手塚が「小さなコーチ」にレクチャーを受けるようになってから、数日が経っていた。いつものコートに集まり、いつものように壁打ちをする。今日はもうだいぶ長い間打っていた。手塚がラケットを下ろし、一息入れようとした、その時だった。
「あ、雨」
ミユキが手のひらを広げて、空を仰ぐ。手塚の頬にも一つ粒が落ちたかと思うと、地面の色がたちまち変わっていった。
手塚は小さくため息をついた。今朝方の赤く焼けた空が思い出される。雨の予感はしていたが、天気予報では、降り出すのは夜からだと言っていた。暗くなる前に帰るつもりだったので、傘は持ってきていない。コート脇に走り、ベンチにかけていたウインドブレーカーを羽織ると、今度は木陰で雨を避けた。この分では、今日の練習はお開きだろう。
「ウチ、傘ば持っとるよ」
ミユキが隣に駆け寄ってきて、鞄を探り始めた。ほどなくして赤いチェック柄の折りたたみ傘が出てくる。手渡された傘を開くと、手塚はわずかに眉を動かした。
「少し小さくないか」
子供用の、それも折りたたみ傘である。わざわざ手塚に手渡してくるからには、一緒に入って帰ろうという意味なのだろうが、二人では収まりそうにない。
手塚は軽く腰をかがめると、開いた傘をそのままミユキに差し出した。ミユキが怪訝そうな瞳で見つめ返す。
「これはお前の傘だ。持ち主が使うのが道理だろう」
「ほんなら、ドロボウの兄ちゃんはどげんすっと?」
雨はまだ小雨程度だった。このくらいなら、走ればさほど濡れずに帰れるだろう。元々、宿舎まではそう距離があるわけでもない。そう告げると、ミユキは途端に眉を吊り上げた。
「だめ! 風邪引いたらおおごつやん!」
すっかり「小さなコーチ」の顔をして、ミユキは厳しい口調で手塚を嗜めた。しかし、その言葉の裏に温かい感情が隠されているのは明らかだ。
「なんだ、心配してくれているのか」
「ち、違っ……ウチはドロボウの兄ちゃんのコーチだけん、まだ教えるこつもあるし……来れんごとなったらコーチも進まんけん……それだけ!」
ミユキが勢い込んで反論する。両の拳を握り、耳まで赤くしたミユキの姿に、手塚は面食らいながらも「そうか」と一言だけ返した。
「ドロボウの兄ちゃん、信じてなかね?」
ミユキは眉間に皺を寄せ、むくれた様子で手塚を睨んだ。膨らかした頬には、まだほんのりと赤みが差しており、なんともかわいらしい。しかし、それを口にすれば、ミユキはますますむくれるに違いない。この小さなコーチの機嫌をこれ以上損ねないためには何と言えばいいか、手塚は頭を働かせた。
「では、俺が風邪を引かずに帰れる方法を考えてくれないか」
選手の健康を気遣うコーチに伺いを立てる。ミユキは少しの間考えてから、顔を上げた。
「ほんなら雨の止むまでお話しよう」
断る理由はなかった。
コートの側に小さなクラブハウスがある。手塚とミユキはそのポーチへと場所を移した。小さいが屋根がついており、雨を凌ぐにはちょうどいい。わずかに足跡で湿った階段に腰を下ろす。
「今朝は晴れとったとにね」
ミユキが呟いた。タオルを頭からかぶって空を見上げている。
「いや、朝焼けが見えたし、天候が崩れるのは予想できた。こんなに早いとは思わなかったがな」
手塚は再び明け方の空を思い返した。
「ドロボウの兄ちゃん、そぎゃん早うから起きとると?」
ミユキの視線が手塚へと移る。それを気配で感じて、手塚もミユキを見た。
「そうだな、だいたい五時半には」
「え?」
ミユキの表情が固まる。手塚はもう一度「五時半」と言った。
「ウチのおばあちゃんとおんなじやん」
ミユキは目を丸くして大げさに驚いてみせた。その様子に、手塚は多少なりとも傷ついた。確かに、自宅では祖父と同じ時間に起床するばかりか、休日に行動を共にすることも多い。いくら年相応に見られることが少ないとはいえ、ミユキのこの物言いはまるで年寄り扱いされているようで納得がいかない。
「俺は中学三年生だ」
「ウチのお兄ちゃんとおんなじやん」
先ほどとまったく同じ口調でミユキが言う。天丼じゃないか、と手塚は反射的に思った。お笑いならまだしもこの状況でやられて面白いものではない。兄がいるのか、と尋ねる気力すら失った。
「そぎゃん早う起きて何しよっと?」
「そうだな、トレーニングをしたり、ラジオを聴いたり、色々だ」
「寝坊はせんと?」
「ほとんどないな。こういうことは一日でも絶やすと怠け癖がつく」
我ながら説教臭いと思いつつ、手塚は答えた。これでは年寄り扱いされても仕方がない。しかし、これは正論でありまぎれもない事実なのだ、と自分自身に妙な言い訳をする。実際、釣りや登山の際は日の入り前から起き出すことも珍しくない。しかし、そんなことを言おうものならまた年寄り扱いされるに違いないので黙っていた。
ふうん、と目の前でミユキが呟く。
「ドロボウの兄ちゃんは頑張り屋さんっちゃね」
思いがけず見せられた微笑み。心の中に突然できた日だまりの温かさに、手塚は返す言葉を忘れ、いや、そんなことはない、などと無愛想に答えた。そんな手塚をよそに、ミユキはまた笑みを大きくする。
「あ、晴れた」
ミユキが顔を上げて呟いた。つられて手塚も空を仰ぐ。先ほどまで地面を濡らしていた雨粒はすっかり退散し、灰色の雲の間からわずかに晴れ間が覗いている。幸い、水たまりもできていない。壁打ちを再開するのに問題はないだろう。
「少し打っていくか?」
「ううん、今日はおしまい。特別授業ばしたけん」
ミユキは立ち上がって砂を払うと、勢い良く階段を飛び降りた。
「ならね、また明日」
「ああ」
「ちゃんとウチの言うた通りに練習ばしとくとよ! 頑張り屋さんは上達も早かけんね!」
今のこの時間を特別授業と称するミユキは、少しあざとく強かだ。しかし、手塚の心には確かにその成果が残った。手塚は目を細めて走り去る背中を見送った。
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出会って数日のテニスコートにて。