を出て、中庭に設置された花壇の手入れをしていた。
朝、花樫に言った事は嘘ではない。放課後も自宅に帰らなければならない用事が有るのだ。そして、昼の用事は花壇の手入れ。本来なら用務員の仕事なのだが、一年生にして美化委員会を取り仕切るかんざしが、趣味の花やら何やらを校内に植えまくったり設置しまくったりした結果、それはもう用務員の仕事の域を超えているという意見が出るのも当然の事で、ならば美化委員会がそれらの手入れに従事するというのも当然であった。それは本来なら美化委員会の手にも余る仕事だったのだろうが、かんざしの無意味なカリスマ性と職務能力の高さが、各美化委員たちに不満を生じさせていない。何やら、細かい仕事の分担やらシフトやらを敷いて効率良く人員を動かしているらしいが、陽色はあまりそういう事に興味が無かったので、覚えていなかった。
ちなみに、陽色は美化委員では無い。かんざしの個人的な友人なので、手伝っているのであった。仕方なくでは無い。それなりに楽しいのだ。
「昼休み中に終わらないじゃんよ。意味分かんない」
「だから、ごめんって」
意味分かんないのはその口癖と校内中に花を植えまくるあんたの神経だと、まあ面と向かって言った事は何度もあるため、もう今更だった。
口は悪いが良い奴なのだ。学校に名を轟かせる(と言うと如何にも大仰だが、偽りは無い)五人組の一人で、頭も良いしスポーツも出来るという絵に描いた様なエリートだが、さっぱりとした性格でもあるので嫌味に感じない。隠れファンが多いというらしいが、陽色には何と無く頷ける話だった。そもそも、話しかけ辛いのだ。中学からの友人で無かったら、陽色自身も話しかけるのを躊躇っていただろう(陽色が友人になれたのもちょっとした偶然だった)。眼光が妙に鋭いというのがその理由の一つに成るのだが、それは事の本質の一部分でしか無い。人間として、あるいは生物として、彼女は何かが違うとしか言わざるを得ない存在感。それが最大の理由であった。ファンで有っても隠れたくはなる。いや、もちろん『隠れ』という本来の意味とは異なるのだが。
「あんまりおざなりに手入れされると、花が死んじゃう。それだけはほんとに意味分かんないから気をつけるじゃんよ」
「ん、そうだね。そうだった。気をつける」
言いながら、陽色は思い出していた。中学時代の事である。
かんざしは中学時代にも同じ様な事をやっていた。とはいえ、その頃はまだ常識的な範囲でのそれであり、学校中に花壇を作る事も無く、美化委員やそれに類する組織を掌握する事も無かった。もちろん当時から、あるいはそれ以前から突出した能力の持ち主で有った事には変わり無いが。ともあれ、彼女は花を育てるのが好きであり、学校にある花壇は当時、彼女がそのほとんどを管理していたと記憶している。
そんなある日、花が全滅した事が有った。
原因は詳しく聞いていない。かんざしは詳しく説明をしなかった。学校側も、これを取り上げて集会を開く様な事は無かった。なので、恐らくは事件性のあるものでは無く、かんざしに原因が有ったのだろうと推測したが、それは間違ってはいないのだろうと陽色は考えている。
あの日、あの時に見た、悲しみに満ち満ちたかんざしの立ち姿を想起するに、その悲憤が彼女自身に向いている事は確かだったのだから。
そうして、なればこそ気持ちを引き締めて協力するのが、友達というものなのだろう。
それからは気持ちを切り替えて、作業に取り組んでいった。そのため、何とか何時もどおりのペースに立ち直ったとは思う。
昼食をギリギリ食べることの出来るくらいの時間を残して作業を終了する。元々の気温の高さと、水を撒いた土の前だからこその生温い空気を不快に感じながら、達成感もまた覚えていた。
花壇の縁に座って、他の生徒達とは違う、ちょっと遅めの昼食に入る。
暑かろうと寒かろうと、風が吹こうと雪が降ろうと、雨…………はちょっと無理が有るが、陽色はここで取る昼食が好きだった。とはいえ、まだ入学して一年も経っていない。寒さと雪はこれから体験するだろう。梅雨の時期は中庭に出れず、やきもきしたものだ。
手提げ袋から弁当を出して、かんざしと二人、食べ始める。他の美化委員もそうだが、かんざしの当番は週に一度回ってくるだけである。なので、中庭での食事も週に一度の楽しみだった。
生温い空気に土の匂い。花の香りと弁当の匂い。ちょっとしたアウトドア気分が満喫出来るのはこの場所だけだろう。学校の敷地内ならば何処ででも昼食を取る事が出来るので、探せば他に見つかるかもしれないが、それでもベストプレイスはここだと断言出来た。ちなみに、かんざしが学校の花壇事情を開拓してから、中庭で昼食を取る事の出来る生徒は限られる様になってしまった。それはつまり、ただ花壇の手入れの邪魔になるという理由で生徒達が避け始めたというだけの事なのだが、作業をする側としては申し訳なく感じながらも有り難かった。とまれ、陽色達の様に、作業に従事した後で昼食を取るか、昼休み終了時間ギリギリに中庭に出て来るか、その二組しか存在しなくなり、故に使用者は激減したという。当初、それを不満に感じた生徒達はやはり多かった様だが(特に上級生達に)、その不満を別の形で解消してしまったのが、かんざしの凄い所である。…………完全に解消出来たかどうかは別として、概ね満足している、というのが本当の所なのだろうが。
そうした破天荒少女かんざしの昼食は極普通のサンドイッチ。それも、コンビニで買ってきた物だ。パックのコーヒー牛乳とサンドイッチ二つという組み合わせは、中学の頃から見慣れた物だった。それを毎回、とても美味しそうに食べるのだから、ある意味凄い。飽きないのだろうかと考えたし、母親は作ってくれないのかとも思ったが、返答次第ではあまり聞きたくない言葉が帰ってくるのだろうから、これは聞けなかった。いや、聞きたくなかった、というのが正解かもしれない。
幸せそうにサンドイッチを頬張るかんざしは、彼女風に言わせれば『意味分かんないほどに可愛い』かった。中学時代からの親友である陽色がそう感じるのだから、彼女の魅力というのは相当なものなのだろう。
そして、ふと思う。
隣に居るのが花樫だったら、どうだろうかと。
想像して、陽色は自然、頬を赤くした。かんざしには悪いし、とても失礼だが、それはどれだけ素敵な事だろうかと思わざるを得なかった。
「陽色さぁ、今日、ちょっと意味分かんないくらい悩んでない?」
そんな妄想をしている最中だったものだから、かんざしの言葉にはとても驚かされた。なんだか、今日は驚いてばかりだ。
「う…………ま、まあ、うん。…………やっぱ分かる?」
親友に隠しても仕方が無い。ここは一つ、あるいは相談に乗ってもらうのも良いかもしれないと思ったのだが…………、
「それってさ、曽谷ちゃんの事じゃんよ?」
「……………………」
ずばり言い当てられて、絶句してしまった。
「な、な、な、何で…………」
「何で分かるって、そりゃあ分かるじゃんよ。分かんないほうが意味分かんないし」
かんざしはコーヒー牛乳を一口飲んで、更に続けた。
「陽色ってさあ、中一の頃から曽谷ちゃんの事、好きじゃん?」
元々熱くなっていた頬が、自分だけの秘め事を言い当てられて、更に熱くなる。
え? どうして? なんで知ってるの? という様な言葉と疑問符が頭の中を無駄に高速で回転していた。
「どうしてそこまで知ってるかって? そんなの、親友の事だからねぇ。中一の時はあんたの態度で何と無くって感じだったけど…………」
(中一の時からばれてたのかっ!)
陽色の驚愕を無視して、かんざしは昔を懐かしむ様に楽しげに語っていた。そして、宙に眼をやって、ククッ、と笑った。
「いやぁ、高校でまた一緒になれたのは陽色にとって意味分かんない程に僥倖だったじゃんよ? あんたの態度ったら、見てるこっちが恥ずかしいくらいだったじゃん。ああ、確信したのはその時じゃんよ。中一の時に曽谷ちゃんが転校してからも、何か時々、居ない誰かを見てる感は有ったからね」
「そんなにかぁ…………」
弁当に手を付ける事すら忘れて、陽色は頭を抱えた。前髪をくしゃっと掻き揚げて、嘆息する。正直、凹んだ。
「それって、皆にもバレバレって事?」
それは正直、きつい。色々な意味できつい。まず、同性愛という特性が既に周りから引かれかねない。いや、確実に引かれる。下手をすれば苛めの対象だ。だからこそ、陽色は色々なものを中学時代から引きずりっぱなしなのだ。
そして、花樫にもばれているのなら、より最悪だ。花樫の陽色に対する用事というのが、あるいはその事かもしれないと考えたら、明日会う約束をしてしまった朝の自分を張り倒したいという気持ちにすらなった。
「いやいや、私だから気付いたんだって。親友だからって言ったじゃん? ちなみに、私は引かないから安心するじゃんよ」
かんざしのその言葉で、陽色は大いに安堵した。色々な意味で、安堵した。そして、近しい誰かに認めてもらえるという事が、これほどに嬉しいとは思わなかった。
「それにこの学校、そういうカップルとか、カップル予備軍が結構多いじゃんよ」
「そうなの!?」
何だか、とんでもない事実を知ってしまった気がした。というか、かんざしはどうしてそんな事を知っているのだろうかと、それがまず気になった。
「んん、まあ私がどうこうじゃ無くてさ。ほら、かもめの奴がさ、『吹き溜まり』って表現してたんじゃんよ」
「吹き溜まり? どういう意味?」
「いやぁ、意味分かんない」
かもめ、とは八王坂《はちおうざか》かもめ同級生の事である。かんざしがよくつるんでいる五人組の中の一人で、校内では有名な超人集団(陽色が勝手にそう呼んでいる)の一人であった。不思議な魅力を持つ、不気味な魅力を持つ少女だった。
陽色自身はかもめの事を良く知らないのだが、かと言って、かんざしとてそれほど詳しいわけでは無いらしい。仲は良い様なのだが。そもそも、高校に入ってからの付き合いなのだから、それも当然か。…………とはいえ、陽色はかんざしに何かを誤魔化されている様な印象を受けたのだが。知っていて話していない、とまでは言わないのだが、説明が面倒くさいから話さないというのは、この親友には十分に有り得る。
「ああ、まあそういう事はどうでも良いじゃんよ。私が言いたいのは…………」
かんざしは伸びをして、嘆息した。そして、
「陽色の悩んでるその顔、中一の時にも見た事有るなあってだけで…………ちょっと心配ってだけじゃん」
そう言われて。
(あ…………ちょっと既視感)
刹那、陽色の脳裏を巡る記憶。
かんざしの言葉通り、中学一年生にまで時を遡った記憶。それはかんざしの思い浮かべているものと同一なのだろうが、決定的に異なる点が一つ。当然だが、その記憶の視点が陽色のものであるという事。
(あの時、花樫が転校して…………)
心中ならば名前で呼べる彼女が転校して、陽色は酷く傷ついた。色々な理由で、傷ついた。…………傷ついていたのは、花樫も同じなのだろうが。
そして、今と同じ様な言葉を、かんざしからかけられて。
「結局、私はあの時から何も変わって無いって事か…………」
それとも、変わらない事を望んだのか。
「ん? 何か言ったじゃん?」
「うぅん、何も。それよりありがと。私なら大丈夫だから」
「……………………。礼なんて別に要らないじゃんよ。それより、本当にどうしようもなくなったら、自分の心のままに行動するのが一番良いじゃんよ」
「何それ、アドバイス?」
珍しい親友の言葉に、陽色は笑ってしまった。しかし、何よりも有り難いとも感じるのだった。
「ありがと」
「知らんし。意味分かんないし」
かんざしは素っ気無く言って、最後のサンドイッチを口に放り込んだ。
その後、特に話を蒸し返すでもなく、陽色とかんざしは昼休みが終わるまで、中庭で雑談に興じた。
そうしたかんざしの様子に、しかし陽色は誤魔化せたとは思っていない。親友に優しい少女であるかんざし。頭の良いかんざしはちゃんと気付いているのだろう。
陽色が全く大丈夫で無い事など、ちゃんと気付いているのだろう。
(全く、こんな頭の良い親友が傍に居て、全然成長してない私って、ほんとどうしようも無いな)
結局の所。
あの日に置き去りにしてきてしまった心残りのツケ。それと対面しているという事なのだろう。
気が付くと、陽色は夢の中に居た。
夢の中で、それが夢で有ると認識するのは初めてだった様な気がして(もしかしたら以前にも有ったのかも知れないが、忘れてしまった)、何だか感動した。だが、どうも妙な感じだった。夢なのだから妙なのは当然だが、何と言うか、こう、主体性というものが無い。それは夢なのだから主体性など皆無に決まっているだろうが、つまり、その夢には自分が出ていなかったのだ。
斜め上から二人の人物を眺めている、そんな夢。とはいえ、視点は不規則に変化していたが。概ね、斜め上からだという事だ。
一人は陽色、自分自身。そして、もう一人は花樫だった。
二人が通っていた中学校のクラスで、中学時代の制服に身を包んでいた。それは中学の時の夢だった。
あの時の夢だった。
嫉妬と不満に溢れていた、あの時の。
『私。…………私、本当はそういうのしんどいかったんだ。好きにしてもらってれば良かったから。…………ごめん。本当に、ごめん』
夢の中の陽色が、花樫に向けてそんな事を言った。
酷い事を言う。陽色はそう思った。しかし、これは昔に起きた事を見ているのだから、夢の中の自分に怒りを向ける事はあまりにも不毛過ぎる。いや、少なくともチクリと針で刺すような胸の痛みを再確認出来ただけでも、あるいは成果と呼べるのかもしれない。自分で発した言葉に対して、自分を罵倒する。滑稽過ぎて苦笑すらしてしまった。
『もう、文化祭の準備に参加するの、嫌になっちゃったんだ』
嘘だ。
嫌になどなっていないと、二人を斜め上から見下ろす陽色はいっそ叫びたい気分だったが、呑み込んだ。実際に声に出していても、夢の中だ、現実にも夢の中の人間にも聞こえはしないだろう。しかし、それでも花樫の前でそれを言うのは恐ろしかった。だって、万が一、花樫に聞こえてしまったら、本当の事を言わないとはならなくなるではないか。
自分以外の女子と親しく文化祭の準備を進める花樫に苛立ちを覚えたのだと、花樫と親しくなっていくクラスメートに嫉妬したのだと、そんな幼稚な事を…………。
『だから本当に、ごめん』
言いながら、夢の中の陽色は花樫の顔をハッキリと見れなくて。それは陽色が俯いていたからで、花樫と眼を合わせるのが怖かったのだ。
今もそうだ。
斜め上から二人を見下ろしている陽色は、花樫の顔を見る事が出来なかった。
ふと気が付くと、周囲が真っ白になっていた。
花樫も消えて、俯いたままの、昔の陽色だけが残っていた。
昔の陽色の考えている事は、良く分かる。自分が今も抱いている感情そのままだからだ。
言うべきでは無かったと、後悔しているのだ。
だから、あの時から、それがずっと心に残ったままで。自分勝手な感情で彼女を裏切ってしまった気がずっとしていて、実際そうだったのだろうとずっと後悔していて。
それから彼女は間も無く転校してしまって、それを謝れないままで…………。
陽色は自室のベッドで眼を覚ました。
開け放した窓から、少し冷たい風が流れ込んでくる。カーテンを緩やかに揺らすその風は心地良く、眠りに付く前よりも冷たく感じた。まだまだ気温は高いが、日が落ち始めるとこの様な空気が流れ出す。夏が終わったのだと、ようやく実感出来る瞬間だった。
放課後、帰宅した陽色は用事を済ませ(何のことは無い、ただの宅急便の受け取りだ)、ベッドに身体を投げ出して呆然としていた。悄然とすらしていたかもしれない。つまりは、それだけ疲れていた。そしてそのまま眠ってしまっていたらしい。普段はこの様に眠る事は無いのに、珍しかった。やはり、それだけ疲れていた、という事なのだろう。
携帯で時間を確認すると、二時間程眠っていた様だ。着信とメールが何件か入っていた。後で確認しよう。
疲労は言うまでも無く、花樫に起因する。いや、そう言うと彼女が悪いかの様な印象になってしまう。
陽色はうつ伏せになって、頭を枕に押し付けた。
視た夢の内容は…………しっかりと覚えていた。
(悪いのは誰だって…………?)
はっ、と鼻で笑ってしまった。
(悪いのは誰だって? どう考えても私でしょうがよ)
厳密に言えば、事の本質を語るとするならば、悪い者など居ないのだろうが、それでも陽色は自分を責めざるを得なかった。あの時に自分を責め続けたように、今もまた、自分を責めるのだ。
疲労の原因はそれだ。誰かを責める事は疲れる。誰かに責められるのも疲れる。そして、自分を責めるのはもっと疲れる。
「あーもう、あぁ、もう」
ベッドの上でしばらく悶えて、悶えながらも考える。
明日はどうしようか。
そもそも、どうして呼び出されてしまったのか。
どうして今更、話しかけようなどと思ってくれたのか。
もしかして、あんな事を言ってしまった過去を、今こそ糾弾しようというのだろうか。いや、花樫はそんな性格では無い。
花樫の顔を思い浮かべると、顔が熱くなる。その事に、陽色は驚いた。好きだ好きだと思っては居たが、ここまで好きだとは思わなかった。色々と混乱して考えが纏まらないが、しかしやはり冷静な部分は残っているようで、心中で『それは違う』と否定する声があった。
好きの度合いはきっと変わっていない。ただ、認識が変わっただけだ。今までは過去の負い目からまともに姿すら見れなかったのだ。そのため、高校で奇跡的に一緒になれたにも関わらず、何時まで経っても陽色にとっての花樫は過去の幻影と共に居て当然だったのだ。しかし、今日の朝に話しかけられて、急にその姿が現実と取って代わった(もちろん、本当は現実の方こそが過去の幻影に取って代わられていたのだが)。手の触れられる距離に居る事を実感してしまった。笑ってしまうくらい馬鹿な話だが、これまで無意識的にそうして誤魔化してきたのだという事に、気が付いていなかったのだ。
「明日、どうしようかなぁ…………」
どうするもこうするも。
告白でもするか? 馬鹿な。
何一つ考えが纏まってはいないが、はっきりしている事が一つだけある。
もう、逃げ出す訳にはいかないという事だ。
だからこそ、自分が取るべき行動もあるいは一つなのかもしれないと、陽色は思い至ったのだった。
翌日の放課後。
誰も居なくなった教室で、陽色はただ一人佇んでいた。
その心持ちは決闘前の騎士か武士、あるいはそれに類する何かの様であった。思いつく状況の、どれもこれもが体験した事の無いシチュエーションだったので、今一ピンと来ない緊張具合だったが、要はそれだけ覚悟を決めているのだった。十数年しか生きていない世間知らずの女子高生、その覚悟などたかが知れているが、人生経験が少ないからこそ、一世一代とも言える様な勝負の瞬間とすら感じているのだった。
教室に陽色だけしか居ないのは、陽色の割り当てられた校内清掃が、花樫のそれよりも早く終わったからだった。花樫はクラスで一番時間のかかる場所…………美術教室…………の掃除当番で、陽色は教室の担当。まあ、十分程の差異でしか無いのだが。
最後の鍵閉めも教室の清掃担当グループが受け持っているので、今日は陽色がその役を買ってでた。逆では無くて良かったと、陽色は心から思っていた。花樫が教室担当で、陽色が美術教室の担当だったらと。その場合、花樫が待ち構えている教室に、すんなりと入っていけたかどうかは怪しい。逃げ出す事は無かっただろうと思うが、情けなくドアの前でうろうろとしている姿が眼に浮かんだ。
自分の席には座らず、いや、椅子には座らず、机に腰掛けて教室のドアをじっと凝視していた。机の上に付いた両の手が、緊張で震えている。汗も滲んでいた。
一体、何の話なのだろうかと、陽色は昨日、一生懸命考えた。今日一日も、ずっと考えていた。花樫とはなるべく眼を合わさない様にした。合わせられなかった、と言った方が良いかもしれない。その姿を見るだけで、緊張して仕様がなかったから。
…………少しして、ドアが静かに開かれた。もう今更、特別に緊張する事も無かったが(覚悟もしていたし)、それでも心拍数は上昇した。歯医者の待ち時間の間と、いざ呼ばれた時の何とも言えない『来てしまった感』に似ていた。
ドアを開けたのはもちろん花樫である。これが忘れ物を取りに来たクラスメートだったら肩透かしも良い所では有るが、仮にそうだったとしたら、ある意味ほっとしていたかもしれない。
実際、待っていたのは数分にも満たなかったのだろうが、陽色にはもっと短く感じられ、あるいはもっと長く感じられた。
陽色はおもむろに立ち上がった。なるべく音を立てたくなかったのだ。
花樫は陽色の姿を確認すると、ドアを閉めて嬉しそうにぱたぱたと歩み寄ってきた。長いポニーテールが歩みに合わせて揺れている。そこでも彼女の変わって居ない部分を確認出来て、何だか嬉しくなると同時に、あまりの可愛さに眼を背けてしまった。
ぱた、と花樫が立ち止まったのは、手を伸ばせば簡単に触れる事が出来る距離。
「久しぶり、だね」
花樫は言った。その声の息遣いすらも感じ取れる距離で。考えてみれば、昨日もそのくらいの距離で話しかけてきた気がするのだが、あの時は陽色に全くと言って良いほど余裕が無かったのだった。
「昨日も聞いたよ」
緊張が多分に含まれたその声は、本当に自分で発したものかと疑いたくなるくらいに固かった。そして、どうしてそんな揚げ足を取る様な言い方をしてしまうのかと後悔する。
「うん、そうだね。でもほら。こうして二人きりで話すのが、久しぶりだから」
「…………うん。四年ぶりくらい、かな」
くらい、では無い。紛れも無く四年ぶりだ。あの時以来なのだから、迷う余地も無くそうなのだ。それでも曖昧に表現してしまったのは、後ろめたさの表れだろうか。少しでも当時の自分がしでかした行動をあやふやにしてしまいたいという、弱さの表れだろうか。
「それ」
「…………ん?」
「陽色、まだ使っててくれたんだ」
何の事かと思ったら、花樫が指したのは陽色のカチューシャだった。それを理解して、何だか照れくさくて、カチューシャに手を当てながら、
「う、うん。そ…………」
曽谷さん、と言い掛けて、一瞬止めた。苗字で呼ぶべきか名前で呼ぶべきか、迷ったのだ。向こうはこちらを名前で呼んできている。呼んでくれている。ならば、こちらもそうした方が良いだろうかと考えて、それがとてもハードルの高い事だと気付いて、苗字で呼ぶべきか名前で呼ぶべきかという思考がぶつかり合い、最終的には、
「は、花樫…………も、リボン、使ってくれてるよね」
名前で呼ぼうと決心した訳では無いが、混乱の果てに口から出たのは名前の方だった。ここで呼び逃せば、名前で呼びたくとも呼びづらいと、無意識で気付いたのだろう。そうだ。結局の所、陽色はちゃんと名前で呼びたいし、もっと親しくなりたいのだ。最低でも、昔の距離感くらいには戻りたいのだった。
「リボン。…………うん。陽色がくれたから、大切にしてた」
「私も、これが無いと落ち着かなくて」
花樫のリボンと陽色のカチューシャ。それは昔、二人がお互いに交換した物。見かけ上はただのリボンとカチューシャだが、それは眼に見えない大切なもので形成されたこの世に二つと無い超物質だった…………と言えば大仰に過ぎる。要は世間にもありふれた、思い出の品という事だ。
まだ胸の動悸は激しいが、少し言葉を交わす内に、陽色は少しずつ余裕を取り戻してきた。名前を呼ばれるとドキドキするし、匂いが香ると心奪われるが。
「それで、花樫が私に話したい事って、なに? 何の用なの?」
なるべく感情が表に出ない様に、落ち着いて話せる様に心がける。しかし、一言余計だと自分を罵倒したくなる。教室で話した時も、同じ事を言った気がする。先ほどもそうだった。用が無くては話しかけてくるなとも取れない言い方だ。もちろんただの被害妄想か、あるいは単純に妄想の暴走でしか無いのだろうが。余裕を少し取り戻そうが、落ち着いて話せる様に心がけようが、まだまだ平静では居られないという事だ。
「あ、うん。ごめんね。時間はあんまり取らせないから」
その言葉が後悔を後押しさせるが、それもやはり妄想なのだろう。
「実は…………」
「あ、ごめん! やっぱり、ちょっと待って!」
陽色は花樫の言葉を遮る様に声を出した。声が大き過ぎて、ちょっと自分でもびっくりした。
話の内容を聞くのが怖くなったのでは無い。ただ単に、このタイミングで切り出さなければ駄目だと思い至ったからだ。このまま話を聞くのは駄目だ。それだけはしてはならない。
「ど、どうしたの、陽色?」
「あの…………上手く言えないけど。ううん、上手い事言いたくなんて無いけど」
陽色は頭を深く下げて、続けた。
「あの時はごめん。…………ごめんなさい! 心無い言葉でした。ずっと謝りたかったんです! 花樫は悪くなくて、ただ、私の我がままで…………!」
陽色の声が、静まり返った教室に響く。
花樫がどんな理由で自分を呼び出そうとも、陽色はまず、これだけは言っておきたかったのだ。まずそれからだ。陽色に出来るのはそれだけで、そして、花樫と何か話をするのだとしたら、きっとそれからで無いといけないのだ。あの時に謝る事が出来なかった過去を清算して、ようやく今の花樫と話を出来るのだと、そう思ったのだった。
「だから、本当にごめんなさい!」
許してくださいと、誠心誠意に頭を下げた。誠心誠意など、頭を下げて伝わるはずも無いのだが、陽色が十数年生きてきた中で最も真剣に謝っている瞬間だった。
花樫は分かってくれただろうか? あの時の事を謝っているのだと、分かってくれているだろうか? 顔を上げたら、彼女はどんな顔をしているのだろうか? 案外、全部忘れていて、彼女にとってあんな事は途轍もなくどうでも良い事で、どうして陽色が謝っているのか首を傾げているかもしれない。そうだとしたらとても楽だが、同時にかなりショックだし、どうして謝っているのかを説明する気力は無い。
一体、花樫はどんな顔をしているだろうか?
恐る恐る顔を上げようとしたが。
「…………?」
途中で柔らかいものが頭に当たって、止まってしまった。
同時に、花樫の香りが…………甘い香りが陽色の全身を包み込んだ。
暖かくて柔らかい、自分以外の体温を感じた。
何が起きたか分からなかったが、数秒して何がどうなっているのかを理解した。
花樫に抱きしめられている。
肩に彼女の顔が乗っていて。彼女の両手はしっかりと陽色の背中に回されていた。
はぁ、と何とも艶かしい、それでいて余裕の無さそうな、緊張した吐息を感じた。
突然の事に、先ほどまで取り戻しつつあった余裕が高速で逃げ出してしまったが、それでも何をするべきかは、どうするべきかは分かった。
きっと間違ってはいないと思う。
陽色はするりと花樫の背中に腕を回して、彼女を抱きしめた。抱きしめた…………などと格好の良いものでは無かったが、それでも出来る精一杯。
「ありがと…………」
花樫が呟いた。
有難う。許してくれて、有難うと。震える声で、そう言った。
それはこっちの言葉だよ、と返して、陽色は泣きそうになった。いや、実際に泣いていたのかもしれない。自分がどんな顔をしているのかなんて、分からなかった。花樫の香りと体温に夢中で、それを感じる事しか出来なくて、分からなかった。
しかし、陽色は確信していた。きっと今、自分は花樫と同じ表情をしているだろうと。
彼女がどんな顔をしているのか。
自分がどんな顔をしているのか。
もう少し彼女の温もりを感じてから、確かめれば良いと、そう思った。
これは後の事になるが、花樫がしたかった話というのを、陽色は聞いた。どうやら、陽色の行動と大差無かったらしい。彼女はあの時の事に色々と責任を感じていたし(陽色が怒った理由までは分からなかった様だが)、何とか仲直りしたいと考えていたのだと。そして、あの時に出来なかった文化祭の続きを、陽色とやり直したいのだと。
そう言っていた。
中学一年生の時から止まっていた時間。
ずっと同じ場所で足踏みをしていた陽色と花樫の時間は、しかしこれを境に今を進み始める。
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前回の続きという訳では有りませんが、同じ場所と同じ時間で描いていくシリーズにしたいと思います。続く限り続けたいと思います。放りっぱなしの方も何とかしていきたいと思ったり。