No.420398

狂いの都に鵺が舞う 第一章「消失未変」

FALSEさん

第9回博麗神社例大祭で出す新刊のサンプルです。最初の一章を一気読みいただけます。詳しい情報はブログの方でも公開しておりますので参照されたし。 http://false76.seesaa.net/

2012-05-09 00:00:27 投稿 / 全12ページ    総閲覧数:1807   閲覧ユーザー数:1805

 

 一

 

 もしも妖怪以外の何かに生まれていたとしても、自分は星空が好きだったろうと封獣《ほうじゅう》ぬえは確信する。

 濡羽色の黒髪、女豹のように細くしなやかな体を包む漆黒のワンピースは闇夜に溶けて、正体不明を司る彼女を余計に曖昧にさせる。加えて目に見える存在でありながら遥か遠方にあるためにその実態は不明という、星のありようがぬえは好きであった。人間達はあれらの周りに様々なものが住んでいると考え、高度な文明を持つ何かが地球を訪れる可能性を想像する。それら宇宙的存在に対する畏怖の念が、彼女の糧となるのだ。

 ――空は、幻想郷の外と繋がっていると聞いた。

 所は人里郊外にできた幻想郷唯一の仏閣、命蓮寺《みょうれんじ》。様々な物の怪が住職を慕って集う妖怪寺だ。

 ぬえは一日の勤行が終わると本堂の屋根に登り、星空を独り占めにする。

 ――だとしたら、外の世界で見る星空も、きっとこちらの星と似たり寄ったりのものだろう。ならば。

「昔を思い出すかしら?」

 予兆も気配もなく、横合いから聞こえてくる声。ああ、お決まりの登場だ。うんざりする。

「いい趣味だね、境界の。人の心の隙間まで覗き見しようなんてさ」

「不可抗力ですわ」

 屋根瓦から少し浮いた場所に、ジッパーのように開いた隙間から紫色のドレスを着た女が顔を出して、男を蠱惑するような笑みでぬえを見つめている。

 彼女、境界の妖怪八雲紫《やくもゆかり》が自分から姿を表す時は、大抵よからぬことを企んでいる場合だ。少なくともぬえは、そのように認識していた。ここは、適当に話を合わせて上手にあしらうべきか。

 それとも、ぬえに対する仕打ちはすでに決まっていると考えるべきか。

「その不可抗力を生み出した用件があるんでしょ? 私の心中を探る暇があったら、言ったらいかが」

「いえ、大した用じゃありませんわ。化け狸さんをお呼びした際の、対価を頂戴しようと思いまして」

 対価とは。ぬえは眉を潜める。確かに彼女は以前、命蓮寺に因んだとある抗争に際して幻想郷の外から化け狸の二ッ岩《ふたついわ》マミゾウを召喚した。その召喚にはぬえ一人の力では足りず、幻想郷の結界を管理する紫の協力が不可欠であった。

 何が大した用じゃないというのか。ぬえは周囲の様子に注意を配りながら、ゆっくり屋根の上に立ち上がった。この不可解な力を操る妖怪は、どこから何を仕掛けてくるか皆目予測ができない。

「それは常々支払ってるね。毎度私らの大騒ぎは、あんたにとっていい暇つぶしになってると思うけど」

「あら、気づいていらしたの」

 紫が悪びれもせずにころころと笑う。気づかない筈がない。幻想郷の全てをどこかから観察しているというこの妖怪が、ぬえと気の置けない仲間達が起こす戦争級の騒乱に興味を示さない訳もない。

「だけどねえ。楽しい番組も常時供給が約束されていればこそ。それを対価と主張するなら、あなたは私を常に楽しませ続けなければならない。そうして初めて需要と供給が満たせるの。そう思いません?」

 成る程、彼女の言葉を理解した。要は問答無用ということだ。鋭い鋏のような真紅の右翼、曲がった矢印のような真青の左翼をゆっくりと広げる。紫の言う「番組」の意味は分からないが、ぬえにとってろくでもない意味で使われているのは直感で分かる。かくなる上は、紫と一戦交えてでも逃げ切るのみ。

 一方の紫はと言えば、依然として不気味な隙間に下半身を沈めたまま、悠然と扇で口元を覆っている。

「まあまあ、そう警戒したものでもありませんわ。これはあなたにとって有益なお話です。少し前から調べていたのでしょう? 一千年前の借り、今こそ晴らしてみたいと思いません?」

 一千年前の借り。

 紫の言葉が、ぬえの脳裏で電撃的に跳ね回った。左右非対称の翼をはためかせ飛び上がる必要性すら、彼女は一瞬忘却する。

 間違いない。この妖怪は知っている。

 彼女が言っているのは、ぬえが地底に封印される原因となったとある事件。歴史的には一人の武将によって為された、数多き妖怪退治の武勇伝の一つ。

 だが、違うのだ。歴史に記され得ない彼女だけが知っている事実が、彼女を除く全ての者が忘却してしまった事実が、事件の裏には確かに存在する。

 そのことすら、目の前にいる妖怪の賢者は知っているというのか。否、この妖怪ならばこそか。

 ぬえは刹那の時間、心の中に葛藤を生じさせた。そしてほんの僅かなその時間を、紫は見逃さない。

 紫の姿が二尺ほど上に移動した。数秒だけ、そのように錯覚した。彼女のみならず、命蓮寺の屋根、周囲の景色までもが競り上がっていた。正確には、ぬえの体が沈んだのだ。屋根から足を滑らせた?

 答は否である。ぬえの膝から下は紫が顔を出しているものと同じ隙間に嵌まって、おぞましい感触を持つペースト状の何かに覆われている。ペーストには確かに触感があるのだが、表面には無数の得体の知れない瞳がこちら側を眺める、果てしない深淵が映し出されている。常人なら失神も免れ得まい。

 迂闊だった。隙間から抜けようともがいてみるが、ペーストは強い粘り気を持つ粘土よろしく脛に絡みつき、力を入れても抜けられない。

「ちょっと待て、何が望みだ!?」

 次第に上へ移動する紫の笑顔を睨んで叫ぶ。

「だからご自分で言ったじゃないですか。あなたはかの地で騒動を起こし、私はそれを眺めて楽しむ。その視聴料で私への対価を代引きとしましょう」

「聞きたいことはそういうことじゃ、って今から!?」

 両腕が、羽が、誰かの手に掴み取られる。もはや首まで埋まったぬえを、紫が笑顔で見下ろした。

「時は金なり、と申しますでしょう? それにもう、番組は始まっているのですから」

「冗談じゃない。せめて、白蓮に一言くらい」

 全ての言葉を待たず、ペースト中にぬえの全身が沈み切る。同時に隙間がぴったりと閉じて、彼女の姿がなくなっただけの元の瓦屋根に戻ってしまった。一人残った紫が、お上品に笑う。

「さて始めましょうか。幻想の戦いを、かの地にて」

 紫の姿も隙間へと沈む。隙間が閉じると、同様に完全な虚空のみがその場に残されて、始めから誰もその場に居なかったかのような静寂が訪れた。

 

 §

 

 命蓮寺から、ぬえの姿が消えた。

 彼女と紫との、屋根の上におけるやり取りを目撃した者は誰もいなかったので、誰もが最初はぬえが何らかの気紛れを起こして命蓮寺から出ていった、そのうちふらりと戻ってくるだろう、と、そんな風に考えていた。

 だが、それが一ヶ月にも及んだともなれば、話は別次元の問題になってくる。

「まったく。旅に出るんなら、私達に一声あってもよかったんじゃないかしらね。二枚チェンジ」

 それに関わらず、フランドール・スカーレットの言葉は悠長そのものであった。北欧系の白く繊細な指から二枚のカードが素っ気なく投げ出され、卓を滑って捨て札の山の中へと収まる。

「まあ、あの子の独断専行は今に始まったことじゃないから仕方ないんじゃない? 四枚」

 受け答える古明地《こめいじ》こいしの言葉も呑気なものだ。彼女はゆったりとした所作から決断的に、捨て札の上へと四枚のカードを叩きつける。フランドールの口元が、若干引きつった。

「またまた、大胆だわ。でも、この前のマミゾウの件であいつやらかしたばっかりよ? 戻ってきたら、そろそろ灸を据えてやる必要があるんじゃない?」

 くすくす笑いながら、チップ代わりのクリスタルコインを二枚、場に差し出した。賭け金提示《ベット》である。

「帰ってきたらの話だけれどね。上乗せ《レイズ》」

 フランドールの口元はおろか頬まで引きつった。場に積まれたクリスタルコインの枚数は全部で五枚。こいしの手元に残るチップは数枚だ。

 それでも平静を装って、牙を剥き出し笑う。そう、これは彼女のハッタリに決まっているのだ。

「ちょっとこいし、ここでレイズする意味分かっているのかしら? 後がないのよ。負けたら破産よ。コンティニューできないのよ」

 言いながら二枚のカードをチェンジ。並べ替えたところで、フランドールは鼻孔が大きくなりそうになるのを辛うじてカードで隠した。

 キングと七のフルハウス。しかもキングのスリーカードである。これで無鉄砲なチェンジを繰り返すこいしの勝ちはないだろう。

「もちろん勝つ見込みがあるから大きく賭けるのよ。一枚チェンジね」

 涼風を受け流すように言い切って、こいしは宣言通りにたった一枚のカードだけを取り替える。

「はい、いいわ。勝負《コール》? レイズ?」

 フランドールは平然としているこいしの笑顔を、無言で凝視する。ウェービーなシルバーブロンドが作る無邪気な表情は相変わらずだ。

 ――表情が読めない。なんなのよ無意識!

 急にチェンジを絞ったのは、いい役が来た証か。それとも根拠のまるでないフェイクの自信なのか。それが全く読めないのだ。まさにポーカーフェイス。これが姉とのポーカー勝負だったら、巧妙に隠したつもりになっている表情を読んで破産に追い込み、十六夜咲夜《いざよいさくや》特製の希少品入りプディングを独り占めしてやっているというのに!

 だが、彼女は実のところ自分自身の心理戦能力を過信していた。長年に亘る地下室の幽閉経験の上に、何でも破壊する物騒な能力に起因した対人折衝経験の不足は多少外に出たくらいでそうそう補填できるものではない。しかも相手は古明地こいしだ。覚り妖怪の力を自ら封じて、あらゆる行動を無我の境地状態で為せるようになった無意識の怪物なのだ。

 冷や汗が流れ落ちるのも、もう隠していられない。

「ブルっちまって、声が出ねえ」

 瞬間、フランドールの手が動いた。こいしと同じ枚数のクリスタルコインが場に並ぶ。さらにそこへ、こいしが残すチップと同数のコインが積み上がる!

「なんて言うと思ったかしら? レイズよレイズ! こいしの懐をどっかーんしてあげるんだから」

「うん、分かったわ。じゃあ、コール」

 言って、こいしは全部のコインを場に差し出した。あまりにも、あっさりと。

 もう後戻りはきかない。負ければ一撃でチップの数が逆転する。だがフランドールは自らのハンドを信じて賭けに出た。フォーカード以上出さなければ、こいしの勝ちはない。あの無茶なチェンジでそれができる訳がないのだ。

「覚悟はいいね? 破産したら『そして誰もいなくなるのか』三分耐久よ」

「当然。私が勝ったら『嫌われ者のフィロソフィ』三分耐久だったわよね」

 減らず口を。その自信がどこまで本物か確かめ、そして絶望するがいい! 圧倒的な自信を胸にして、フランドールはカードをテーブルに叩きつけた。

「フルハウスよ!」

「あら、一緒」

 硬直するフランドールの前に、こいしのハンドが広がった。二のペア、そしてエースのスリーカード。

「確かフルハウス同士は、スリーカードの強い方が勝ちだったわよね」

「なんでー!?」

 眼前で勝利を奪われた無念、絶望に打ちひしがれ、椅子から転げ落ちてカーペットの上を転がる。勝負強さとかチートとか、そんなものでは断じてない。

「なんであんなチェンジでフルハウスになるのよ!?」

「四枚変えたらたまたまツーペアができただけよ? もう一枚変えてみたら、エースが揃っちゃった。偶然って凄いね」

「そんな偶然があってたまるか!」

 破壊されたのは、フランドール本人の自信だった。無意識恐るべし。脳裏に刻みつけ床に突っ伏する。

「本当に、ポーカーやったことないの? 半端ない勝負師っぷりなんだけど」

「ないよ? お姉ちゃんは勝負事なんてからっきしだし、ペットはほとんどがルールも理解できないし」

 フランドールが顔を上げ、真紅の眼差しを胡乱に細める。確かに彼女の姉は表情から心理を読む経験など皆無だろうが、それにしてもこいしは強過ぎる。

「で、まだ続けるの? 今止めたらフランの負けになっちゃうけれども」

 これまで破産寸前で大きなハンドを作り持ち直すこと三度。今度こそ倒せるんじゃないか? などと思わせる一見無謀な賭けはその実蜜の罠にも近い。だが今勝負を降りれば、不気味な耐久弾幕スペルの罰ゲームが待つ。さてどうしてくれようか。

 部屋の外が急に騒がしくなったのは、そんな時だ。

 何種類かの動物の鳴き声、足音、あるいは羽音がドアの外を通り過ぎていく。地霊殿に住むペット達だろうが、雰囲気が殺気立っているように思える。

「また鬼どもが押しかけてきたとかかしら?」

「そう何度も騒ぎを起こしてないと思うけどなあ」

 勝負をうやむやにしつつ、部屋のドアを開ける。同時に、猫が数匹少し慌てた様子でフランドールの目の前を横切っていった。彼らが目指しているのは、恐らく地霊殿《ちれいでん》のエントランスホールだ。

「でも、なんか面白そうなのが来てる雰囲気だわ」

「行ってみる? どうせ暇だったんだし」

 ポーカーの決着はなし崩しで順延となり、二人はペット達の後を追った。案の定エントランスホールにはかなりの数の鳥獣が群れを為し、全開となった扉から警戒の咆哮を上げ続けている。

「あら。来たわね、こいし」

 ペット達の中心に立つのは、地霊殿の主、古明地さとりである。こいしとフランドールは彼女の両脇に肩を並べ、門前に浮かぶ物体を見上げた。

「何、あれ」

 さとりは薄く開く両の目と、心臓の辺りに浮かぶ薄気味の悪い第三の眼とをさらに細めて、飛来してきた大きな家ほどの木造構造物を見る。

「どうやら、割と大事に至っているみたいね」

 小雪舞う洞穴に現れた物体の正体は、宙に浮いた大きな帆掛け船だった。残る二人もその幻想的帆船、そして着陸を待たず紅潮した顔で地上に飛び降りてきた水兵服の少女には見覚えがあった。

 船の名は、聖輦船《せいれんせん》。

 命蓮寺の住職、聖白蓮の乗船がわざわざ地霊殿にやって来たことは、恐らくかの寺を揺るがす有事が発生した証と見て間違いはなさそうだった。

 

 

 二

 

「ええと、つまり」

 さとりは手持ち無沙汰に両の手でティーカップを弄びながら、首を微かに傾げて今しがた読み取った心の声を整理する。

「ぬえさんがここ一ヶ月、お寺に帰って来ていない。業を煮やして失せもの探しのプロフェッショナルに、ぬえさんの捜索を依頼したけれども一切の気配なし。幻想郷から消えた、と結論づけざるを得なかった。一縷の望みに賭けて地底にやって来たと。そういうことでよろしいですか?」

 さとりの対面に座る水兵服の少女、村沙水蜜《むらさみなみつ》が、時折しゃくり上げながらさとりの説明じみた心中の要約に何度か頷いた。命蓮寺には、価値あるものを探す便利な能力を持つ妖怪との伝手がある。

「申し訳ありません。もう少し落ち着いてから訪問できればよかったのですが」

 水蜜の隣に座る白蓮が彼女の背中をさすりながら、さとりに弁明した。聖輦船は彼女の許可がなければフライトしない筈だ。それが地霊殿に飛んで来たということは、水蜜の当初における取り乱しようは、どれほどのものであったのだろうか。

「何だかんだ言って愛されてるよね、あの子」

「まあ、駄目な子ほど可愛いっていうし」

 同席を許されたこいし達は、テーブル脇で菓子に手を出しつつ小声で応接の様子を話し合っていた。

「心中お察しできます。ですが地霊殿にまで彼女が顔を出していたら、見逃さない筈がありませんね。失礼ですがぬえさんが何らかの事故に巻き込まれて、その……ということはありませんか」

「寺の者が言うには、そういう場合でも探すことは不可能ではない、と」

 当のさとりと白蓮の対話は、不穏な方向を示そうとしている。二人はぬえがトラブルに巻き込まれて(あるいは自分から飛び込んで!)すでにこの世のものではない可能性を疑っているのだ。

「ああ、御免なさいね。分かっていますよ。あの子が簡単にどうにかなる妖怪ではないことくらい」

 さとりは俯いた水蜜に声をかけた。フランドールもこいしも、その点は同感だ。三人の中では一番のやんちゃ者だが、その実最年長。引き際は誰よりも心得ており、むざむざ討ち死にする妖怪ではない。

「そ、それじゃあ、やっぱり、あの馬鹿」

 水蜜が途切れ途切れの声を口から搾り出しながら、キュロットの裾を強く握りしめた。

「幻想郷の外に出たんだわ。毎度毎度凝りもせずに。今度こそ、今度こそあいつ殺されちゃうわ」

 絶望的に両手で顔を覆う。そんな水蜜を他所に、フランドールとこいしが互いの顔を見た。

「幻想郷の、外!?」

「何それ、羨ましい」

 間髪入れないさとりの脳天唐竹割りが、こいしの頭頂に突き刺さる。

「ややこしくなるからあなたは黙ってなさい。まあ、自明ですわね。幻想郷の内側で見つからないのなら、外にいると考えるのが道理ですもの」

「その通りですけど、理由はまだあるんですよ」

 さとりはソファーに座り直すと、三つの眼を同時に白蓮へ向けた。彼女の心を素早く読む。

「成る程。姿を消す数日前から、様子がどことなくおかしかったのですね。その切っ掛けになったのが、マミゾウさんかもしれない、と」

 フランドールがテーブルに伏せったこいしの頭を摩りながら、白蓮に尋ねる。

「何それ。要するにマミゾウが、ぬえを唆したってことになるのかしら? 狸ね」

「責めないであげて下さい。本人は軽率と反省していますし、悪気もなかったのですよ。ただ、ぬえに京都の話をして以来様子がおかしかったので、自分が原因と見て間違いないと仰っているのです」

 さとりは少し首を傾け、人差し指を頬骨に当てた。その場のほぼ全員が、初めて聞く単語である。京都。

「すみません、混乱させてしまいました。当代では平安の都があった場所を、京都と呼ぶそうですよ。私達が外にいた頃の建造物が今も大事に残された、伝統を大事に守る街だとか」

 遥か昔に忘れ去った記憶を絞り出すべく、さとりは人差し指でこめかみを撫で回した。

「そう言われてもピンと来ませんね。飛騨の山奥で人間を襲っていた頃も、都なんて近づいたことすらありませんもの」

「信貴山中で妖怪達と暮らしていた私も似たようなものですね。でも、ぬえは違います」

 その場にいた各々が、ぬえと京都との関係を思い起こす。とは言え、それは平家物語で語られる鵺の逸話から脱し得ないものでしかなかったのだが。

 ぬえは都を単独で襲った。

 時の帝《みかど》はぬえの鳴き声に恐れおののいた。

 帝の身を案じた家臣達はある弓の名手を呼んだ。

 名は源頼政《みなもとのよりまさ》。妖怪退治の名門、源氏の武将である。

 頼政は家臣の猪早太《いのはやた》を伴い、現れたぬえを射た。たった一発の矢で、見事射ち落としたのだ。

 墜落したぬえに猪早太が素早く近づき、頼政から賜った刀でぬえを九つに切り刻み止めを刺した。

 その死骸(ぬえは正体不明のタネを自分に植えて姿を偽ったために、死んではいなかった)は呪いを恐れた頼政達によって川に流された。

「ねえねえ、前々から一つ聞いてみたかったことがあるんだけど、いいかな?」

 不意にこいしがひょっこりと、顔を上げる。

「ぬえってさ、弓一発で仕留められたんでしょ? なのにあの子の『頼政の弓』は、矢弾が雨あられと降り注ぐの。なんでかしらね?」

「本人に聞かないと分からないんじゃないかしら? おまけに今は凄くどうでもいいことだわ」

 正式名称、恨弓「源三位頼政の弓」はぬえが弾幕決闘の際に用いるスペルカードの一つである。だが、フランドールの言う通り本題からは脱線する話だ。

 だからこいしの話は無視された。気紛れな彼女が不意に放った話題であるがゆえに。

「あいつが京都に行ったとしたら、また昔みたいな騒ぎを起こすつもりなんじゃないかと思うんです」

 水蜜が真っ赤に腫れた目で、客間の面々を見回す。

「青色の巫女から聞いたことがあるんです。現代は弓矢よりもずっと強い武器が発明されているって。昔のノリで都の上を飛んだら、今度は撃ち落されるどころじゃきっと済まないわ」

「落ち着きなさい、ね、水蜜。あの子は頭がいいわ。そこまで無謀なことはあんまりしない筈よ」

「いや、そこは完全否定するとこでしょ」

 フランドールが空気に裏拳を入れた。

「ぬえが退治されたのは千年前でしょう? 今さらその京都で暴れて、あいつは何が嬉しいの? その頃の人間なんて、一人も生きちゃいないでしょうに」

「元人間は除きますからね」

 さとりの声に、自分を指差しかけた白蓮が固まる。

「それこそ、ぬえに聞いてみないと分からないわね。でも、ぬえはこの場にいない」

 フランドールが不敵な笑みを作る。そしてさとりがあからさまに渋い顔をする。覚り妖怪は、今後の展望を吸血鬼の心の中から読み取ってしまったのだ。

「要するに、誰かが京都に行ってぬえを連れ戻してこないといけないってことね!」

「どうやって京都に行くつもりですか?」

 さとりが冷徹に返す。いや正確には冷徹を装って。

「幻想郷の結界を越えるのは、並大抵にできることではありません。行く以前の問題だわ」

「でもお姉ちゃん。ぬえは結界の外に出てるのよ?」

 その一言で、さとりは口ごもらざるを得なかった。沈黙する周囲なんてお構いなしに、フランドールとこいしが姦しく算段を始める。何の? ぬえの首に縄をかける方法に決まっている。彼女達の手で!

「様子がおかしかったって言ってたけれど、ぬえは行方不明になるまでの間何をしていたのかしらね? ひょっとして外に出る方法を調べていたのかも」

「とりあえず、マミゾウさんに話を聞いてみるのがいいんじゃないかな。あの白蓮さん?」

「は、はい?」

 少々たじろぎながらも、白蓮が問いかけに応える。

「これから、命蓮寺に戻るわよね? 一緒に連れて行ってくれると、助かるのだけれど」

「え、もしかして今すぐ?」

 白蓮は無言で水蜜の顔を見、彼女が頷くのを確認してからこいしに向き直った。

「いいでしょう。とりあえずご案内します。お望み通りの結果になるかどうかは、分かりませんが」

 白蓮達は軽くさとりに会釈してから、こいし達を手招きする。口を挟む暇もない。トントン拍子だ。

 さとりはその間、成り行きを無言で見守っていたのだがこいしが客間を出る寸前に重い口を開いた。

「こいし」

 愛する妹が振り返る。

「……体に気をつけてね?」

「もちろん」

 こいしが笑顔で客間の外に飛び出していく。結果、一人取り残されたさとりはテーブルに立て肘を突き、重苦しい溜め息を肺腑からいっぱいに吐き出した。

「次は私が心配で泣く番かしら」

 

 §

 

 境内に着陸した聖輦船から二人の人影が勢いよく飛び降りてくるのを目にして、マミゾウは手に持つ木造シャベルを傍の雪山に突き立てた。

「ふむ、来よったかえ」

「来たわ。ぬえがいなくなった件でマミゾウさんを尋問したいのだけれど、お時間いいかしら」

 こいしの言葉に彼女は銀縁眼鏡を光らせて笑うと、後ろ手に宿坊を指し示す。

「おう、お手柔らかに頼むぞい。立ち話もなんじゃ、温い所で茶菓子でも摘みながら尋問されるとしようじゃないか。それともカツ丼の方がええかのう」

「お寺なのに豚肉とか大丈夫なのかしら?」

 マミゾウは二人を宿坊に誘うと、近くにいた寺子に茶の準備を頼んだ。そのまま共用の広間へと入る。

 広間は命蓮寺に住む寺子、すなわち妖怪に厳しい世を儚み仏門に入った妖怪達の憩いの場であった。現在も寒さを嫌う物の怪達が火鉢や酒など、銘々の好む方法で暖をとっている。

 マミゾウもまた空いた火鉢を一つ抱えて、広間の中央にこいし達を招く。新たな炭を火箸で灰の上に落としながら、マミゾウは対する二人を見回した。

「さて、何から話してしんぜようかの。奴の様子がおかしくなった、根本の話から始めればよろしいか」

「後はあいつがいなくなるまでの間にどんなことをしていたのかとか、教えて貰えると助かるわ」

 フランドールの言葉に首肯し、腕を組んだ。

「知っての通り、儂は『聖人』と命蓮寺との抗争の切り札としてぬえに呼ばれた。儂の住んでた佐渡というのは京都からずっと北にある寂れた小島でな。昔は金山があってずいぶんと栄えたもんじゃったが」

「長くなるかしら? その話」

 手を伸ばして、フランドールの茶々入れを諌める。

「あいや、もう少し辛抱してほしい。ぬえのことと関係のある話ゆえな。儂は都会での暮しなぞとても慣れんし、ずっと住んでた土地に愛着もあるしで、佐渡の中で暮らしておったのじゃが。ぬえと来たら、妙に当代の平安はどんな姿をしてるか、としつこく聞いてきての。それに業を煮やし話してやることにしたんじゃ。うむ、ちと待っておれ」

 湯飲みと一口饅頭の皿を抱えた寺子と入れ違いに、マミゾウが広間の外へと消える。しばらくすると、彼女は脇に一冊の古ぼけた本を抱えて戻ってきた。

「それで、ぬえに見せてやったのがこれじゃ」

 本の表紙を見ると、こいしは丸い目を瞬きさせ、フランドールはあからさまに顔を顰めた。こいしにとってはもちろんのこと、紅魔館《こうまかん》では図書館の術師パチュリー・ノーリッジに次ぐ読書の虫を自認するフランドールにとってすらも異質な本である。

 具体的に言えば、本の表紙は目眩を起こしそうになるほど騒がしいものだった。

 見慣れない和風建築の建物。奇妙な頭の形をした人間らしきものの像。機能性を重視した悪く言えば地味な洋装で歩く、笑顔の男女。それらの写真と、けばけばしい明朝体で書かれた「今訪れておきたい古都・京都」だの「プロが選り抜く季節別オススメスポットベストテン」だのという見出しが(少なくとも彼女らにとっては)乱雑に配置されたそれは、前衛芸術の類いとしか思えなかった。

「えらいものを見せられた、って目をしておるのう。まあ、ぬえの奴も似たような反応じゃったがゆえ、あまり気にせん方がええ」

 マミゾウはいそいそと表紙をめくった。

「これは外の世界の、がいどぶっく、という本じゃ。人間が旅をする時に、その土地の代表的な観光地を知るために使う。まあ、風土記みたいなもんじゃな」

 フランドールはなおも胡乱な目でページをめくる。

「天狗の新聞をもっと分厚くしたようなものかしら。人間って変わってるわ。これから自分が行く場所のことを、見ず知らずの誰かに任せて楽しいのかな」

「寿命が短い、人間ならではの知恵じゃの。儂らにとっても、手っ取り早く教えるには都合がよかろう」

 本を覗き込んでいたこいしが、顔を上げる。

「でも、マミゾウさんはどうしてガイドブック? を持ってたのかしら。佐渡に住んでたんでしょう?」

「住んでいたが、一度も離れんかった訳でもない。西日本に住んでおる狸仲間が多くての、時々挨拶に行くんじゃよ。一度京都で同窓会をやろうっちゅう話になったことがあってな、その時に道に迷うてはいかんと思い、手に入れたのがこの本という訳じゃ。適当に手に取ったので、ほとんど使っておらんがの」

「狸の同窓会って、みんなで化け比べでもするの?」

 フランドールが退屈そうに、ガイドから目を離す。

「なんだ、マミゾウも京都に行ったことあるんじゃない。その時のこと、教えてよ。人間の本よりかは、ずっと当てになるわ」

「行ったには行ったが、人間に混じり観光客として行っただけだからの。当代の人間は妖怪の存在など忘れてしまっておるゆえ、京都が特に妖怪に対して結界を張ってるなんてことは」

 と、そこまで話したところで、唐突にマミゾウが言葉を切り視線を泳がせた。

「そう言えば、ぬえも繰り返し聞いて来よったな。京都に入る時、妨害されることはなかったのか、と」

「なんて答えたの? されたの、妨害」

 こいしの質問に、ひらひらと手を振る。

「まさか。外の世界では今時妖怪に対して警戒している者なぞおりゃせんよ。ぬえの奴にもそのように答えたんじゃがのう。まさかそれで、貴奴が京都を気にかけ出したとは思えんのじゃが」

 

 三

 

 人里の中心地。

 幻想郷で唯一の集落にある繁華街は、ここでしか見られない活気ある人間達の姿がある。往来を行き交う人々の会話、振る舞い、喧騒は幾ら観察しても飽きることはないものだ。

 ただそれが、一週間連続で続いているともなれば、例外も発生する。懲役四百九十五年の元服役囚でも。

「さすがに、暇ね。二間目の田吾作さんのうっかり自慢も五度目になるとねえ」

 そんな愚痴を並べつつ、フランドールが小窓から覗く景色を眺めている。そこから見えるのは人里の中央通りと、行き交う人間達だ。場所は道に面した飲み屋の二階。協力者の口利きと主の厚意のお陰で、彼女はここ一週間張り込みを続けていられた。

「まあ、いいじゃないですか。実際あそこまで里の皆さんに笑いを提供できるのは、一種の才能ですよ」

 紙を擦る音が響く。横目に眺めるフランドールの視界向こうに座っているのは、淡い紫の髪に大きな花飾りを着けた少女だった。音はフランドール達がマミゾウから借りている京都観光ガイドのページを、彼女がめくる時のものである。彼女の読書ペースは、半ば速読じみていた。

「あんたがいなくても、私達は問題ないんだけど」

「百聞は一見に如かずの諺通りでして、取材対象を間近に観察できるのはいかなる伝聞にも勝る貴重な体験なのですよ。特にフランドールさんはこれまで、生情報が少なかったですし」

 稗田阿求《ひえだのあきゅう》は、しれっと言い放って微笑んだ。件の協力者とは彼女のことに他ならない。

「それで幻想郷縁起の解説がお姉様よりデラックスになってくれるんなら、幾らでもいいけどねえ」

「すみません、先日入稿したばっかりでして。でも当代は第三版があるかもしれませんよ」

 完全写像記憶と言える求聞持《ぐもんじ》の能力を持ち、代々転生と幻想郷縁起の執筆を続けている稗田の者は、幻想郷の記憶そのものであり人妖を問わない崇敬の対象でもある。そんな彼女をフランドール達が頼る羽目になったのは、ぬえの一件と大いに関連する。

「来たわよ、フラン」

 始めからそこにいたかのような空気を纏いながら、こいしの姿がフランドールの横に現れる。おお、と阿求の声が小さく聞こえた。

「信用していいんでしょうね」

「大丈夫大丈夫、ほら、あれ」

 こいしが指差した小窓の隙間の先には、彼女達が目的とする人物がいた。清涼感のある白いドレスに梵字のような文様が描かれた青い前掛けを身につけた女性が一人、こちら側へ歩いてくるのが見える。

 ただ金髪を覆うナイトキャップ風の帽子は、その下を暗示させるように頭頂が二股に分かれていた。何より背中を埋め尽くすように生えた九本にも及ぶ狐の尻尾が、彼女の異質さを物語っている。妖怪が白昼堂々人里に現れるのは、珍しいことではない。

 フランドールは頷くと、阿求に手を差し出した。

「ガセネタ掴ませてたら、第二版をあんたの遺作にしてやるところだったわ」

 阿求は本を閉じ、フランドールの手に掴ませる。

「そんなことしませんよ。むしろ色々貴重な体験をさせていただき、感謝しているくらいなんですから」

「せいぜい長生きすることね。三版が出せるまで」

 従者のようにこいしはフランドールの脇に控えて、屋内にも構わず日傘を差した。そのまま自分自身の能力を開放し、周囲の人間の無意識と化す。

 跡形もなく姿を消した二人の残像に対し、阿求はにこやかに手を振った。

 

 §

 

 豆腐屋の主人は満面の笑みで目の前の狐の妖怪、八雲藍《やくもらん》に買い物袋を差し出した。

「はい、毎度有り難うございます。いつも通りに、油揚げを少々おまけさせていただきましたんで」

「私も毎度言ってるけれどもね、店主。別に油揚げばかり食べて生きてる訳じゃないんだよ?」

 言葉を返す藍の表情も、やはり笑顔だ。にやけているようにすら見えるのは、目の錯覚ではあるまい。

「まあまあ、お嫌いではありますまい。今後とも、ご贔屓にお願い致しますよ」

「ははは、頼まれなくともまた来るよ。広い幻想郷でも、豆腐はここでしか買えないんだからね」

 頭を下げる主人に別れを告げ、街道を歩く。この界隈では妖狐の姿を見て恐れおののく者など皆無だ。

 それどころか、彼女の姿を見て頭を下げる者までいる。八雲紫の補佐役、あるいは執行者として働く彼女は人里を守護する者の一人であり、その仕事の尊さは誰もが理解している。住民達の感謝に対して無言で密かな喜びを噛み締めつつ、藍は雪の道脇に除けられた道を、里の門へと歩みを進めていった。

 里を出て数分。街道は程なく雪が積もる獣道へと変わって、不用意な者ならば狩られても文句の言えない妖怪の狩猟場へと踏み込んでいく。いつもなら有象無象のちょっかいを嫌いここからは飛んでいくのだが、今回に限っては事情が異なっていた。

「人里で騒ぎを起こさなかったのは、ご家庭の教育が行き届いた成果と評価しよう」

 藍は雑木林の中心で立ち止まる。その顔にはもう、油揚げを手にした時の腑抜けた笑みはない。

「ここでなら、人間達に被害が及ぶ心配もあるまい。雁首揃えて姿を現すがいいさ」

「あらやだ。凄いのね、無意識に気がつくなんて」

 藍の背後に少女が二人姿を現す。フランドールはこいしから日傘を受け取ると、正面に回り込んだ。

「気がついたのは私じゃない。無意識を操っても、我が十二神将の注意を全て逸らすのは難しかろう」

 藍の言葉に呼応するように、雑木林の間にできた下草の茂みがカサリと音を立てる。成る程、式神。干支に因む十二の使い魔を周囲に潜ませているのか。

「それで、紅魔の吸血鬼と地底の覚り崩れが何用か。二人がかりで武勲を立てに来た訳でもあるまい」

「単刀直入に言うわね。ぬえが今、行方不明なの。私達、あなたのご主人がぬえを京都に連れて行ったと思っているのだけれど」

 覚えがないと言いたげに、藍は歪な顔をした。

「封獣ぬえのことかい。それをどうして、お前達が探すんだ。しかも、京都だって?」

 フランドールは藍越しに、こいしへと声をかける。

「ねえ、こいし。こいつとぼけてると思う?」

「私じゃ分からないわ。ふんじばってお姉ちゃんに見せれば、一発だと思うけど」

「おいおい、勘弁してくれ」

 跳躍。物静かな所作とは反比例した身のこなしでバネのように宙を舞い、松の木枝に紙片かと思えるほどの身軽さで着地する。藍は二人を視界に収めた。

「あの御仁に洗いざらい心を覗かれるのは御免だ。どうして私の後をつけたのか、理由をきちんと説明して貰えないか」

「私達ね、京都に行きたいの。ぬえ一人だけ、外の世界にお出かけなんてずるいじゃない」

「そうそう。それで私達巫女に直談判したんだけど、あっさり断られたわ」

 藍は眉間を押さえた。

「博麗《はくれい》の巫女に頼んだのか。そりゃ無理に決まっているだろう? あれが許可する筈がない」

「だけど、ぬえは外に出てるのよね。不公平だって抗議したんだけど、あいつったら自分は覚えがない、自分以外に境界を越えさせるような真似ができるのは紫以外にいないだろうって言うのよ」

 藍は油断なく、二人に注意を配っている。彼女の式神達も、こいし達の動向を見守っている筈だ。

「だから私を問い詰め、紫様の行いを吐かせようということか。まあ賢明な判断だ。紫様はこの季節、鋭気を養っておられる」

「冬に冬眠するなんて、熊みたいな妖怪よねあいつ。それでもあなたなら人里に買い出しに現れるから、待っていればいいって聞いてたの」

「その様子だと御阿礼乙女《みあれおとめ》に我々のことを聞いたか」

 明らかに渋い顔を作る藍を、二人もまた注意深く見上げた。策士の九尾とも称される彼女のことだ。逆襲の機会を伺っていることだろう。撃退されるつもりはないし、また人里で待ち構える覚悟もあった。

 そして藍自身も、大局的な視点ではこいし達から逃げ切るのが難しいのを誰よりも理解していた。

「いいだろう、正直に話そうか。紫様が封獣ぬえを攫ったかどうか、私は知らない。だが彼女が本当に京都へ向かったのだとするなら、紫様が主犯である可能性を私は否定できない。紫様のご意向に異論を挟むつもりはないが、正直、あの方のお考えは私にすら予測がつかないのだからね」

「威張ることじゃないと思うわ、それ」

 フランドールが呆れるが、気持ちは分からなくもない。幻想郷で紫の思考回路を理解できる者など、紫本人以外に誰がいるというのか。

 彼女らの記憶に新しいのが、第二次月面戦争だ。紫が何の目的で月世界への侵攻を妖怪達にけしかけ、あっさりと月の姫君に土下座したのかを正確に説明できる妖怪は少ない。

「それで、お前達も京都に行きたいのだね」

「紫が寝てるっていうのなら、あんたに頼む以外にないからね。あるんでしょ? 方法が」

 フランドールの言葉を受けて、藍は途方に暮れたように寒々しい曇天の空を見上げる。

「念の為聞いておきたい。私が頑として断り続け逃げ続けたらどうする」

「その時はあんたの首を紫に差し出してでも、京都行きを迫ることになるわね」

「ですよねー」

 深く息を吐き出してから、改めてフランドールとこいしを交互に見る。

「まったく。紫様の仕置きは怖いんだぞ。仕方ない、取り計らおう。ただし、私では簡単に幻想の結界を開けられない。三日の猶予をいただけまいか」

「信じていいのかしらね、それ」

「準備ができ次第、こちらから迎えに参上するよ。お前達の方こそ、必要な準備があるだろう?」

 

 §

 

 ――頼政が空を見上げると、雲の合間に怪しい影が見えた。射ち損じれば己の命もあるまい。頼政は矢を弓につがえ「南無八幡大菩薩」と心中で祈り、弓を引きびょうと射ち放つ。命中の手応えがあった。「やったぞ!」すぐさま猪早太が追いすがって取り押さえ、刀も拳も貫かん勢いで九回刺して倒した。火を灯してみると、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎という姿で、鳴き声は鵺のようだった――

 

 紅魔館地下図書館の読書スペースにて、こいしとフランドールは一冊の本を開いていた。平家物語の鵺の一節だが、残念ながら彼女達が知る限りの鵺の知識以上のものはない。

「勉強熱心なことね。予習かしら?」

 背後を通りすがったパチュリーが、本を覗き込む。

「それがねえ。結局ぬえがなんで京都に行ったのか、動機がさっぱりなのよ。鵺について書いてある本は、本当にこれだけなのかしら?」

「残念だけれど、鵺についての知識だったら間近で見ているあなた達が、幻想郷では最も詳しい筈よ。理由は鬼と同じ。これまで地上で目撃例がない以上、記録がないのは道理だわ」

 フランドールが本を閉じる。

「結局前提知識は、人間が書いた話とマミゾウから借りたガイドだけかしら。これだけで本当にぬえが見つけられるのかしらね」

「あとはマミゾウさんのお話ね。ぬえはまだ京都に何かいるんじゃないか、って思ってるみたいだけど」

 肩を並べて、二人が唸る。少々気分が乗っていたこともあって京都行きを望んだが、いざその予定が決まってみると未踏の地への不安が首をもたげる。

 これまではなにがしかの理由で三人のうち誰かにトラブルがあっても、家族などの協力があったお陰でどうにか事態に対処できていた。しかし、京都はそもそも幻想郷ではない。協力者の存在などとても望めない、異郷である。弾幕決闘のルールもない。幻想郷の常識が通じないということだ。

「なんだい、辛気臭い顔を並べて。らしくないな」

 聞き覚えのある声が、読書スペースに踏み込んだ。根拠なき自信に溢れた振る舞いはフランドールの姉、レミリア・スカーレットのものだ。

 当然、フランドールとしては深まる不安に茶々を入れられているようで面白くはない。

「ほっといて頂戴よ。お姉様は大人しく、漫画でも読んで笑っているのがお似合いだわ」

「そう邪険にするなよ。折角お前達に耳寄りな話を持ってきてやったと言うのに。望むならば、悪運を招く運命をお前達と結びつけるのも吝かではないよ」

 げんなりする。またもや運命か。フランドールは、彼女が主張する「運命を操る程度の能力」の存在に疑問を抱いていた。自分やパチュリー、咲夜などのように目に見えて分かるものではない、運命の線を操作して自身の望む結果を呼び込む曖昧な能力だ。少なくともフランドールは、レミリアの力が紅魔館の役に立っていると思ってはいない。増して相手が長きに亘って自分を地下に幽閉してきた張本人ともなれば、下に見たくもなるというものだ。

「なんて目をしてるんだか。少しは姉を信じなさい、当てになる情報だ。お前達は、京都に行きたがっていたな? だったら、顔見知りがいるかもしれない。事情を話せば、力になってくれるかもね」

 京都の顔見知り。この時点ですでに眉唾だ。

「何、京都にも吸血鬼がいるというの?」

「恐らくれっきとした人間ですわ、妹様」

 レミリアの隣に、音もなく咲夜が現れた。

「以前、紅魔館に迷い込んできた外来人の方が一人おりまして、その方が自分は京都から来たと仰っていたのを覚えています。私が応対しておりますので、お嬢様のお話は紛れもなき事実ですわ」

 相も変わらず見事なフォローを発揮してくれる。なぜに彼女がレミリアに心酔して我侭の言いなりになっているのか、フランドールは理解できない。

「よく人間を招く気になったわね?」

「そこはそれ、運命の導きって奴だ。あいつがする外界の話は、なかなか楽しかったよ」

 人間、しかも外来人の客人とは初耳だ。恐らく、フランドールが地下に幽閉されていた時期の話か。

「それに、そいつが八雲紫によく似ていたのも気になってね。奴から野暮ったさや胡散臭さなどを取り払ったら、ああいう感じの娘になるんじゃないかな。確か、名前は……マエリなんとか・ハーンといった」

 

 

 四

 

「いい加減、本名を覚えてほしいんだけど」

 その愚痴に近い独り言が聞こえたのか、向かいに座るボブカットの少女が、視線を手元の新聞紙からこちら側に持って来る。

「メリーでしょ?」

「メリー・ハーンなんてしまらない名前で自己紹介した覚えはないわ」

 メリーことマエリバリー・ハーンは憮然として、相方の宇佐見蓮子《うさみれんこ》を睨み返した。モノトーンで統一されたブラウスとスカートに包まれた体は細身で、超統一物理学などといった推論と計算に満ち溢れた学問をやる身とは思えない快活さを秘める。何より、メリーを見る両目はたった今まで眺めていた号外に対する興味の輝きに満ちていた。

 そんな彼女の持つ行動力こそが、メリーと蓮子のオカルトサークル「秘封倶楽部《ひふうくらぶ》」の原動機であり、彼女の魅力でもある。だが今回に関しては危険さを秘めた好奇心であると、メリーは直感していた。

「ところでメリー、なんで今さら自分の呼ばれ方について気になり出したのかしら?」

「何となく、よ。まあそんなことより、私としては本気でその事件にサークル活動として首を突っ込むつもりなのか、確認したいのだけれど」

 気が乗らない活動だった。警告を兼ねた質問も、これで何度目か分からない。例えその質問が蓮子の興味を一粒すらも削り取れないと分かっていても、聞かずにはいられないのだ。

「その確認に対して私が同じ答えを返すのは、もう四度目だったと思うけれど、メリー。私が入手した情報とこの事件には、無視できない整合性があるの」

 蓮子は一枚限りの新聞紙をはらはらと振った。

 ――連日連夜の凶行、無差別連続殺人

 ――事件の収束までは、外出に注意を

 一昔か、二昔ほど前のセンスで書かれた刺激的な見出しが、号外新聞の上にレイアウトされている。連続殺人鬼、である。人口の調整減少にひとまずの歯止めがかかり、勤勉で豊かな精神を育む新文化に満ちたこの首都京都での蛮行であった。数世代前に廃れた暴力的パニック映画の焼き直しでも行われているとしか思えない。

「現代に蘇る切り裂きジャックってところかしら。老若男女を問わず夜道を一人で歩いているところを襲いかかり、鋭い刃物で滅多切り。現金や貴重品が持ち去られた跡はなく、快楽殺人の可能性が極めて高い、と。加えて、最初の犯行からもう二十件近く同様の犯罪が起こっているにも関わらず京都市警が解決の糸口すら掴めていない」

「それに一言、言わせて貰いたいのだけれど」

 メリーはおずおずと右手を上げる。本日この時に限って彼女は消極的だったし、消極的にならざるを得ない案件だった。だから無駄と分かっていても、蓮子を思い留まらせる理由を見つけないといけない。

「探偵が警察よりも優秀なのは、江戸川乱歩や横溝正史の小説だけよ。増して私達は探偵ですらない」

「あらあら、ずいぶんと弱気ね。数々の心霊現象、未確認生物、そして神隠しに挑戦した秘封倶楽部の部員にあるまじき言動だわ。これまでも命の危機に晒された経験は幾らでもあるじゃない」

 あるにはあるが。調査先で最終バスを逃がして、電気も電波も通わない山の中で、着の身着のままの野宿をしたりとか。ただ、メリー一人の体験という条件をつければ、もっと酷いのの覚えもなくはない。

 夢の中の赤い館で、吸血鬼とお話ししたりとか。

「それに私達の活動目的は、あくまで結界の隙間を見つけること。連続殺人犯にその要素があるの?」

 蓮子が静かに口の端を吊り上げる。間違いなく、彼女お得意の頼りにならない情報源「裏表ルート」から新事実を仕入れた時のサインだ。

「今日メリーに見せたいのは、その根拠になり得るものよ。まずは、これを見てほしいの」

 ブラウスのポケットから写真を引っ張り出した。その内容は、年頃の女子大生にはあまりにも刺激が強いものである。しばらくの間はストロベリー系のケーキに手が出せないかもしれない。

「うわあ……」

 嫌悪感と戦うために、メリーは口元を押さえた。写真の左下に凄惨なものが見える。路面に横たわるオーバーコートを着た会社員風の男だ。彼の顔には縦に切り傷が走り、片目を完全に潰す。そして彼を中心に広がる夥しい量の血液。明らかに死んでいる。腹這いになったその正面が、いかなる状態になっているかは想像もしたくない。

「死体の方はあんまり見ない方がいいわね。本当に見てほしいのは、上の方よ」

 蓮子はそれを先に言うべきだった。指に隠された男の死体の右上には、もう一人の人物が写っている。闇夜に紛れシルエットしか見えないが、その人影におかしなものが付加されていた。

 背の辺りに生えているのは、翼と呼ぶには異質な代物だ。触手や木の枝の類のように左右へと三対。しかも左は刃物、右は矢印のような形をしており、別々のものを継ぎ接ぎに組み合わせたように見える。

「まるで妖怪ね。これが連続殺人鬼の正体?」

「可能性は強いわね、今のところ。撮影者は遺体をカメラに収めようとした時に何者かに気がついて、慌ててカメラを上に動かしたみたい。そのせいで、像は少しぶれちゃってるけど。お陰で貴重な情報が一緒に写り込んだ」

 ビル群の向こうに見える、少しぶれた星空。

 だが蓮子には、それで充分だったのだ。彼女には現実、映像、あらゆるものに見える星の映像だけで時間を割り出せる不気味な目があるのだから。

「撮影日時は、二件目の事件が起こった時みたいね。この謎の存在の逃走経路から連続殺人鬼の足取りを辿ってみましょう。警察すら煙に巻く、神出鬼没の存在。きっとメリーの目にも出番があるわ」

 これは駄目だ。止められない。気を紛らわすべく、温くなった合成コーヒーへと口をつける。彼女らがミーティングの場所として使う大学構内のカフェは立地に反してレベルが高く、飲み物が少し冷めても美味しく飲めるのが彼女の救いだった。

「殺人鬼は結界の向こうから来ているって? 京都市内の結界は、徹底的に保護されてる筈よ。何度も確認しているじゃない」

「でも、連続殺人事件の裏に実際向こう側の存在が関係してるわ。調べてみる余地はあるでしょ」

 本当にそうなのか? メリーはまだ懐疑的だった。蓮子が手に入れた情報の胡散臭さもあるが、これは秘封倶楽部が調べるべき話題なのか。

 厳しく禁止された結界の突破。各地に残る結界の隙間を見つけ出し、不可抗力的に境界の向こう側の真実を手に入れる。それが秘封倶楽部の結成事由だ。そこには天然の景色や幻想の存在、現代人が忘れてしまった事物が残っていると彼女らは信じている。

 だがこの案件はどうだ? これは、殺人事件だ。凶悪、猟奇的であれ、それでもただの殺人事件だ。死体が存在する。警察も動いている。現実的過ぎる。その現実的な事件を、自分達秘封倶楽部が追うべきではない。メリーは漠然と、そのように感じていた。

 しかし、蓮子に見せて貰った写真に写った奇妙な翼の者から、合成でも偽物でもない雰囲気を感じるのもまた事実であった。いったい何者なのか?

(通りすがりの通行人Aって訳じゃないわよねえ)

 

 §

 

 鼠色の四角い塔が居並ぶ黒い道には方々に大きなひびが入って、隙間に生え茂った雑草達がさらなる居場所を主張しようとしている。

 キャリーバッグを引きながら道を駆け抜けて行く(そして時折、悪路につっかえそうになっている)二人の少女に対し、通りすがる通行人はAからZに至るまで足を止めてその姿に目を見張った。

 近年の東京における組織化が著しい若衆にも似た快活さもあろう。だが道ゆく人の目に留まったのは、彼女達の外見によるところが大きい。

「ほらほら、急いでフラン。早くしないと、電車に乗り遅れちゃうわ」

「まだ多分余裕があるってば。少し落ち着きなさい」

 先行するこいしを、手を伸ばして留めようとする。

 癖のあるシルバーブロンドの髪の毛を揺らして、厚いジャンパーコートを着込んでいるとは思えない動作でカートを引くのは本当にこいしなのだろうか。普段から笑みを絶やさない彼女であるが、あれほどテンションが高いのは初めてだ。

 目的を果たす前に自分達がどうにかならないか。それともすでに、どうにかなってしまっているのか。フランドールの不安感は尽きない。四百九十五年の幽閉よりも強烈に思える。かつてない環境の変化は、こいしのみならず彼女の精神にも影響していた。

 艶のあるストレートな金髪、色素が抜けたような白い肌と赤い目は平時と変わらない。ただ、現在の彼女の背中には枯れ枝に宝石をぶら下げたような、奇怪な翼は見えない。赤い外套の下へと隠している訳でも、幻術で見えなくしている訳でもなかった。こいしの左胸からも、無意識を知覚する第三の眼が跡形もなく消え失せている。

 幻想郷から外の世界への移動は拍子抜けするほどあっさりと完了した。ただし結界を抜け出た先は、京都ではなく東京というらしい。

「京都には博麗大結界に匹敵する強力な結界が構築されている。アクセスに必要なプロトコル、あー、方式から違うので、直接侵入するのは至難の業だ」

 二人の前に現れた藍には、なぜか狐の尖った耳も特徴的な九本の尻尾もなかった。そんな彼女がラフなワイシャツにホットパンツといういでたち、かつ憔悴仕切った表情で彼女らに告げた。

「そこで君達に、長期滞在の観光客としてここから京都に向かって貰う。一般の人間としてね」

 藍が手渡してきたのは、毛糸を編んだだけという変哲のないミサンガであった。フランドールのが赤、こいしのが緑。そして彼女も黄色いものを、自身の左手首に巻いていた。

 準備に三日を要した、特別製であるという。

「これには君達の妖力と相反するものを放出して、相殺する式が憑いている。装着すると君達の能力は大きく抑制されて、外見も人間と同等に変化する。元に戻るには外すだけでいい。このように」

 藍が自分のミサンガを外すと同時に何か破裂したような音が響き渡る。彼女は一度白煙に包まれたが、それが晴れると確かに九尾の狐へと戻っていた。

「きつく巻いておくことをお勧めするよ。事故で外れてしまわないように」

「外れなくなったら、どうしてくれるのかしら?」

 様々な意味が籠った質問だった。もしミサンガが事故で外れなくなったらどうするか。そもそも藍がこれを外れない仕組みにしていたらどうなるのか。詰まるところ、彼女は案内人として信頼に足りるかどうか、まだ疑わしいところがあるように思えた。藍はあくまで、八雲紫という胡散臭い妖怪に仕える忠実な式であり、奴隷なのだ。

「いざって時は子供でも簡単に引き千切れるようになってるよ。そこは信頼して貰うしかない。さもなくば、私は体を張ってでもお前達を京都に行かすのを止めないといけない」

 しかし、藍から返ってきたのははぐらかしも何もない、重い答だった。彼女の目には、笑みがない。

「分かんないわね。そこまであんたに言わせる訳が、何かあるのかしら」

「危険だからさ。お前達が私の言いつけを守らずに京都へ行けば、確実に妖怪であることを看過され、殺されるだろう。それほど、あの都市は幻想存在に対する監視体制、防衛機構が徹底している」

 フランドールが、無言で彼女の表情を観察する。騙し合いは得意ではない。身に染みて自覚している。だからこそ、疑いの心を捨てるのは拙いと思った。この方面でこいしは致命的なくらい当てにならない。

「あんたはそれを、体験したことがあるの?」

「あるよ。ぬえが討伐された、すぐ後にね」

 間髪入れずに、即答された。フランドール達には玉藻前《たまものまえ》の逸話の知識はなかったが、藍の遣る瀬無い表情から話が偽りではないのは理解できた。

「紫様の式になる前の話さ。若気の至りだ。それが千年前の話だよ。以来かの地は今もなお、飽くなき霊的研究を続けている。お前達が行こうとしているのは、そういう場所なんだ」

 藍の言葉が、重圧となってフランドールの心へとのしかかった。自分達はとんでもない所に行こうとしているのではないか、という以前にぬえがそんな場所へよく行く気になったものだ。

 信じるべきか否か。それに決断を下す遥か以前に、それをぶち壊しにする声が横から聞こえてくる。

「ねえ、フラン。これ、凄いわ」

 そちらを見て、絶句するしかなかった。こいしが緑のミサンガを、自分の左腕に巻いている。

 小鳥のように周囲を見回す彼女の第三の眼はどこにも見当たらず、まるで人間のようだ。

「無意識でなくても心の声が流れてこないのよ? 私今、とっても開放されているわ!」

 脱力する。シリアスに詮索しているのがこれほど馬鹿馬鹿しくなることはなかった。

「ぬえじゃないけどさ。少しは疑いの心を持とうよ」

「ええ、別にいいじゃないのよ。どの道、藍さんを信用しないと京都に行けないんでしょ? だったら当たって砕けた方が、心に毒を持たずに済むわ」

 軽い眩暈を感じ始めたフランドールの肩を、藍が優しく叩いて言った。

「こういうことで、彼女に敵う者はそう居ないね」

 そして現在がある。フランドールは改めて自分の掌を数回握ってみた。手の上に「破壊の目」が召喚されてくる様子はない。日光に身が焼かれることもなく、今の彼女は人間そのものだ。

 常日頃から持て余し続けてきた破壊の能力だが、いざなくなってみるとこれほど不安を感じることになるとは、思いもよらなかった。こいしの図抜けた明るさが、それに却って拍車をかけている。

「フランったら、まだ悲観的になってるのかしら? これでしばらくは、うっかり何かを破壊しちゃう心配がなくていいじゃないの。前向きに考えないと」

「私には、あなたが前向き過ぎる気がするわ」

 その言葉を聞くや、こいしはキャリーバッグごとフランドールの方へ駆け戻って、その肩を強く抱く。

「何を言ってるの。前向きの方が、後ろ向きよりは幾らかましじゃない! 世の中後ろを向いたままで前に進める人なんて居ないのよ⁉」

 比喩表現と反論する気力もない。どうにか自分の不安定な精神と折り合いをつける必要がありそうだ。遠景の「酉東京《ゆうとうきょう》駅」の看板がかかる赤煉瓦の建物を見ながら、フランドールはそんなことを考えた。

 

 五

 

 左右にガラス窓がついた大きな鉄パイプ。

 悪趣味な塗装を施した巨大な試験管。

 視点が正反対であるが、フランドールとこいしが卯京都《ぼうきょうと》に直行する新幹線「ヒロシゲ」を見た感想がそれだ。前者がこいし、後者がフランドールのもの。

「京都に着くまでずっと地下を通るのね。残念だわ」

「あなたにとっては見慣れた光景だものね。だけどカレイドスクリーンだったっけ? 京都までの道中、退屈しない仕掛けが動くみたいね」

 口々にそんなことを言いながら車内に入る二人の姿は、入れ替わりに駅へと降りる会社員達にとって大変珍しいものだった。聞き飽きた知識を語り合う金髪銀髪の少女二人の姿は、素朴な外国人観光客のようであったが彼女らに自覚はない。

 二席ずつが向かい合ういわゆるボックスシートが並ぶ客室に彼女ら以外の人影は疎らだ。時は夕刻。この時間ヒロシゲを利用するのは、大半が京都から東京に戻ってくる通勤者である。朝は常時満席で、席が取れれなかったと藍からは聞いている。

 ボックスシートに二人向かい合わせで座ってから数分すると、抑揚の整い過ぎた女性の声がどこからともなく聞こえてきた。

「卯酉《ぼうゆう》新幹線ヒロシゲをご利用いただき、有り難うございます。この列車はヒロシゲ七十七号、卯京都行きです。卯京都に到着するまでの五十三分間を、カレイドスクリーンで巡る歌川広重の世界、東海道五十三次でお楽しみ下さい」

 微かに座席が揺れて、列車が動き出す。ホームを出て暗くなると同時に、外に文字が映し出された。

「Fifty-Three

   - The Way of Hiroshige Utagawa -」

 フランドールとこいしが、一斉に瞬きする。

「これがカレイドスクリーン? 乗り物と一緒に、絵がついてくるのね。どんな魔法使ってんのかしら」

 窓いっぱいに、古風なアーチ木橋が映し出された。道ゆく人々の姿もどちらかと言えば二人に馴染みが深い装束だ。東海道五十三次の起点、日本橋。

「きっとトンネルの向こう側に使い魔がいて、絵を抱えたまま一緒に走ってるのね。大変だわ」

「こっちの人間は、手間がかかることをするのね。でもこの絵、見たことがあるわ。パチェの図書館で」

 歌川広重の東海道五十三次は浮世絵木版画として広く流通し、一部は海外にも流出した。陶器の包装紙としても使われるほどおざなりに扱われるようになってしまったそれらが幻想存在となって、紅魔の図書館に流れ着くのは必然と言えた。

「なんというか、趣がないわね。絵を展示しているのに、人が歩き出したわ」

 絵の一部がズームアップし、人々が橋梁を実際に渡っている様子が映し出される。絵を画像処理してアニメーション風に見せる演出の一種であろうが、フランドールにはそれがやたらと陳腐に見えた。

「元の絵の意図を無視してこんな風に動かすなんて、何様のつもりなのかしら。こいし、こんなもの見る価値なんてないわよ」

「フランには絵の意図っていうのが分かるんだ?」

「いいえ。でも色々想像することはできるでしょ? あなたの不得意分野。帰ったら同じものをパチェに探して貰いましょう。そのためにも早いところ、ぬえを見つけて捕まえないと行けないわね」

 こいしはまだ映像を見続けることに未練があったようだが、渋々とフランドールの方へ向き直った。彼女の鼻息の荒さをさすがに察したのか。

「捕まえるって言っても、どうするの? あの子がどこで何をしているのかも分からないのに」

「問題はそこよね。分かってるのはあいつが京都で退治されたってことくらいかしら? あとは京都のことを色々調べて回っていたって話ね」

 ぬえはマミゾウから京都の話を聞き、幻想郷から消えるまでの数日間、様々な場所を訪ね歩き京都のことを尋ねていたらしい。

 ――ええ、来ましたよ。京都のことを頻りに気にされてたみたいですけれど。私達は諏訪の片田舎の住まいでしたから、修学旅行で行った程度でして。ただ、ぬえさんが言う結界みたいなものを知覚したことはないですねえ。

 ――確かに寺子屋にも来たな。平安の都の歴史をお望みだったので、色々資料を見繕った。しかし、奴の言う強力な守護があの都にあったとは、とても思えないんだが。何度も戦火に見舞われているしな。

 元は外に住んでいた山の巫女に、あらゆる歴史を知る人里の半妖などの所へ、ぬえは現れている。

 最後に三人で遊んだ時に、紅魔館の図書館も実は調べていたようだ。司書妖精達の目撃事例があった。

「京都には今もとんでもない奴が潜んでて、それが守りを固めてるとあいつは思い込んでるみたいね。でもマミゾウも早苗も慧音も、そんなのに心当たりはないって言ってる。誇大妄想かしら?」

「あれ? でも藍さんは、ぬえと似たようなことを言ってなかったかしら。京都の結界は強力だって」

 そうなのだ。藍とぬえの言っていることと、他の者が言っていることの乖離があまりにも大き過ぎる。

 二人の共通点と言えば、平安の都で悪さを働こうとしたことくらいだろうか。実際に京都で暴れてみないと、分からない事象でもあるのだろうか?

「あの女狐、まだ何か隠していることがあるんじゃないかしら。もう少し締め上げとけばよかったわ」

「一応、連絡は取れるみたいだし、その時に聞いてみたらどうかしら?」

 フランドールは、自分のポケットを漁った。手に掴み出されたのは、握り拳大ほどの軽金属でできた物体である。コンパクトのように、二つに開くことができる。片面には規則正しく配列された十数個のボタンがあり、もう片面には数字の列が並んでいて、魔力的な何かで以って時折カウントが先に進む。

「一応使い方は教わったけれども、きちんと連絡が取れるかどうかはよく分かんないのよね。さっき、試しに言われた通りやったけど返事がなかったし」

 物体の正体は、藍に渡された携帯電話だ。これを使えば彼我の距離を気にせず会話ができるそうで、定時に藍から連絡を寄越すと二人は聞いていた。

「まあ、連絡が来るのを待つしかないんじゃない。そうそう、京都に着いたらここに行きたいんだけど」

 ガイドブックの一ページを開き、フランドールに指し示す。とある場所を取り扱った特集記事である。大きな明朝体文字で「鵺塚」と記されている。

「鵺塚。ああ、ぬえのお墓って意味ね。京都の古墳があった場所で、現在は公園? でも変ね、ぬえは退治された後川に流されたんじゃなかったかしら」

 事実、鵺塚と呼ばれている場所は一箇所ではない。大阪と芦屋にも、鵺を埋葬したとされる場所がある。こいしが興味を示した鵺塚は、二条城から東に少し離れた場所にある。鵺が飛び立った所とも弔われた所とも言われているが、詳細は謎のままだ。

「そういう正体不明な辺りがぬえらしいと思うのよ。あの子が来てたら、何か残しているかもしれないし」

「行っても、何もないと思いますよ?」

 唐突な割り込み。声の主は二人ではない。

 驚いて脇を見ると、人がよさそうな老夫婦が一組、通路を挟み反対側のボックス席から二人を見ている。声は、夫の方が発したもののようだ。

「御免なさいね。少し気になる話が、聞こえたものですから。お嬢さん方、京都は初めてなんですか」

 フランドール達は顔を見合わせる。悪意はないと思えるのだが、どれだけのことを聞かれたのか。

「ええ、まあ。ちょっと、観光に」

「お二人とも外国の方ですよね? 日本語がお上手ですが。東京に比べたら、京都は見れるような所がなくて残念な思いをすると思いますな。鵺塚だって、何も残っちゃいませんし」

「ねえ、あなた」

 妻の方が、一枚の紙を手に夫の裾を引く。

「ああ、そうそう。すみませんね、余計なお節介を焼いちゃって。京都に着いたら、今日のところは泊まり先に直行した方がいいと思います。ほら、まだこういう事件が起こってるみたいですし」

 そう言って、夫が妻から受け取った紙を二人へと差し出してくる。新聞紙である。天狗が配るものとよく似ている。二人は新聞の見出しに目を見張った。

「無差別連続殺人?」

 

 §

 

 カートを引くごろごろという音が、無人の街路に溶けて不気味に反響する。

「隣のお爺さん達、優しかったね」

「ん」

 こいしの言葉に生返事を返す。フランドールには、あまり余裕がなかった。彼女の視線は歩きながら、手元のガイドブックに注がれている。

「連続殺人の犯人って、やっぱりぬえなのかしら」

「こいしはどう思う?」

 フランドールは足を止め、苛立ち混じりにガイドのページを突ついた。京都観光マップの一部分が、紙の上に展開されている。

「あの子がやらかす異変にしては、少し地味かな。大量虐殺くらいやりそうな気がするのよね」

「同感だわ」

 周囲から浮いている二人の姿に目を止めた親切な老夫婦のお陰で、シリアルキラーの件はこいし達の知るところになった。卯京都駅にて別れた彼らは、東京史跡観光から戻る道中であったという。

 ぬえが幻想郷から消えたのも、シリアルキラーが京都で殺戮を開始したのも同じ一ヶ月前だ。しかしこれだけなら、偶然の一致である可能性もある。

 幸いにして彼女らに殺害現場にいた「奇怪な翼の怪物」の情報はなかったので、ぬえが件の連続殺人事件の犯人であると思い込むまでには至らなかった。

「ぬえは京都の結界を、八雲の女狐と同じくらいに警戒してた。それが、あんなに地味な騒ぎを起こすかしら。やってることが、三下妖怪と大差ないわ。そして本当に強力な監視網とやらがあるのであれば、殺人鬼もとっとと始末されてるでしょ」

「確かにね。それじゃあ無視でいいのかな?」

 足を止めたまま、こめかみを掻いて天を見上げる。少し思考の切り替えを必要とした。

「あいつの言葉なんか、借りたくはないんだけど。色々な方向からものを見ろ、よ。私達は私達なりにぬえを探してみて、そこで殺人鬼と繋がりがあると分かったら疑ってみればいいんじゃない」

「そっか。それじゃ、明日は鵺塚で決定かしら」

 こいしはうきうきと声を上げる。それから数秒の時間を置いて、彼女はやっとフランドールの微妙な態度に気がついた。無言でこいしを凝視している。

「どうしたの、気分悪いの?」

「鵺塚を見に行くのは、全然構わないんだけど、ね」

 やおらこいしの目の前にガイドマップを広げると、そのページに平手を叩きつけた。

「地図が全然役に立たないの! 地名だけが同じ、道順が出鱈目な所を延々歩かされている感じだわ!」

 こいしが丸い目を瞬かせる。

「えっと。もしかして、迷ってた?」

「もしかしなくても迷ってるわよ! いったいどうすんのよ、これ」

 フランドールの怒声ばかりが、人気のない街路にこだまする。もうすでにどっぷりと日が暮れており、シリアルキラーの影響か道を歩く者は誰もいない。自動車とかいうのすら通りがからないのだ。

「そっか。フランも迷ってたんだね。私、フランがどんどん歩いてくから、きっと道が分かってるんだ地図って凄いんだって思ってたわ」

「なんとかしようと頑張ってたの! 始めから期待してなかったけど、迷ってるんだったら少しくらい現状を打開する努力をしようよ⁉」

 こいしは肩を竦めて、フランドールのシャウトが未だ反響している往来を見回した。

「とは言ってもね。こんな似たり寄ったりの景色が続くと、嫌が応にも迷うわよ」

 こいしの主張ももっともではある。京都の街路は入り組んでいる訳ではないが、同じ太さの道路と方形の区画とが延々と連なって、どこを切り取っても同じ景色に見えた。周辺の建物はどれも似たようなコンクリートの直方体で、少なくともこいし達にはそれらの特徴を見つけるのが難しい。増して現在は、街灯の灯りが頼りとなる夜である。

「交差点の真ん中で回転させられたら、確実に方角を忘れるわね。ここいらの人間達は、こんな街でも平気なのかしら?」

「何かコツでもあるんじゃないかしら? こういう時は誰かに聞いてみるのが一番よ」

 しかし残念ながら、先ほどのフランドール怒りの声に対してすら顔を出す人間の姿はない。街全体が、眠りについてしまったかのような錯覚を覚える。

「確かこっちにはコーバンとかいうものがあって、中に住んでる人が道案内してくれるって聞いたわ」

「どことなく間違った知識な気がするけれど、そのコーバンにもどう行けばいいのかしらね」

 再び往生して周囲を見回す。人はおろか、犬猫の影すら見えない静寂の街だ。聞こえるのは、建物の間を吹き抜ける冬の冷たい風の音。そして。

「何か聞こえたわね、今。悲鳴?」

 喧騒。そして断末魔のような叫び声。

 フランドールやこいしにとっては、聞き馴染みのある音声だ。例えるならば、それは不用意な人間を三下の人食い妖怪が襲った時のような。

 カツン、カツン、カツ、カツン。

 四方に伸びた通りの一つから足音が近づいてきた。人型のシルエットが、歩み寄ってくるのが見える。

 彼女達よりか身長も肩幅もある、恐らくは男だ。

 彼が着ている詰襟の服は、説法のために幻想郷へ訪れる閻魔にも似た雰囲気がある。

「ほら、あれ。ケーカンって人じゃないかしら」

 フランドールがその警官に近づいていって、声をかける。いや、かけようとした。

「き、君達」

 警官の声は妙にしゃがれていた。少し震えながら、彼は二人に対して右手を上げる。

「こ、ここから、早く、逃げ」

 二人は息を飲む。警官の右手は手首から先がなくなって、赤い血が垂れ流しになっていた。

「へへへはははは!」

 奇声。警官の肩口から斜め下へ凶刃の光が走る!

 海老のように警官の体は反り返って、彼は激痛に顔を歪めたままうつ伏せに倒れ伏した。

 その後ろに残った人物を見て、二人は身構える。薄汚れたボロボロのコートを纏い、目元をすっぽり隠す釣鐘状のクロッシェを被った不気味な存在を!

「へははは……今日は入れ食いだなァ……」

 それは獣じみて、ナイフの血糊をべろりと舐めた。

 

【次回予告】

 

 フランドールとこいしの目の前に、京都を騒がす連続殺人鬼が姿を現した! 果たしてその正体は!?

 煌く凶刃! 妖怪の力を封じた二人に危機が迫る! 走れ、秘封倶楽部! 走れ!

 紫のお遊びで京都に放り込まれたぬえの運命や、果たしていかに。藍が極度に恐れる「監視網」が、遂に三人へと襲いかかる!

 

 

 

 

 次回「狂いの都に鵺が舞う」第二章、

 

 「 封 獣 追 悼 未 変 」乞うご期待!

 

 

 

 

ウサ

 

(続きは第9回博麗神社例大祭で!)

 


 
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