「隣に座っても?」
アメリカ町はずれのバー。少しかすれたような音楽が申し訳程度に流れる店である。
ウィスキー・オン・ザ・ロックのボールアイス。ヒビの中心をただじっくりと眺めていた男は、艶っぽいその声が自分に向けられた言葉だと悟るに少し時間を要した。
「ええ、どうぞ。今夜は独りなのでね」
振り返れば、とびきりの美女が笑っている。美女は男の返事に笑みを眩いほどに強め、男が座るカウンター席の隣りに腰かけた。
「あなたみたいなひとが、おひとりなの?」
美女はバーボン・オン・ザ・ロックを注文してから、ちびりちびりとグラスを傾ける男にそう訊ねた。
男はそれなりに歳を食っているようだったが、身なりが洒脱で、しみったれた様子がない。周りでやけ酒を煽っているゴロどもとは、段違いの色男であった。
「独り旅の途中でして。ここにはふらりと、立ち寄っただけなのですよ」
男は最初に目を向けて寄越したばかりで、視線は再び氷の中心を見つめている。美女はどうしても、その視線を自分のものにしてみたかった。
「あら、そうなの? とっても良い町でしょう」
「本当にそう思いますよ。なにより美しい女性が多い。明日出ていくのには少しもったいないくらいで」
「それなら、もう一日―― いっそ住んでしまえばいいんじゃないかしら」
美女の視線は男に釘付けだ。しかし、男はやはりグラスの中の氷に執心しているようだった。
小麦色の液体の中でくるくると回りつつ溶けゆくそれに、某の魅力があるのだろうか。美女にはそんなことなど知るよしもなかったが、そんなものよりも自分の方が魅力的であることは確かだ、と思っていた。
男はゆっくりと煙草をくゆらすようにウィスキーを呷りながら、ふっと微笑んだ。
「ハハ、ここは確かに良い土地ですが、ぼくにはやはり、ぼくの生まれた町のにおいがいちばんですね。旅をしているとどうしても帰りたくなります」
「生まれた町が最高だなんて」
「おかしいですか?」
「いいえ。おかしくないわ。だって、私はこの町の生まれだもの」
美女がそういうと、男はわずかに彼女に視線を差し向けた。が、すぐにグラスに逆戻りだ。歓喜しかけた美女は、その分落胆した。
女に興味がないというわけではないだろう。とりつく島がないというわけではないのだ。美女は自分の容姿には絶対の自信があった。それなのに、なぜこの男は冷淡なほどに落ちついているのだろうか。他の男どもは皆、誘えば熱っぽい視線を差し向けてくるというのに。
「なるほど。お互い故郷がいちばん、というわけですね」
「ええ、そうね。私はこの町のにおい―― バーボンが大好きなのよ」
そういいながら美女がグラスの中身を呷ると、男は静かにそれを見守っていた。
調子のいい男ならば「いい呑みっぷりだ」と彼女を讃えるが、やはりこの男はそんなことを言わない。美女はますます男を気にいった。
「バーボンがお好きなのですか」
視線をグラスに戻した男が柔らかにそう訊ねると、美女は少し上ずった声で、
「大好き。私お酒ならなんでも好きだけれど、バーボンは別格だわ。――ああ、でも、スコッチはだめね」
「スコッチはお嫌いで?」
「だめ。全然だめよ、あんな薄いお酒。大嫌いなイギリス人を思い出すもの。あいつら杓子定規で面白くないわ。みんな言うことが同じだし、みんな同じようにあたしを馬鹿にするのよ」
いつの間にか語気が増している。男はちらりと赤みの差した美女の顔を眺め―― どうやら彼女は酒好きでも弱いようだ―― 残りのウィスキーを飲み干した。
「命の水に、乾杯」
男は静かにそう言うと、グラスを置いた。カラリとボールアイスが音を立てる。
音を立てたのは、美女のグラスの方だった。どうやら、すでにそれなりに呑んでいたらしい。とどめのバーボンですっかり酔いの回った彼女は、カウンターに突っ伏している。
「マスター、彼女のぶんはぼくが払いましょう」
かたなしの美女を目に苦笑。男がそう申し出れば、
「待って」
美女はくすんだ鉛色の鍵を男に差し出して、言った。
「この先、すぐのマンション。二階の右から六番目の部屋。このあたりにひとつしかないマンションだから、すぐわかるわ。開けて待っていて」
「…………」
男はしばらく受け取った鍵を眺めていたが、静かに首を振ると(それが彼女に見えていたかどうかは定かではないが)、そっとカウンターの上にそれを置いた。
「失礼。ぼくは鍵を開けて待っていてくれるヒトの方が好きなのでね」
そう言って会計を済ますと、今度はにべもなく出ていってしまう。
残された美女は去っていく男の背中をかろうじて見送った後、再び全身の力を抜く。
ボールアイスだけが残ったグラスを片付けながら、もとのかすれた音楽だけが流れる店で、最後にマスターがこう囁いた。
「あの男性が呑んでいたのは、鍵なしのスコッチでしたよ」
あとは溜息しか、でてこなかった。
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「ガラス、ボール、水」での三題噺。