「体中が痛いし、だるい……。」
昨晩、何かに取りつかれたように意匠を完成させた俺は、そのまま机の上で果てていたらしく、目覚めは最悪であった。
鉛のように重い体を引きずり、先生の私室へと向かう。
「昨日は、随分と楽しそうでしたね。」
扉を開けた俺に、先生はそんな言葉を投げかけた。
「ええ……。でも、そのお陰で良いものが出来ました。」
まぁ、あれだけ騒ぎ散らせば先生まで聞こえるだろう。
流石に少し気恥ずかしかったのだが、出来あがった品は満足のいくものであったため、嬉しさの方が勝っていた。
「それじゃあ、朝食の後にでも見せて貰いましょうか。ですけど、その前に……。」
彼女は小さな布切れ、大体俺の手と同じサイズだ、を此方へと差し出した。
きょとんとしながらそれを受け取る。
そんな俺をくすくすと笑いながら、
「顔中、墨だらけですから、早く拭いてしまいなさいな。」
本当に可笑しそうに、そう言うのであった。
湿らせた布で顔をごしごしと擦る。質が悪く、目が粗いため、頬がひりひりと痛んだ。
「どうですか?」
そう、何度か彼女に顔を見せるのだが、相変わらず笑みは崩さないままであり、まだ落ちていないことを暗に示していた。
まだ、落ちないのか。はぁ、と溜息をついた所へ、先生から声が掛かる。
「どうぞ。」
すらりと伸びる、白磁のような腕には、戸棚から取り出された手鏡が握られていた。
それを彼女から受け取る。
もうちょっと、早く出してくれません?
少し咎めるような視線を向けるも、忘れていたのですよ、彼女は右手を口元に当てて言うばかり。
その瞳にはからかうような色が浮かんでいるものの、知らぬ存ぜぬと通されれば、俺は奥歯を噛み締めるだけである。
そうして、鏡に映った顔がようやく綺麗になった頃には、俺の顔中が真赤に染め上げられていた。
痛む頬をさすりながら、席に着く。
「では、頂きましょうか。」
柔らかく微笑んだまま、発せられた彼女の言葉を合図に、俺達は匙を口に運ぶ仕事へと没頭してゆくのだった。
「制服の方は上手くいったようですね。」
いつもの食卓の中に、いつもとは違うものがひとつ。卓に置かれた杯には水ではなく、白い湯気を燻らせる、いかにも温かそうなお茶が注がれていた。
この時代に於いて、お茶とは嗜好品であり贅沢品である。事実、俺は今の今までこちらでお茶を目にすることはなかった。
それだけに、清貧を常とする先生がお茶を嗜んでいることには僅かながらも驚きを覚えたのだが、
「こちらを訪れる客人も少なくありませんから、最低限の備えはしてありますよ。」
返される言葉に納得。
むしろ、何故、考えがそこまで及ばなかったのかと、長年の付き合いで半ば理解していたつもりではあった、あまり回りの速くない自分の脳には、改めて呆れ返ったものである。
思考を止めないこと。常に最善の選択を取るためには、ありとあらゆる視点から物事を考察しなくてはなりません。
考えることは万人に等しく与えられた武器なのですから。
そう、結ばれた先生の有難いお言葉も、どうやら俺の耳には念仏のように響いていたらしい。
そんな愛すべき頭には職務怠慢で首になって貰いたい所だが、そんなことをしてしまえば物理的な首切りになってしまう。
もう少し、回転速度を上げてもいいんだぜ?
視線を上に。問い掛けるも返事はなし。
こんな馬鹿な事をやっているから働かないのだろう、俺の頭は。
「昨夜は頑張っていたみたいですから、ちょっとしたご褒美ですよ。」
朝食に供されたお茶はそんな理由からであった。
「最も、北郷さんには珍しいものではないかも知れませんけどね。」
彼女は言葉を続けたが、そんなことは全くない。こちらで目にするものは何から何まで新鮮であり、興味を惹かれないものはないのだ。
それに加え、一口、口に含んでみれば、今まで自分が飲んで来ていたのは一体何だったのかと思い返す程の味である。
「お世辞を言われても、お代わり位しか出ませんよ。」
上品な手つきで空になった杯へとお茶を注ぐ彼女。
その仕草を見て、このお茶が美味しくない訳がないと口にしようと思ったのだが。
気障すぎるだろ、俺。
どうにも気恥ずかしく、杯を開けることで言葉の替わりとした。
ゆっくりとした時間が過ぎていく。
時折、聞こえてくる小鳥たちの囀りが更に時の流れを遅くさせているように思えた。
耳を澄ませれば、風に揺れる木々のざわめきや既に活動を始めた人々の声が届く。
少し、余裕を無くしていたのかもしれない。
何の因果か此方に飛ばされ、忙しなく日々を送って来たのだ。この辺りでちょっと休みを入れても構わないだろう。
俺からして見れば、不便極まりないこの時代であるが、確かに息づく者たちがいるのだ。
それは人々であったり、小さな虫であったりと様々ではあるがそれぞれが毎日を精一杯に過ごしている。
彼らが奏で出す音色は、生命の鼓動の様にこの大地にしっかりと刻まれ、力強く響き渡っている。
そんな命の音は、静かに、それでいて深く体の隅々にまで沁み入り、温かなものを俺に呼び起させるのだった。
こうして穏やかな時間にゆったりと身を預けて続けていたかったのだが、対面に座る先生はそうはさせてくれないようである。
俺の手元と目とを交互に、この上なく落ち着きなく忙しなく往き来する見目麗しい彼女の視線に、苦笑いを禁じ得ることが出来なかった。
そんなに気になるのなら、一声かけてくれれば良いでしょうに。
そわそわとしている彼女に、俺は艱難辛苦のその果てに生まれた努力の結晶、ざっくりと言ってしまえば制服のデザイン張である布を手渡すのだった。
あら……、これは中々……。
こちらも可愛らしいですね……。
そんな唸りを上げながら先生は食い入るように手元の布を見つめている。
俺はそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。
あらあら、まぁまぁ、と目をきらきらさせながら、二つの布を見比べる彼女は、いつものような凛とした姿からは想像できない程に可愛らしい。
いつの時代にあっても、女の子は女の子であり、おしゃれには目がないのだろう。
自然と口元が綻んだ。
微笑ましく思っていると、不意に顔を上げた彼女と視線が合う。
こほん、と一つ咳ばらい。
音の出元である彼女は、
「少し取り乱してしまったようですね。」
つんとお澄まし顔で発するも、その頬は仄かに赤い。
それを指摘してやらないのが優しさというものだ。
制服の出来はどうでしょうか、と当たり障りのない答えを返す。
「ええ、非常に良く出来ています。北郷さんにお任せして正解でした。」
あと十年、私が若ければぜひ袖を通してみたいものです……。
再び手元へと視線を落としながら彼女は答える。
後半の言葉には触れない方が賢明であろう。わざわざ藪をつつく必要など、どこにもないのである。
「これなら問題もないですし、皆さんも喜ぶでしょう。近いうちに仕立てて貰いに行きましょうか。」
先生から太鼓判を押して貰った俺は漸く人心地といった所である。
想像した以上に梃子摺ったものの、思い返して見れば楽しい作業であった。
この調子で向こうにあった服を一通り、メイド服だとか浴衣だとかにも挑戦してみたい所ではあるが、着せる相手がいなければ、ただただ、空しいだけの作業である。
巨達ちゃん(向朗の字)にでも頼みこめば喜んで着てくれるのだろうが、それは彼女を騙すようで気が引ける。
彼女が慕ってくれているのは徐元直という女性であり、北郷一刀という男ではないのだ。
そのことが心への引っ掛かりとなっており、巨達ちゃんとの接し方が未だによそよそしくなってしまうのだった。
まぁ、純粋に好意を向けられるということは嬉しいのであるが。
彼女だけではなく、いつかこの学園に通う子たちとも一人の男として向き合える日が来て欲しいものだ。
乙女の園に男が一人、というのはどうにも気苦労が絶えないのである。
それもフランチェスカに通っていた時とは比べ物にならない程に、であった。
あちらでは俺一人ではなく、男友達もいたし、何より女装などしてはいなかった。
今更ではあるが、よくよく考えてみると、とんでもないことになってるな……。
いつまでこの恰好で通すのだろうか。
慣れたと思った後ろ髪がやけに煩わしく思え、俺は少し掻き乱す。
そんな俺の様子を、先生は不思議そうに首を傾げて眺めているのだった。
それから数日後のこと。
俺と先生の二人は学園から程近い、一軒の服屋へと足を運んでいた。
店内には色とりどりの衣装が所狭しと並べられ、華やかな空気を纏っている。
あちらこちらと眺めていると、店の奥から店主らしき人物が現れた。
大男である。
その体は、小振りの岩程にもあり、腕は丸太のように太い。顎には立派な髭を蓄え、左頬には大きな傷痕が深く刻まれていた。
身なりこそ小奇麗ではあるが、もし山ででも遭遇すれば山賊と間違えても何ら不思議ではない。
少なくとも、世間一般では服屋で働いているような人物にはとてもではないが見えなかった。
突然現れた強面の男に呆気にとられていると、先生から小さく耳打ちをされた。
この不意の出来事に、少しどぎまぎしてしまったのは秘密である。
ここの服は、全て彼が意匠を考えているのですよ。
人は見かけによらないとは良く言うが、これほどまでにこの言葉を表わす人物というものもそうは居ないだろう。
それに加えて、服屋は服屋でもどうやら女性服を専門に扱っているような店である。
想像もしなかった言葉に、思わず店主と先生とに視線を何度も往復させる。
そんな俺の様子を、彼女はくすくすと笑った
「こりゃあ、水鏡先生じゃありませんか。今日は何かお探しで?」
どうやら先生とは顔見知りであるらしい。
大男と美女が和やかに談笑しているというのは中々に衝撃的な光景であった。
「そっちの兄ちゃんは初めて見るが、先生のこれかい?」
ぴん、と小指を立てて、がははと大男は笑う。
こんな時代からもこの仕草はあるのか。
分かってはいたことではあるが、先生は彼の言葉をやんわりと否定をした。
ちなみに、主人の言葉から分かるように今日の俺は北郷一刀である。
俺はいつもの様に徐元直で支度をしていたのだが、先生は、
「今日は男性として向かった方が良いかも知れませんよ。」
と、言う。
その意図する所は分からなかったが、女装をしなくて良いと言われているのに態々女物の着物を着る理由はなかった。
「そうかい。先生もいい歳なんだから、そろそろ身を固めてくれるんかと思ったんだけどな。」
ウチのかみさんが、先生もそろそろ嫁ぎいけいけうるせぇんだよ。俺に言ってもしゃあないのに。
そう言うと、男はまた肩を揺らして笑った。
先生も笑ってはいたが、少し頬が引き攣っていたのを俺は見逃さなかった。
それで、今日は何の用だい、再び問いかける店主に、先生は二枚の布を手渡した。
「今日はその意匠通りに仕立てて貰いに来たのですよ。」
主人は渡された布に視線を落とすと、直ぐにその大きな体を震わせた。
「……こ、これは……。」
店主の驚愕がありありと感じられる。
それも無理のないことだろう。俺が考えに考え抜いて作り上げたそれは、まだまだこの時代には存在しない物であるのだから。
顎に手をやり、男は唸り声を上げる。
本職にも舌を巻かせることが出来たことに、俺は少し得意になった。
「……この意匠は先生が考えたんですかい?」
幾許かの後、立ち直った主人は漸くといった様子で言葉を口にした。
「いいえ。それはそこの彼、徐元直さんが考えたものですよ。」
ふるふると首を左右に振り、微笑みながら答える。彼女の穏やかな瞳は真っ直ぐに俺へと向けられていた。
その視線が、出来の良い教え子を誇っているもののように感じられた俺は、頬を掻きながら彼女を視界から外した。
そんな様子を笑ったのか、くすり、と鈴の音のような音が響く。
それがまた、俺を照れ臭くさせるのであった。
「なぁ、兄ちゃん。」
気恥ずかしい思いをしていた所に声が掛かる。声の主は店の主であった。
「なんでしょうか?」
例え、本人にそのつもりがないのだとしても、その巨躯から見下ろされると、威圧感を拭いさることは出来ない。
若干、腰が引けながらも俺は答えを返した。
「兄ちゃんが考えたっていうこの意匠は今まで見たことがねぇ。もし、これを売り出したとしたら間違いなく買い手が殺到することだろう。」
そこで店主は一度言葉を切り、後頭部を右手で掻きまわした。
「ものは相談なんだが、うちの店で働いてみないか?是非、兄ちゃんにはここで意匠の担当をして貰いたいんだが……。」
唐突に投げ掛けられた言葉に、俺は動きを止めた。
助けを求めるように先生へと視線を向けても、彼女はにこにこと微笑んでいるだけであった。
北郷一刀の奮闘記 第五話 服屋と制服と俺 了
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随分と間が開いてしまいましたが第五話です。
恋姫と銘打ちながら未だに黄巾の乱が起きていないって、
正直どうなのよ……
どうやらこのお話の時間の流れは非常にスロウリィなようです。
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