彼女の名前はれーこという。
名字も何もない、ただのれーこだ。
本当はもっと長い本物の名前があるのだけど、ただ一人彼女のことを名前で呼ぶ人は彼女のことをれーこと呼ぶので、だから彼女のなまえはれーこだ。
れーこは一条家でメイドとして暮らし、エプロンドレスを身につけ、日々颯爽と業務をこなしている。モノトーンのエプロンドレスは彼女の戦闘服だ。
セミロングの艶やかな黒髪をもち、いつも優しげな笑みを絶やさない美しい少女。
そんなれーこが実はとんでもない秘密を持っていることは、近所に住んでいる人たちでもあんまり知らない。
実は彼女、機械仕掛けなのだ。
精巧なアンドロイドの少女、それがれーこなのだ。
れーこは一条家の一人娘、あかりの世話をするために作られたアンドロイドなのだ。
父親は事故で他界し、母親は病に倒れ、余命宣告をされた。このままでは幼い娘が一人大きな家に残されルことになる。それを嫌った母親が、娘のあかりのためにれーこを作り上げたのだ。
本当ならばあかりの世話を親戚に頼み、預けるのだろうけど、あかりは酷い人見知りで両親以外にはまったくなつかなかったので、だかられーこは作られた。
あかりが怖がらないようにと、母親の若き日の姿を模して作られた。
れーこが完成し、あかりと始めて対面したのが十年前。
ほどなくして母は亡くなり、今は広い一条家にあかりとれーこだけが住んでいる。
ロボット工学で有名な一条家には、両親の死後仲のよい姉妹が二人で住んでいると思われているが、実はそれは正しくなく、一人娘と一人のアンドロイドが住んでいるのだった。
れーこは世界でただひとつの完成されたアンドロイドなのだが、人見知りのあかりを世話するために、どこにも発表されることもなく一条家で過ごしているのだ。
季節は春。時刻は朝と昼間の中間くらい。
れーこは主人の部屋をノックする。
居住まいを正し、手を合わせ、中からの返事を待つ。
……返事が返ってこない。
またかと、れーこは少しげんなりした。
そもそも、あかりは朝食にもやってこなかった。いつでもできたての食事を用意する準備があったのに、あかりは食卓に現れなかった。
――まったく、まだ寝ているのかあの子は。
「失礼します」
れーこはドアを開け、恭しく一礼をしてから中に入った。
「……ん」
ベッドの中で、布団に包まれたなにかがもぞもぞと動く。
「あかりさま、おはようございます」
にこりと笑い、れーこは遠慮なく布団を剥ぎ取った。
布団の中では少女が眠っていた。長い黒髪の、小柄で細身の少女だ。他ならぬ一条家の一人娘、あかりである。
「ほらあかりさま、朝ですよ」
布団を剥ぎ取られ、ベッドの上でもがくあかりを尻目に、れーこは勢いよくカーテンを開けた。
「んあ……やめてれーこちゃん」
カーテンの開けられた窓から差し込んだ陽がまぶたを突き刺し、思わずあかりは顔をしかめる。布団をかぶり、ベッドの上で饅頭のように丸まってしまった。
「だめですよ、もう起きてください。おなかも空いているでしょう?」
部屋の片づけをしながら、れーこはあかりに優しく言った。
毎朝れーこはぐずるあかりを起こしながら、ついでにあかりの部屋の掃除をする。ほとんど部屋に引きこもり状態のあかりは朝くらいしか掃除をする隙を与えてくれない。
「……おなかはすいた。何時?」
布団をかぶった饅頭が口を利く。
「もう十時ですよ。早く起きないと、お昼になっちゃいますからね」
「……お昼でいい。二時間たったらお部屋にご飯持ってきて」
「だめです。お食事は二時間後でも構いませんけど、もう起きてください」
「…………やだ」
あかりは布団を小さくめくり、れーこを見上げながら口を尖らせた。
「二度寝はいけませんよ」
「……三度寝だもん」
「もっといけません。さあさ、起きてください」
れーこはもう一度布団を引っぺがし、あかりを中から引っ張り出した。細身に見えてもれーこはアンドロイドだから力持ちなのだ。
「れーこちゃんはひどい。あたしのことが嫌いなんだ」
パジャマをはだけさせ、あかりはベッドに座ってぼやく。
「そうですね、言うことを聞かないあかりさまは嫌いかもしれません」
「えー、そんな、いやだよーぅ」
れーこがにべもなく言うと、あかりは駄々っ子のように頭を振った。
「冗談ですよ。わたしがあかりさまを嫌うわけがないじゃないですか」
「……ほんと?」
ぴたりと動きを止め、あかりはれーこを見上げる。髪の毛がぼさぼさに乱れきっていた。
「ええ、本当ですよ」
苦笑しながられーこは言った。あかりの頭に手を伸ばし、乱れた髪の毛を手櫛で直してやる。
「えへへ」
嬉しそうにあかりは笑った。あかりを見つめて、れーこも少し笑う。
だいぶ大人に近づいたというのにあかりは甘えん坊だ。たった一人の家族だからかもしれないが、れーこに頼りきっているのだ。
一人ではまったく何も出来ない。
両親の優秀な才能を受け継ぎ、ロボット工学のホープと呼ばれているとはまったく思えない。
「髪の毛、のびてきましたね。今度美容院に行きませんか?」
「やだよ。いつもみたくれーこちゃんが切ってよ」
「またですか?でもあかりさま、ちょっとくらい外に出ないと……」
「いいの。れーこちゃんが切って。じゃないとあたし髪きらない」
またあかりは頬を膨らませる。
れーこはため息をついた。
あかりは引きこもり状態だ。
もう何年になるだろう?本来ならば高校に通っている年齢なのだが、あかりは毎日家の中で過ごしている。小学校の途中から、彼女は一条家の外に出たことがない。極度の人見知りである彼女は結局外の世界になじめず、家に戻ってきてしまうのだった。
だかられーこはことあるごとにあかりを外へと誘うのだが、結局あかりは引きこもったままだ。
学校に通わなくても持ち前の才能とれーこの教育で学力は申し分なく、金銭面でも両親の遺産ですでに働く必要もないくらいのものがあるが、これでは社会性が身につかないとれーこはあかりの身を案じていた。このまま死ぬまでアンドロイドの自分と二人きりではいけないのではと、れーこは思っているのだ。
だけど、結局今度も外に出るのは無理そうだ。
「外に出るのがお嫌なら、美容師さんを呼びましょうか?」
「……れーこちゃんがいい」
「でも、わたしは下手ですから」
一流の美容師にカットしてもらい、あかりを美しくしてもらいたいという想いもれーこにはある。あかりは年齢にしては幼く見えるが、母親に似て美人だ。きっと評判の美容師に整髪を任せれば、美しさはなお映えることだろう。
「れーこちゃん、上手だよ。だから、ずっとれーこちゃんが切ってよ」
「はいはい、わかりました」
れーこはあかりの頭を撫でる。
上手と言われてれーこは嬉しい。アンドロイドだって、褒められて頬を染めるくらいの感情は持っている。
だからあかりのため、カットを上手くなろうとれーこは思った。
「それじゃあ、ちゃんと起きてくださいね?」
「あいー」
寝惚け眼で手を振るあかりをおいて、れーこは部屋を出た。
その日は結局、あかりは三度寝をしてしまった。次に起きてきたのは昼をすぎていて、当然れーこに小言を言われたが、あかりはふてくされて何も聞かないという反則技で切り抜けた。れーこは苦笑いだったが、あかりを甘やかしてしまい、結局は夜更かしまでを許してしまうのだった。
二人の毎日は大体こんなものだった。
そして別の日。
その日は朝から雨だった。
季節は夏へと移り変わり、梅雨の名残の雨が一条家の窓を打っている。
雨粒は微かに流れを作り、窓を伝って流れて落ちた。
正午を前に、あかりはリビングで一人、クッションを抱きしめ、ソファにうずもれてテレビを見ていた。平日の昼前の、少女の目には何も魅力的に感じないワイドショーをただなんとなく瞳の中に映していた。
――と、薄暗かったリビングが唐突に明るくなる。
「……ん」
ぼんやりと視線を送ると、リビングのドアをくぐったところにれーこが立っていた。
「だめですよ、あかりさま。今日は昼でも暗いんですから、電気をつけなくては目が悪くなってしまいます」
「だいじょうぶだよ。あたし視力には自信があるから」
「そうやって油断していると、視力はすぐに悪くなってしまいますからね」
「いいよ、そしたら眼鏡買うもん」
あかりは頬を膨らませてテレビに向き直り、再び面白くもないプログラムをぼんやりと眺めだした。そんなあかりの隣に、れーこはそっと腰を下ろす。
「れーこちゃん、お掃除は終わったの?」
「ええ、今日はもう全て」
「それなら遊ぼうよ。新作のゲーム、買ってきてくれたじゃない」
「だめですよ。その前にお勉強をしなくてはいけませんからね」
「……べんきょーおもしくない」
あかりはまた頬をぷうと膨らませる。
れーこはあかりの頭にそっと手をのせ、優しく撫でた。
「……れーこちゃんが言うならする」
あかりは小さくうつむき、れーこの手によって簡単に陥落した。アンドロイドの手から伝わる、感じられるはずもないぬくもりに、あかりはほだされていた。
「今日はお部屋に篭っていらっしゃらないんですね」
「――ちょっとね。最近あんまりれーこちゃんを構ってあげてなかったからね」
「あら、それなら声をかけてくださればよかったのに」
「……れーこちゃん、お掃除してたもん。お仕事の邪魔、したらだめでしょ?」
「そんなこと、お気になさらなくてよかったのに」
「いいんだ。じゃ、ちょっと構ったげたから、あたしおべんきょーしてくるね」
あかりは立ち上がり、抱えていた大きなクッションを引きずって歩きだす。クッションはあかりのお気に入りのもので、いつも彼女はそれを使っている。
「あかりさま、今日はお勉強、早めに打ち切りましょうか。久しぶりに、目いっぱい遊びましょう」
「仕方ないなあ、れーこちゃんは。わかったよ、そうしたげる」
廊下に抜けるドアに手をかけ、あかりは飛び切り嬉しそうに笑った。そして跳ねるようにして自室へと引き上げていく。
その日、昼食を挟んで夕方まで勉強をしたあと、二人は新作のゲームを飽きるほどに遊んだ。
二人の毎日は大体こんなものだった。
十年間の間、大体毎日こんなものだった。
そして一日、また一日と時間は過ぎていく。
平和な時間だった。
あかりをひとり立ちさせようとするれーこの意に反して、あかりはれーこに依存しきり、そしてれーこもまた肝心なところであかりを甘やかしてしまう。
このままではよくないと思いつつも、れーこはこの関係を崩せずにいた。
しかし、それでいいとれーこは思っていた。
いつかあかりが自分の手を離れ、立派になることをれーこは期待していたが、しかし半面、巣立ってほしくないとも思うのだ。
あかりを自分の下においていたいとも、れーこは思うのだった。
過ぎていくのは平和な時間だった。
重ねていくのは優しい時間だった。
二人の共依存。
あかりもれーこも、二人の関係性は変わらないと思っていた。
十年間のこの関係が終わることなんて、二人は思ってもいなかったのだ。
年が明け、春を向かえ、平和な日々は連綿と続いていく。密度を濃くするでもなく、薄くするでもなく、ただただ変わりなく続いていく。
しかしまた夏を迎えて……。
……ここはどこだろう?
うっすらと目を開けて、れーこはまずそう思った。
自分の記憶にある場所と、なにかが違う気がする。
一秒に満たない時間悩んで、すぐに彼女は思い至る。ああ、ここは自分の部屋だ……と。
そう、ここはアンドロイドである彼女の、メンテナンスルームを兼用した私室だった。
しかし、なぜか記憶が混濁している。
なぜ、わたしは今自室に……?
ベッドに横たわり、天井を見つめていたれーこの視界に、さっと影が映る。
れーこが陰に視線とピントを合わせると、それは心配そうに彼女を覗き込むあかりだった。
「あかりさま……」
「れーこちゃん目が覚めたの?だいじょうぶ?」
れーこの額に手を当て、あかりは熱を計る仕草をする。れーこの額はアンドロイドのものとは思えないほどに柔らかであるが、しかし体温は一切伝わってこない。
「あかりさま、わたしは……?」
「――ん、お掃除してたときにね、倒れたんだよ」
「あかりさまが部屋まで運んでくださったのですか?」
「うん」
れーこは違和感の正体を把握する。
そうだ、自分は日課の掃除をしている最中に気を失ったのだ。だから自室にいることをおかしいと思ったのだ。
しかし、アンドロイドの自分が倒れるなんて――。
昨晩の自動診断ツールも、いつもと変わらない良好という結果が出たのに――。
れーこは窓の外を見る。
掃除はいつも午前中に済ませるはずが、今はもう陽が傾いていた。結構な時間自分が倒れていたことにれーこは気がついた。
れーこはベッドの上で半身を持ち上げる。
「もう起きていいの?」
「ええ、だいじょうぶです。すっきりしたものですよ。あかりさまに看ていただいたからでしょうか?」
れーこは笑顔で、力こぶを作る仕草をする。
実際彼女の調子は悪くなかった。外部ツールに頼らない、簡易の自己診断を走らせても、異常はどこにもなかった。
「お世話をかけて申し訳ありません。わたし、重くありませんでした?」
「ううん、それはだいじょうぶだったよ。れーこちゃん、軽かった。でも、もう本当にいいの?」
れーこが立ち上がると、不安げな眼差しのあかりもほとんど同時に立ち上がった。
「本当にだいじょうぶです。それよりも、食事の用意をしますね。あかりさま、何も食べていらっしゃらないでしょう?」
れーこは頭ひとつ背の低いあかりの頭に手をのせる。
「うん、実はね」
あかりは恥ずかしそうに笑んだ。倒れたれーこに付きっ切りだったから、お昼も彼女は食べていない。
ぐうと、あかりのおなかが小さく鳴った。
「――あ」
赤くしていたあかりの顔が、さらに赤くなる。
「可愛いおなかの虫がご立腹のようですね。すぐに食事にしますから、もう少しだけ待っていてください」
「うん。できるだけ早くしてね?」
そして二人で笑いあって、れーこの部屋をあとにする。
早めの夕食をとって、その日あかりは眠りにつくまでれーこのそばから離れなかった。十年の付き合いで初めての不調を見せたれーこにずっとついていた。
れーこはそんなあかりを愛しく思った。やはりこの人を護り続けるのが自分の使命だと思った。
初めて現れた不調のことなど、彼女は気にも留めていなかった。
実際数日たっても数ヶ月たってもその後何も起こらず、あの不調は偶然だったのだとれーこは結論付けた。
しかしこの不調がただのきっかけに過ぎなかったと、れーこは知らないままに終わることになる。
偶然ではなく、れーこの中には歴然と変化が起こっていたのだ。
そしてそれは段々と表面化してきて……。
半年をおいて、れーこは再び倒れた。
それはやはり平和な日々の最中だった。
一日限り崩れたものの、これからまた続いていくはずの平和な日々の最中だった。
倒れたその日のうちにれーこは再起動したが、やはり倒れる前もあとも、どこをどう診断しても異常はなかった。
しかし今度の不調はあかりに、そしてれーこ自身にも不安を抱かせるものとなった。
わたしはどこか壊れているのかもしれないと、れーこは不安を抱えるようになった。
不調はついに、顔をのぞかせたのだ。
ある日のこと。
深夜というよりも、朝に近い時刻。
あかりは一条家の広い廊下を、スリッパをパタパタと鳴らして歩いていた。あくびをかみ殺しながら、眠る前に少し水分捕球をしようとキッチンに向かう最中だった。
そしてキッチンに抜けようとして、あかりはふと気がつく。
キッチンには、煌々と明かりがついていた。
あかりは不思議に思う。現在の時刻は午前四時だ。夜型のあかりはこの時間でもまだ起きていたりすることもあるが、れーこはいつも日付が変わる頃には眠る。そして目覚めるのは朝の6時と決まっているのだ。それはタイマーで調整されていて、崩れるはずはなく、またれーこがこんな時刻にタイマーセットをするはずもないのだが……。
「あらあかりさま。すごくおはようございます」
キッチンに入ると、いつもどおりの笑顔でれーこがあかりを迎えた。
「ううん、あたしはこれから寝るんだけど、れーこちゃんはもう起きたの?」
こんな時間に普段と変わらないれーこを見て、あかりは不思議に思う。
陽も昇りきらない時刻なのに、れーこは朝食の仕度をしているところだった。普段から昼前にならないと食べられることのない、あかりの朝食の下ごしらえを。
「つい早く目覚めてしまって。こんな時間に、変ですね」
あかりの疑問にれーこは苦笑いで答えた。
れーこがこんな時間に起きたのは、どうやら彼女が設定したからではないようだった。偶然に早く目が冷めたのだ。
しかし、アンドロイドである彼女が「つい早く」目が覚めるものなのだろうか?
「れーこちゃん、お水もらっていい?」
「ええ、はいどうぞ」
あかりに言われ、れーこは冷蔵庫で冷やされたミネラルウォーターをコップに入れて差し出す。
「ん、ありがと」
コップを受け取り、よく冷えた水を飲みながら、あかりはまたれーこをしげしげと眺めた。
彼女はれーこがなんだかおかしいと思う。
二度倒れ、そして今度はこんなに早く目が覚めるなんて……。
あかりは自室に戻った後、れーこの私室の端末からメンテナンスのデータを寄せてチェックしたが、そこには何の問題も見られなかった。
結局だから、このときはあかりは何も手を打たなかった。
そしてまたある日。
自室に篭っていたあかりは、夕刻になってやっと部屋から出てきた。
れーこが「つい朝早く」起きることがあってから、あかりはことあるごとにれーこを観察してきたが、特に問題はないようだった。ただ時折、やはり「つい朝早く」目が覚めることがあるくらいだ。そしてそんな時やはりデータ調べるのだが、れーこには問題点は見つからないのだ。
「れーこちゃん、今日の晩御飯はなに?」
減ってきたおなかを押さえながら、あかりはキッチンに入る。
キッチンではれーこが夕飯の仕度をしていた。いつもどおりの光景だ。
「今日はあかりさまの大好きなハンバーグですよ」
大判の肉を機械に通し、ひき肉を作っていたれーこはあかりに振り返り、にこりと笑う。
「ハンバーグ……?」
あかりは怪訝な顔をれーこに向ける。
「どうなさいました?あかりさま、ハンバーグ大好きですよね?」
「うん、大好きだけど……」
だけど、今日の夕飯がハンバーグなんて、なにかおかしい。
なんでれーこちゃんは、今日ハンバーグを作っているんだ?
だっていつもは、好きなものを毎日作ってほしいなんていうと怒るのに。「だめですよ!あかりさまが好きなものはお肉ばかりなんですから。もっとバランスよく食べないと」というのが、普段のれーこの口癖だ。
だから、ハンバーグを二日続けてなんて、絶対にしてくれなかったのに……。
「れーこちゃん、だいじょうぶ?」
「どうしたんです?あかりさま変ですよ」
「ううん、変なのはれーこちゃんだよ。だって、ハンバーグは昨日も食べたもん」
「――え?」
あかりの声を聞いて、れーこは不思議そうに首を傾げた。
昨日の夕飯は、久しぶりにハンバーグだった。もちろんひき肉から手作りで、デミグラスソースもれーこの特製で、あかりの一番の好物だ。
それが二日連続で食べられるのは嬉しいけれど……。
「あら、あらいやだ。そうですよね、昨日もハンバーグで……わたしどうして……」
「だいじょうぶだよ。ハンバーグ、大好きだから」
にこりとわらって、あかりはれーこに応える。
しかし心の中には、なんだか寂しい風が吹いていた。
れーこはやっぱり、どこかがおかしい。
多分、どこかが壊れている。
ずっと一緒だったれーこが壊れていくところを見るなんて、あかりは怖くて、寂しくて、そして薄ら寒い思いすらあった。
しかしこのときもまた、データを寄せてみても、あかりには何の問題もなかったのである。
まだ若いとはいえ、一線級の実力を持つ研究者であるあかりにも、れーこのもつ疾患は発見できなかったのである。
幼い頃に両親を失ったあかりには、得体の知れない事象でれーこがおかしくなっていくことは耐えられないことだった。
れーこが彼女にとって、残された一人の家族なのである。
そのれーこすらも失うなんて、彼女には考えられなかった。
れーこを直すことをあかりは決めた。
そしてこれまでれーこに頼りきりだった家事を自分で負担し、れーこを少しでも楽にするように決めた。
その日のハンバーグの味は、なんだかいつもと違った味がした。
その味をあかりはどう表現していいか分からず、食卓で正面に座るれーこを見て、寂しそうに笑うしかできなかった。
時間は過ぎていく。
あかりは毎日れーこのデータを自室に持ち込み、解析した。データは毎日毎日、何の異常も示さなかった。
また、両親の残した研究成果を書斎から持ち出し、一字一句逃さずにさらいなおした。前々から両親の研究は参考にしていたが、目を皿にしてまで没頭して言葉を拾いなおすことはしたことがなかった。
家事はぼろぼろだった。最初は湯を沸かすことすらままならず、目玉焼きのような基本的な料理も焦げ付かせてしまった。段々と上達はしてきて、簡単な料理はできるようになったが、それでも失敗続きだった。
寝る時間は日に日に短くなり、起きている時間ばかりが長くなった。
あかりは普段の快活さをなくし、疲弊していき、見守るれーこは自分が頼られない寂しさからか、あかりが元気をなくしていくからか、ずっと寂しそうに笑っていた。
「あかりさま、あまりご無理なさらないでくださいね」
たまにコーヒーを淹れてあかりの部屋にれーこが行くと、
「ああもう、れーこちゃんは寝ていていいんだから!」
と、あかりはつれなくするのだ。
あかりが自分を直そうとしているのは知っているし、それが嬉しくもあるが、れーこには複雑だった。
れーこはあかりの面倒を見るために作られたので、あかりに何もしてあげられないのは苦しかった。毎日毎日、あかりを見守るだけしかできないのは辛かった。
そしてしばらくの時間が経ち、ようやくそれはわかることになる。
れーこの、世界で最初の精巧なアンドロイドの、その秘密が。
彼女の電脳の、感情をつかさどる部位に、欠陥が見つかったのだ。
いや、欠陥とは違う。
彼女は最初から完成していなかったのだ。
彼女の感情制御には問題があり、それを解決することなく製作され、稼動しているのだ。
それは一条真由美博士の、あかりの母親の苦肉の策だった。
あかりの面倒を見るものがいなくなっては、極度の人見知りのあかりが一人になると思い、完成していない状態でもれーこを世話係にあてがうことを決めたのだ。
それは苦肉の策だったのだ。
完成していないれーこは十年間はきちんと稼動していたが、徐々に感情制御が乱れ、不調をきたしていたのである。
そしていずれ感情制限が完全に乱れれば、そのときはつまり……。
れーこは時限爆弾を抱えていた。
いずれは完全に停止するという運命を背負っていたのだ。
「どうしよう……」
それは夜も更けたときのことである。
あかりは判明した事実から目をそらしたい気持ちで一杯だった。
こんなことは想定外だ。
どこか故障しているのなら、直す自信はあった。だって、それはただ元通りにするだけなのだから。優秀な両親の下に生まれ、才能を引き継いだ彼女には難しくないことだった。
しかし、未完成な部分を完成させるだなんて……。
十年前、一条夫妻はロボット工学の最先端だった。
そして今現在も夫妻の研究は最先端で……。
あかりもまた、両親の研究の足元にも及んでいない。
そんなもの、どうやって解決すればいいんだ!
そのとき、ドアがゆっくりと開いてれーこが入ってくる。
「あかりさま、そろそろお休みにならないと、お体に触りますよ」
「れーこちゃん……」
あかりは涙目になっていた。今にも落涙しそうなほどに、目には涙がたまっている。
どうしよう。
どうしよう……。
あたしはどうすれば、れーこちゃんを助けてあげられるんだろう……?
あかりはベッドに腰をかけ、れーこにわかったことを全て話した。
涙ながらに、れーこがまだ未完成であることを、いずれは動かなくなることを話した。
れーこは流れるままになっていたあかりの涙を拭き、乱れっぱなしになっている頭にそっと手を置いた。
「泣かないでくださいあかりさま。わたしも役目を全うするときがきたのでしょう」
「れーこちゃん……?」
泣き腫らした目で、あかりはれーこを見上げる。
れーこは微笑んでいた。最近の寂しそうな笑顔ではなく、心の底からの優しい笑顔だった。
「あかりさまが悪いのではありませんよ。だから、泣かないでください。――ね?」
「……うん」
あかりは洋服の袖で、今度は自分で涙をぬぐった。
「れーこちゃん、あたしに家事を全部教えてね」
そして、笑ってみせる。
それはどんな笑顔だっただろうか?
上手く笑えていただろうか?
あかりは少し不安だったが、
「わかりました。しっかり全部、仕込んで差し上げます」
れーこが力こぶを作る仕草をしてまた笑ったので、あかりは不安が杞憂だったと知った。
そして、二人は緩やかな終わりに歩きだす。
それは二人の最後の安らぎの時間。
幾日も幾日も、二人は笑いながら過ごした。
れーこが倒れる頻度も多くなった。
そのたび彼女はすぐに目を覚ますが、目を覚ましてからは決まってれーこはベッドで過ごすことになった。気休めかもしれないが、そうすることで少しでもれーこが長生きできるのではないかとあかりは思ったのだった。
れーこはコーチとしても優秀で、あかりはみるみるうちに家事を上達させていった。もともと頭脳は優秀で、飲み込みの早いあかりだ。なにをするにしても器用なのだった。
れーこはあかりの家事が上達するたびに嬉しかったが、あかりの作った料理を試食できないことは残念そうだった。いかに精巧なアンドロイドとはいえ、食事はできないのだ。
あかりは毎日れーこに髪の毛をセットしてもらった。
髪を切るのも、これまでは長くなってから切ってもらっていたのを、二週間に一度にした。
あかりはれーこに髪を切ってもらう時間が一番好きだった。れーこもまた、あかりの髪を切るのが好きだった。拙いカット技術をいつだったかあかりが褒めてくれてからは、れーこにとってもこの時間は一番の幸せだった。
少しだけの散髪を、れーこは時間をかけて、愛おしそうに行った。
少しでも一緒に過ごせる時間を長くしようと、れーこが朝早くに起こしに行っても、あかりは嫌がらなくなった。
ただすこし、寝起きは不機嫌であったりはするけれど。
優しい時間だった。
それはとても優しい時間だった。
例えるなら干したての布団に身をうずめるような、そんな優しくて温かい時間だった。
十年以上もの間続いた、優しくて温かい時間だった。
それはまるで永遠に続くかのように二人には思えていて……。
だけど、時間というのは残酷だ。
永遠のようだと感じていても、実際には時計は一秒一秒時間を刻み、進んでいくのだった。
終わりが近づいてきていることを二人は知っていて、なのに気がついていなかった。
このままずっと、ずっと、あたしはれーこちゃんと一緒。
あかりはそう思っていたし、れーこはれーこで、同じようにあかりと一緒にいられると思っていた。
そうはいかないと知っていたのに、まるで奇跡はどこにでもあると信じる子供のように……。
最後のときはゆっくりと訪れる。
ある朝のこと。
目を覚まして、あかりは目覚まし時計を手繰り寄せる。
時刻は朝の八時。
れーこがあかりを起こしに来る時間だ。
以前は昼前にしか起きなかったあかりだが、今ではこの時間には起きる。布団にもぐりこんでいると、れーこが優しく起こしに来てくれるからだ。
体をゆすられて、まだ起きたくないとただをこね、布団を剥ぎ取られて、ふてくされたところを抱きしめられる。
その瞬間が大好きで、だから毎朝八時にはあかりはれーこが起こしに来るのを待っていた。
しかしこの日は来なかった。
とうとう来る日が来たのかと、あかりは理解した。
そして、それでもまだれーこが起こしに来てくれることを期待して、あかりは布団の中に篭った。
一時間待って。
二時間待って。
そして三時間待って……。
れーこは起こしにこなかった。
久しぶりに、昼前に床を出る。
あかりはれーこの部屋に向かい、そっとドアを開けて中に入った。
れーこはベッドのなかで眠っていた。安らかな顔で眠っていた。
「れーこちゃん、おねぼうだね。今日はあたしが起こしにきたよ」
れーこが体調を崩したとき、そばにつくために座るいつもの椅子に座り、あかりはれーこの寝姿を見つめる。
それはいつもと変わらないようで、しかし……。
「れーこちゃん、ずぅーっと一生懸命だったから、疲れちゃったんだよね」
あかりは優しく言った。
努めて泣かないようにしていた。
泣いてはいけないと思った。
泣いてしまえば、昨日までの優しかった日々が消えてしまうような気がして、泣くわけにはいかなかった。
あかりはその日、れーこのそばで一日を過ごした。
翌日も、翌々日も、あかりは目を覚まさないれーこを起こしにいった。
だけど、れーこは目を覚まさなかった。
アンドロイドの死を、彼女は迎えたのだ。
これからの日々を、彼女は迎えることができなくなったのだ。
別の朝。
またあかりはれーこの部屋にやってきた。
全ての準備を済ませて、れーこの部屋にやってきた。
「もう、ずっと寝てるんだからさ、れーこちゃんは」
あかりはいつもれーこがしてくれていたように、優しくれーこの頭に手をのせた。
絹のような手触りのれーこの髪を撫でて、あかりはたまらなく優しい気持ちになった。
れーこが目を覚まさなくなってから、あかりは一度も泣いていない。実はかえって優しい気持ちになっているくらいだ。この日までれーこがしてくれたことを思うと、愛されていたとわかって、優しい気持ちになれるのだ。
ずっと、唯一の家族として、れーこは優しくしてくれた。
だから、今度は自分が優しくする番だ。
それは転換の時だった。
「次に起きたとき、思いっきり怒ってあげるからね。遅いぞ!って」
微笑みながら、永久の眠りにつくれーこに言う。
優しく、優しく……。
「さ、それじゃあ行ってくるね」
あかりは立ち上がる。
「早くれーこちゃんを起こさないと、髪の毛が伸びすぎちゃうから、急がないとね」
最後にもう一度笑って、そして小さく手を振り、あかりはれーこの部屋から出ていった。
そして彼女は、久しぶりにそのドアを開ける。
両親のものと、自分のものと、一条家にある全ての研究データを抱え、そのドアを開ける。
珍しくきっちりと、仕立てたばかりのスーツを着こんであかりがくぐったドアは、それは現世へと続くドア。
久方ぶりの、現実に続くドア。
あかりはロボット工学の研究所に世話になることに決めた。
すでに両親が元居た研究所に、渡りをつけてある。
れーこを眠りから覚ますために、感情制御システムを完成させるのだ。
だから彼女は閉鎖された世界を捨てて、一歩外に踏み出すのだ。
一人では無理でも、みんなでやればシステムはきっと完成する。
そうすれば、またれーこは目を覚ますのだ。
久しぶりに出た外の世界は、太陽がとてもまぶしかった。
もう季節は春だ。
花開く暖かな春だ。
「ああ、そっか……」
あかりはふと気がついた。
「そういえばあたし、二十歳になったんだっけ」
あの日。
れーこが目を覚まさなくなった日。
その日付を思い出す。
それはあかりの二十歳の誕生日だった。
あかりが大人になった日だった。
短くなった髪を触りながら、あかりは歩きだす。
髪が長くなるのはいつごろか。
切らなければならなくなるまでどれくらいか。
転換の時だ。
門出の日だ。
いずれ彼女が目を覚ますまで。
グッバイ・アフターデイ――
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