朝、いわし雲が空をのんびりと漂うなか、お稲荷神社に異変が起こっていた。
朝ご飯の時間になっても、橘音さんが食卓に現われないのだ。
「食いしん坊のおばーちゃんに、あるまじき事態ですよ」
後に橘音さんの孫、蓉子が当時を振り返ってこう語った。
ともあれ放っておく訳にもいかず、蓉子は橘音の部屋へと赴いた。
もちろん、早く朝ご飯を食べてもらわなければ、いつまで経っても片付かないから。
「おばーちゃん、ごは……ん?」
引き戸を開けて、なかを覗く蓉子。
その目には滅茶苦茶に荒らされた橘音の部屋の惨状が飛び込んできた。
敷きっ放しの布団の上には赤や黒や紫のショーツやブラジャーが散乱し、開いたまんまのタンスからは何故かセーラー服が顔を出していた。
だがしかし、肝心の橘音の姿はドコにもなかった。
「え、ちょっと……嘘でしょ!?」
軽くパニックに陥る蓉子。
慌てて母屋から飛び出し、本殿に駆け込んだ。
「ここにもいない……」
裏山や公民館など、取り敢えず橘音が行きそうなところを探してまわったけれど橘音は見つからない。
「もう、どこ行っちゃったの……」
途方に暮れた蓉子が、とうとう道端にへたり込んでしまった──
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一方その頃、先日の秋祭りの後片付けを終えて、バイトの巫女達の賃金を渡し終えた狛(こま)が縁側でお茶を啜っていた。
「ふむ、お茶請けはやはりブンレイ堂のカステラに限るな」
上品な仕草でカステラを口元へ運ぶ。
淡い桃色の唇まであと数センチメートル……。
と、そこで突然、懐(ふところ)のスマートフォンが振動した。
うっかりマナーモードを解除するのを忘れていたのだ。
「わ、わわわ……!!」
驚いた狛の手から、ぽとりとカステラが落ちて地面に着地した。
「うー……」
狛が恨めしげに地面のカステラを眺める間にも懐のスマートフォンは激しく震えている。
「もしもし、狛だが?」
取り出したスマートフォンを耳にあて、何故かいちいち名乗る狛。
ちなみに頭の犬耳にあてているので何だかおかしな光景だったりする。
「む……、わかった」
深刻な表情でスマートフォンを懐にしまい、ついでに地面のカステラを拾う狛。
器用に土が付いたところをちぎり捨て、カステラを口の中に放り込む。
そして、狛は神社の入り口へと向かって歩きだした。
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石段の最上段に腰掛けて、狛が色付き始めた紅葉を眺めていると……。
「狛さ~ん!!」
大声で叫びながら蓉子が石段を駆け上がって来た。
「お、おばーちゃんがいなくなっちゃ……へうっ!?」
いきなり口元を押さえて悶絶する蓉子。
どうやら舌を噛んだ様子。
「まあ、落ち着け」
あらかじめお盆に用意していた湯呑みにお茶を注ぎ、蓉子に差し出す狛。
「ありがとうございます」
少しぬるめのお茶をイッキに飲み干した蓉子が大きく息を吐いた。
「それで、いったいどうしたのだ?」
蓉子が落ち着くのを待って狛が声を掛けた。
「朝ご飯の時間に顔を出さないから部屋に呼びに行ったら、ブラジャーとかショーツが散らかってて何故かタンスにセーラー服があって、おばーちゃんがいなくなってたんです!!」
「……すまない。ちょっと、意味がわからない」
身を乗り出して一気に喋る蓉子の肩に手を置いて狛がそう告げた。
「とにかく、おばーちゃんが居なくなっちゃったんですってば!」
「……行方不明だと?」
狛が首をかしげる。
常識的に考えれば有り得ない。
(有り得ないが、まあ橘音だからな……)
そう考えると、なんとなく納得できた狛であった。
「わかった、橘音探しを手伝おう」
「ありがとうございます。で、これ役にたつかも」
そう言って蓉子が取り出したのは一枚のハンカチ。
「これが何か?」
いまいちピンとこない狛。
「おばーちゃんの使用済みのハンカチです!まだ洗ってないので匂いもバッチリ残っちゃってます!!」
言いながらハンカチを狛の鼻先にグイグイ押し付けてくる蓉子。
「私をただの犬扱いするなー!!」
狛の怒声が辺りに響き渡った……。
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東の空が濃紺に染まる頃、お稲荷神社の境内に疲れ果てた蓉子と狛の姿があった。
何処をどう探しても、橘音の姿は見つからなかった。
目に涙を浮かべる蓉子に狛もどう慰めようかと頭を悩ませている。
唐突に蓉子がやけくそ気味に叫んだ。
「おばーちゃんの馬鹿ぁー!!」
やまびこが幾つもの「馬鹿ぁー!!」を反芻する様に響かせた。
「馬鹿って酷い!お土産あげないわよん?」
「へ?」
不意に橘音の声が聞こえた気がして、蓉子が顔を上げると……。
「どうしたの、狛に苛められた?」
狐につままれた様な表情で蓉子を見つめる橘音の姿があった。
「人聞きの悪い事を言うな。だいたい、貴様は何処に行っていたんだ?」
怒りを通り越して呆れ果てた狛が、橘音に訊いた。
「老人会の日帰りバスツアー♪いやぁー、今日だってコト忘れちゃってて危うく置いて行かれるところだったのよん?」
悪びれる様子もなく笑う橘音を蓉子が睨み付けた。
「おばーちゃん……。わたし、聞いてないんだけど?」
「……言ってなかったかしら?蓉子ちゃんが忘れちゃってるだけなんじゃ…………」
橘音の頬を冷や汗がジャンジャン流れてゆく。
「狛さん、しばらくそちらにご厄介になっても良いですか?」
いきなり気味が悪いくらい穏やかな声色で蓉子が言った。
「私は構わないが……」
ちょっぴり狛の声が裏返ってた。
「え?ちょっと蓉子ちゃん!?」
黙って母屋に消えていく蓉子。
しばらくして、旅行カバンを抱えて戻ってきた。
「狛さん、お世話になります」
深々とお辞儀したあと、狛の手を引っ張って石段を降り始める蓉子。
「ちょっと待って~!温泉饅頭だって買ってきたのよ~!?」
どんどん小さくなっていく蓉子の背中に、橘音はいつまでも叫び続けていたとか。
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朝ごはんの時間に橘音さんが顔を出さないという異常事態!それは大きな騒動の始まりに過ぎなかった・・・・・・!?
前回のおはなしはコチラ http://www.tinami.com/view/403654