No.404308

心の羽音(前編)

小市民さん

皆さん、お久しぶりです。小市民の新作をお届けします。
とある音楽大学のキャンパスの片隅にある楽器資料棟で、一人、ヴァイオリンのレッスンを続ける学長・大国 誉(おおくに ほまれ)の元に訪れた器楽科二年生の大国 美奏(おおくに みか)の目的は……という物語です。
楽器資料棟は実在の音楽大学の楽器博物館を参考にしていますが、物語は全くの創作です。「恩師からの伝言」の二番煎じですが、お楽しみいただければ幸いです。

2012-04-07 18:51:43 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:492   閲覧ユーザー数:486

 不意に、楽器資料棟から華麗なヴァイオリンの調べが、辺りへ舞うように聞こえ始めた。

 春休み期間中ではあったが、職員は無論のこと、自主的に登校している学生も多く、誰の顔にも緊張が走った。学長で日々、技術の鍛錬を怠らない大国 誉(おおくに ほまれ)の演奏だった。

 住宅街に面した正門の傍らに白いモクレンが咲く、西武音楽大学江古田キャンパスの最も奥まった一角にある鉄骨鉄筋コンクリート造三階建のこぢんまりとした楽器資料棟は、昭和三十五年に建てられ、レッスン室もある現役の校舎であると同時に、世界各国から集められた楽器が展示・公開された希少な存在だった。

 西武音大は、戦後の昭和二十四年創立と、私立の音楽大学としては後発だったが、国内外の音楽業界で活躍する著名人を多く輩出した実績をもつ。

 国立の帝国大学音楽部、私立の西武音大のそれぞれの大学院を修了している、と言えば、かなり通りがいいほどだった。

 こうした名門校の江古田キャンパスの学長を務める誉は、平成三年に五十歳で学長に就任し、現在では七十一歳の高齢でありながら、自ら教鞭を執る熱意にあふれた姿勢は、学内からは親しまれた存在だった。

 誉が演奏する曲目は、J・S・バッハ作曲の「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中の「ソナタ第1番ト短調BWV1001第2楽章フーガ」である。

 このフーガを演奏するには、極めて高度な技能が要求される。

 活力に満ちた推進力と勢い、明快な構造、ヴァイオリンの性能を極限まで活用した持続音、こうした残響を利用しての旋律を交えた和音も表現される、という難易度の高い壁が立ちはだかるが、誉の老いた横顔からは、奏者も、聴者も楽しむこと、それ以外のものは一つとして窺えない。

 誉は、どれほど多忙であっても日々のレッスンを怠ることはないが、その日その日に使うレッスン室は異なっている。

 江古田キャンパスに建ち並ぶ校舎は、休校日であっても熱意にあふれる学生達が自主的に登校して来ては、レッスンに余念がないため、誉は気を遣い、平日の昼間は人気のない楽器資料棟を用いるのだった。

 楽器資料棟は、展示室に充てられた部屋もあれば、レッスン室もある。

 楽器の保管を優先されることから、どの部屋も分厚いカーテンが引かれ、湿度・温度を保とうと、いささか暑くエアコンが設定されていることは仕方がない。

 今日、誉が使っているのは、二階の「Q25 西洋弦楽器2」と名付けられた展示室で、室内には、ポピュラーなヨーロッパの弦楽器がずらりと展示されている。

 古いものは、十七世紀に製作されたヴァイオリンで、カエデ材を用いた裏板は、 まるで無造作に粗目の紙ヤスリでもかけたかのように表面仕上げのニスがはがれ落ち、製造時のように征目面がむき出しになっている。

 もはや修復も不可能なほど愛着をもって使用され、ようやくに休息を得たような来歴の重みを無言で訴えている。

 誉が、 J・S・バッハのケーテン時代と呼ばれるレオポルト公に仕え、人生のどの時期にもまして室内楽曲と器楽曲の作曲に没頭していた時期に書いた意欲作とされる無伴奏ヴァイオリンのための六作品のトップを飾る第一番の第二楽章フーガを六分かけて弾き終えると同時に、二十歳の孫娘で、西武音大江古田キャンパスの器楽科二年生に在籍する大国 美奏(おおくに みか)が静かに入室してくると、すぐにJ・S・バッハ作曲の「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043」の第一楽章ヴィヴァーチェの演奏を始めた。

 このヴァイオリン協奏曲も当時の環境から、バッハのケーテン時代の作品とされている。

 バッハ作曲のヴァイオリン協奏曲と断定出来るオリジナル作品三曲に含まれ、「2台のチェンバロのための協奏曲ハ短調BWV1062」に編曲されており、作曲家自身からも深い愛着を感じられる名曲であった

 聴きどころは、フーガ風のリトルネッロ主題が反復される中で、二つのソロが精妙なかけ合いを演じることである。

 すなわち、二つのヴァイオリンがまるで対話をしているかのように聴衆には見え、聴こえる。これを実現するには、第一ヴァイオリンと第二のどちらが主で、どちらが従、という扱いはなく、全く対等とされる。

 奏者達にも同等の技能が求められ、どちらかが独断専行しようものなら、作品の世界観がぶち壊しになる。

 美奏は、住まいでは「おじいちゃん」と呼ぶその人も、登校すれば「学長」であり、「大国先生」であり、大先輩となる誉に、「さあ、ついてこられる?」と、言わんばかりの選曲に、誉は苦笑すると、すっかり成長した孫娘の期待に応え続けた。

 四分少々の第一楽章の演奏を終えると、誉と美奏は、ほっと表情をゆるめ、手近にあった古い折りたたみ椅子を広げた。

 誉は、横柄とは異なる威厳を漂わせ、浅くゆったりと腰を下ろしたが、美奏は孫娘ではなく学生という立場から、深く座り、威儀を正した。誉は、

「ずいぶんと上達したね。俺もたじたじだったよ」

 静かに微笑み、美奏を見つめたが、

「とんでもありません。大国先生は演奏をすることを本当に楽しんでいらっしゃいますが、わたしはもう、次はどうだっけ? 次はこうしなきゃ! と楽譜に追い立てられるような思いでした」

 偽りのない感想を語った。誉はふと、普段、持ち歩いているバックの中から古びた何の変哲もない大学ノートを三冊と小さな鍵を取り出すと、

「美奏には、本当に済まないことばかりを続けてきた歳月だった。大切な孫娘の一度限りの人生を大きく損なってきた祖父であったと思う。これ以前のものは、学長室のサイドボードの一番下の引き出しにしまってある。美奏に渡し、バアさんと両親の仏前に供えてやることが、適切だと思う」

 清澄な瞳で言った。

 美奏は祖父から手渡された大学ノートを繰ってみると、それは日記だった。

 誉は昭和十六年に東京で生まれ、早くから西洋楽器に興味をもち、帝国大学音楽部と大学院を修えた後は、京浜交響楽団のヴァイオリニストとして活躍を続けたが、平成三年の五十歳のときに、西武音大江古田キャンパスの学長に請われて就任した。

 こうした誉には、息子が二人いて、長男は豊島区役所へ入り、次男は横浜の倉庫会社に職を求めた。

 二人とも音楽家を志さなかったのは、音楽家は芸能人も同じ、実力以外のところで妬まれ、うらやまれ、恨まれる。果ては、卒業校や支持する政党によって作った派閥で足を引っ張り合う。自分たちはそんなつもりで社会人になるのではない、想像だにするにぞっとする、として父とは全く異なる道へ進んだのだった。

 そうした次男夫婦の間に、平成四年に生まれたのが美奏で、名前をつける際、「音楽」や「楽器」を想起させる「奏」の字を入れるのは困る、と長男夫婦まで巻き込んで猛反対されたことがあった。

 誉は、美奏は絶対に楽器演奏に関連した道へはやらない、と確約して命名したのだった。 しかし、平成八年に誉が南青山に竣工したコンサートホールのこけら落としとしてドイツの著名な楽団を招き、この楽団からヴァイオリンのソロ演奏を懇請されたのだった。

 誉は、もはや交響楽団員ではなく、私立大の職員に過ぎないことから丁重に辞退したが、当時は、西武音大が生徒不足から入間キャンパスの縮小を考えていた頃でもあり、大学側の意向もあって、出場しないわけにはいかなくなったのだった。

 誉は招待券の枚数の関係から、次男夫婦とたまたま次男夫婦が住む横浜・本牧の家へ遊びに行っていた妻を招待した。

 四つの幼子だった美奏は、長男夫婦に預けられた。

 コンサートが行われたその日の首都圏は、風雨が激しく、首都高湾岸線を本牧ふ頭インターチェンジから入った妻と次男夫婦の乗用車は、東品川で首都高一号羽田線へ乗り換えたそのとき、前方を走っていた十トントラックが不意にスリップし、その側面に衝突したばかりか、後続の車両に次々と突っ込まれ、三人とも即死という悲劇に見舞われてしまったのだった。

 一瞬にして、両親と祖母を亡くした美奏は、長男夫婦が養子に迎え、実子同然に育てる、と主張したが、美奏自身は「おじいちゃんの子になる」と誉と同居すると言い張ったのだった。

 以来、美奏は駒場で祖父と二人暮らしを続け、同時に長男夫婦が何くれとなく面倒を見続けた。

 しかし、学長と祖父の両立は想像以上に難しく、美奏が幼い頃は、運動会や学芸会で活躍する、と聞いても誉は足を運んでやることも出来ず、その度に長男夫婦に厳しく責められた。

 当の美奏は、早くからヴァイオリン演奏に引きつけられ、公立高校を修えた平成二十二年、西武音大江古田キャンパス器楽科を受験し、見事に合格した。

 こうして、美奏は誉を自宅では「おじいちゃん」と呼び、キャンパスにいる間は「学長」と呼ぶ、いわば公私の別、というと聞こえはいいが、どこかゆがんだ生活を続けている。

 美奏は祖父から手渡された日記をぱらぱらとめくってみると、

 

 平成二十年七月二十日

今日こそ早く帰宅出来るはずだったが、突然、私立音大連絡会の呼び出しを受けた。一体、何の用事か? 美奏の十六歳の誕生日を祝ってやりたかったが、残念の一語。またも孫娘に孤独を味わわせ、妻にも勇(いさむ)夫婦にも詫びる言葉もない。

 

 勇とは、美奏の父であり、誉の次男だった。この記述から窺えるのは、今日は会議が、打ち合わせが、レッスンがあってと、誉は早くに帰宅出来ず、美奏を放り出した生活を送り続けることを美奏に、そして故人に詫び、許しを請う歳月を送り続けているのだった。

 

 平成二十二年四月五日

今日より美奏が西武音大江古田キャンパスに通う。あれほど勝(まさる)夫婦に美奏は音楽に関した道へはやってくれるな、と言われていながら、人生とは全く不思議という他はない。十八歳の娘に自宅では「おじいちゃん」と呼ばせ、大学では「学長」と呼ばせる身勝手な老人を、よく慕ってくれる。不思議な子を預けてくれた勇夫婦と妻には頭を垂れるばかり。

 

 美奏自身の意志で誉と同じ道へ進んだにも関わらず、故人にひれ伏す誉の姿勢が迫る一文だった。

 

 平成二十二年十月二十九日

美奏が学内コンサートの初舞台に立った。その立派な姿に、家族へようやくに申し開きが立ったと思う。感無量とは正にこのこと。

 

 美奏の成長を心から祝う記述もある。

 美奏はあの出来事、この節目で何も口にしなかった祖父であっただけに、大きな心の動きもなかったのだろう、と考えていた。しかし、自分の一挙一動に心をさざ波立て、片時も目を離すことなく、見つめ続けていたのだった。

 同時に、学長と祖父との両立に常に心を痛め、事故死をした家族に許しを請うていたのだった。

 美奏は大学ノートを閉じると、祖父を見つめ、

「あのね……おじいちゃん……もう、いいの。……もう、おじいちゃんは、いいの……いいの」

 ぽつりぽつりと呟いた。誉は、ふと、寂しそうに笑うと、

「おい、照れくさいから、あんまり、そのノート、読まんでくれ」

 ふと、姿を透かしたかと思うと、ゆっくりと音もなく消えて行った。

 美奏は、一年前の平成二十三年四月に卒然と亡くなった祖父がようやくに旅立てた姿を見届け、祖父の日記を胸に押し抱くと、声を上げて泣いた。


 
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