月がきれいだ。
そう思いながら、私はひさびさに地上の空を仰ぎ見た。
快晴、といっていい位の、美しい夜空。
雨やら曇りやらは嫌いだ。
ろくな思い出がない。
そんな気がした。
深夜。人はまばらで、誰にもあわずに住処まで辿り着けそうだった。
私は溜め息をついた。
ほっとしたのか、違うのか。
今の私にはわからなかった。
ところが。
運河門のかどを回った辺りで。荷物を片手脇に抱えた、10代後半位の性別不詳の麗人、街の人々は彼を隊長と呼ぶ。
彼はひとりで歩いていた。
若干足元が危ない。
飲み過ぎたのか、飲まれたか。
どうやら普段、彼を様々な意味で慕うと噂の部下は不在だったらしい。
でなければ、こんなにはならない。
彼には名前があるはずだが、彼は親しい人にしか名前を教えなかった。
私は彼の名前を知らない。
それどころか、話した事すらない。
私は溜め息をついた。
お節介かとは思えたが。
私は彼に声をかけた。
「途中まで乗ってくかい、隊長さん」
彼は、ふらりとこちらを向く。同時に表情がわずかに変わったのには気がつかないふりをした。
「お気遣い、有難う。でもあと少しなので」
そういい、上にある建物を指さした。
彼の前には急階段。おそらく今の彼にはきつい。
まあ、階段や迷路運河はこの街では珍しくはなかった。
なにしろ街全体が迷宮みたいな造りだ。初めて来たら、必ず迷う。
(旅人は必ず、テンガイの民と関わる)
この言葉の意味は、それに由来していた。
彼はゆっくり階段をのぼりだす。私は舟を漕ぎだそうと立ち上がる。
と。
よろけた彼は荷物ごと倒れた。
とっさに私は舟を飛び下り、彼を抱きかかえた。そしてある事実に気づかざるおえなかった。
それは彼の秘密。恐らく、誰も知らない。
彼はさっと青ざめた。
私は彼を舟に乗せ、散らばった荷物を集めるために。陸へあがった。
久々の地表。青ゴケの感触が木靴ごしに伝わってきた。
普通なら懐かしいだろう感覚。だが、私には、違う。
私の生まれた場所は、空が見えなかったから。
違和感をいつも、覚える。
なんとか、荷物を集め終わって、舟に静かに移る。
その間彼はこちらを見なかった。
だが、話しかけきたのは、彼の方だった。小さな、ささやき。
私は頷き、そして、こう言った。
「私は、地上の民ではないのですよ。これで、秘密はお互い様です」
彼はわずかに目を瞬き、わずかに表情を緩めた。
彼は少し、微笑んだ。
彼なりの、心遣いか。
真意はわからないけれども。
私も、わずかに微笑う。
最後に笑ってからだいぶ経っていた事に気がついたのは。
彼を送り届け、しばらく経ってからだった。
いつの間にか霧雨がささやかに服を濡らしていた。
私はいまさらながらに、気づく。
ふと、先程の事を思い出した。運河を登る途中。
私が舟先で櫂を操る間、彼の表情はわからなかった事を。
でもそれでいい。
そう、思えた。
月は雲隠れしていた。
私は空を仰ぎ見た。ほの暗い。初めて地上に出たあの日は。
空気が闇を切り裂くように冷たい。
記憶は微か。確か、霧雨が…
忘れたふりをしていたのは、他ならぬ私自身だ。
私が生まれた場所は地下深く。舟と共にこの街に流れ着いた。
彼は、本当は誰にも知られてはいけないものを持ち続ける。
お互いに。秘密を抱え。
そして、
僅かに月光が、薄雲の狭間から差しこむ。
私は溜め息をついた。
ほっとしたのか、違うのか。
今の私はわからないふりをした。
その気持ちは、私だけの秘密。
…私が彼の名前を知る事になりのは、もう少し先の事。
彼女の本当の名前は、月によく似た、この街に多く眠る石と同じ名前だった。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
ほのぼの片思い日常です。