No.425398

誰かが風の中で (AIR 二次創作小説)

AEさん

AIR。
私的にはあのラストは、「俺たちの戦いはこれからだ!」的な印象を受けたので、いろいろ妄想しました。

ラスト後の「そら」は何処へ行ったのか。
そして「AIR」という物語を語っていたのは誰だったのか。

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2012-05-20 03:36:09 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1037   閲覧ユーザー数:1032

AIR 二次創作小説   

 

 

「誰かが風の中で」                                 by AE   

 

    一羽の鴉が空を舞う。それはとても弱々しい羽ばたきで。

    自分の翼の在処さえわからないような、そんな危なげな動作だった。

    黒い羽根の連なりはところどころ綻び、不連続な二次曲線を描いている。

    永い永い孤独な旅路が、その翼に拭いきれない疲れを刻み込んでいた。

    その嘴には小さな人形がくわえられている。

    幾度か強い風に流されながらも、鴉は必死に羽ばたいていた。

    鴉の飛ぶ空間は、とても高い晴天の大空だった。

    その眼下には黒ずんだ灰色の雲が、嵐の海のように広がっている。

    ふいに高度が下がる。鴉は羽ばたきを強めて揚力を稼ごうとする。

    しかし突然。その身体がグラリと傾き、片翼が雲を削った。そのまま、落ちる。

    鴉は力尽き、まるで溺れるように雲の海に沈んでいった。

 

    …彼には休息が必要だった。

 

 

 

 

 

 

 夏の日の夕刻。水平線に沿って歪んだ太陽が、海を真っ赤に染めていた。

 もうすぐ夜が訪れる、雨上がりの防波堤の上。

「いてて…」

 海の側に座り込み、肩をさすっている青年がいた。名を国崎往人という。

 話せば永くなるが、彼は捜し物の旅を続けている。いや、物と言うよりは者。

 長年捜し続けている対象は、遠い日に別離した一人の少女だったから。

「お。一番星」

 見上げた空にキラーンと輝く金星を見つけ、往人はなんとなく嬉しくなる。

 同時にぐうぅ~っと体内から音が聞こえた。

「…腹減った」

 俺ってこればっか、などと自分で言っておきながら情けなくなったりする。

 とにかく何か食料を入手しなければならない。迅速かつ量的かつ、可能なら質的に。

 だが一つ問題があった。往人はかつて、この町で暮らしたことがあった。

 そして、ある誓いを立ててこの地を旅立ったのだ。それを叶えるまでは戻るまい、と。

 それなのに、自分は戻って来てしまった。なかば無意識に、歩き続けることを止めて。

 …疲れたのかもしれない、と往人は思う。旅立ってからどのくらいの時が流れたかを、

 往人はおぼろげにしか覚えていなかった。

 また腹が鳴った。身体は正直で、シリアスな悩みとは無関係だった。

 しかし空腹もシリアスな問題ではある。今夜の宿は、飯は、などと悩み始めたとき。

「おじさん」

 頭と腹を抱えた往人に、語りかける声があった。

「お兄さんと呼べ」

 反射的に答えてから振り向くと、背後に十歳くらいの男の子が立っていた。

 長い竿のようなものとリュックを肩にかけている。稽古事…剣道の帰りだろうか。

 むすっ、とした表情。夕日を浴びたその顔を、なぜか往人は勇ましいと感じた。

 自分とは違う、守る者のある姿。そのために強くなろうとしている純真さ。

 そんな連想をしてしまう。一瞬の空白の後、男の子は往人の肩を指差して言った。

「怪我してる」

「そうだな」

「血が出てる」

 男の子は往人ではなく、防波堤の地面を見つめた。

 往人がその視線を追うと、コンクリートに小さな赤黒い染みができていた。

 肩を見る。沈みかけた夕日が、破れたシャツと濡れて輝く傷口を照らしている。

 出血が止まっていないのだ。にも関わらず、痛感は薄い。痺れているようだった。

「真っ赤だな」

「…いたい?」

「大した傷じゃない」

 確かに大したことはなかった。この長旅ではもっと酷い傷を負ったこともあった。

 その時もう一度、腹がぐううぅぅ~っと鳴った。

「おなか減ってる?」

「食わせてくれるのか?」

「母ちゃんが、旅の人には優しくしろって」

「今どき珍しい殊勝な心がけだな」

 話しているうちに、辺りは山の方から闇に染まっていった。とてもゆっくりと。

 迫って来るその境界線が何か巨大な化け物のように見えて、往人は身をすくめた。

 視界が、ぐらり、と傾く。同時に真っ暗になり、どん、と衝撃を感じる。

 もう夜なんだな、と思う往人は自分が大地に伏したことに気づいていなかった。

「おじさん? …おじさん!」

 子供の声が鐘の音のように頭の中で鳴り響いている。

 くどい奴だな、俺はそんな歳じゃないぞ。…しかしもう何年になる?

 俺のこの旅はいつまで続くんだ? いつになったらあいつに会えるんだ……?

 言いたくても決して言葉にしなかった弱音を、往人は心で叫んでみた。

 一瞬、娘の困ったような笑顔が見えたような気がした。 

 

 

 

 薄目を開けると、夜空ではなく天井があった。

 ぼんやりと往人は記憶を漁ってみる。…そうだ。俺は夕飯を待っていたんだっけ。

 そう、そうだ。俺の傍らにはとっくの昔に支度を終えて神経衰弱なんかやっている娘の

 姿があって。俺が起きるとその表情が、ぱぁっ、と明るくなって……

「!」

 娘の名を叫ぼうとした瞬間。跳ね起きた往人の視界に映ったのは、その娘の母だった。

 往人は、まだ会ってはならない人物に救われたことを知った。しまった、と叫ぶより

 速く、香ばしい米の香りが頭と腹をくすぐる。往人はあっさりと危機を忘れ去った。

「ひさしぶりやなぁ、居候」

 にやにやと笑いながら、神尾晴子は山盛りのどんぶり飯を片手で差し出した。ご丁寧に

 も海苔茶漬けになっている。返事もせずにひったくり、往人は無言でかき込み始めた。

「いい食いっぷりや。もう身体の方はだいじょうぶやな。どれ、うちらも飯にしよか」

 最後の言葉は台所に向けられていた。先程の男の子が鍋を、女の子が皿を運んでくる。

 往人は視線だけでそれを見ながら、海苔の香りの残り茶を飲み干した。動きが止まる。

「…生き返った」

「まさにその通りや。大変やったでー、リヤカーで家へ運んで、聖センセ呼んで。

 家ん中でブラックジャックごっこや。まあ、輸血ってほどや無かったらしいけど」

 見ると、肩口から肘までが真っ白な包帯に包まれている。

「しっかし何なんや、その大怪我。車にでも跳ねられたん?」

「落ち…いや、あー、転んだんだ。ちょうどそこに割れたペットボトルがあって」

「ペットボトルでそんな大怪我したんか!」

「ペットボトルを馬鹿にするな。文明の利器だ。扱い方を間違えるとこうなる」

「いや、どっちかっつーと、あんた自身をバカにしとるんやけど」

 とその時、食卓に着いた女の子が笑い声を上げた。白いワンピースを着た少女だった。

 懸命に笑いをこらえながら、往人に湯気の立つ味噌汁碗を手渡してくれる。

「準備できたよ、母ちゃん」

 今度は男の子が言った。エプロンを外しながら往人の隣角に座る。

 炊事経験は長いようだった。男の子が座るのを見届けてから、晴子が宣言した。

「よっしゃ。ほんじゃー食べよっか。いっただきまーす!」

「「「いただきまーす!」」」

 雰囲気に押され、往人も両手を合わせて挨拶をする。

 ちゃぶ台の上には二杯目のどんぶり飯が用意されていた。今度は白飯のままで。

 中央には焼魚と漬物、ジャガイモと人参の煮っ転がし等が所狭しと並べられている。

 まずは焼魚、と伸ばした往人の箸は晴子の箸と男の子の箸に遮られてしまう。

「割り当ては一匹ずつ。あとは競争や」

 闘いが始まった。せぇの、で五匹の獲物が二匹に減っている。

 晴子は頭から、男の子は尾から食らい付いている。呆気にとられた往人は出遅れた。

 半分まで食べて白飯に移った男の子は、魚だけ攻め続ける晴子にイエローカード。

「おかずだけ先に食べるのは反則だと思う」

 気にも止めずに晴子は口からはみ出した尾をつまみ、器用に骨だけ抜き出した。

「今夜の主審はうちやで。うちが正義や。どれどれー」

 ボーナスポイントは晴子の箸に狩られてしまう。残りは一匹、女の子の分だった。

 じぃ~っと往人は焼魚を見つめた。法術で何とかできないか、などと思いながら。

 そんな哀れな視線に気づいたのだろうか、女の子がつぶやいた。

「おにいちゃん、食べていいよ」

「い、いいのか?」

「うん。私は後から大好物が出るから。そっちをいっぱい食べるの」

「食通はわかってらっしゃる。旨いもんは最後に出てくるんや。焦るヤツは損するで」

 当人に言われたくない、と往人は思った。ちらりと男の子を見ると、同意見の模様。

 そろそろかなー、などと晴子が台所の方を振り返って。

「コレ作るのも超久しぶりや。仕上げの蒸しがコツなんよ」

 ピピピ、とアラーム音が台所から聞こえてくる。女の子の顔がぱぁっと明るくなる。

「しかし三年ぶりなんやな~、あんたの顔見てるとそんな気ぃせぇへんわ」

 立ち上がり、台所に向かいながら晴子が言った。往人は咀嚼を止める。

「…三年後なのか、ここは」

 晴子の背中を見つめながら、往人はつぶやいた。誰にも聞こえぬような小さな声で。

「どうしたの、おにいちゃん?」

 止まった箸に気づき、隣の女の子が尋ねてきた。ほんの少し、曇った表情で。

「晴子先生とわたしの作ったお味噌汁、まずい?」

 ぷるぷると首を振り、往人は態度で答えることにする。空になった碗を突き出して。

 にっこりと笑った女の子がおかわりをよそってくれる。今度は具だくさんだった。

「ぼくもおかわり」

 対抗するように男の子も碗を突き出した。その腕を避けて、晴子が巨大な皿を置く。

「ほーら、できたでー。本日のメインディッシュ、神尾家特製のタマゴ焼きや」

 大皿にこんもりと積もった黄色い塊。ダイナミックな盛り付けだった。

 単純なバターと卵の香りがさらなる食欲をそそる。既に女の子が臨戦態勢だった。

 卵焼きはひょいぱく、ひょいぱく、と箸に運ばれ女の子の口に消えていく。

「ふわふわで熱くて甘くておいしい」

 ぱくぱく、ふぅふぅ、食べたり冷ましたり焦ったりしながら女の子は食べた。

 忙しい娘だ、などと往人は思いながら、味噌汁を一口。

 久しぶりに口にする家庭の味に、心の底から暖まるような気がした。

 

 

 

 一時間くらい後。懐かしい部屋に往人は独りで座っていた。

 他の三人は台所で洗い物をしている。手伝おうとしたら、止められた。

 それよりもあの娘に顔見せたって、と晴子に案内されるまま連れてこられた。

 部屋はあの日のままだった。埃一つ無く、掃除が行き届いている。

 唯一違う点は香りだった。静粛な線香の香り。先ほど往人が上げた物だった。

 位牌の隣に写真が立てられている。手に取ろうとした時、晴子が部屋に入ってきた。

「飲も!」

 どん、と畳に一升瓶が叩きつけられた。封の切られていない、埃を被った新品だった。

 突きつけられたコップを受け取り、往人は無言で晴子の酌を受けた。

 次に往人が片手で一升瓶を持って晴子に勧めた。とくとく、と音が部屋に木霊する。

 それから二人して写真の方に向き、胡座を組んで座り直した。

 二人とも無言で飲んだ。少ししてから往人が言った。

「母ちゃん、だって? 結婚したのか?」

 片手を顔の前でひらひらと振りながら、晴子がひそひそ声で言った。

「あんたの子か、とか言う失礼なヤツもおるで」

「当ててやろう。あの診療所の姉妹だろう。廃駅の姉妹の可能性もあるな」

「パパー」

「冗談でもよせっ!」

「迷惑?」

 と、しなを作って見せたりする、神尾晴子三十一歳。

「…まったく。あんたは変わらんな」

「ああ。あの日のまんまやでー、若い若い」

 ぐいっ、とコップに半分ほど残った酒を一気に。で、むせた。

「歳だな」

「最近は禁酒してたからなー。酒臭いと園児たちが嫌がるんよ…って、何驚いてるん!」

「あんたらしくない、真面目な動機だと思って……待て。園児?」

「あれ、仕事変えたっちゅーのは言わんかった? 今、保育所の先生やっとるんや。

 ついこないだ、保母さんの資格が取れてな。やっと見習い卒業や」

「なんでまた?」

 ほんの少し視線を逸らしてから、晴子はコップを傾けた。

 くー、とゆっくり飲み干してから微笑み、娘の写真を見上げて小さな声でつぶやく。

「…家族って、いいやん」

 刹那、往人は思い出していた。狭い視界で見ていたあの夏の日の母と娘の姿を。

 自分も確かにその一員であった、神尾家の夏の日のことを。

「そこ、シリアスになるなっちゅーねん。ほらほら、手が止まっとるでー」

 とくとく、と一升瓶が水平に傾けられた。溢れそうになる純米酒をあわてて啜る。

 一気に飲んだので、今度は往人がむせ返った。

「あんたかて、歳とちゃうかー?」

「ほっといてくれ。…で、あの子たちは何なんだ」

「うちの教え子だったんや、保育所のな。卒園してもなかなか先生離れしてくれへん。

 仲良し二人組でな。あの娘は近所の女の子なんやけど、あの坊主は孤児だったんよ。

 色々あって、小学校からは隣街の施設に入って、隣街の小学校に行くはずやったん。

 それ聞いたあの娘が癇癪起こしてな。あの子と一緒じゃなきゃ死ぬー、とか言うて」

「それで引き取ったのか」

「しゃあないやん、引き取るって物好きがいなかったんやから。

 それになー。なんかあいつ、放っておけない気がして。世渡り下手そうやないか」

 誰かさんみたいに、と小さく付け加えてから晴子は続けた。

「三年前やったかな。あいつが大喧嘩やらかしてな。あの娘をいじめた隣町の小学生と

 大乱闘や。相手方の親御さんが保育所に怒鳴り込んできて。親代わりの園長先生が、

 そりゃもう平謝りに謝って。なのに一言も謝らんのや、あいつは」

 空になったコップの底を覗き込む仕草、そしてその側面を軽く平手で叩き、

「気づいたら、思いっきり引っぱたいとった。 あんたは正しいかもしれん、

 だがな、あんたを大切に思うとる人に迷惑かけたら絶対あかん、って。

 そしたらあの娘が泣き出して、あいつは雨ん中に飛び出して。一同パニックや」

 思い出し笑いをしながら、晴子は「ここからなんや」と言わんばかりに早口になる。

「そんでもって夜中にな。捜し疲れて帰ってきたら、家の前にあいつがおんねん。

 ずぶ濡れで立ったまま、キッとうちのこと睨んで、僕は間違ってない、言うて。

 うち、笑ったわ。あん時以来の大笑いでな。おまえは本物やーって。

 それから恥ずかしがるあいつを湯船に叩き込んで…それからの仲やな、あいつとは」

 語り終わってから、晴子は自分で酌をした。

 コップを置いて目を閉じてから往人が言った。薄く笑いながら。

「…あんたらしいよ」

「お、褒めてくれるんか?」

「呆れてるんだ、これでも」

「ここ、感心するところやでー。ボケるところやない」

「自分で言ってどうするんだ。…まあ、そこもあんたらしいが。元気そうで安心した」

 いきなり晴子は往人の顔を覗き込み、神妙な表情になる。

「…あんた、変わったな」

「なにが」

「ちょっと砕けたというか、丸まったというか。なんか、うちより歳食ったみたいや」 

「ほっとけ」

 とその時。たたーっ、という走り来る足音。

 身構えた往人の背中に、ぽふっと柔らかい感触があった。

「おにいちゃん、遊ぼう」

 振り向くと、女の子が貼り付いている。ぴったりと抱きつき、剥がれる気配がない。

 なぜか懐かしくなり、往人は拒否できなかった。腕組みしながら晴子が提案した。

「なら、あんたの十八番。あれやってや。それで治療費と宿泊費ってことにしたる。

 久しぶりに見たいわ。あのシュールな技」

「技じゃなくて、劇! 俺を甘く見るなよ。あれから成長したんだ、これでも。

 百ね…いや、三年前とは違う事を思い知らせてやる!

 笑い死んだって責任は取らないからな!」

 往人はジーンズの後ポケットにねじ込んであった、小さな相棒を取り出した。

 なんとか丸、セェーットアップ!みたいなノリでリング…もとい畳に放り投げる。

 ゴングは鳴らなかったが、人形使いのプライドを賭けた闘いが始まった。

 

 十分後。うんうん、と頷きながら晴子が言った。感心した様子で。

「こりゃおもろい。うむ、成長が見て取れるわ。これなら食っていけるな」

「くそー、冷静に真面目な顔で批評するな。…しかも誉めるな。哀しくなる」

「とってもおもしろかったー」

 人形劇というより二人のやりとりを見て、女の子が大笑いしていた。

 往人のプライドとやらが、ますます暗闇のどん底へ落ち込んでいく。

「そうだ、おにいちゃん」

 突然、女の子が叫んで自分のポケットを探り始めた。何かを掴んだ手が差し出される。

「これ、返す」

 それは小さな人形だった。見覚えがある…も何も、それは往人の相棒そのものだった。

「晴子先生が言ってた。これ、前におにいちゃんが忘れていったって」

 往人は自分の人形と女の子のそれを見比べる。まるで同じ物が二つ在るようだった。

 うん、と頷いて、往人は人形と共に差し出された女の子の手を優しく押し返した。

「いや、これはおまえが持っていろ」

「いいの?!」

 ぱぁっ、と明るくなる女の子の表情。よほど手放したくなかったらしい。

「俺のは…あー、新調したんだ。これはおまえのだ。おまえの所に居たがっている」

「このお人形さんが…?」

「ああ、わかるんだ。よほど大事にされてるらしいな」

「…ありがとう、おにいちゃんっ!」

 女の子が抱き着いてきた。傷に触られて往人は一瞬悲鳴を上げそうになる。何とか耐え、

 ちらりと晴子を見ると、コップを傾けながらウインク。感謝しているらしい。

「よし、もう少しサービスするか」

 往人の人形が動き出し、女の子の手によじ登って甲の上でダンスを始めた。

 続いて女の子の人形とワルツを踊らせようとしたが……

 おかしなことに、女の子の人形は往人がどんなに法術を込めても動かなかった。

 まるで既にその役目を終えて、眠りに着いているかのように。

 

 

 

「はい…すんません、いつもいつも。…いえそんな、迷惑なんて。

 うちは全然OKですわ。ほな、明日の昼にはお送りしますから…」

 晴子は女の子の母親に電話を入れていた。遊び疲れて眠ってしまったのだ。

 今は往人の膝枕で、すぅすぅと寝息を立てている。起こすまいと動けない往人だった。

 ふと人の気配に振り向くと、その風景を見つめる晴子の息子の姿があった。

 入口で立ち尽くし、じぃっと往人と女の子の顔を見比べて。少々不機嫌な表情。

「もしかして妬いてるのか?」

 ぷぃっと横を向き、部屋の外へと消えていく。素直なヤツだ、と往人は思った。

 自分とは大違いだ、とも。

「ふぅー、いつものことなんやけど緊張するわ。他人様の娘さん泊めるなんてなー」

「多いのか」

「しょっちゅうや。うちの子と遊び疲れて眠ってまう。うちはラブホかっちゅーねん」

 死語だぞ、と笑ってしまう往人に、晴子は首を捻りながら言った。

「ほんとに仲良すぎや、こいつら。…まあ、こーいうのは当人同士の気持ちが大切やし。

 もし間違いがあったら責任は取ったるわ。その前にうちの子、ぶん殴るけどなー」

 母の片拳が握り固められた。笑ってはいたが、本気っぽかった。

 そんな晴子と、その向こうの娘の写真を往人は見比べる。

 この母娘にも血の繋がりは無かった。苦労はあったが、二人は確かに家族だった。

 今更ながら、往人は晴子の顔に小皺が増えたことに気づく。口にしたら殴られるだろう、

 ……などと考えながら、保母としての晴子の日々の暮らしを思う。

 子供が好きなだけでは決してできない職業なのだろう。

 相変わらずの長い髪は黒髪に戻り、腰の辺りでゆったりと纏められている。

 化粧は薄く、記憶よりも健康そうな頬の色が見てとれた。

 美しい、と往人は素直に思った。女性を見る目ではなく、一人の人間を見る目で。

 あの日、晴子は母になった。そして今、もっとたくさんの子供達の母になっている。

 あいつが母の日になー、などとノロケながら微笑む晴子は確かに母親だった。

 けれど自分はどうだろう、と往人は自分を省みた。同じ日に空に旅立った自分は。

 疲れ果て、くじけた自らを慰めるために、あの日のままで帰ってきてしまった。  

 往人は、変わらない自分を情けなく思う。このまま休んでいてはいけない、とも。

 こいつに負けてはいられない、と。

 

 また励まされたな、と、とても小さな声で往人はつぶやいた。

 なんや、と尋ねる晴子に今度ははっきりとした声で、

「明日、立つよ」

「なんやの、いきなり。もう少しゆっくりしてけばいいやん?」

「宛ても無いし、期限も無いんだが。行かなきゃならない」

「傷、いいんか?」

「ああ。軽い方だ、こんなの」

「そういえば傷だらけやったな、身体。びっくりしたわ」

「見たのか?」

「聖センセの治療中にな。いったいどんな商売しとるんや、って驚いとった」

「昔と変わらぬ人形使いさ。まあ、いろんな所に迷い込んではいるが」

「探しもの、まだ見つからんの?」

「ああ。ただ…」

「ただ?」

「探す対象が変わったんだ」

「嫁はん、とか?」

 ひひひ、と笑いながら口を隠す晴子。

「合ってるかもしれないな。まだ相手がその気なら」

「ほお。なかなか成長したんやな。見つかったら報告するんやで」

「必ず、な」

「気ぃ向いたら、また寄ってや。それなりに歓迎したるで~。それにな……」

 振り向いて、愛娘の写真に向かい、

「あの娘も喜ぶからなー、あんたが来てくれたら」

 細めた瞳で娘を見つめる、母が一人。一人娘の部屋に静寂が訪れ、言葉が途切れた。

 しかし、往人は晴子のその瞳に哀しみを見つけることはできなかった。

 それは遠い昔の、快い思い出だけに焦点が合う、そんな優しい眼差しだった。

「ああ。きっとな」

 それだけ言って、往人は晴子のコップに酒を注いだ。無言で晴子は飲み干し、言った。

「今夜はここで眠っとき。あの娘も喜ぶやろ。その子はうちの部屋に寝かすわ」

「そうさせてもらうよ」

 膝の上の女の子を晴子に委ね、往人は近くにあった恐竜のぬいぐるみを手に取ってみる。

 主のない人形たちは、あの日と同じ位置で消えた主を待っているかのように見えた。

 

 

 次の日、早朝。神尾家の台所は戦場だった。

「おにいちゃん、行っちゃうの?」

 往人の旅立ちを知った女の子が、泣きじゃくったのだ。で、晴子が提案した。

「みんなで海行こ、海!」

 それでピクニックをすることになった。みんなで弁当を作った。往人も手伝った。

 家を出て、防波堤を越えると満潮が近かった。狭くなる海岸をあてもなく歩き、

 貝殻を広い、雑談をした。やがて白波が踝を浸す頃、防波堤に上がって弁当を広げた。

 潮の満ち方はとても速く、それを眺めながら舌鼓を打つ。

 日差しは呆れるほど強かったが、潮風が心地良い午前の海だった。

 

 

 半時後、四人は防波堤の上を歩いていた。波が寄せ、砕け、潮の香りの飛沫になる。

 先行しているのは、女の子。まるで初めて見るかのようにはしゃいでいる。

 往人は、晴子が肩から古ぼけたポラロイドカメラを下げているのに気づく。

「それ、どうするんだ?」

「決まってるやろ、記念写真や!…って、実はスタンドとか無いんやけど…」

 と、物欲しげに往人を見つめる母が一人。

「いいって。俺が撮ってやる」

 往人はため息をつきながら、なかば乱暴にカメラを引き取って撮影の準備。

「あ、『チーズ』は無しやで。マンネリ過ぎや」

「注文が多いな。じゃあ、何て言えばいいんだよ」

「情けないなー。今こそ芸人としてのセンスが試される時やないか」

 ムッ、として往人は考え込んだ。が、すぐにニヤリと笑って、

「いいだろう、覚悟しろよ。せぇの…」

 いきなりファインダーを覗き、シャッターに指をかけ、

「どろり濃厚!」

 晴子と女の子が吹き出した。有効打だった。もう一人には全く通用しなかったが。

 まあいいだろう、と往人は写したてのフィルムを引き出した。

「むぅー、そう来たか。あなどれんやっちゃなー。どれどれ~」

 往人が両手で擦っていたポラロイドフィルムを、晴子が笑いながら取り上げた。

 待ちきれずに、ぺりぺりと剥がす。湿った黒い外紙はまるで雨雲のように見えた。

 それを切り開くように、左上端から明るい色彩があふれてくる。

 ファインダーで切り取ったのとは違う、自然光で包まれた空間。

 雲が、青空が、海が現れ、そして……

 

 そこに家族があった。

 

 母と息子と、幼なじみの少女。

 ぶいっ、と笑いをこらえながらVサインを向ける母と少女。

 そして、むすっと横を向いている男の子。

 少女の小さな手は、しっかりと男の子の手を握って。

 男の子は嫌がりつつも、その握った手を決して離そうとはしない。

 そんな二人を抱き抱えるように包み込む、母の腕。

 往人は知った。 家族とは永遠のものなのだと。

 時や役目が異なっても、一度結ばれた絆は決して解けないものなのだ、と。

 そして思い出した。その絆を護るためにこそ、あいつを捜していたのだ、と。

「よしっ、今度は居候や」

「お、俺はいいよ」

 女の子と男の子が往人を引っ張った。むりやり撮影位置に連行されてしまう。

「何言うとるんや。みんなで撮らな、記念写真ちゃうやん。ほな行くでぇ~」

 と、晴子がシャッターを押した次の刹那。

 どっぱーん、と防波堤のすぐ下で巨大な白波が崩れた。

 反射的に身を翻す往人。が、一瞬遅く、潮のシャワーの直撃を浴びてしまう。

 濡れ鼠になったのは、海の側に立っていた往人と男の子だけだった。

 女の子、大笑い。晴子もつられて腹を抱えて笑い始めた。

 男性陣もお互いを見、その濡れた様に笑い出してしまう。

 夏の日の青空の下で四人は笑い続けた。 いつまでも、いつまでも。

 

 

 

 陽が傾く前に、と往人は去っていった。

 一瞬泣きそうになった女の子を好物で復活させ、晴子は防波堤の海側に座っていた。

 子供たちは雲の形を何かに見立て、子供だけの世界に遊んでいる。

 もう笑っとる、などと微笑みながら、先程のポラロイドフィルムをめくってみた。

 予想通りに画面半分が、浮かんだ波飛沫に覆われていた。絶妙のタイミングだ。

 逃げる女の子、直立したまま飛沫を被る男の子。ちなみに手は握ったまま。

 往人はというと画面の奥、波の向こう側に隠れて腰しか見えていない。

 映っているのは女の子と男の子と、往人の腰ポケットの人形のみ。

 まるで二人と一体の記念写真のように見えた。

「最後まで、キマらんやっちゃなー」

 微笑みながら、晴子は空を仰いだ。ん~っ、と背伸びをしてみる。

 夏真っ盛りの雲の世界、あの日と変わらぬ碧の色。そして子供たちの笑い声。

 何か言葉にしようと思ったが、やめた。声にしなくてもあの娘には届くだろうから。

 だから、目を閉じて想ってみた。 見えとるか、うちらも幸せやで、と。

 

 

 

 防波堤のそばの小さな雑貨屋の前。同じ空を往人も見上げていた。

「さて、と」

 さらに視線を上げる。ほぼ真上を見上げた。

 少し黒ずんだ入道雲が見下ろしていた。その隙間にあの日と同じ青空がある。

 空は変わらない。地上の人間がどんなに喜ぼうと、哀しもうと。

 じっと静かに、この星を包み込んでいるだけだ。今までも、そしてこれからも。

 …この空の何処かで、あいつが待っている。

 そう思いながら飛び立った同じ場所に往人は立っていた。

 あの時、晴子は言っていた。

『空は、ずっと届かん場所や…。うちら、翼のないヒトにとってはな』

 そんなことはない、と往人は思う。

 あの日確かに晴子は飛び立った。彼女の空に向けて、彼女の旅を始めたのだ。

 この空はきっと、今の彼女には輝いて見えるに違いない。

 瞳に映る空を哀しみに染めるのも、微笑みで輝かせるのも、自分自身なのだ。

 翼の少女は千年を哀しみで費やさねばならなかった。…しかし、あいつは。

 あいつはきっと、この空の何処かで微笑んでいるに違いない。

 最後に掴んだ幸せな想い出に抱かれ、強く優しい母の姿を見守りながら。

 にはは、と。

 その笑い声を思い出し、往人は微笑んだ。胸の奥が暖かくなり、力が湧いてくる。

 拳を握り締めると、甲に風の流れを感じた。あの日のように。

 まだ飛べるだろうか、と往人は思う。悩むよりも先に一歩踏み出してみた。

 そのまま駆け出す。 景色が流れ、風になる。 初めて飛んだ、あの時のように。

 

 往人の足が大地を蹴り、そして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   一羽の鴉が空を舞う。

   灰色に支配された空間、育ち始めた雨雲の真っ直中を。

   傷つき羽先の不揃いな翼は、つぎはぎだらけの造り物のようだった。

   しかし、自分の行く先をはっきりと見据え、その羽ばたきは自信に満ちていた。

   嘴には小さな人形、すなわち私がくわえられている。

   一つの黒雲を越え、もう一つの暗雲を飛び越すと、そこはもう嵐の上だった。

   風が味方する空間を、遥か下に遠ざかる雲の世界には見向きもせずに。

   鴉は高い高い碧の輝きを目指して飛んで行く。遠く遠く、さらに速度を上げて。

   誰か見ていたなら、その姿は青空の中に消え往くように見えただろう。

   まるで、この世界から次の世界へと旅立っていったかのように。

 

 

    時流さえ越えて、人形使いの旅は続く。

    この空の何処か、風の中で待ち続ける娘に、もう一度巡り会うために。

    共にこの星の大地へ……懐かしい母の待つ場所へと還る日のために。

 

 

                                      以上。

 

 


 
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