駅を出ると、欅並木の続く大通りがまず目についた。片側四車線もあるたいへんに大きな通りで、並木は両側の歩道ばかりでなく、中央分離帯にも見えた。しかし、それほどの通りにもかかわらず、車の往来はほとんどなかった。
私はその駅前の大時計の脇で人待ちをしていた。古い知り合いのつてから仕事をもらえるということになり、列車を乗り継いでここまでやって来たのだった。住み込みだという話以外、詳細は聞かされていなかった。気に入らないものであったとしても、既に財布の中身は白銅貨一枚きりで、旅費どころか駅の構内に入ることすらもうままならなかった。
このような見知らぬ土地で一人待たされ、心細くてしかたないし、頭の上から聞こえるカチコチと時を刻む音が焦燥感を煽ってやまなかった。櫓時計というやつだろうか。図鑑で見た和時計に似た、ただし私の身長の倍もありそうな代物だった。半時間ごとに櫓の一部が開き、中から機械仕掛けのからくりを持った人形が姿を現すという造りになっているらしいのだが、あいにくと故障の旨が張り紙で記されていた。
大通りの彼方から風が吹きつけていた。私は早々にアーケードを支える柱の陰に隠れて、やりすごしていたが、絶え間ない突風はしきりに大時計の張り紙をはためかせていた。そのたびに紙の下に開けられた穴が、チラリチラリと目に入ってきた。
豆電球が備えつけられているらしく、内部はほのかなあかりで満たされていた。数えきれないほどの歯車がぎっしりと詰まる中を、なにかがしきりといったりきたりしていた。それが細い腕だと気づくには、しばらく時間がいった。私の手の平ほどしかないほどの小さな人が、時計の中で修理を行っているのだった。人数は三人に見えた。中の人は小さいが、穴はなおのこと小さく、その顔はよく見えないが、どうやら男性ではないらしかった。頻繁に図面らしいキャラメルの包み紙ほどの設計図らしきものとにらめっこをしていた。
「よほど古い時計でしょう。ああして内側から修理をお願いしないといけないんです。なにしろ分解してしまうと、もう組み立てられないらしくて」
隣の女性がいった。
「けれども、それだと時間がかかるでしょう。見たところ、作業に使えるスペースもさほど多くないようだ」
「ええ、それにみなさんなにしろ体が小さいですから、一つ歯車をはずすにも大変で、修理がはじまってもう五年にもなるんですが、いったいいつ終わるものやら」
「いっそ新しい時計を作った方がいいんじゃないですか」
「あら、またそんなことをおっしゃって。いけませんよ。止まっている時計を動かさないうちから交換してしまっては意味がないでしょう」
女性は口を袂で覆って、ころころと笑いだしたが、私にはいったいなにがおかしいのかちっともわからなかった。ただ、その笑い方だけは、いつかどこかで見聞きしたことがあるような気がした。
けれども、それを確めるより先に、女性の方からつと歩を進めだした。それで私にはこの女性こそが、目的の待ち人であると知れた。
私達は会話を交わすこともなく、ただ欅並木をまっすぐに進んでいった。あまり話上手でもない私は、はじめのうちこそ沈黙をありがたく思ったものの、次第に気が重くなってきて、少しはなにかしゃべってくれればいいのにと思わざるをえなかった。
私がなかば地面と平行になるくらいに体をかがめて、風に抗いながら歩いていたというのに、女性は楚々とした足取りを崩そうともしなかった。だからといって、風の妨害を受けていないというわけでもなく、時折前髪をかき上げる仕種が背後からでもうかがえた。
大通りを折れて路地に入り、なおもやむ気配もない風のうねりを耳で聞きつつ、何番目かの辻を折れたところで、ようやく足が止まった。
「こちらですよ」
案内されたのは一軒の木造のアパートだった。ただし、おそろしく階数がある。強風に煽られながら見上げてみても、板張りの壁が果てなく続き、屋根にまで到らなかった。
「わたしはこちらの管理人を勤めさせていただいております。先生にお願いしたいのは、裏のことでして」
ブロック塀と建物の間を歩いて、裏手に回っていった。入居者の庭を通っていくことになるが、管理人さんはまるでおかまいなしだった。私はそうもいかず、植木に触れないように洗濯物を見ないようにしながら後に続いた。
そうして裏庭にあたるらしい場所に通されると、そこには牛舎が一棟建てられていた。
平屋ではあるが、煉瓦造りの瀟洒な建物だった。赤茶色の煉瓦は、くすみや汚れが少なく、まるで昨日一昨日にでも焼かれたばかりのようだった。おそらく隣りのサイロがなければ牛舎と気づかなかったかもしれなかった。
「先生にお願いしたい娘はこちらにおります。詳しい事情につきましては、中でおたずねください。それでは」
私にもう一度深々と頭を下げて、管理人さんアパートの表へ戻っていった。
一人取り残されて躊躇したものの、しかたなく私は玄関と思しいガラス戸を引き開けた。牛舎の中は思っていたよりもずっと綺麗だった。驚いたことに靴を脱いで上がらなければならないらしく、右手側に下駄箱が置かれていた。上がり框には紺色のスリッパが用意されていたが、藁くずのたぐいも落ちておらず、そのままでも靴下が汚れることはなさそうだった。玄関から先は廊下が続いており、右も左も襖がずらりと設えられていて、どれもが閉ざされていて牛舎の構造はうかがえなかった。廊下の先は薄暗くて、どこまでも続いているのかも定かでなかった。
「ごめんくださいごめんください」
呼び終えたのとほぼ時を同じくして、最も玄関から近い左側の襖が、なんの前触れもなく、かなり乱暴な調子で開いた。
「なんで二回いうんスかなんで二回いうんスか」
現れたのは一人のメイドだった。紫を基調としたメイド服に身をまとい、頭にはヘッドセットをつけていた。やけに短うスカートを履いているが、太股まであるような縞模様のニーソックスをつけているため、肌の露出は少なかった。そのメイドがペタペタとまるで裸足のような足音を響かせて、私のもとに近寄ってきた。
「ああ、旦那が新しい先生っスね。話は聞いてるっスよ。あっしがここでメイドをやっているヤクいっス。よろしくお願いするっス」
スカートの両端をつまみ、片足のつま先を床に突き立てて挨拶をしてきた。
「それじゃあ、早速姉さんのところにどうぞっス。ささ、ずいと奥まで。お客様、一名様ご案内っスー! あいよー、いらっしゃいませっスー!」
返事も聞かず、私の手をむんずとつかむなり、ヤクいさんはすたすたと歩きだした。私は靴をしまう暇もなく、後に続くだけで精一杯だった。
長い板敷きの廊下を私達は進んだのだった。外から見た際には、こんなに奥行きがあるようにも思えなかったが、いつの間にやら玄関は小さくなり、表から差す日の光も届かなくなっていた。
電灯も行灯も洋灯も、明かりの類はどこにも備えられていなかった。それでも廊下はほんのりと白い光に照らされていた。不思議に感じながら、あたりを見回すうちに、光源を知ることができた。光はヤクいさんの肌自体が、輝いて発せられているのだった。
白いというよりは青白い、青白いというよりは土気色をしたヤクいさんの体は、毛穴から汗が蒸散するのにあわせるかのように、間歇的に燐光が溢れ出ているのだった。
「これが本当の発光の美少女っスね」
私の視線に気づいたからだろうか、くるりと踵を軸にして、大袈裟に両手を広げてターンして見せると、やにわに向き直ってきた。それでも足だけは、後ずさりする要領で、速度をゆるめることはなかった。自分がいったことがよほどおかしかったのだろうか、文字通り腹を抱えて、声を出さずに苦しそうに、息をひゅうひゅういわせながら笑いだした。
肌にくらべると、あまりに赤い口腔が大きく開かれ、唾液が正面にいた私に容赦なく飛びかかってきた。刺激臭が私の鼻を襲った。臭というのはおかしかもしれなかった。甘い、酸いという意味でのにおいは一切なかった。それでも鼻腔の奥に働く、嗅覚を強く刺激する空気が流れてきた。おまけに唾液の触れた部分はむず痒くなり、それが瞼などの粘膜に近い部位だった場合は、はっきりと痛みすら伴った。
「ささ、こちらっス」
長い廊下のなかば、前後と比べてみてもなんの変哲もない襖だった。名前が掛かっているわけでもないし、襖絵が凝っているわけでもなかった。それでもヤクいさんは、些かの迷いもなくその戸を選び、先刻同様、会釈もなしに乱暴な調子で開いた。
「姉さん、新しい先生が来たっスよー」
思わず目がくらんだ。長く影の中を歩くうちに、すっかり暗さに目が慣れてしまっていたものだから、室内からの不意打ちにも似た光の放射に耐えられなかった。室内は光に満ち溢れていた。それもそのはずで、見上げれば妙に高い天井は、一面の天窓になっていて、その先には紺碧の光が広がっていた。
室内に射し込む陽光を一身に浴びていたのは、一頭の件だった。
人頭牛体の件については、話に聞くばかりで、実物を目にするのはまったく初めてだった。胴はたしかに牛だった。それも天然の野牛ではない。白い毛のうちに黒い斑の散らされたホルスタインだった。その白い頚部がやがて毛を失い、白い肌を持った首となって、その先には年の頃なら二十歳を越えたばかりだろう娘の顔がついていた。
驚きもしたし、恐ろしさも感じていた。いっそのこと悲鳴をあげて、一目散に逃げだしてしまいたくもあった。それがすんでのところで抑えれていたのは、牛の胴体の先についた顔があまりにも魅力に満ちていたからだった。
「あらあら、わたしったら、こんな格好で失礼いたします」
件の女性は、部屋着のままで人に遇したかのように、はにかみで頬を紅く染めながら。器用にぺこりとお辞儀をしてきた。
顔には笑みが広がっていた。初対面の異性を前にしての緊張こそわずかにあったものの、ほがらかな裏表のないもので、私などはそれを目にしただけで、へどもどしてしまった。年は若そうだったが、ヤクいさんが姉さんと呼ぶのがわかるほどに、落ち着いて見えた。
「けれどよかったですわ。新しい先生が怖そうな方でなくて」
私の様子がよほどおかしかったものか、件姉はころころと声をあげて笑った。なにしろ首から下は牛の胴だから、口を抑えることもできず、並びのいい歯が、天窓からの光を受けて、きらきらと輝いていた。私はそれを見て、しばらくこちらで働くのもいいと、改めて思った。
以来、共同生活が続いたが、いっこうに牛舎の内部構造を把握できなかった。玄関脇のヤクいさんの部屋を除くと、私にはまるで区別がつかず、案内されてでなければ件姉の部屋にすらたどりつけない有様だった。
たまに一人で探索を試みもしてみたが、戸の数が十を越えたあたりで、前後の感覚すら覚束なくなった。襖はどれも同じデザインで、間隔も同じにされていた。だが、鍵のかかっているもの、建てつけのせいで開かないもの、開いても土壁がすぐにふさがっているものが多く、部屋に続くものは極わずかにしか過ぎなかった。
部屋はどれもがらんとしていて調度はなにもなかった。ヤクいさんの部屋が、私にあてがわれたが、そこも他と同様で、ただ畳ばかりが敷かれて、窓も電灯もなかった。そこに、どこからか、ヤクいさんが布団を持ってきてくれた。
「どこからって、布団部屋に決まってるっス。旦那は本当に抜けてるっスねえ」
どうやら布団部屋に通じる襖があるらしかったが、もちろん私にはその区別がつかなかった。
ヤクいさんは件姉の世話を、ほとんど一手に引き受けていた。身の回りのかたづけから、食事のしたく、風呂の世話もはばかりの始末も全てだった。手が空くと、自室に籠もってしまった。かわりに、襖の隙間から決まって煙が吹き出していた。白黒紫緑青赤黄、色は様々、一色の時もあれば何色も筋をなしていることもあり、それらが混ざり合っていることもあった。
聞けば薬を調合しているとのことだった。
色からしても臭いからしても、除虫薬か殺菌薬の類、まちがっても飲用するものではないと思っていたのだが、ヤクいさんはできあがったものを件姉に投薬しているようだった。
「心配ご無用っス。こいつならどんな虚弱体質もイチコロっスよ」
紫がかった瞳を爛々と輝かせて、ヤクいさんがいった。手にはなにやら液体の入ったフラスコを携えていた。体の燐光に反応しているのか、粒子の荒い液体は角度によって色合いを変化させ、黄緑やら橙、群青と一色にとどまることがなかった。
件姉は一日に何種類もの薬品を摂取していた。そのほとんどが市販品ではなく、ヤクいさんが手ずから調合したものだった。投与法も、経口から塗布、注射などさまざまだった。薬を与える際には、抵抗を受けることも多かった。私も何度となく暴れる件姉を押さえつけるために駆り出され、そのたびに巻き添えをくっていた。打ち身、捻挫は日常茶飯事で、流血の事態に見舞われることも珍しくはなかった。それほどの骨折りをしているからこそ、私には件姉が薬を必要とするほどにどこかを悪くしているとは思えなかった。
「姉さんの患いっスか。そりゃア、見たままでスがねエ」
新作を持っていくかたわらで、私が思いきって疑問をぶつけると、返ってきたのはそんな答えだった。からかったり揶揄したりする風ではなかった。むしろ、ヤクいさんとしては、ついぞなかったほどにまじめに答えていた。
「いや、それが見てわからないから聞いているんだけど」
「はァー。まったく旦那は困った御仁っスねえ。いいっスか。姉さんは件なんスよ。ということは預言をしたら死んぢまうってことっスよ」
その伝承は私も聞き知っていた。件は生まれて三日で死ぬ。その間に予言を残して。いかにも伝承らしい漠然としたもので、具体的なところは三日という日限ばかりだった。それにしたところで、こうして件姉が生きている以上は、根も葉もない言い伝えということだ。私がいっしょに暮らすようになってからでも、三日はとうに過ぎてしまっていた。
「だから旦那は甲斐性なしの穀潰しなんスよ。それだとアッシがここにいる意味がねえじゃねえっスか」
私が鼻白むよりも、ヤクいさんが続ける方が速かった。
「かわいいわが子が件だったことを考えてみるっスよ。もしうかつに明日の天気でも予言しただけでポックリなんス。だったらそれをどうにか回避させようって思うのが親心ってもんでしょう、旦那。だから、アッシがヤクを作って、滋養強壮と予言を抑えているんスよ」
あまりに真剣なヤクいさんに気圧されて、なるほどそんなこともあるのかもしれないと、納得するほかなかった。
さらに時日が経つと、次第に件姉の容態に変化が現れた。
まず笑顔が減った。からりに物憂げに室内のあらぬ方向を見つめていることが多くなった。声にこそ出したりしないものの、しきりに尻尾を振りまわして、体を打ち苛立ちを顕わにすることも増えた。虫の居所が悪いのだろう。そのくらいにしか思っていなかったのだが、さらに二十日ばかり過ぎると、嘔吐するようになった。牛の胃は四つあるらしいが、その四つともが空になっても吐き気はおさまらないらしく、胃液を搾り出していた。件姉の家気は緑青でもまじっているかのような、透き通った青色をしていて、天窓の向こうの青空を吐き出しているみたいだった。
「おめでたっス」
ヤクいさんの診断は。至極あっさりしたものだった。
ここに来て、驚きには慣れきったつもりだったが、さすがに言葉が出なかった。
調子は悪そうだったが、体力は衰えるどころか、みなぎっている印象があった。特に下腹部は以前と比べてもぽっこり張り出していて、腹膜炎でも起こしているのではないかと心配していたぐらいだった。
「ヤクいを舐めないでほしいっスね。アッシの目の黒いうちは、姉さんにそんな病気近寄せもしねエっス」
緑色の瞳孔を広げたり縮めたりしながら、ヤクいさんが啖呵を切った。
「けど、旦那も隅に置けねえっスねえ」
「は」
「こんな両手に花の園にいながら、気のある素振り一つ見せねえんで、とんだ種無し野郎と思ってたんスが」
「は」
「しっかりヤることはヤってたんじゃないっスか。この色男!」
言葉にもなっていない空気の洩れ出る音が三度くり返されようとした矢先、ヤクいさんの肘鉄が私の鳩尾に食い込んだ。
「往生際が悪いっス。この建物の中には男は一人。ならその一人の男の名にかけて、やったことの責任はとらなきゃならないんじゃないっスか?」
一転語調が鋭くなり、私を詰ってきた。それでも、おいそれとヤクいさんの主張を飲み込むわけにはいかなかった。身に覚えなどあるはずはなかったのだから。
「だってヤクいさん、君はいつもぼくのそばにいたじゃないか」
「なら日が暮れてからでしょう。人がぐっすりスカピーと眠ってると思って、夜気に乗じて逢瀬を重ねたって寸法でヤンスね。夜這いは伝統と格式に則った求愛の作法っスから」
「どうやって!」
悲鳴が私の口から上がった。たとえ明かりの助けがあっても、あの襖の群れから、私が件姉の部屋を引き当てられるわけがなかった。
「件姉からもなにかいってやってくださいよ」
私が言葉を費やすよりも、件姉の一言がすべて収めてくれるはずだった。
ところが、件姉は最前から口を開こうともせず、それどころか、私の顔をじっと穴が開くほどに見つめていた。つぶらな瞳を極限にまで見開いて、それは信じていたものから、思いもよらない裏切りを受けた驚愕を目一杯に表現してやむところがなかった。
やがて一筋の涙が頬を伝うのを見て、私は万事の窮したことを覚らないわけにはいかなかった。
一旦事を認めてしまうと、急転直下で話は進んでいった。
私は花婿に仕立て上げて、結婚式のための段取りが組まれていった。この時もヤクいさんは実に細々と動きまわった。仲人もいつの間にやら隣りのアパートから、適当な夫婦を決めてきた。私も一度引き合わされたが、二人ともとてもやわらかそうな人物だった。
日々はあわただしく過ぎ行き、やがて婚礼前日を迎えた。八面六臂の活動をしていたヤクいさんも、ようやく落ち着いて、件姉も含めて、私達は三人座を囲むことができた。
件姉は脚を折りたたみ、ヤクいさんはその背中の上に腹這いになって、私は壁際に背をもたせかけ、三者三様にくつろいでいた。天窓から黄昏時を過ぎた空模様を見ると、いつまでも日が落ちきらず、空の深いところで青さがわだかまっていた。
「そういえば、以前よりうかがいたかったんですが、お二人はどういうご関係なんですか」
ゆるんだ雰囲気が、そんな質問を引き出した。
「妹ですよ」
「ちがうっス。ヤクいは単なるメイドっス。姉さんのお世話をするためだけに、こちらに住み込ませてもらっているメイドなんス」
「ほら、いまも姉さんといいましたでしょ」
「そりゃ愛称ってやつっスよ」
二人の主張は食い違うが、さりとて強く互いを否定しあうということもない。ただ淡々とどちらも事実を述べているだけという感じだ。
「両親は妹が生まれるととても喜びましたが、同時にそれ以上に恐怖にも憑かれてしまったのです。またわたしのようなことになってしまうんじゃないか、と。それこそ洋の東西を問わずお医者様をお呼びになりました。そうではなくとも、未熟児で生まれた子供でしたので、常に検査を受けている必要はあったんです。おかげで、立派に育ちはしましたが、長く何十、何百という種類のお薬を飲み続けていたおかげで、今ではこんな風になってしまったんです」
「嘘っスよ。ヤクいは、昔からこういうメイドっス。薬瓶と薬瓶の間から生まれたのがアッシなんでさァ。姉さんは産気づいた苦しみを紛らわせようと嘘をついているんっスよ」
やはり二人とも語調は変わらず、のんびりと自分のいいたいことだけをいっていた。私は天窓を見上げながら、二人の交わることのない話を両方の耳でうかがっていた。じわじわと空の青さが抜けていき、一面が墨一色で塗られたように見えたかと思うが早いか、眠ってしまっていた。
翌朝起きるなり私は紋付袴を着せられた。廊下にはどこから集まったものか、両側にぎっしりと立ち並ぶぐらいに人が詰めかけていた。ただでさえ暗い廊下に人影が重なって、顔や体格すらよく確認することはできなかったが、みなどことなく私に関わりのある人々に思われた。
その人々の間を、私はヤクいさんに先導されながら、花嫁の待つ部屋に向かった。
周囲の人々はなにごとか話し合っているが、声が小さいのと重なりすぎているために、内容までは聞き取れない。
「旦那、ちょいと準備があるんで、ここで待っていてほしいっス」
部屋にはヤクいさんだけが入り、襖の前に私だけが待たされる形となった。たちまち周囲のざわめきが大きくなる。穏当なものではないらしく、耳にかかるや胸をかきまわしてしかたなかった。ジロリとあたりをにらみつけてやると、その瞬間だけは声はおさまったが、しばらくすると一層大きくなってくり返された。
そんなことが二度ほどあった後、襖が開いて中から件姉が姿を現した。角隠しをかぶせ、伏し目がちに歩く姿は、件とはいえ、非常に様になっていた。その背の上に、ヤクいさんがまたがっていた。しかも、こちらも花嫁衣装を身にまとっていた。
不審に思い、私が質問を投げかける前に、ヤクいさんが口を開いた。
「旦那、申し訳ねえっス。姉さんのお腹の子は、ヤクいとの愛の結晶なんス。一時はこのままおまかせしようかとも思ったっスが、いくら旦那とはいえ、やっぱりわが子を渡すわけにはいかねえっス。申し訳ないっス」
いうなり踵を返して、件姉は玄関とは逆、牛舎の奥へと、ヤクいさんを上に乗せたまま駆けだした。私の手はむなしく宙をつかむばかりで、とうとう一声もかけないうちに、二人を見送ることになってしまった。
延々と続く廊下を件姉は走り、上に乗ったヤクいさんの背中が豆粒ほどになったかと思うと、とうとう見えなくなってしまった。
周囲の人影はあいかわらずなにごとかを囁きあっていた。そんな中で、紋付袴姿の私は、こういうのも寝取られたというのだろうかと、ぼんやり考えていた。
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『冥途』の一編です。ふたば学園祭7にて刊行する増補版に収録されている同題作品とは異なる内容となっております。