嘗て、愛しい人がいた。
自分の全てを捧げられる程に愛おしく、大切な人。
誰よりも強がりで、誰よりも孤独で、誰よりも寂しがり屋な少女。
彼女は世に覇王と讃えられ、類稀なる才覚に恵まれ、数多の人臣を引き連れて天下の頂点に君臨した、万民が思い描く通りの『天才』をずっと演じ続けてきた。
その陰でどれだけの努力をしてきたのだろうか。一を聞いて十を知る力を持ちながら、百も、千も理解する事を求められ、実践させられて、その通りにしてきた、彼女が――――――華琳が、其処にいる。
声が届く程、近く。
手を伸ばせば触れられる程、近く。
分かたれた世界と比べるべくもない程、近く。
―――華琳、と。
その名を口にする事が出来たら、どれ程楽だっただろうか。
或いは、そうするべきだったのだろうか。
例え“彼女”が俺の事を知らなくて、結果として頸を刎ね飛ばされる事になったとしても。
俺は、俺は―――――――
「久しいわね、“仲達”」
告げられた名に、俺の心臓が跳ねあがった。鼓動がバクバクと鼓膜を震わせて、動悸が激しくなる。
息をするのも辛くなる程になる俺に気づく筈もなく、司馬懿は一歩前に進み出た。
「……今は敬語を使うべきでしょうね、“曹操殿”」
礼をとる司馬懿に、しかし心から敬服した様子は欠片も見受けられない。
今は只、朝廷から“西園八校尉”の位を与えられている華琳の方が名目上は偉いから敬意を払っているに過ぎない―――そんな様子がありありと窺える司馬懿の言葉に、しかし華琳は大して気分を害した様子もなく鼻を鳴らした。
「相変わらず不遜ね仲達。実に気に喰わないわ」
言うが、その瞳には喜悦の色が宿っている。
目ぼしい才覚の原石を見つけた時の様に、瞳がパチリと輝いていた。
「それだけの才能があり、確固たる意志を持ちながら私の誘いを蹴って、選んだのが“その男”という訳?」
華琳の言葉に、今度こそ俺は心臓を鷲掴まれた様な錯覚に陥った。
「所詮私は“睡麒”ですので。自ら天下に雄躍する御身に付き合いきる自信がないもので」
「あら?その割には随分と名が轟いているわよ。『天救義志軍』……だったかしら?」
「しがない一義勇軍の軍師が分相応というものです」
胸の動悸が激しくなる。喉の奥が詰まった様に呼吸が苦しくなり、二人の会話が耳に届かなくなっていた。
「『天の御遣い』ねぇ……そんな眉唾物が、支えるに足る“器”だと?」
「人は夢を望むものです。そして……」
霞み、ぐにゃりと歪む世界の中で、司馬懿が何事かを呟いた光景を最後に―――
「――――――夢は、何者にも壊せない」
俺の視界は、暗転した。
「…………ッ……ァ、ッ」
目を覚ました俺の視界に真っ先に飛び込んできたのは、見慣れた天幕の天井と、俺の額に濡らした布を置こうとしていた戯志才―――稟の姿だった。
「お気づきになられましたか」
「こ、こは……?」
「大天幕です。北郷殿が倒れたという報せが入った時は、もう上から下まで大騒ぎでしたよ」
「随分と慕われているのですね」と、稟はクスリと笑みを一つ零して手近な所にあった椅子に腰かけた。
「特に司馬懿殿や鳳統殿の慌てようといったら……いえ、これは当人方から聞いた方が宜しいでしょう」
「なぁ、り――――――」
言いかけて、俺は咄嗟に思い出した。
そう、今目の前にいる彼女は“俺を知る”彼女でないのだ。
預けられていない真名を呼ぶ事は、許されざる事であると。
「なぁ、郭嘉」
「……え?」
途端、彼女―――戯志才の顔が凍りついた。
「あ……っ!?いや、ちがっ!」
「一刀!」
「一刀さん!」
訂正しようとしたその時、天幕の向こうから転がる様にして司馬懿と雛里が姿を見せた。
次いで天幕の中に入って来た朱里や趙雲、典医を連れ立った程立といった面々が顔を見せ、騒ぎが引いたのは結局日がすっかり落ちた頃合いになってからだった。
「…………」
「…………」
蝋燭の火が僅かに揺れる天幕の中、俺とり―――戯志才の沈黙が緊張と共に充満していた。
彼女にしてみれば、今までぼろの欠片も見せなかった自身の正体があっさり見破られたのだから不審に思わない筈もなく、今も俺を見つめるその瞳には警戒の色が露わになっている。
「…………」
以前―――曹魏で、華琳の元であったのなら、こんな風に彼女と二人っきりになれる訳がなかった。稟の傍らには常に風がいて、風の傍にはいつも稟がいて……
「あれ……そういえばふ、程立は?」
「私が言って聞かせて下がらせました。今は別の天幕で策を煮詰めている筈です」
言われ、別に確信もなく妙な光景を幻視した。
そう、なんか司馬懿の膝の上に当たり前の様に座っている程立に恨めしそうな視線を向ける朱里と、そんな彼女にあわあわする雛里と、表面上は冷静を気取りながら内心は凄まじく焦っている司馬懿の姿が。
……って、今はそれどころじゃなかったよな。うん。
「……話、ってのは、それじゃないよな」
「ええ……まぁ……」
唇が鉛の様に重たく感じられた。
言葉を発するのが、酷く躊躇われる様な……そんな感じだ。
「―――単刀直入にお伺いします。何故、私の“本当の名前”を知っていたのですか?」
「むふー」
「………………」
「…………」
「ぁ、ぁう……」
空気が、痛い。
割と本気で、雛里は泣きそうだった。
一刀が『戯志才と二人っきりで話がある』というから、自分達は別の天幕に布陣図を広げて策を煮詰めていたのだが……。
「しゅ、朱里ちゃぁん…………?」
「何ですか雛里ちゃん?私はとても冷静ですよ。ええ、冷静ですとも。現に今だってこうして、真剣に策を練っているんです」
それなら是非とも自分の方を向いて欲しいんだけどなぁ、とは口が裂けても言えない。
幾ら小さい頃から一緒で大親友とはいえ、逆剥けている鱗に触れられる程の胆力は彼女にはないのである。
事の起こりは実に唐突だった。
『では、僕らは明日に備えて策を練っておくとしよう』
そう言って、司馬懿が机の上に周辺の地形図を広げて椅子に腰かけた所までは良かった。
『では失礼しますよ~』
『―――は?』
『―――え?』
『―――ふぇ?』
司馬懿を中央に、右に自分が座り、その向かいよりやや司馬懿に寄り気味になりながらも朱里が座った所まではよかった。
問題は次の瞬間、程立があたかもそこが当然であるかの様に司馬懿の膝の上に座ったのである。
そしてさも快適とでも言いたげに「むふー」と息を洩らしながら司馬懿に全身を預けてトロンとした表情を浮かべたのである。
瞬間、朱里の表情が一変する。
『――――――』
『ひぅっ!?』
位置的に真正面から覗く格好となってしまったその瞬間の朱里の表情は、筆舌に尽くし難い。
どんな感じだったかは、朱里の名誉の為にも青ざめた彼女の様相から想像するに留めておきたい。
閑話休題。
兎も角、そんな訳で雛里は戦々恐々になりながらも懸命に事態の打開を図っているのだが……
「はふぅ……“仲達さん”の膝の上は落ち着きますねー。此処は風の特等席にしてしまいましょう」
「…………」
「おぅおぅ兄ちゃん、折角こんな間近で禁断の果実の芳しい匂いが嗅げるって言うのに反応しねぇのかい?」
「―――――――」
パキン、と小気味良い音を立てて、朱里が手に持っていた木製の駒が砕けた。
もしこれが離間策の類だとすれば、恐るべき効果である。
そんな、軽く現実逃避染みた事を考えながら、雛里は引き攣った表情で乾いた笑みを零す他なかった。
「天の知識、ですか…………」
一頻り説明し終えると、ふむと納得した様な面持ちを浮かべて戯志才……郭嘉は沈黙した。
隠し通すのは無理だと早々に悟った俺が言って聞かせたのは、有体に言ってしまえば「“天の知識”で知っていた」という事である。
あながち間違いでもなかったのだが、少しだけ心苦しい思いがあったのも事実だ。
「えっと……納得してくれた、かな?」
「……理解は及びません。が、納得するより他ありませんね」
言って、郭嘉はいきなり頭を垂れた。
「申し訳ございません、北郷殿。仮とは云え、仕える主を前に名を偽った事、深く謝罪致します」
「あ、アハハ……」
何と答えたものか。
返答に窮し、思わず苦笑いが零れた。
「……私は、出来るのであれば真に仕えるべき主以外には、本当の名前を名乗りたくはありませんでした。ですが、見破られていたのでは致し方ありません。―――改めて、私は郭嘉、字を奉孝と申します」
「あぁ、うん……宜しく、郭嘉」
言うと、何故か郭嘉はキョトンとした様な面持ちを浮かべた。
「……咎めないのですか?」
「咎めないよ。郭嘉の言い分も、俺には理解出来るから」
「……そう、ですか…………」
すると、何故か郭嘉は口元に手を当ててクスクスと笑みを零し始めた。
「フフッ……不思議な御方ですね、北郷殿は。そんな貴方だからこそ、この軍の者達は一様に貴方を慕っているのですね」
「司馬懿には時々説教されるけどな」
「司馬懿殿は司馬懿殿なりに、北郷殿の身を案じておられるのです。それに、私も彼の言には賛成する所が多々ありますので」
「これは手厳しいな」
肩を竦めながら言うと、郭嘉はフッと柔らかい表情を浮かべた。
「ですが……その優しさこそ、人が求めて止まないモノ。この乱世にこそ、必要な物なのかもしれませんね」
「郭嘉……?」
「―――“稟”と。そうお呼び下さい、北郷殿」
「……分かった。なら俺の事も“一刀”で構わないよ」
「その様にあっさりと自身を低くなさらない様に。今後は私もしっかりと指導させて頂きますので」
ツンとした様相で、実に満足げな表情を浮かべながら稟が笑った。
つられて、俺も俄かに表情を緩めた。
「さて……では私は風達の様子を見て参りますので、北郷殿はお休み下さい」
「ああ、じゃあお言葉に甘えて」
言って、天幕の入り口で一礼した稟に鷹揚に返事して、俺は寝台に身体を預けた。
『軍議の方はどうなって――――って、えぇっ!?』
『ぎ、戯志才ざぁぁああぁぁあんっ!!』
『おやおや稟ちゃん、もうオカン役が板についてしまったんですか?』
『だ、誰がオカンですかっ!貴方も星も散々そうやってからかって……って、ふ、風っ!?』
『……戯志才。色々言いたい事はあるが取りあえず頼みたい事がある。後で何でもするから今すぐコイツをどかしてくれ!じゃないと朱里が!』
『ふ、ふふふふふふふふふふふふふ、ふはははははははははは』
『しゅ、朱里ぢゃんがぁ……朱里ぢゃんがぁ!』
『そ、その体位は所謂背面―――ぶふっ!!』
『ッ!?お、おい戯志才!!その尋常じゃない量の鼻血をこっちに飛ばすなっ!!』
『か、かじゅどざぁぁあぁああぁあぁぁん!!』
『ふぅ……やれやれですねぇ』
―――何か聞こえた様な気もしたが、間違いなくとんでもない事になりそうだったのでさっさと意識をフェードアウトさせる事に全力を注いだ。
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華琳様の登場です。