「涼風は偉いな、落ち着いてご飯を食べてる」
昭の膝の上で大人しく、匙を握って解された魚の身を上手に掬って口に運ぶ涼風
よほどその姿が翠の母性をくすぐったのだろう、ニコニコと柔らかい笑で自分の食事もそこそこに
涼風の食べる様子ばかりを見ていた
「もう、お姉様!食事が冷めちゃうよ!」
「だってさ、こんなに可愛いんだぞ。人形みたいでさ、目だって水晶みたいに綺麗で大きくって」
まったく!と少し眉間に皺を寄せながら居間の卓に並べられた料理に舌鼓を打つのは蒲公英
そんなに涼風ばかり見てるいるならお姉様の魚、私が食べても良いよねと箸を伸ばして翠の料理を横取りしていた
「ああっ!あたしのっ!!」
「だって、食べないんでしょ?」
「食べるに決まってるだろっ!!」
喧嘩を始めそうになる二人に、涼風が食べやすいように魚を解して居た昭は、自分の分をそっと翠の前へと置いた
「ほら、喧嘩するな。食事は楽しくが我が家の決まりだ」
「えっ!駄目だよ、御兄様が食べる分が無くなるじゃないか」
「大丈夫だ、お前たちが美味そうに食べるのを見て、秋蘭が追加の料理を作っている」
兄の言葉に土間の方を見れば、秋蘭が料理を山ほど盛った皿を両手に居間へと入り
二人の前へこれでもかと言うほど並べていた
「そ、そんな、なんか御免。えっと、その・・・夏侯淵、姉様?」
ハハッと照れ笑いを浮かべ、頬をポリポリと掻く翠に、秋蘭は、他人にはわからない程だが少しだけ驚いていた
何時ものようにからかう蒲公英に拳を落とし、まともに食らったのか、蒲公英は涙目で頭を抑えていた
「もう、そんなに強く打たなくてもいいじゃない」
「うるさい、いちいち誂うのが悪いんだ」
二人のやり取りが面白かったのか、それとも予想外の人物から姉と呼ばれたのに驚いてか
軽く微笑み「秋蘭でよい」と言葉を返していた
「えっと、その、それって真名だよな。じゃあ、あたしは翠って呼んでほしい」
「フフッ、解った」
「な、何だよ。秋蘭姉様は、兄様の奥さんなんだろ?だから、姉様って呼ぶのは、その・・・」
自分で確認して更に気恥ずかしくなってしまったのか、顔を真赤にして頭を掻いていた
あまりこういう事に慣れておらず、一馬のように純真なのだろう。だからこそ、水を手に入れられたのかと
昭は妹のコロコロと変わる表情を、優しい笑で見てた
「へ、変かな。直ぐに殺しあうかもしれないのに」
「いいや、変じゃない。有難う、秋蘭を姉だと言ってくれて。嬉しいよ、翠」
「うん、叢雲兄様がそう言ってくれて、あたしも嬉しい」
恥ずかしさを誤魔化すために、翠は出された食事に次々と箸を運び、初めて食べる料理に眼を輝かせ
驚くほど美味かったのか、感動しながら食べたりと、膝の上で見ていた涼風も次第に翠の表情を楽しんでいた
城壁より帰った昭は、自宅に戻ると、何時も居るはずの春蘭や一馬、美羽や七乃は見当たらず
部屋を借りている真桜まで姿を消していた。どうやら、気を使わせたようだと居間に入れば
畳に寝そべって涼風と遊ぶ翠と、炬燵の暖かさに感動する蒲公英が迎え、秋蘭は食事の準備を始め、今に至ると言う所だ
「泊まっていくだろう?出来れば、一週間くらい此処に滞在しないか?」
「えっ!ええ~っと」
口いっぱいに鳥の唐揚げを頬張り、急いで飲み込みチラリと蒲公英の方を見る翠
どうやら、翠はそうしたいのだが蒲公英の許可が無ければダメらしい。こういう所は立場が完全に逆転している
視線を向けられた蒲公英は、一度考える素振りを見せる。どうやらダメだと無言で翠に訴えているらしい
ダメか、残念だな仕方が無いと、最後に秋蘭から差し出されたデザートのミルクレープを一口くちに運んだ瞬間
「うん、一週間は此処に居よう。絶対に居ないと駄目だよお姉様!もう御兄様と食事するのも、こうやってお話する事も
できるかどうか解らないんだよっ!大丈夫、朱里は桃香さまがいるし雛里だってもう準備を初めているはず!
桔梗だって紫苑だっている。だから、できる限り此処に居なきゃ!でもね、勘違いしちゃ駄目だよ
決して蒲公英はこのお菓子が美味しかった、もう一度食べたい、出来るなら他のモノも食べてみたいなんて
これっぽっちも思ってないんだから!もしかしたら木苺とか、果物を使ったお菓子があるかもとか
此処の炬燵にもう少し入っていたいとか、よく考えれば魏で流行してる服って凄く可愛いって有名だから
ちょっと見てみたいとか、御兄様の住んでるこの家がすっごく居心地がよくって寝転びながらお茶とかしたら
最高だなとか、涼州では水が貴重で、なかなかお風呂に入れなくって、髪を洗うのも偶にだから
お風呂が有るこの家なら思う存分入れるとか、もしかしたら日に二三回入浴できるとか、そんな図々しいお願いも
もしかしたら御兄様なら聞いてくれるかもなんて全然おもって無いんだからね!」
解った!?と眼を輝かせて翠に力説し、訴えていた
一気にまくし立てる蒲公英に、本来は馬鹿なことを言うな!やっぱり帰るぞと言い出しそうなところだが
何時もとあまりに迫力が違い「えっ、あ、ああ」と生返事になってしまっていた
どう聞いても半分以上の言葉が蒲公英の本音だとまるわかりで、翠はそんな蒲公英と調子を崩され
なんだか良く解らず、否定もしていないし責めてもいないのに押し切られるという意味の解らない状態に混乱し
昭は笑っていた
「そんなに風呂に入りたかったのか、だったら好きなだけ入っていったらいい。魏には公衆浴場もあるから
明日はそこを見に行くのも良いかもしれないな」
「こうしゅうよくじょう?」
「ああ、水路を作って水を引いて、大量に作った竹炭で大きな風呂に湯を沸かしてある場所があるんだ
民の税で作られた場所だから、魏で税を納めてる人間は皆、無料では入れる」
「えっ!!無料では入れるのっ!?でも、大量に湯を沸かすって、そこら辺の山が切り取られて丸裸にならない?」
「俺の妹だと言えば無料だ。燃料は竹炭だからな、次から次に生える竹を使っているし、そこら辺は問題ない
何より安いし、炭職人という職業も生まれた。需要があれば、新たな職が生まれるし、それでまた金が回る」
「へー、魏って面白い事をするんだね。ちゃんと需要と供給を考えてるし、蜀も見習わないと」
「公衆浴場の近くは、今蒲公英が食べたような菓子を売る茶店が多くあるぞ。皆、入浴した後に甘いものを食べたり
腹を満たしたりするから、飲食店が多いんだ」
昭の説明に蒲公英は固まり、次に目の前で姿勢を正して正座すると深く頭を下げた
「今日から魏にお世話になります。ゴメンナサイお姉様、蒲公英は敵になっちゃうけど、戦場では手加減してあげるね」
振り返り、翠の方を見ると科を作り、眉根を寄せていかにも私も苦しいの、解って頂戴と言わんばかりの仕草をする蒲公英
「おいっ!何馬鹿な事を言ってるんだっ!!」
「ゴメンナサイ、蒲公英は自分に嘘をつけないの。イママデタノシカッタワ、アリガトウオネエサマ、オタッシャデ」
「い・い・か・げ・ん・に・し・ろ・よっ!」
急に羌族の真似をしてとんでもない事を言い出す蒲公英に、翠は青筋を立ててグリグリと拳でコメカミを圧迫し
蒲公英は悲鳴を上げていた
「うぅ、ひどいよぉ」
「馬鹿な事を言うからだ。でも、本当にいいのか兄様」
「構わない、仕事もあるし毎日相手はできないが、この家にいてくれるのは嬉しいさ」
嬉しいと言われ、翠も嬉しかったのか笑を作り、やり取りを見ていた涼風は翠に「涼風とあそぼ~」と言っていた
どうやら、父が相手に出来無い間は自分が相手をすると言っているらしい
「あたしと遊んでくれるか?」
「いいよー、お姉ちゃん」
「くぅーっ!涼風は可愛いなぁ!!」
堪らないとばかりにぎゅっと抱きしめ、頬を寄せる翠に、蒲公英はこんなにだらしない顔をするのは見たことがない
なんだか本当に叔母様になっちゃったみたいだと言っていた
「さぁ、そろそろ風呂に入ってこい。湯も湧いてるだろうし、冷めてしまったら炭が無駄になる」
「兄様っ、涼風と一緒に入っても良いかな?」
「構わないが、湯船に落とされるなよ」
やったと喜ぶが、落とされるなよと言う言葉に首を傾げる翠
落とすなよじゃなくて、落とされるな?意味が解らない、涼風はこんなに小さいんだ、落とされるはずが無いじゃないか
それに、こんな大人しい子がそんな事はするはずがないと、蒲公英を連れて涼風と共に風呂場に行けば
しばらくして聞こえてくる涼風の気合の声
「隙ありっ!涼風式どろっぷきっく!」
「う、うわっ!!」
春蘭と風呂に入るときに見せる、涼風の必殺技が炸裂する。湯船に入り、腰を下ろそうと体制が崩れた所へ突き刺さる
錐揉み回転が加わった貫通力のある飛び蹴り。低空ドロップキックではなく、いうなれば中段ドロップキック
おそらく今頃は水しぶきを上げて湯船に沈んでいるであろう翠と、決めポーズと共に「うっしゃーっ!」と叫ぶ我が子を
思い浮かべながら、昭はゆっくりと秋蘭に頸動脈を締められていた
「阿呆、変な癖がついてしまったでは無いか」
「ご、ごめんなしゃっ・・・・・・」
その後、風呂で遊び始める三人に秋蘭の怒号が飛び、居間で気絶する昭の姿に翠と蒲公英は二度と風呂場でふざけないと
心に誓うのであった
気がつけば、外は暗く星の光が夜空に瞬いていた。楽しい時間が過ぎ去るのは速い
それを解らせるかのように、外は暗い闇に覆われていく
居間にいた秋蘭は雨戸を閉め始め、蝋に火を着けて二人を客間へと案内し、布団を敷いてくれた
天日に干された布団は、まるで母に包まれているかのような暖かさで二人を眠りへと誘った
昭もまた、秋蘭に担がれてそのまま娘と共に眠りへとついていた
夜は深く、深く、全てを飲み込み、生活の光、音までも飲み込み、静寂が辺を支配する
誰も居らず、誰もが眠りに付いている。僅かに聞こえるのは、見張りの兵が鳴らす鎧の擦れる音
静寂には、それすら大きな音として聞こえる
どこまでも闇が支配し、月明かりだけが僅かに大地を照らす
「何処に行くんだ?」
「・・・何処にも行かないさ」
屋敷の庭で、月明かりに照らされる長い栗色の髪の女は、屋敷から出てきた男に尋ねる
「夜の散歩だ」
「兄様は、そんな趣味があったんだ」
月に照らされる女は、屋敷の影で表情の見えぬ男に苦笑する
「フェイを殺しに行くの?」
「・・・」
屋敷の影で表情は見えない、だが月明かりの下で顔を悲しみに染める女の顔が、男の思いを物語る
「桃香さまはさ、言ったんだ。きっと、止めを刺しに来るって。神医の力なら戦に参加できるからって」
「・・・」
何も答えぬ男に女は胸を握りしめた。己が発する言葉がまるで刃物のように女の心を切り刻む
「仲間を助け、曹操の風評が悪くならないようにして、兄様は多くの兵を救う・・・フェイを殺して」
女の主の言葉。華佗を迎えれば、それに乗じて必ず蜀に侵入するはず。男は隠密行動を得意とする。同じ場所を刺して殺されれば
間に合わず死んでしまったといって華佗は帰る。蜀は約束を守らねばならない。全ての罪を一人で背負うつもりだ
「あたしは、フェイが殺されないように兄様を監視する役。だから此処に残った。華佗が蜀に、兄様より先に
フェイの元にたどり着けば、兄様は救おうとしている友達の前で殺すことなんて出来ない」
「・・・」
「兄様が、どれほど辛いのかも解る。いや、本当に解る事はできないけど、兄様はきっと悲しい顔をしてるはずだよ」
影で見えぬ男の顔を、女は想像し顔を歪め涙を流した
だが、涙は直ぐに止まり、氷のような瞳をもって男を迎える
「行くなら、あたしは兄様と戦わなきゃならない。こんな場所で、あたしは兄様と戦いたくない」
手に握り締めるは十字槍、月明かりに照らされ、鈍い銀色の光を放つそれは
あまりに美しく、まるで女の心を写すかのように曇り一つ無かった
「・・・散歩だと言っただろう」
屋敷の影から出る男に、女は穂先をむけるが、女の手は動くこと無く
「付き合うか?夜空を眺め、酒を飲むのも良いだろう」
月を見上げる男に、女はその場に腰を着いた
「まだ、水を使いこなしていないようだな」
「ど、どうして」
「華琳が戦いたいと言った。だから、俺は邪魔をしない事にした」
「でも、それじゃ兄様の想いは」
「良いんだ。俺が兄弟達を、兵を護る術を見つければ良い。策でも良い、力でもいい」
地面に座り込む女に、男は膝を曲げて視線を合わせると頭を優しく撫でる
「なんだってやってやるさ、俺に出来る事ならなんだってな」
微笑む男に、女は撫でられるままに涙を流した
それは戦えぬ悔しさなのか、撫でられる嬉しさなのか、それとも安堵なのかは解らない
だが、女は優しく男に撫でられるまま子供のように泣いていた
「何時もこんな時間に散歩してるの?」
「偶にな。言ってなかったが俺にはもう一人娘がいて、その娘と夜空を見に来るんだ」
城壁に二人、昭が持ってきた酒を飲みながら夜空に瞬く星を見上げる
静寂が支配する闇の中、確かに感じる兄妹の温もりに、翠は酔いしれるように酒を煽る
「そうなんだ、明日はその娘と会いたいな」
「きっと驚く」
「兄様に似てるのかな、それともやっぱり涼風みたいに姉様に似てるのかな」
会えば解ると酒を煽る昭に、翠は空になった盃に酒を注いだ
「ねぇ、兄様」
「なんだ」
酒の入った徳利の縁を指先でなぞり、顔を俯かせる翠は、何処か悲しそうに昭の表情を伺いながら口を開く
「兄様には、桃香さまがどう映った?」
「・・・今日の事か」
今日のこと、華琳の前で言葉を交わした劉備の姿が昭の眼にどのように映ったのかを聞く翠
何故こんな質問をするのか、不安な表情からも聞くこと自体が間違いだと自分自身で理解していると解ってしまう
「俺は魏の人間だぞ」
「うん、それでもさ、今はあたしの兄様だ。ダメかな」
魏の人間、蜀の人間などではなく、純粋に妹として兄に教えてもらいたいと言う翠に
昭は盃を置いて、腰の剣を抜き取り月明かりに晒した。まるで剣の先に誰かを写すようにして
「此方に付け入る事が出来るなら何処までも容赦無く、己は何一つ出すことはない
狡猾で、押し付けがましく、恥知らずで、意地汚い最低の卑怯者」
「・・・ッ」
容赦の無い言葉に翠は唇を噛み締めた。だが・・・
「魏を愛する皆にはそう映っただろうが、俺は違う。付け入る隙が有るならば隙を作る方が悪い、己が何一つ出さないのは
当たり前、狡猾で有るのは己に力が無いことを自覚している証拠、恥知らずではなく恥を捨て、勇を取った」
「あっ・・・」
「泥臭い戦い方だ。非力な己を理解している。姑息で何が悪い?狡くて何が悪い?利用できるモノを利用して何が悪い?
非力な民が強大な王に挑むのに、誇りだなんだと言っていられるか?全ては勝つためだ、劉備殿は勝つ事に対して戦に対して
誰よりも現実を見て真剣に、貪欲にに戦に向かい合っている」
王ではなく、民である人間が勝利するための純粋な姿勢
それを劉備に見た昭は剣を見つめ、ゆっくりと腰に剣を収めた
「だから華琳は笑ったんだ。己と戦うに相応しいと」」
「兄様・・・」
「もし、王を捨てきれず華琳の前で対等で有るなどと自惚れ、まだ甘い事を言うならば俺はあの場で劉備を殺していた」
仲間を捨て、妹を捨て、全てを捨てて、一人罪を背負い劉備を殺していたと言う昭
その瞳は氷塊のようであり、向けられた厳しい表情は翠の躯を震わせた
「華琳はきっとこう言うだろう。現実を今だ見れぬ愚か者ならば、着いてくる民はなんと不幸なことか
愚かな者に、まるで消費されるように消えていく兵の命を見ることは耐えられぬ。いっそ聖人と呼ばれる今のまま
この場で殺してやる。罪と怨みは全て自分が受けきって見せようとな」
それならば、影である俺が殺し、全ての罪を背負い、業を全て刈り取って見せるのが王に仕える俺の役目だと言う昭は
剣を収め、振り向き見せる掌は、小刻みに震えていた
表情は変わらない、心すら動いては居ないだろう。だが、今の劉備の姿は昭の躯を無意識に震わせる
「震えてるの兄様?」
「ああ、劉備が怖い。あまり他人に恐怖を感じることは無いんだがな」
「怖い?」
「そうだ、ああ言う人間が一番恐ろしい。隙を見せれば一気に喰われる。別人だ、俺が知っている劉備と」
震える左手を握りしめ、かき消すように何度も開いては握り締める
弱者を討つ者が強者ならば、逆に強者を討つ者は弱者なのだ。それを深く理解する昭は恐怖を感じていた
「兄様は、桃香さまに自分を見たんだね。あたしにとっては、今言ったこと、全部兄様に当てはまるよ
力が無いからあるモノ全てを利用して、自分の使えるモノは何でも使う。だから、あたしは兄様が怖いよ」
眼を伏せて、戦場での昭の姿を思い出し、ゆっくり瞼を開ければ震える自分の右手
兄の言葉が心底理解出来る。弱者であるからこそ驕りなど無く、隙を作ることがない
強者は驕りやすく己の隙に気づきづらい、そして弱者に対して盲目になりやすい
「お前が仕えた人物は間違いではない。自信を持て」
「それは兄様としての言葉だね。有難う、叢雲兄様」
首を振り、震えが収まった手で翠の震える手を握りしめる昭
「劉備殿は此方の怒りを誘った。挑発して、此方の統率を乱そうとしたのだろう」
笑を見せる昭に、翠は苦笑いを返しやっぱり兄様は怖いよと呟いた
「桃香さまがね、曹操と話が終わった後、言ってたんだ。挑発して、頭に血を上らせて動きを操るつもりだったみたい
だけど兄様が一切反応しなくて、それどころか軽くあしらわれて、将の人達は冷静になっちゃったって苦笑いになってた」
そう、桂花が笑に余裕が無く硬い表情に見えた理由とは、劉備の必死さが表情に現れていたのだ
だがすぐに自分の表情を隠した。此処に来るまで何度となく被った鉄の仮面に
桂花は見破ることはできず、気のせいだと思ってしまっていた
「兄様に見通されてるならダメだね、視線を兄様から外すのも練習してたんだよ」
「フフッ、そうか。やはり油断出来んな」
笑い合う二人は、再び酒に口を付けて笑い合う
「・・・・・・」
「急に黙って、どうしたの兄様?」
「いや、あれが俺の姿だとするなら、呉では甘寧殿に悪いことをしたなと思ってな」
月を見上げながら、顎を撫でる昭に翠は眼を丸くしていた。兄も同じような事をしていたのかと
「そういう事か。赤壁で遠くから見てたけど、兄様しか見えて無いって感じで、止めようが無かった」
「危うく此方もそうなる所だったと言うところだな」
そうだね、おしかったな。という翠に昭はニヤリと笑を浮かべ、翠はクスクスと笑い声を上げていた
「兄様」
「解っている。今話したことは全て忘れる。華琳への報告も無しだ」
「うん、あたしも誰にも言わない。一週間、お世話になるよ」
今から一週間は、たっぷり兄に甘えるんだと酒を一気に煽ると、翠は胡座で座る昭の膝に頭を乗せた
蜀だとか魏だとか、敵同士だとか今だけは関係ない、今だけは自分の兄だと満足そうに照れながら笑を浮かべ
昭は妹の頭を優しく撫でながら、酒の残りを口にした
「もうっ!お姉様、何時になっても帰ってこないから、蒲公英、夜の新城を徘徊しちゃったよっ!」
「悪い悪い、兄様と月見酒ってやつをしてたんだ」
「ホントに悪いよっ!途中で警備の劉封くんに捕まっちゃうし、変な事をしてたんじゃないかって疑われるし
司馬徽って人には頭の中、覗かれるしっ!すっごく気持ちわるかったんだからっ!!」
どうやら翠が昭と対峙していたのを見ていたらしく、戦って昭を負傷させた、または殺した時の事を考えて厩の位置を確認していたが
余りにも帰りが遅く、剣戟の音も聞こえず、気がつけば二人は何処にも居らず。心配で探していたら一馬に捕まったらしい
軽い責問を受けていたようだが、どうにも埒があかず、眠りについていた水鏡を起こして心を覗かせたようだ
だが、水鏡は一目みて興味が無かったのか「心配無用」とだけ伝え、居なくなってしまったらしい
「覗かれたって、大丈夫なのか?」
「うぅ~ん、覗かれても蒲公英は大した事、知らないしー。叔父様の教えっていうか、臨機応変が叔父様の殺り方だし
此処に来るって言われて、お兄さまが居るから頭の中になーんにも入れなかったんだよね。多分大丈夫じゃないかな?」
「殺り方って、相変わらず叔父様は凄い教え方をするな」
韓遂の事を思い出し呆れる翠に蒲公英は確かにと頷くが、抗議していたことを直ぐに思い出したのだろう
酷い、ずるい、仲間はずれだと言い出し、途中まで翠は謝罪をしていたが限界に来たのだろう
結局は言い合いを始めていた
「そこまでだ、今日は新城を廻るのだろう?仕事があるから、俺は案内出来無いが」
「いいよ、涼風と適当に廻るよ」
「うん、見るところは沢山ありそうだしね」
朝食を取り終え、涼風を抱きしめながら今日の予定を話していた所で、玄関から戸を開く音と
「ただいまなのですよー」という風の独特の言い回しが聞こえてきた
「おはようございますー」
「おはよう風」
「おやおや、朝から此方に居らっしゃると言うことは・・・どういう事なのでしょう?」
翠と蒲公英を見て、何故此処に居るのか考えようとしたが、途中で面倒になったのだろう
考えるのを止めて、眼を細めて昭のほうを見る姿に翠と蒲公英は不思議な人物だと顔を見合わせていた
「一週間ばかり、妹たちは滞在してくれるんだ。まあ、見かけたら案内してやってくれ」
「ほうほう、なるほどー。でしたら兵の練兵でも見て行ったら如何ですかー?」
突然の申し出に驚く翠と蒲公英。冗談で言ってるのか、それとも此方を試しているのか
寝ぼけ眼で不思議な雰囲気を醸し出す風に、戸惑う翠と蒲公英は、何を言っていいものかと悩んでしまう
「あ、あの、兄様?」
「ああ、別に見られるのは問題ない。何時もと同じ、何時もと変わない練兵だからな」
「急に変な事はしないって事?」
「そうだ、それに基本が一番大事だからな。見ても何にも面白いことは無い」
逆に言えば、自分達の兵に絶対の自信が有るということだと理解し、それを知らしめる為に言ったとは
なんと恐ろしい人物だろうと視線を風に向ければ、風は頭に疑問符を浮かべる
どうやら、本当に何にも考えてはいないようで、二人は呆れて苦笑いになっていた
「そうだ、金は有るのか?」
「えっと、蜀の五銖銭なら」
出されたのは五銖銭の百枚分の価値を持つ直百五銖銭。昭は出された貨幣の直百五銖銭を見て、直ぐに翠に返した
「風、貨幣相場は?」
「えー、蜀五銖銭一枚は魏五銖銭の三枚相当になりますねー」
「となると、そいつは使えないな。ほら、俺からの小遣いだ」
差し出されたのは五銖銭よりも一回り小さい五銖銭六枚と二回りほど小さく、子と刻まれた五銖銭が三十枚
何方も表面には五の文字と、漢と魏の文字が刻まれている
翠は首をかしげていたが、蒲公英は直ぐに気がついたらしく驚いていた
「その子って彫られてるの、五銖銭より下の貨幣?っていうか、魏の物価ってそんない安いのっ!?」
蒲公英が驚くのは無理もない、蜀の貨幣一枚で、魏の貨幣は三枚になるのは、蜀の直百五銖銭なんかで買い物すれば
魏で店を開く者に嫌な眼で見られる事になるということ。と言うことは、蜀の貨幣で恐ろしいほど買い物ができる
つまりは物が安いということ。更に、五銖銭よりも下の貨幣が有るということは想像よりもずっと物が安く
通常の五銖銭では取引に混乱を生じるほどだと言うことだ
「そうだな、作物は豊富に収穫できるし、海産物もそれなりだ。塩もあるし、畜産も安定してる
今は無いが西涼を羅馬からの調度品取引に使って、冀州で売りさばいたりしてとにかく物を回してるからな」
「それに伴って、生産を安定させるような技術をお兄さんと美羽ちゃん。特に美羽ちゃんが次々に生み出してますから
モノは豊富にあるのですよ」
二人の話に驚く蒲公英は、小銭を手にため息を吐いた。多分、給料も此れで支払われているはずだ
となれば、五銖銭よりも上の貨幣があるかもしれない。と現在の蜀と比較して驚いていた
「まあ、これも狙いがあってやってるんだがな」
「それは教えてくれないよね」
「ああ、とにかくコイツで色々遊んで来れるぞ」
五銖銭の価値は1銭=約二百円。物を買うときも、食事をする時も、此れで支払う事が多い人々は
貨幣の真ん中に空いた穴に、紐を通して持ち歩いていた。非常に使い勝手が悪く、牛1頭、買うのに二千枚の
小銭をジャラジャラと持ち歩いて支払いに使っていた。それならば、直百五銖銭を持ち歩けば良いと思うだろうが
貨幣自体、鋳造するのに手間が掛かる上、素材がそれほど手に入らない為、直百五銖銭自体があまり出回っていないという話だ
魏は冀州を治めた時、袁紹が大量に溜め込んでいた五銖銭を天子さまの許可を得て鋳潰し、日本円のようにして
創り変え、区切りを細かく分け価値を下げたのが魏の五銖銭。細かく分けられたお陰で、物の価値が
凡そではなく、きちんとした値が付けられるようになり、州と州の流通もスムーズに行われるようになっていた
「五銖銭一枚で、普通に飯が食えると思えば良い」
「・・・一枚じゃ、蜀は肉まんしか食べられないよ」
ため息混じりで答える翠に昭は苦笑し、風は「ではでは~」と書斎兼自室へと入って行ってしまうが
直ぐにまた、玄関から「帰ったぞ」という声が聞こえてくる。今度は春蘭のようで、入ってくるなり
涼風の頭を撫で、翠たちには「なんだ居たのか」とだけ言って部屋へ入ってしまう
居る事に何の疑問も抱かず、平然としている春蘭に呆気に取られていれば、それを皮切りに次々に玉座の間で見た将が帰宅し
中には見たことがある人物。美羽が七乃と共に涼風と昭に「父様おはようなのじゃ」と挨拶を躱して奥の自室へ
最後は詠と月が挨拶し、炬燵に足を入れ雑談を始めていた
「な、なあ兄様?」
「なんだ?」
「えっと、あれは袁術だよな」
「そうだ。俺の娘で、涼風の姉だ」
「!?」
「で、あそこに居るのが董卓で、今は月と真名の方を名乗ってる」
「そ、そう、なんだ・・・」
炬燵に入るなり我が家に居るような様子で会話する詠と、お茶を用意しようと居間へ向かおうとする月に翠は言葉を無くす
「風呂に行くなら鐘が十回鳴った時が良い、あまり客が居ないから狙い目だ。それと警備隊の連中に話をしておく
何かあったら警備の奴らに話すか、政庁の隣に警備隊の兵舎があるからそこに来てくれ」
「う、うん。いこうか、蒲公英、涼風」
「はーい♪」
「あはは・・・そうだね。此処に居ると、頭がこんがらがって来ちゃう」
将どころか元は敵だった者までも城ではなく、この屋敷に集まり我が家に帰ってきたかのような行動をするおかしな光景に
二人はどういった経緯でこの状況になっているのか想像が着かず。詠が仕事道具を居間の戸棚から取り出し、美羽が居間に戻って
定位置に座り、月に茶を頼むところを見て深く考えるのはよそう、きっと兄の徳だと無理やり納得させて街へと繰り出していった
「昭、華琳が明日は干物が食べたいって」
「解った。今日は休みか?」
「うん。月は働き過ぎだって、皆に言われちゃってね。お菓子ある?」
「ああ、戸棚に饅頭がある。全部食べて良いぞ」
「すみません、ありがとうございます」
居間から茶を用意して出てきた月が、戸棚から饅頭を取り出す詠を見て苦笑いで頭を下げていた
昭は気にするなと手を振り、美羽の頭を撫でて屋敷を後にする
高く登った太陽に、今日は良い天気になると呟きながら、先に家を出た秋蘭の待つ兵舎へと足を進めた
水鏡の正式な仕官の後、戦後の処理は、呉の内情を知る魏の将となった陸遜を筆頭に進めていたが
孫呉と言われるほど民と孫家の繋がりの強い呉は、昭が立ち入った柴桑を抜かし豪族たちや民の反発が強く
容易く魏に溶け込むことは出来ずにいた
そんな中、赤壁の戦より数日しか経過していない魏は、約束を交わしたとはいえ劉備軍を警戒しながら軍備を整えていた
「それで、ようやく貴女達の処遇を決められるという訳だけど」
「義に反する事をしたのに、冥琳を助けてくれたどころか、負傷した将兵を治療したり
戦でかき集めた糧食を、不作で苦しむ民に施してくれるんだから。私はどんな事でも受けるわよ」
「ええ、聞いたわ。周瑜が助かると解ったら、惜しくなってしまったのね」
新城の政庁、玉座の間で頬杖を着き竹簡に眼を通しながら孫策の話を聞く華琳は少々不機嫌だった
「本当は、冥琳と死ぬつもりだったのよね。縄に繋がれながら、妹を逃がして、それから最後まで戦うって決めたら
そこの軍師殿が急に私のところに来て【周瑜は助かりますが、貴方はどうしますか?】なんて聞くんだもの
助かる、助けられる、まだ生きていてくれるって頭の中はもうそれだけ」
ため息と共に顔を伏せるが、その顔は悔しさも怒りも無く何処か開放されたような清々しさを感じさせる
「そしたらもうダメね、もうどうでも良くなっちゃったの
恥を捨てても救いたい、どうしても生きていて欲しいって思っちゃった。王様失格ね、私」
視線を向ける孫策に、稟は素知らぬ顔で誰がそんな事を言ったのやらと首をかしげていた
「それほど大切な人間だっただけの事よ、何もおかしくなど無いわ・・・・・・でも」
手に持つ竹簡がベキリと音を立てへし折れ、華琳の額に青筋が浮かぶ
「でも、それが何故、昭の側室になるという話になるのかしら?」
将が揃う玉座の間に流れる不穏な空気。地面に落ちる竹簡の破片が静まり返る部屋に響く
走る緊張、怒りを顕にする春蘭、同じく真桜、将たちそれぞれが不快な顔をし
秋蘭は顔を悲しみに染めていた
一方その頃、公衆浴場で蒲公英が、風呂上りに飲んだメロン牛乳がよほど美味かったのだろう、大量に飲み
腹を壊しうずくまって兵舎に運ばれてきたのを、昭は竹簡に眼を通しながら膝に乗せて腹を撫でていた
「お腹いたぃ~」
「飲み過ぎだ・・・」
「あんなに美味しいんだもん、飲み過ぎるなっていうほうが無理だよぅ」
優しく腹を撫でられ、表情が和らいでいく蒲公英を翠は羨ましそうに見ていた
「なんかズルイな」
「涼風も!涼風もー!!」
無理やり膝に登る涼風に腹を圧迫され、顔を青くする蒲公英を見ながら笑う翠
穏やかに竹簡を読む昭には、今、王の前で何が起こっているかなどしる芳も無かった
Tweet |
|
|
63
|
12
|
追加するフォルダを選択
とりあえず、拠点話へと入ります
劉備の過去話は、数話書き終わった後に書かせて頂きます
次もなるべく早くあげようと思いますので
よろしくお願いいたします
続きを表示