夏が終わり、干上がるような暑さから一転、ひんやりとした風が野を駆け、伊賀の谷を囲む山々も深緑から黄色や朱色へと色を変え、その鮮やかな景色に胸をときめかせる季節がやってきた。その季節は実りの秋とも呼ばれ、暑さから解放され人々は待っていましたといわんばかりに何事にも活動的になる。季節がもたらすそれは、幼き頃から閉鎖的な忍者の慣わしや、忍術修行に精を出し、日々鍛錬に明け暮れる者達にとっても待ちにわびたものであった。
此処、伊賀集落でも一般的な民衆と同じ様に子どもが健康に育った事を祝う七五三が秋に行われる。よってその年に儀式を受ける子らも次は自分の番だと浮き足立ち、毎日の修行もより一層やる気に満ち溢れていたのだ。
そしてまたここにも一人、生を受けた事への感謝と、ここまで成長したという喜びを祝うべく、伊賀衆頭領のお幻の屋敷で師である天膳に身支度をして貰う小四郎の姿があったのだが、――
「ほれ、手がそこにあっては着付けられぬ。もっとこう……そうじゃそうやって腕を上げておれ」
袴着なぞ初めて袖を通す小四郎は勿論、自分以外の、それも子供に袴を着付ける事などこれまでに一度もない天膳は戸惑っていた。
「なにゆえこう上手くいかぬ。たかが小童に袴を着せるだけだと申すに……」
天膳は額に滲む汗を手の甲で拭うと忌々しげに呟いた。だが、この状況へと追いやったのも全ては自らの思い付きが現況であるのだが。
というのも天膳が小四郎を拾い、子飼いとして側に置いて今年で5年目になる。その事を先日たまたま見かけた七五三であろう似合わぬ袴着を着せられた童で思い出し、今度、小四郎にも七五三をやらせてやろうと、わざわざ街にまで仕立てに出たのだ。今となっては何故そんなことを思いついてしまったのかと己を恨むが、やってしまったものは仕方ない。
しかし、なにがここまで天膳の手を煩わせているのだろうか?理由は簡単。子供は長時間おとなしくしているのが苦手だからだ。それは肉体的に難儀なわけではなく、精神的なものが多いと思われる。集中力がないのは勿論、この年頃とは何にでも興味を引かれ、赴くままにあちらこちらへと駆け出してしまう好奇心の塊なのだ。それは幼いながらも忍者修行をする小四郎であれ同じである。本来ならば不釣り合いとも思われる立派な袴着を着せられ、拾われた身でありながらも普通の子供と同じ様に扱われている事に頭を下げ、言葉を重ね深謝せねばならない立場なのだが、小四郎はまだそれを理解出来ない。だが、注がれる天膳の優しさや愛情を真正面から受け止め、喜びや嬉しさとはまた違った感情が芽生えつつあるのは無意識にだが感じていた。
けれども、そんな事よりも、今は早く挙げっぱなしで悲鳴を上げる腕を下げたい。早く終わらせて思いっきり動き回りたいのが大きかった。親の心、子知らずとは良く言ったものだ。
「天膳さま、もう限界です。腕が……腕が疲れました……!」
「だまれ!鍛錬と思って我慢せぃ!」
天膳は騒ぐ小四郎の言葉に一切聞く耳を持たず不慣れな手つきで着付けを続ける。自分がやるのを諦めて侍女に任せれば手間取らずに済むのだが、ここまでしたにも関わらず他人に助けを求めるのは天膳のプライドが許しはしなかった。しかし、――
「もうこれで良い!多少見映えが悪かろうと、袴には違いない。のう、小四郎?」
天膳は小四郎の小さい両肩を掴み、非常に険しい表情を投げかけた。どうやら諦める事は出来るようだ。だが小四郎はそんな天膳の思惑なぞ知る由もなく、単純に解放される喜びに、
「ありがとうございます、天膳さま」
と無邪気にはしゃぎ、それに天膳も満更ではない風であった。それで、この袴着騒動は一見落着。終わるかのように思われた、がそうはいかなかった。天膳と小四郎のいる座敷の騒々しさに、とうとう家主のお幻が我慢出来なくなったのだ。
お幻は忍者らしからぬ足音で座敷へと迫り、閉まっていた襖を両手で勢いよく開きカッと瞼を開いた。するとそこには着物だけは一丁前だが着付けは最悪の、合わせははだけみっともなく、袴は今にもずり落ちてしまいそうになっている小四郎と、自慢の総髪を乱しながらもやりきった良い顔をしている天膳の二人を交互に見た。
「天膳、その小四郎の有り様はなにゆえじゃ……?」
引きつった笑みでお幻は天膳に聞く。お幻がこの小四郎の袴姿に不満なのは明らかであった。しかし、天膳の自信は揺るがない。
「なにゆえもなにも、わしが買った袴を着せてやったまで」
「あれで着せてやったと申すか!驕りおって、仕事が粗うていかん……。どれ、わしが直してやろうかい」
お幻は天膳を一喝すると早速緩んだ帯をむんずと握り、小四郎の薄い体がぶれる程に力いっぱい引っ張り着付け直し、更にお幻は懐から柘植櫛を取り出すと手付かずでボサボサのままだった小四郎の髪も丁寧に梳き、高めの位置で一本に結わえた。この細かな気遣いはさすがというか、これが男と女の差というものであろうか。今の小四郎の姿はさっきまでのずるずるだらだらのへろへろ袴姿とは雲泥の差で、お幻の手が加えられた今は、一回りも二回りも大きく見える、少年の凛々しい立ち姿であった。
小四郎は姿見に映った自分の姿に声を詰まらせた。言葉を発する余裕もないのだ。
そんな小四郎にお幻は微笑ましくなりながらもチラっと天膳に視線を送り面白そうにニヤリと口を歪ませた。
「よく似合っておる。のう、天膳?」
「当たり前じゃ、子飼いとはいえ小四郎はわしの子も同然。似合わぬ訳がない」
ちょっと冷かしてやるつもりが、斜め上の天膳の言動にお幻は「ひゃっ」と悲鳴を上げた。しかし、そんなお幻に気付いているのか、いないのか、気にした様子もなく天膳は綺麗に整えられた小四郎の髪を崩さない程度に頭をたたくように撫でている。
「……ほお、おまえがそんなことを言い出すとは、お前も歳をとった証拠かの」
「なにを今更、存じておられでしょうに」
「そういう意味で言うたのではない」
「ならばどういった意味で」
「しらばっくれおって」
「はて、思い当たりがないゆえに」
天膳は思い出し笑いのように微かに口元を綻ばせると、それに気付かれまいとするかのようにお幻から顔を背け、これ以上追求されまいと声を張り、
「小四郎、神社へ参るぞ。凛々しい姿を皆々どもに御披露目じゃ!」
とだけ言い残し、座敷を一人後にした。
「あ、お待ち下さい、天膳さま!」
小四郎は慌てた様子でお幻への礼も程々に前を行く天膳に追い付こうと小走りで追う。しかし焦らずとも数歩先では天膳が小四郎を待っている。こんな天膳、どこの誰が見たとてお幻と同じく思うに違いない。
「とんだ親馬鹿じゃ、――」
遠のいていく二人の声に思わず笑みがこぼれる。あの天膳が骨抜きなのだ。笑わずになどいられるか。
「あんな顔、下忍どもが見たら情けのうござると卒倒ものじゃて」
〈おわり〉
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子小四郎と天膳と少しお幻の七五三の話です。
小四郎の出生についてねつ造設定が含まれますので苦手な方は注意してください。