『あなたはわたしの出来損ない』
幼いわたしにそう言った。
幼少のころは、わたしの周りには人が溢れていた。屈託のない笑顔が可愛らしいと評判だったようで「キョウちゃんはよく笑うねえ」と親戚のおばさんから言われていたことを今でも覚えている。確かに今よりは笑っていたことだろう。それは断言できること。
『あなたはわたしの不純物』
今なら意味が分かり得た。
母は厳しい人だった。母はこの世に生まれてから全てが一流だった。字も綺麗に書ける、勉強も勿論のこと、運動だって完璧にこなしてきた。それはわたしが実際に見てきたことじゃないけれど、わたしによく笑うね、と言ってくれたおばさんが保証人。証言者は母本人。だからわたしはそれを信じているし、疑っても意味のないことなのをよくよく理解している。事実、わたしの目から見ても母はとても優秀だった。
『あなたは無駄が多すぎる』
わたしの写真は燃えていく。
わたしの心は冷えていく。
わたしの生活は、ある時に一変することになった。母がわたしに初めての説教をしたとき。それは今でも忘れられない真冬の日曜日。小学校への入学が二ヶ月後と迫っていた。わたしは残り少ない保育園の生活を一日一日を大切にしようとしていて、明日が来るのが待ち遠しいと思っていた。夕食を食べたあとに母親に呼ばれて、幾つかの質問を受けた。それに答えるうちに、わたしは保育園での思い出を語っていた。話を終えると母はわたしの頬をパチンと叩いた。
『やれることだけをやりなさい』
まわりの鎖に身を任せ。
まわりの糸を切り捨てた。
それは短い説教だった。何をすればいいのかは分かりきっていた。今まで作ってきたものを忘れて、これからのことだけに専念をすればいいだけ。なんてわかりやすい方法だろう。やれることが少ない、裁量が悪いのなら、やることを少なくすればいいだけ。
母はとても優秀だった。結果的にわたしはそれから優秀生として名を馳せることになった。自分のことながら、最優秀と言っても過言ではないだろう。
『それをずっと続けなさい』
変わった私にそう言った。
今となっては懐かしい遠い日の思い出に過ぎない。それを考えることに意味はなかった。
――考えても行動に移さなければ何も変わることはできない。
私の生きた上での教訓。ありふれた言葉で、斬新さも面白さもない。
――優秀でなければ、意味はない。
それは母が私に教えた家訓のような言葉。父は物心を着いた頃にはいなかった。どうやら父は私が生まれて早々に亡くなってしまったらしい。不運な事故だったと聞いている。
『ようやくわたしらしくなってきたわね』
いつの日か言われた言葉が頭に響く。
思案をするのはここまで。浴槽に浸かりすぎても何も有益なことはない。さっさと脱衣所で体を乾かしてしまわないとならない。
長い髪を乾かしながら鏡を眺めた。不意に握っている櫛が包丁に見えて、髪を切っているように幻視した。鏡から目線を切って実際に櫛と髪を見てみるけれど、何も変哲はない。ただの錯覚。わたしはまた鏡を見る。櫛はまだ包丁に見えていた。それを驚く気にはなれなかった。
鏡の中の私を見る。それはとても綺麗である。幼い頃の私とは似つかない整った顔立ち。別の生き物のように光を反射する黒髪。生き方で人の形は変わるらしい。だからといって、これをわたしが望んでいるわけではなかった。鏡の中の私は孤独だった。寂しさは何もない、孤独ではなく孤高であると、虚勢を張っている。握りしめた包丁を髪に当てるとパラパラと髪が落ちていく。
鏡から目を離して、握った櫛を眺めても髪を梳かす用途以外は存在しない。母は今日はいなかった。台所から包丁を手に取ると、髪をばっさりと切り落としていた。不揃いな切断面。鋏を使わなかったのだから、こうなるのは分かっていた。落ちた髪を拾い上げて鏡を通してそれを眺める。
髪は糸となっていた。わたしが切り捨てると決めて捨ててしまった綺麗な糸。糸は結ぶことが躊躇われるほど綺麗に、そうさせる気力を削ぐほどの魅力を備えている。わたしはこれを捨ててきたのだ。わたしが備えているのはおかしいこと。
束になった無数の糸を眺めながら、幼少期の絆を思い出していた。一人ひとりの顔が浮かんでは消えていく。それを懐かしいと思いながら、私は包丁を束になった髪に沿わせた。
わたしはそれを切って切って、切り捨てた。
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切ったものは、残骸となる。