戦場に在りながら麗羽は自分の思考を最大限にまで研ぎ澄ませる。頭に構築した戦略を具体的に今の状況に照らし合わせ、それが可能なのか、そして、それを行えば曹洪と曹仁という稀代の名将を打ち倒すことが出来るのかを考える。
自分の狙いは一つだけだ。
そこに至るまでの道を事細かく鮮明に描いていく。窮地の状況の中、麗羽の頭はいつよりも冴えていた。浮かんでは消えていく戦略を取捨選択しながら、自分たちの活路を見出していくのだ。
自分が戦場にいることも、周囲には敵兵が多くいることも、未だに敵の将軍たちが自分の首を求めていることも、既に麗羽の頭の中にはない。
雑音も雑念も全て取り払われた頭脳は止まることなく回転し続ける。
そして、それまでじっと瞳を閉じていた麗羽が静かに瞼を開くと、高らかに宣言した。
「これよりわたくしたちは勝ちを得ますっ! わたくしを信じ、勝利を願う者はわたくしに続きなさいっ! まずは味方の前曲を囲いより救い出しますわっ!」
麗羽の目指す勝利の形は、今の状況では作り上げることが難しい。
――とにかく小康状態に持っていきますわっ!
既に曹洪率いる騎馬隊と後続の曹仁の部隊がこちらの前曲に突入しており、乱戦の様相を見せている。このままでは彼女が描く方程式を組み立てる条件すらクリア出来ないのだ。
麗羽は腹に響いている鈍痛を構うことなく、斗詩と猪々子が奮迅している方へと足を向けた。この部隊を預かっているのは自分である。斗詩と猪々子ばかりに苦労かけるわけにはいかない。自分が誰よりも果敢に戦わなくてどうするのだと。
後ろを振り向く。
そこには部下が既に兵士たちの隊列を整えさせた状態で待っていた。いつ号令がかけられても良いと、その表情は言っていた。自分たちの指揮官がこのまま尻尾を巻いて逃げるような人間だとは思っていない。
永安の救世主が、孫呉の小覇王にも一目置かれる存在が、例え相手がこれまで以上の難敵であろうと、状況がこちらにとって絶望的であろうと、諦めるなんて選択肢を取るはずがない、と心から信用しているのだ。
「将軍、我々は既に準備は出来ています。すぐに下知を」
副官がそう告げると、皆も黙って頷いた。
「皆さん……」
麗羽は思わず微笑んでしまった。
そうだ。自分は一人なんかでは決してない。自分が出来ないようなことであろうと、隣にいる彼らが、戦友たちがそれを可能にしてくれる。自分の不甲斐ないところは彼らが充分に補ってくれるのだ。
「参りますわっ!」
麗羽の声に兵士が応える。
速やかに部隊を前進させると、まずは弓兵に射かけさせてこちらに注意を引き付ける。自分はまだ健在であると。お前たちが望むこの袁本初の首は、まだ胴体と繋がったまま存在しているぞと。
それに対して、曹洪が素早く反応した。
斗詩の部隊を囲んでいた部隊の一部を割いて、自らが先頭を切って麗羽の許へと殺到する。その果断に加えて、騎馬隊の一隊がまるで麗羽一人を求めてその剛腕を薙ぎ払ってきたように映る。
避けるか――否、無理だ。曹洪の部隊の突撃はこちらの反応速度を大きく上回る動きを見せる。今から左右の動きを命じて行動を開始しても、決して間に合うことはないだろう。
――ならばっ!
と麗羽は兵士たちに前へ出るように命じる。突貫を見せる相手に対して自殺に等しい行為だが、兵士たちは即座に命令に従う。そこに迷いもなければ、不信もない。ただ麗羽の言うことに信じるだけだ。
横への移動ではなく縦への移動。敵は飽く迄も一部隊を割いたに過ぎず、麗羽だけを狙ったその陣形は大きく縦へと伸びている。ならば、こちらが行くべき道は横でも後ろでもなく、敵の脇腹へ抜けることである。
小回りの利かない騎馬隊の死角を突くことで、麗羽たちはそこをすり抜けることに成功した。さらにそのまま斗詩たちを囲んでいる部隊へと突貫をかける。
敵の数を減らすのではなく、とにかく囲いを解くことだ。戦闘時間もある程度は経っている。曹洪の部隊は開始時点から常に前線で戦っていたのだから、これ以上攻め続けることは体力的に無理であろう。
――そこまで凌ぎ切れば勝機は見出せますわっ!
逆にこちらがこのまま突破されてしまえば、部隊は潰走してしまうだろう。斗詩と猪々子の個人の武のみでは勿論それを遮ることは出来ず、自分は討ち取られてしまう。もしそれだけは免れても、こちらには反撃するだけの気力はなくなっている。
斗詩の部隊は曹洪の兵士たちと対峙しているが、その周囲には曹仁の部隊が展開されている。猪々子がそれを必死に牽制しているものの、曹仁はそれを見事に無効化しているようだ。じりじりと囲みの中で斗詩の部隊が削られている。
麗羽は咄嗟の判断で、まずは部隊を曹洪の側面に突っ込ませたが、それにより斗詩の包囲は幾分かはましになった。曹洪がそこから離れたことが大きく影響したようで、斗詩はすぐに囲み一点に突貫した。
壁の一部を突破すると、斗詩はそこから兵士たちを誘導する。曹洪さえいなくなってしまえば、斗詩の金光鉄槌の猛襲を防ぐことが出来なくなり、とうとう麗羽の部隊に合流すること出来た。
しかし、それで難が去ったわけではない。
曹洪はわざわざそれを再包囲するということはせずに、斗詩は捨て置き麗羽に標的を絞ると、部隊を次々に突っ込ませた。その怒涛の波状攻撃にさすがの麗羽も後退せざるを得ないのだが、それを食い止めんと斗詩と猪々子が守備に回る。
麗羽を守ろうと両側より絞り込むように曹洪の部隊に肉薄する。それでも止まらない。兵士たちを削っていこうにも、曹洪がこちらにも攻める構えを見せているので、容易には抑えることが出来ないのだ。
――ちっ! この化け物めっ! アタイたちに囲まれても止まらねーのかよっ!
――こんな荒々しい用兵術なんてみたことありませんっ! あまり突出し過ぎるとこちらの方が被害が出てしまいますっ!
二人は内心で、攻めているのに守りに回されることに理不尽さを感じてしまうのだが、それでもどうすることも出来ずにいた。攻めるというシンプルな行為を最大限にまで昇華させた曹洪は止まらない。
麗羽は兵士たちを鼓舞しながら必死にそれを堪える。
――皆さん、耐えてくださいっ!
神にも祈るような気持であるが、神は彼女を救いはしない。戦とは無情である。力を振るい、戦功を競い、技術を誇る者が勝利し、劣る者は容赦なく殺されていく。それが戦であり、そこで戦う者に課せられた宿命なのだ。
勝利の女神が微笑む、そんな表現が使われることが多いが、女神は気まぐれに微笑んだりはしない。戦場で鮮やかに舞い、その身を満身の朱の色に染めた勇者にのみ、彼女は興味を示すのだ。
そのためには誰よりも多くの敵を殺さなくてはいけない。女神を微笑ませるために、戦に勝利するために。麗羽の悲痛な叫びは宙を舞うばかりで、目の前に肉薄する曹洪の兵士たちが麗羽の部隊を食い漁っていく。
止めることの出来ない曹洪の部隊の後方に位置する曹仁の後詰の部隊が、斗詩と猪々子に迫る。防御の巧みな彼は無理な攻めはしない。実直かつ堅実な用兵術は、焦る二人の心をよく汲み取ったうえで、嫌らしい部分を抑えにくる。
背後からとにかくプレッシャーをかけ、足並みを崩そうとする。姿は見えなくとも、猪々子にはあの巨体が放つ存在感を己に背後にひしひしと感じていた。それは兵士たちも同じようで、曹洪を止めるはずが、まるで追撃から逃れているようにすら見える。
そして、もう間もなく曹洪の部隊が麗羽を捉えようとしていた。壁となる兵士たちを根こそぎ打ち払い、その腕が麗羽の喉元まで迫ろうとしていたのだ。鋭利な爪先が首を切り裂き鮮血を求める。
と、そのときだった。
不意に曹洪の部隊が麗羽の部隊の右方へと方向転換したのだ。
部隊の側面を削ぐように移動すると、そのまま自軍の方へと撤退を開始した。それと同時に曹仁の部隊も帰還を命じたようなのだが、先の挨拶と同様に麗羽たちは追撃をすることなく、戦線から敵の部隊の撤収を確認してから隊を整えたのだ。
「麗羽様っ!」
「姫っ!」
斗詩と猪々子は居ても立ってもいられなくなり、副官たちに隊を任せて一目散に麗羽の許へと駆け寄った。部隊はかなり崩されていたものの、兵士たちの奮戦もあり、潰走だけは免れていた。
その中央に麗羽に立っていた。
さすがに焦りは感じていたのか、その額にはびっしりと大粒の汗を浮かべていた。しかし、二人の姿を確認すると、心配ないと言わんように軽く微笑を浮かべていたのだ。
ほっとそれに安堵する斗詩と猪々子であったが、麗羽の背後に立つ兵士たちが皆弓矢に構えていたことに気付き、何故曹洪の部隊が急に撤退を開始したのかを察したのだ。
曹洪が退いた理由、必殺の剣と言われる彼が退いたということにはそれなりの理由が存在する。あのまま攻め続けても麗羽の首級を挙げることが出来ないと判断したことには一つの理由があった。
麗羽はあの瞬間、このままでは曹洪の部隊に蹂躙される可能性が大きいことに気付き、ある決断をしたのだ。それは自分の背後に弓兵を集結させての一斉射。自らが射抜かれようと、敵に斬られようと、どちらでも構わぬ代わりに、曹洪を道連れにしようとしたのだ。
それは勿論、彼女の描いていた戦略とは大きくかけ離れたものではあるが、自分と曹洪の将としての重さを比べれば、それも勝利のためなら致し方ないと考えたのだ。
――わたくしの代わりはいくらでもいますわ。しかし、曹洪の代わりはおりません。前線を斗詩と猪々子だけで支えるのは難しいかもしれませんが、一刀さんなら誰か他の者を送ってくださいます。
一刀自身が聞いたら、おそらく麗羽のことを殴ってでも止めたろうし、またそんなことを考えた麗羽を叱るだろうが、麗羽はそれよりも自軍の勝利を選んだのだった。
麗羽が笑った理由。
それは斗詩と猪々子に心配かけまいとする想いもあったのだろう。しかし、おそらくはもう一つの理由があった。それが死なずに済んだことに対する安堵なのか、死ねなかったことへの苦笑なのかは定かではない。
一方、曹洪と曹仁は既に自陣へと帰還しており、部隊の被害の確認をさせていた。
兵士たちはかなりの疲弊もあるようで、陣へ到着するなり倒れる者もあった。
曹洪の指揮下にあり、まるで自分たちがその剣として振るわれるような感覚を覚え、普段よりもおそらくは能力を発揮出来た者もいただろう。しかし、それは同時に身体に大きな負担を与えることを意味している。
――だから短期決戦じゃねーとな。
自分の長所であり短所である特性を、曹洪はよく理解していた。
それに自分の体力的な衰えを否定することは出来ない。さすがに兵士たちの様に倒れこむような醜態は見せないが、それでも戦闘中は肩で息をしていたし、今もまだ全快まで戻っているわけでもない。
――あぁ、それにしてもあいつは面白い女だった。
思わず口元が歪んでしまう。ここまで自分の攻めを受け続けられた人間がどれほどいたであろうか。隣に並ぶ曹仁もそうだが、両手で足りる程度の数しかいない。しかも、それが凡将だというのがさらに面白い。
「む? 何がおかしいのだ、子廉? 将を殺せなかったことが悔しくてとうとう狂いおったか?」
「あん? 馬鹿言うんじゃねーよ。どこかのボケ爺と一緒にすんな」
曹仁は自身の髭を扱きながら、曹洪を挑発するようにそう言うが、彼が暗く笑う理由には気付いている。開戦まで抱いていた麗羽への何とも言えない恐怖心を、彼が持つ戦いへの欲望が上回ったのだ。そうなれば、もう曹洪を止められる人間はいない。
「それにしてもあの女人も大胆な行動をするのぅ。お主と心中しようとするとは恐れを本当に知らぬというか、真の愚か者というか」
「全くだ。ありゃ本物の馬鹿だぜ」
曹洪はこれまでの麗羽の行動を振り返る。
「あの女は一度戦場から離脱した。おそらくは部下がそうさせたのだろうが、それでも再び俺たちの前に戻ってきた。だから、俺はあの場があの女を殺す機だと判断した。戻ってきたということは、何かしらの策を練ったってことだろうからな」
「ふむ、その策が実行される前に策ごと首を落としてしまえば良いだけの話じゃからのう。あの乱戦では兵力と力だけが全てじゃ。小策などが通じる道理もない」
「だが――」
――殺せなかった。
曹洪はその言葉を呑み込んだ。
悔しいという気持ちがないわけではない。己の武に誇りを持つ者である以上、必殺という名を冠している以上、相手が生き残っている限り、それは自身の敗北を意味しているのだから。
だが、それ以上に楽しくなってきたと思っていた。
「あのときあの女の部隊の中枢にもう少しで届きそうだった。目の前で邪魔をする兵士たちを数人斬ればあの女の首に届いたはずだ。しかし、あの瞬間――今でも背筋に寒気が走るぜ。あの瞬間だけ、あいつは本当に死を恐れていなかった」
「…………」
その言葉に曹仁は無言で顎に蓄えられた髭を再び扱いた。
活路を見出した敵の将は乱戦状態を嫌い、そのために部下を援護に向かったはずだ。自らを曹洪の囮となり、囲みを崩したまでは良かったが、曹洪の猛攻がさらに苛烈なものになったのは不味かったはずだ。
活路を見出したということは、それはすなわち生への執着を強めることになる。どんな秘策を思い付いたとしても、死んでしまえば元も子もない。あの場面、もしも自分であれば兵を盾にしてでも生き残る道を選ぶ。
――しかし……。
「せっかく逆転の策を思い付いたというのに、それを捨てて俺を道連れに自分の死を選びやがった。自軍の勝利のためならあの女は喜んで死を選ぶような奴だ。本当にいかれているとしか思えねーよ」
「全く難儀な相手をすることになったのぅ。才のない凡人にして、恐怖を知らぬ狂人か」
遠くを見つめながら曹仁が呟いた。
「それから分かっておるの? 袁本初だけが敵ではない。その部下の将、顔良と文醜といったかの、あの者たちも侮ってはならぬぞ。あの二人の袁本初に対する忠義は本物だ。下手すれば死兵となるだろう」
「あぁ、あの馬鹿力はちと厄介だな。俺はお前たちとは違って普通の人間だからな。面倒だがあの女を一人殺せば済む問題じゃないだろう。次で決着をつけるが、三人纏めて首を落とす」
副官から被害の報告がきた。こちらはやはり大した被害はないようだ。兵士の士気も文句をつけようがないほどに充実しているし、次にぶつかったときこそは必ず勝てると二人は確信を持つことが出来た。
「よし、巡回の兵たち以外は休ませておけ。明日の朝、敵軍に向けて最後の突撃を行う。そこで戦を終わらせるぞ。お姫様の誇る精兵として最後まで敵を殺せ」
「はっ!」
副官は直立して去って行った。
曹仁と曹洪はこの戦いが自分たちの最後の戦場だと決めていた。自分たちもまだまだ若い将軍たちに負けるとは思わないが、それでも老いは感じていたのだ。自分たちは過去の人間であり、これからのことは今を生きる者たちに託すべきなのだと。
だからこそ、この最後の戦いは華やかに決めてやろうと。
そして、翌日が訪れたのだ。
緒戦、前日と変わらずに曹洪の部隊を先頭にした曹操軍は、益州軍に向けて進撃を開始した。それこそが二将軍の必勝の構えであり、常に攻め続け、守り続ける二人の生き様といっても良いであろう。
正に死闘日和の天候である。
空には雲一つなく、朝日が戦場を眩しく照らしている。決戦が始まってからというもの、地面には兵士たちの血が絶え間なく流れ、後世の歴史家たちはこの地を決戦の舞台として恒久に記し続けるだろう。
噺家たちもまたこの戦いのことを語り継いでいくだろう。天の御遣い、覇王、漢中王、小覇王、いずれをとっても英雄と呼ぶに相応しい人間が、己の誇りと大陸の覇権をかけて争ったのだ。
もしかしたら、この先鋒同士の戦いなど誰もが忘れてしまうものかもしれない。歴史家も噺家も、またそれを見聞きした民たちにも何の印象をも与えないかもしれない。今、戦場を駆けている者など、名前も残らずただの一人の将兵として脇役にすらならないだろう。
だが、そこに己の主が勝者として描かれるのであればそれで良いのだ。
漢王朝末期の混沌とした乱世を平定し、数ある大陸の雄たちと戦い続け、併呑した稀代の英雄として煌びやかに語られるのであれば、自分たちは名もなき登場人物で構わない。その礎として静かに歴史の底に眠ろうではないか。
その中の一人、曹子廉は先頭を駆けながら頭の中では既に戦闘を開始していた。
才能なき凡将に、まさか自分がここまで手こずるとは思わなかったが、自分が戦う最後の舞台としてはこれ程胸が熱くなるものはない。正に好敵手とは
金が好きで、女が好きで、戦が好きで、彼としてはこれまで生きてきた数十年間は紛れもなく充溢したものであった。
自分が仕えた主は誰もが見初めるような絶世な美女であり、戦にしか才能のない自分は彼女の許で大いに戦った。そして、その度に褒賞を与り、引退した後も貯蓄の日々に明け暮れていた。
――良い人生だったな。
ふとそう思った。
そしてその台詞がまるで最後の言葉のように感じてしまい、思わず苦笑いを浮かべてしまう。これは確かに己にとっては最後の戦いかもしれないが、だからどうということもない。
戦が終われば、また貯蓄の日々に戻るだけだ。鮮血に塗れたこの身を家にいる女房に拭ってもらい、愛すべき子供たちに囲まれながら、武人としての役割から父親としての役割に移るだけ。自分の倅くらいは他所に恥じない程度には強く鍛えてやろうとは思うが、それも戦の日々に比べれば平和である。
――さぁ、ひよっこども。俺の最後の戦場に華を添えてくれよ。
視線の先、敵軍の姿を捉えることが出来た。
その陣形を思う様に喰い千切って敵将を屠る。それが自身に課せられた任務であり、最後の仕事である。もう容赦はしない。情けもかけない。死を覚悟してこちらに挑むなら、それすら呑み込む程の一撃を叩き込むだけだ。
と、瞳に映る敵の姿を見て違和感を覚えた。
――あの陣形は……?
敵はずっとこの戦いにおいては堅陣を布いていた。こちらの騎馬隊の威力を抑えるために小さく纏まり、騎馬隊での攪乱をしてきたのだ。それが、自分の攻撃を凌ぐためには最善の選択肢であるとは、自分でも認識している。
しかし、目の前に広がる敵の陣形はそれとは大きくかけ離れていた。
――鶴翼だと?
陣を広く展開してこちらを待ち構えている。しかし、鶴翼は敵を包囲し殲滅するためのものであるが、陣を大きく伸ばしてしまうために、どうしても薄くなってしまう。そうなると自分の率いる騎馬隊の突撃を受け止めることはおろか、一瞬で突破されてしまうだろう。
――何を考えていやがる……。
昨日の戦闘において、敵将が何か閃いたということには確信があった。自分と曹仁の猛攻を受けてほとんど虫の息だったが、急激に動きを変えたのだ。突破口を見つけたに違いないと判断したのだ。
だが、それすらも昨日の戦いを拮抗状態に持ち込むための芝居だったのであろうか。そうだとしたら、拍子抜けも良いところである。既にこの戦いにて有終の美を飾ると自分に言い聞かせているのだから。
まるで自分の誇りを穢されたような心地がして、頭に血が上りそうになる。しかし、その寸でのところで、曹洪は違和感を得たのはそこではないことに気付く。
――陣が伸びすぎてやがる。あれじゃ俺たちを包囲することも出来ない。
鶴翼とは文字通り、翼を広げたような形をしている。両翼で敵を包み込み、その中でじわじわと敵を圧死させるのだ。しかし、姿は似ていても、それとは違っている。
『く』の字のように展開させるべきところを、伸ばし切っており、さらには中央部分、おそらくは麗羽がいるであろう所だけは、何故か異様に分厚く展開しているのだ。
それは自分の身を守るためではないということは分かっている。そのような保身に走るような相手ではないのだ。それに仮にそうだとしても、方円陣すら食い破る曹洪の突撃をそれで防げるはずがないことは麗羽にも分かっている。
単なる鶴翼ではないことに気付き、くくっと低い笑い声を発する。そうでなくては面白みがない。相手は勝利のためなら平気で死を受け入れるような馬鹿だ。平凡な将にして、平凡な手を打つはずがない。
そこに隠されるのはどんな罠か。
こちらを死地へと誘う魅惑の布陣か。
必殺の剣をもへし折る死刑台か。
「伝令っ!」
「はっ!」
「後続の曹仁に伝えろ。我らはこれより敵陣深くへ突撃を開始する。こちらが敵部隊へと食い込んだことを確認し次第、その後に続くように、と」
「はっ!」
伝令の兵士は内容を復唱すると、速やかに後ろへと駆けて行った。
――いいぜ。乗ってやんよ。お前の馬鹿に俺も付き合ってやる。
曹洪は剣を抜き去ると上に掲げた。突撃の合図である。その剣先を敵の方へ振り下ろせば、兵士たちは恐れを知らぬ獣へと変貌を遂げるのだ。退くことも、守ることも知らぬ、ただ敵を食い殺すだけの巨獣へと。
剣を大きく振った。
馬腹を思い切り締め上げて前へと突出する。後ろに続く兵士たちもそれに伴い速度を上げる。
麗羽だけを狙うのであれば、標的は敵陣の中央であるが、敢えて曹洪は中央ではなく左翼との連結部分に狙いを定めた。まずは敵陣を切り離して各個撃破、それを取り繕うと動くであろう左翼が目標だ。
それが罠であろうと何であろうと、自分は攻めるという以外に選択肢はない。攻めて攻めて攻めて、力で罠ごと粉砕する。それが自分の信条でありこれまで培ってきた勝利への道である。
こちらの動きに合わせてか、敵陣が徐々に展開し始めた。
――包囲なんぞさせてやらねーぞっ!
そのまま敵陣へと突っ込む。その壁を突破して、その後に反転して一気に勝負を決める。
止まらない。
止めれない。
止めさせない。
が、直後に敵が大きく動いた。
動いたのは左翼だけでなく右翼もだった。
左翼は先端部分を広く展開させ、こちらを呑み込んで包囲するような動きを。右翼はまるでしなる鞭のようにこちらを粉砕するような動きを。こちらの動きに合わせるように素早く部隊を動かしたのだ。
そう、まるでその様は……。
――蛇……、常山の蛇かっ!
麗しき羽を持つ華麗な武将、袁本初。
彼女が曹洪と曹仁、二人の猛将を相手に切ったカードの一つ。
彼女はその姿を巨大な蛇へと変えたのだった。
あとがき
第九十話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
さて、今回は麗羽の策のその一端を披露する回でございます。
二将軍を相手にかなり苦戦を強いられている麗羽様ですが、斗詩と曹洪の戦いを見てある策を思い付きます。
そのためにまずは敵部隊を弾き返さなくてはいけないのですが、やはり曹洪の攻めは受け止めることすら困難であり、最終的には麗羽は己の死をも覚悟するのです。
それにより曹洪は自軍の疲弊と、このまま攻めても麗羽の首級を挙げることは出来ないと判断して、いったん自軍へと撤退するのです。
さてさて、中盤は曹洪と曹仁に視点を移して麗羽たちとの決着を固く誓うのですが、まだまだ登場したばかりということで、上手くキャラを動かすことが出来ませんね。ややぐだぐだになってしまったのは否めません。
己の最後の戦いを前にして漢らしい姿を描写したかったのですが、なかなか都合よくは書けないものです。男のオリキャラは過去にも何回か書いたのですが、やはり難しいです。
さてさてさて、終盤になり、決着のために益州軍へと向かう曹洪の目に映ったのは、常山の蛇と呼ばれる陣形ですね。頭を打てば尾が助け、尾を打てば頭が助け、胴を打てば頭と尾が同時に助けるというものです。
それが麗羽様の策の最初の一手になるのですが、これからどのような展開になるのでしょうか。
皆様に妄想して楽しんでもらえればと思います。
では、今回はこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
Tweet |
|
|
44
|
1
|
追加するフォルダを選択
第九十話の投稿です。
曹洪、曹仁の猛攻に耐えながら、麗羽は一つの策を見出す。勝利を得るためにどんなことをも厭わない麗羽に対し、曹洪と曹仁は全てをかけて勝負をしかけるのだ。そして、麗羽は勝利の方程式の布石のためのカードを切るのだった。
コメントしてくれた方、支援してくれた方、ありがとうございます!
続きを表示