薄暗い部屋、光源となるのは、窓から差し込む蒼い月明りだけ。
その男は、グラスに入った琥珀色の液体を傾けていた。
時折、グラスと氷がぶつかる乾いた音が響くだけで、それ以外には音一つない。
男の目の前には、琥珀色の液体が入ったボトルが乗ったテーブルと、
それを挟んでもう一つの椅子があるが、そこには誰も座っていなかった。
「これ、オススメだからよ」
と言い、親友がボトルを持ってきたのは半日程前か。
飲兵衛の彼が持ってきたそれには、芳醇な香りのする洋酒が入っていた。
「ありがたいが…貰ってもよいのか?」
「お前なら数日で全部飲み干したりはしねーだろ? まぁ後で二人で飲もうぜ」
「ああ、まぁ確かに飲み干す事はないが…」
「俺が持ってたらアイツに没収されちまいそうでよ」
アイツ、とは彼のパートナーの事か。きっとそれが本音なのだろう。
「まぁ飲み干さない限りは適当に飲んでいいぜ? じゃあな」
と言葉を残し、親友は早々に去っていった。
男は飲兵衛というわけではないが、下戸というわけでもない。
こうやって一人で飲むのも悪くない。
そう思いながら、グラスをまた傾ける。
口の中に広がる芳香と、深みのある味わい、そして微かな酔いが、とても心地よかった。
そして月明かりの中、酔いに包まれながら、色々な事を思い出していた。
パートナーと出会い、このパラミタの地に来て、色々な事を経験し―――
そしていつもそばには、パートナーが……彼女がいた。
今の自分は、彼女を守るためだけに生きている。
恋愛感情も含まれている事を彼は自覚しているが……それ以上に。
“彼女を守るべし”という、使命という名の強迫観念、
もしくはその使命に対しての依存に近いものがある事に、彼は気づいていた。
昔の……過去の自分はどうだったのだろうか。
彼は、今のパートナーに出会うまでの記憶がない。
それ以前の自分が、一体何を目指し、何を信条としていたか、全く持って覚えていなかった。
覚えていたのは、ただ「ディートハルト・ゾルガー」という名前のみである。
彼は、昔の自分へ思いを馳せる。
やはり、誰か一人を守るために身を挺していたのだろうか。
それとも、もっと大きなものを守ろうとしていたのだろうか。
喪われた過去に執着は無いつもりだが、それでも、ふと考えてしまうと、思考は止まらない。
…ふと、視界が歪んだように見えた。
飲みすぎたか。そう、思ったが。
向かいに位置する椅子に、誰かの姿が見えたように感じた。
いや。気のせいではない。
確実に、目の前に誰かの姿が浮かんでいるのだ。
だがその姿は、まるでピントのあっていないスクリーンのように、
まるで揺らめく水の表面に映るかのように、
揺らめいて、ぼんやりして、はっきりと明確にはならなかった。
女か男か、何となく見えている体格だけではいまいちよく分からない。
黒い長い髪は、彼のパートナーの姿を一瞬連想させたが、
雰囲気は彼女と似ても似つかなかった。
その人物は、彼と同じように手にグラスを持ち、恐らく彼に語りかけている。
だがその声はとても遠く聞こえて、何を喋っているのかはっきりとは分からなかった。
あぁ、もしかして、これは―――
過去の記憶ではないのだろうか。
彼は、そう確信した。
明確な理由はないが、それでもそう感じたのだ。
少しずつピントが合ってきたように、その人物の表情が分かるようになってきた。
その人物は、至極愉快そうに話を続けている。
おそらく、彼と話す事が楽しいのであろう。
それでもまだハッキリと見えるわけではない。
必死に過去を観ようとしている彼の耳に、声が届いた。
「…だろう? なぁ、Zeu――」
ぷつり、と。
そこで目の前に浮かんでいた幻想も幻聴も、途絶えてしまった。
目の前の椅子には、もう誰も座っていない。
あの幻覚は、酔いのせいか。
酷く曖昧だったその人物も、今は存在すら疑わしい。
そして、あの人物が発した言葉は。
聞いたことの無い言葉。聞いたことの無い響き。
確実に、彼に向けて放たれた音。
まるで、誰かの名前を呼ぶような……
彼は、そこで思考を停止した。
考えても意味は無い。
過去がどうだったかは分からない。
だが。
少なくとも今は。
今の彼は“ディートハルト・ゾルガー”であり、
彼の使命は、パートナーを守る事である。
―――今の自分には、その事実があれば十分だ。
そう、言い聞かせる。
静寂が辺りを支配する中で、カラン、とグラスと氷がぶつかる乾いた音が響いた。
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蒼フロ・自キャラの過去に関わるようでよく分からないSS。