どうしてこんなことになっているのか。
眼前に迫った男の顔を瞬きもできずに見つめた。
皮膚の引きつった傷跡の残る顔の左半分とは別人のような、整った容貌を残したままの顔の右半分を無意識に見比べてしまった。初めて出会った日に目玉が潰れる程の事故だったと男が言っていたことを思い出す。
青味を帯びた右目が男の顔の左右を見比べる自分の目の動きを追っていたことに気付いて、同時に自分の不躾さにも気付かされる。ものの分からぬ小さな子供でもあるまいし、人の身に起こったきっと触れられたくないであろう箇所にズカズカと土足で踏み込んでしまった自分の軽率な行動に、男が気を害したのではないかと不安になった。
気まずさに視線を外して僅かに俯くと、それを合図にしたように男の顔が更に近付いて来た。慌てて目を閉じて身体を後ろへずらそうと試みるが、背中から回されていた男の手に肩をがっしりと掴まれていてその場から動けなかった。
あ。と思った時には男の唇が自分の唇に重ねられていた。
オレは真田幸村、十七歳。駅から自転車で十五分程の距離に建つ私立高校に通う高校三年生。駅前から学校近くのバス停を結ぶバスもあるのだが、中学時代に陸上部で鍛えた足腰を頼りに毎日一五分の道のりを自転車で通っている。馬鹿ではないがさして頭が良い方でもなく、元気だけが取り柄だと自分でも思っている。
この隻眼の男とのそもそもの出会いは3日前の夕方だった。学校の帰りに自転車で友人宅に遊びに行った帰りにこの男に出会ったのだ。
学校を出た時から雲行きが怪しかった。その日の朝の出掛けに見たテレビでも夕方あたりに一雨くるかもしれないようなことは言っていた。が、晴れ男な自分の運を信じて傘を持たずに家を出た。雨が降ったとしても、本気でペダルを漕げば普段は一五分かかる道のりも五分くらいは短縮できるだろうと踏んでいた。急遽帰りに友人宅に立ち寄ることになったが、用が済めば後は帰るだけだしなんとかなるだろ、くらいの軽い気持ちでいたのだった。
誰だってそうだと思うが、まさかタイヤがパンクするなんて思ってもいなかったのだ。友人宅を出て駅へ向い出してから、小雨が降り出した。頬に当たる雨に気付いて慌ててペダルを漕ぐ足に力を入れた間もなくのことだった。さっきまでと明らかにペダルの重さが違うことに気付いた。しばらく気付かないフリをしてみたりもしたが、そんな事でペダルが軽くなるわけでもなく、タイヤを傷めるだけだと思い直して大人しく自転車から降りて押すことにした。念の為に確認したタイヤは後輪の地面との接地面が自重で平らになるくらい空気が抜けていた。
せめてコンビニで雨宿りでもしようと思って、土地勘のない場所で勘を頼りに来た道とは違う道へ足を踏み入れたのもまずかった。大きな道路へ出ることを願って幾度か角を曲がったら、自分がどの方向から来たのかわからなくなってしまっていた。自分の行動の迂闊さに後悔しても遅かった。この歳になって迷子になるなど格好悪いことこの上ないが、最後の手段でこの辺が地元である友人に助けを求めようと携帯電話を取り出してみたものの、電池が切れていた。
日の傾きだした見知らぬ街角で本降りになってきた雨に打たれながら、パンクして荷物でしかない自転車を押しつつオレは心底途方に暮れていた。所々に立つ街灯の明かりを心の縁に歩を進める。もういっそ、その辺の家の門を叩こうかと思ってみたが、高校生が迷子などと恥ずかしすぎる。
季節は春になり昼間は暖かくなったとはいえ、日が落ちてから雨に当たれば体温を奪われて寒さを感じた。自転車を押す両腕を身体にくっつけるように脇を閉じ、本能的に体温の低下を防ごうとする。
誰か通ったら、恥を忍んでその人に駅までの道を聞こう。そう思って、自分では駅に通じていると信じている方向へ自転車を押しつつ歩きだした。
道の脇に桜の咲く坂道を自転車押して下っていると、前方から一台の原付バイクがこちらへ向かって走って来るのが見えた。手を上げたら気付いてくれるだろうか、そんな事を考えながら原付バイクのヘッドライトに目を細めて距離が縮まるのを待った。
雨だったからなのだろうか、雨の中自転車を押しながらそぼ濡れるオレの期待を余所に、原付バイクのドライバーはスピードを緩めることなくオレの横を走り去ってしまった。ガッカリしたが、ちらと横目に見て取れた身体に合わないサイズの原付バイクをがに股で操る人物がお世辞にも柄が良くは見えなかったので、正直声を掛けなくて良かったとも思った。
辺りを見回してため息を一つつき、寒さに肩をすくませると気を取り直して歩き始めた。
何分も歩かないうちに雨の降る音の中に「おい、にーちゃん」と呼ぶ声が聞こえた気がした。足を止めてみたが、地元ではない土地で声をかけられる心当たりがなかったので、空耳かと思い声の主を確認せずに再び歩きだした。
「おいって。」
今度はもっとはっきりと聞き取れた。何故なら自分の真横から声が聞こえたからだ。
驚いて声のする方を振り返ったら、先程の原付バイクを運転していた男が立っていて更に驚いた。がに股で窮屈そうに原付バイクに乗っているとは思ったが、間近で見た男は思っていたよりもまだ長身だった。見上げた男の髪は脱色しているのか、少し離れた所に立つ街灯の明かりに毛先がきらきらと透けて見えた。
頭上を叩く雨音に更に視線を上げると、男が差し出してくれていた透明のビニール傘によって雨が遮られていた。見知らぬ人間であるオレへの男の行動の意図が分からず、差し出された傘と見上げる位置にある男の顔を交互に見比べた。街灯の逆光で男の表情は確認できない。
「チャリがパンクしてんのか?」
傘を差し出したままオレから視線を外して、オレの身体を挟んで男からは反対の位置にある自転車を見ながら聞いてきた。
「あ。はい…」
あ。眼帯してる。物貰いかなにかかな…
自転車の様子を覗き込む男の顔の角度から、左目を覆う眼帯が確認できた。じろじろ見たら悪いと思いつつも、暗くなってきた中でも目立つ眼帯の白さをつい目で追ってしまう。
「直してやろうか?」
眼帯をしていない方の目がオモチャを見つけた子供のように楽しそうに輝いている。へ…?と間抜けな返事をするオレにその瞳を向けてきた。
「バイクとか車とか弄んの趣味だからな。こんなもんすぐ直せるぜ、オレ」
オレを見たまま得意げに言って、男はニヤリと笑って見せた。
これがオレとこの男、長曾我部元親との出会いだった。
「オレんちすぐそこだからチャリ直すんなら来るか?」
親指を立てて自分の後方を指して見せながらオレに確認してきた。知らない人には着いて行ってはいけません。なんていう幼稚園児の頃に習った標語が頭の中を過ぎったが、まさか高三にもなって人攫いに合うことなんかはないだろうと思い直して、男の申し出を有難く受け入れることにした。
すぐそこだと言っていた通りの距離に男の住むアパートは建っていた。かなり年季の入ったアパートで、昔の世帯向けの建物なのか一階にしか玄関扉はなく、二階部分も一階の借主の居住スペースのようだった。同じ作りの扉が横に4軒分並んでいるうちの右端が男の部屋と言うことだった。建物の側面に設置されたトタン屋根の自転車置き場の空きスペースにオレの自転車も置かせてもらう。
男が工具箱を取りに行った為ぽつんと自転車置き場に取り残されてしまったオレは、ここの住人の物であろう自転車とバイクの並ぶ様子をぼんやりと眺めた。古ぼけた蛍光灯の明かりがさっきオレを通り過ぎた原付バイクも照らし出していて、やっぱりさっきの柄の悪い男が今目の前にいるこの男なのだと思った。人は見かけに寄らないなと、雨に濡れた二の腕を摩りながら少し失礼なことを思う。
「あ。寒いか?風呂入ってくか?」
自分の部屋から使い込んだ雰囲気の漂う工具箱とバスタオルを両手に持って出てきた男がオレの様子に気付いたのか聞いてきた。
「や。さすがにそれはっ」
二の腕を摩っていた手を放して慌てて体の前で振って見せたが、オレの遠慮は敢無く却下されてしまった。
「子供が一端に遠慮なんかしてんじゃねぇよ。風邪引かれた方が後味が悪ぃわ。オラ、来い。」
工具箱を自転車置き場に置くとバスタオルをオレの頭から被せ、半ば強引に男の部屋に連れ込まれてしまった。狭い玄関にオレを残して一人で先に部屋に入っていった男の姿消えた先から、風呂に湯を張る用意をしている音が聞こえた。その音にオレは自分が引き下がる余地が残されていないことを悟った。
「オレ一人しかいねぇから気にすんな。上がって来いよ。」
覚悟を決めてのろのろと靴を脱いで男の声のする方へ向かった。
「狭いからすぐ湯溜まると思うから温まって来いよ。狭いから足は伸ばせねぇけどな」
男は冗談ぽく笑ってそう言い、オレを脱衣所に押し込めると出て行ってしまった。歯ブラシの立てられたコップが置かれた小さな洗面台と鏡を備えた洗面所を兼ねた脱衣所には、辛うじて全自動の洗濯機と古い型の乾燥機が置かれている。古めかしい建物のそこかしこからあの男の生活感が感じ取れた。
ふっと深い吐息をこぼすと、制服のネクタイの結び目に指をかけた。濡れて肌に纏わりつく制服を体から剥ぎ取って行く。脱いだこれらをどこに置いておけばいいのか確認し忘れたことに後から気づいたが、パンツ一丁になったこの姿で外へ出ていって行くのも躊躇われた。とりあえず少しでも乾くように洗濯機の上に重ならないように広げて置いて、浴室の扉を開けた。
男が「狭い」と言っていた通り、お世辞にも広いとは言えない浴室の空気は湯船に張られたお湯の湯気で肌寒く無い程度には温まっていた。足元に置かれていた洗面器でお湯を掬って、身体に掛ける。冷えた体には少し熱く感じたが、浸かれないこともない温度のお湯にそっとつま先を沈めた。ゆっくりと肩までお湯に浸かって古ぼけた天井を見上げながら、胸の空気を入れ替えるくらいの大きな息をついた。標準的な体格の自分でさえ膝を曲げた姿勢でしか浸かれないこの湯槽は、体の大きなあの男にとっては窮屈なのだろうなと、体育座りで湯槽に浸かる姿を想像してクスリと笑った。
ガラと脱衣所の扉が開く音に、慌てて背筋を伸ばした。
「お前の制服ずぶ濡れだから洗っちまうぞ?着替えオレのヤツ置いとくから、これ着ろな」
こっちの意見などお構いなしの男の発言に一瞬慌てたが、初めて会った人の前に全裸で出ていく勇気もなければ、反論する意見もないことに思い当たって、もう一度お湯に浸かり直した。
せっかく温まった身体にあの濡れた制服を纏うのは、想像するだけで不快だった。何時に帰れることになるのかわからないのかだけが心配だったが、これまでも友人と遊び呆けて帰りが遅くなることもあったので家族もそこまで心配はしていないだろう。風呂を出たら電話を借りて、遅くなることだけは家に連絡をしておこう。鞄もかなり濡れていたが、中に入っていた教科書なんかは大丈夫だっただろうか。そもそも今は何時なんだろうか。
体が温まって血の巡りが良くなったのか、さっきまでは思いもつかなかったことがめまぐるしく頭の中を駆け巡った。見知らぬ土地で迷子になって、自分で思っていた以上にパニックに陥っていたらしい。そんな状態に気付けなくなっていた自分に、今日初めて会ったのに親切にしてくれるあの男の事を今になって良い人なんだなと思った。
名前、なんていうんだろ。お礼言わなくちゃな…。
湯槽のヘリに頭を凭せ掛けて目を閉じる。そのまま眠ってしまいそうな自分に気が付いて慌てて立ち上がった拍子に、お湯が跳ねて結構な量のお湯が減ってしまった。
あ、お湯どうするのか聞けばよかった・・・
そろりと開けても音を立てる年代物の扉のせいで、脱衣所から顔を出したのを男にすぐ気づかれてしまった。
「お。あったまったか?」
「あ、はい。ありがとうございました」
扉の陰から出て男にペコリと頭を下げる。
「はっは!やっぱオレのじゃブカブカだなぁ!」
男の貸してくれた長袖のTシャツとスウェットパンツを履いているのだが、袖も裾も折り返さないと歩くのにも物を掴むのにも不便なほど丈が余るのだ。
「オレもひとっ風呂してくっから、その辺座ってテレビでも見てくれよ。冷蔵庫に飲むモンもあるから」
オレと入れ違いで脱衣所に入って行きながら、頭一つ分くらい低い位置にあるオレの濡れた髪をクシャりと一混ぜして体の横をすり抜ける。この歳になって人に頭を撫でられることなんてなかったから、思わず立ち止まってしまった。
「あ。パンク。直ってるからな」
思い出されたように言われて、そういえば修理してもらうためにここに立ち寄ったのだったと思い出した。
「あっ!ありがとうございます!」
礼を言ってからもう一つ頼みがあったことを思い出した。
「あの、電話借りてもいいですか?」
「おう、いいぜ。」
「ありがとうございます。」
礼を言うために振り返ったら、脱衣所の扉を開けたまま全裸になっていた男の後ろ姿が視界に入った。目のやり場に困って彷徨わせた視線が、鏡越しにオレを見る男の視線とかち合う。
鏡越しに見えた眼帯を外した男の顔を見て、オレは思わず息を飲んだ。
外は薄暗かったし、眼帯の白さが目を惹いていたということもある。ここへ来てからも角度的に男の顔を正面からは見てはいなかった。ずっと男の右半分の顔しか見ていなかったように思う。今思うと敢えてその角度からしか見えないように男が振る舞っていたのかもしれないと気付いた。
眼帯を外した男の左目は物貰いなどではなかった。
男の顔の左目を中心とした額から頬骨の辺りまでを覆う皮膚の引き攣れたような傷跡。引き攣った瞼の下の左目の辺りは本来あるはずの眼球の丸みがないように見える。
見てはいけないとわかっているのに、目が離せなかった。
オレの様子に気付いた男が鏡越しに複雑な笑みを寄越した。
「家にはちゃんと連絡しとけよ」
「あ、はい…」
声をかけられてはっと我に帰る。
浴室の扉の締まる音に、その場を追い立てられるように立ち去ると電話を探そうと視線を室内に巡らせた。視線は確かに室内を観察しているのに、オレの脳内ではさっき見た男の傷跡と、なんとも言えない哀しそうな笑みが交互に再生されていた。
男に借りた電話で家に連絡をし、友達のうちで雨宿りさせてもらっているから帰りが遅くなると、適当に誤魔化した。女の子ではないが、さすがに知らない人の家で風呂にまで入ったとは言いづらいし、言ったところで余計な心配をかけるだけだろうと思ったからだ。
受話器を置いて、改めて部屋の中をぐるりと見渡した。人の部屋をじろじろ見るなんて褒められた行動ではないのかもしれないが、勝手のわからない空間に取り残されている状況を思えば、人間心理としてやむを得ない行動だと思う。
一階は縦に長い一部屋なのかと思ったが、天井や壁などをよく見ると柱や仕切りの跡などがあった。もともとは小さな部屋として区切られていた空間の障壁をとなるものを取っ払ったといった印象を受けた。なんとなく、あの男の性格が垣間見える気がしたが、ここって賃貸じゃないのかな?と新たな疑問が沸いてくる。玄関を入ってすぐのところに二階に続く階段があったが、電気のついていない二階の様子は足を踏み入れなければわからないようだったので、一階の探索に戻ることにした。
玄関を入ってすぐ左にトイレがあり、その隣がさっき借りた脱衣所と浴室。階段下の本来なら押し入れ的な空間があったと思われる箇所の扉と上下に仕切る棚も取り払われており(跡があるからそうだったのだろうなとわかる)、三帖ほどの広さになっているキッチン。その奥に続く、(ここも元は壁ないし扉があったと思われる跡がある)四帖ほどの広さのダイニングの突き当たりに大きく開けられる掃きだし窓がある。ダイニングに足を踏み入れようとして、元あった引き戸の敷居の高さに合わせて周辺の床も高さを上げている事に気付いた。車やバイクを弄るのが趣味だと言っていたが、これもあの男が自分でしたことのような気がしてきた。
ダイニングに入って左の壁に三~四人くらいは座れそうなソファが置かれており、ラグを敷いた床の上にはホームセンターなどで購入できそうな簡単なテーブル。ソファの反対側の壁には天井の高さまで組まれたスチールラックにテレビとDVDプレイヤーやゲーム機が置かれていた。
全体的に雑然と置かれているが散らかっているわけでもなく、几帳面に並べられているわけでもなく、初めて入った部屋なのに不思議と居心地良く感じた。元あった部屋をそのまま使っているのではなく、そこかしこから漂ってくる手作り感に、子供のころに憧れた”秘密基地”的な要素を感じ取っているのかもしれない。ここにいるとなんとなく気分が高揚してくる気がした。
「なにやってんだ?」
借りてきた猫よろしく男の部屋を観察しているオレに、いつのまにか風呂から出てきていた男が声をかけてくる。驚いて振り返ると、バスタオルを腰に巻いただけの姿の男が脱色した髪をタオルで乱暴に拭きながらオレを見ていた。
骨格からしてオレとは造りが違うような男の体に、同姓ながら見入ってしまった。トレーニングなどで身に付いたのではなく、仕事などで必然的に鍛えられたのがわかる無駄な筋肉も脂肪もない上半身に目が奪われる。じろじろ見てしまっていたオレに男が近づいてきて目の前に立った。風呂上りの男の体からシャンプーの匂いを嗅ぎとって、変に意識して緊張してしまう。
男同士でこんな匂いに敏感なオレって、もしかしてちょっと変なんじゃないのか
そう思うと耳まで熱くなっていくの自分でもがわかり、目の前に立つ男の顔を見れなくて顔を上げられなくなった。
「よっ」
という男の声と同時に、男から借りたスウェットで覆われていた太ももに冷えた空気を感じた。驚いて自分の下肢を見ると男の右手がオレのスウェットを下引っ張ってへずらしているのが見えた。
「ちょっ、何するんですか」
顔を真っ赤にして引き下ろされたスウェットを引っ張りあげる。
「じろじろヤらしい目で見てるからだよ。このスケベ」
男がニヤニヤ笑いながらもすぐに手を引っ込めてくれたことに安心する。
男に着ていたものを全部洗われて、このスウェットのしたには何も履いていないのだ。ただでさえいつもと違って、下半身が心もとないのに、いきなりズボンを引き下ろされてかなりびっくりした。
まぁ、上に着ているTシャツの丈が長いのでズボンがなくても、前も尻も隠れて見えることはないのだが、と思っていたら男が
「てか、下必要なくね?上だけで足りてるよな」
なんて言い出したものだから、男の語尾に食い気味で「要ります」と返したら、男は楽しそうに笑った。
笑った男の顔にはやっぱり目立つ傷跡があったんだけど、オレの目にはその傷跡より男の笑った顔のほうがずっと印象的だった。
「オレ今から晩飯にすんだけど、腹減ってんだったら一緒に食ってくか?っつても、んな大したもんは出来ねぇぇどな」
バスタオル姿のまま冷蔵庫の中からビールを取り出し、片手で起用にプルトップを開けて美味そうに咽を潤したあと男が尋ねてきた。
今日初めて会った人物に自転車のパンクを直してもらい、家人より先に風呂に入り、その人の服まで借り、その上夕飯までとなるとさすがに気が引けてくる。この男はどこまで人がいいのか。もしかして、やっぱり何か下心なんかがあったりするんじゃないだろうかと疑いたくなってくる。
オレが答えに詰まっていると、その気配を察したのか男が説明するように笑いながら付け加えた。
「なんも魂胆なんかねぇから安心しろ。今日みたいにしょっちゅう犬猫拾ってきては、大家のばぁちゃんに迷惑かけてるんだよ」
迷惑をかけているとは言いながら、その笑顔には反省している様子がない。そもそも、高校生にもなる人間の男を捕まえて犬猫と同列に例えるとは、オレはもしかして怒るところなんじゃないだろうかと思ったが、男の悪気のない様子に拍子抜けしてしまった。
「制服が乾くまでまだ小一時間はかかるしな」
残りの所要時間を聞いた途端、空腹感を感じたオレの腹は実に正直だと思う。どうする?と重ねて聞いてきた男の問いに「いただきます」と答えたら、子供は素直が一番だと言って男がまた笑った。
今年の誕生日を迎えたら十八になるオレとしては「子供」「子供」と言われるのは心外なのだが、この男が笑ってくれるならそう言われてもいいかなと思った。
さっき脱衣所の鏡越しに見た悲しそうな笑顔より、今の楽しそうに笑っている顔の方が好きだと思った。
男が飲みかけのビールを流し台の端っこに置くと、階段の電気をつけて二階へ上がっていった。一階と同じように二階がどんな風に改造されているのか付いていって見てみたかったが、さすがにはしたないと思い大人しく一階で待った。程なくしてバスタオルを巻いただけだった姿から、ジャージの下と春にはまだ早いんじゃないかと思う半袖のTシャツに着替えてきた男が降りてきた。
なにか手伝おうと男と並んで台所に立ってみたが、むこうで待ってなと言われて大人しくダイニングにソファに座って待つことにした。台所からは何やら美味しそうな匂いがしてくる。その匂いにスンスンと鼻を鳴らしていると、そんなオレの様子を料理をしながら見ていたらしい男が「ホントに犬っころみてぇ」とまた笑った。
今日初めて会った人物に食べる物の用意までさせているのは気が引けたが、座って待っているこの部屋はやっぱり居心地が良かった。オレ一人ぐらいなら十分寝れそうなソファに横になりたい衝動に駆られたが、自分の家であるまいしと我慢する。
本当に不思議と居心地がいい。また来てはいけないだろうか?
と思って、あ。とあることに気付いたところで男が炒飯を盛った皿を両手にダイニングへ来た。立ち上がってその皿を受け取るとまだ何か作ってあたのか、男が台所へ引き返す。その背中へ尋ねた。
「お兄さん、名前は?」
「あ?まだ言ってなかったけ?モトチカ、だよ。長曾我部元親」
一息に言われた聞きなれない名前の長さに、どこまでが苗字なのかわからず困惑した。きっと顔にもはっきりと現れていたに違いない、オレの間抜けな顔を見て男がまた笑う。
「ちょうそかべもとちか」
ラーメンの入った片手鍋と重ねたお椀を両手にダイニングに踏み入れながら、今度はゆっくり名乗ってくれる。その辺にあった漫画雑誌を鍋敷き変わりに置けと言われ、男の指示に従いながら声には出さずに唇だけで今耳にした名前を口にしてみる。
「元親でいいぜ」
そう良いながら男はまた台所に向かう。カチッとガスコンロに火を灯す音が聞こえてて、まだ何かを作るのかと内心驚いた。炒飯を作ったフライパンに冷凍の餃子を慣れた手つきで並べると、新しいビールとオレ用にペットボトルのお茶を手にこちらへ戻ってきた。
「名前は?」
聞きながらラグの上に座り込む男に習って、オレもソファから降りて床に座りなおす。
「真田幸村です」
正座してぺこりと頭を下げた。
「幸村、か。まぁ、食えよ幸村。冷めちまうわ」
名乗ったばかりで下の名前を呼び捨てにされるとは思っていなかったが、嫌な気がしなかったので男に習って手渡されたスプーンで炒飯を掬って口に運ぶ。
「うま!」
お世辞ではなく飛び出したオレの言葉に男が得意気に笑う。
「だろ?昔中華屋でバイトしてた時に覚えたんだ。ま、ラーメンはインスタントだけどな」
茶目っ気を交えた男の口ぶりにつられてオレの口元も綻んだ。そのあと焼きあがった餃子もフライパンから直に取りながら、お互いのことについて色々な話をした。
通ってる高校と歳の名前に始まり、今日どうしてあんなところにいたのかとか。目に付いた部屋の内装のことを尋ねると、やはり男が改造したと言った。賃貸物件なのだが、年配の大家さんが好意で安く貸してくれている上に、大家さんが亡くなったらこの建物はご家族が取り壊してしまうことが決まっているらしく、大家さんの存命中で且つ隣近所に迷惑をかけないなら内装などは好きにしてもいいと言われているらしい。同じ建物内に住む大家さんの部屋の修理なんかもしているらしく、見た目によらず近所付き合いは上手にこなしているようだった。ちなみに男が拾ってきた犬猫の里親探しは顔の広い大家さんの役割なんだそうで、その辺もうまく出来ているようだ。
男の身の上なんかも聞かせてくれた。実は外国人の血が混ざっているらしく、脱色していると思っていた髪は地毛だと聞いて心底驚いた。コンタクトレンズだと思っていた青い瞳も、本物だということだった。子供の頃はその容姿のせいで苛められていたとか、成長して体が大きくなると知らないヤンキーにしょっちゅう絡まれた、とか。周囲の期待に応えてヤンキー高校に進学してやったという件には思わず噴いたが、よくよく聞くと昔から車やバイクに興味があって進学した工業高校が県下では有名なヤンキー高だったという話らしい。高卒で今も働いている板金工場に就職したが、仕事中の事故で左目の視力を失ったこと。
目玉が潰れるほどの事故だったと聞いて、オレは居た堪れなくなって、かける言葉を失った。
オレのそんな様子を見た男が、脱衣所で見せた笑みをまた浮かべた。
悲しそうな、寂しそうな、なにかを諦めたような、そんな感情を綯い交ぜにしたような笑顔だった。
さっきまで快活に笑っていた男にこんな顔をさせているのが、自分なのだとわかって更に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。溜まらず視線を外して俯いてしまう。そんなオレの頭を男の大きな手が、頭が左右に揺れるくらい乱暴に撫でてきた。
「興味本位で顔の傷を見られることも、無くなった視力が戻らない現実にも、なんとなくもう慣れたんだけどな。オレのせいで人にそんな顔させちまうことには、未だに慣れねぇ。仕方ないことなのかもしれねぇけどな」
男の見せた複雑な笑顔の理由を聞いて、怪我をしてからの周囲の人間の男への態度や、無遠慮に向けられたであろう数々の視線に、今までどんな気持ちで耐えてきたのか。男の気持ちを想像すると、居た堪れない気持ちがこみ上げてきて思わず目頭が熱くなるのがわかった。
気付いたときにはぼろっと大粒の涙が零れていた。あ、と思ったが涙は止まらなくて、顔を上げられなくて更に俯いて顔を隠した。
「おい、泣くなよ。おいって~」
突然泣き出したオレに男が慌てた様子を見せながら、床に転がしてあったティッシュを数枚引き抜いてオレの顔に押し当てた。またこの男を困らせてしまったと思うと更に泣けてきた。ぼろぼろと涙が止まらない。
テーブルの角を挟んで座っていた位置から長い腕を伸ばしてきて、そのまま男の肩口に頭を抱きこまれてしまった。
「お前さん感受性強すぎ。」
抱き込んだオレの頭を、揃えた指先でぽんぽんと軽く叩きながら男が呆れたように呟く声が耳のすぐ横で聞こえた。
「すみません」
困らせた上に呆れさせたと恐縮しいって謝った。
「でも、きっといいコなんだろうな、お前。いい環境で育ってきたんだろうな。幸村みたいなのが、オレと同じような目に遭わないことを祈ってるよ」
そう言って祈りを届けるようにオレの頭を抱く腕にぎゅっと力を込めた後、腕を解いてくれた。
肩口にくっつけていた頭を離す際に、こめかみの辺りにそっと口付けられた。内心驚いたが、外国の血が入っていると言っていたから、キスする習慣がある人なのかもしれないと思い直して、気付かなかったふりをして体を離した。
その後、乾燥機で乾かしてもらってほかほかになった制服を着直した。男の部屋を出る頃には雨はすっかり止んでいた。駅までの道を男に一緒に付いて来てもらって帰路に付いた。
最初に男とすれ違った坂道の脇に咲く桜が春の雨に散らされて濡れたアスファルトに張り付いた道をまた、今度は元親と他愛の無い話をしながら並んで下った。
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支部の方でもあげさせていただいている現パロ親幸小説の前編です。
ゆっきーが「ござる」口調ではないのでキャラが行方不明です...(汗)
誤字脱字も直してないです(汗)