1.
灰色の空が堪え切れなくなったかのように、冷たい水を滴らせ始めた。
真希は手でその一粒を受け、無表情に空を眺めた。
(ああ、また雨なんだ……)
日本の冬は乾燥しているのが相場のはずだが、この冬のきらめき市は雨が多かった。
(せめて、雪ならまだ、きれいなのにな……)
粒ではなく線の形になり始めた雨を避けて、真希はコンビニの軒下に入った。
線が太くなると共に、地面を打つ音も大きくなってきた。
(かなり、降りそう)
真希は何となく携帯電話を開いた。天気予報を見ようとして、指を止める。
(こんなに降ってるのに、今更何を確認するの、私? なんてね……)
画面の別のところに目を向ける。着信メールはなし。
(キミは……今、どこで、この雨を避けてるのかな)
真希の指は携帯のボタンの上を空しく彷徨い、何もせずに戻った。
高校三年生の後半というものは、重圧との戦いである。真希も、生徒会長の重責から解放されたと思ったら、ただちに看護学校の受験勉強に臨まなくてはいけなかった。
親友の語堂つぐみは、小型の英和辞典を一冊丸々暗記していないと合格しないような難関大の文学部を受けるらしく、大分前から学校でその姿を見かけない。時々短いメールが届くくらいだ。
他の友人たちもそれぞれの進路に向けて、普段の交流を犠牲にして机に向かっている。当然のことだろう。やがて、全てが終われば、またきっと日常が帰ってくる。
だが、真希には不安なのだ。「彼」からのメールがないことが。
(キミも、頑張ってるんだよね……)
そう考えて、真希も机に向かう。しばらくはそれで大丈夫だ。しかし、集中はいつか途絶える。そうすると、また、足場が突然消え失せるような、寒々しい空気が彼女を包み込む。
(ああもう)
つい、携帯を見てしまう。着信なし。
そんな時間が続き、すっかり疲れてしまった真希は、気分転換に外に出た。そしてその途端に雨に降られてしまったわけだ。
真希はふう、と溜息をついた。自動ドアに自分を認識させる。コンビニは外の薄暗さを人工的な明るさでまぎらわせながら、彼女を迎え入れる。
雑誌の脇を通過して、お菓子のコーナーで立ち止まる。
(このポテチ、アクアパッツァ味? どんなのかな)
ちょっとだけ気分を上昇させて、真希が袋を手に取ろうとした瞬間、別の手がそれを取った。
「あっ」
「あ」
真希の頭をわずかに越す身長、その体を覆わんばかりの長い黒髪。手の主は知った顔だった。
「大倉さん。こんにちは」
「……こんにちは」
大倉都子は真希に極めて形式的に挨拶をして、ポテトチップスを持ってレジに向かった。真希もそれ以上、話を続けようとは思わなかった。
(大倉さん。彼の、幼なじみ)
自分の脳内のデータを確認するかのように、真希はゆっくりとうなずいた。都子がコンビニを出て行くのを見送り、真希はお菓子売り場を離れた。何故か、同じポテトチップスを手に取るのはためらわれた。
一口サイズのチョコレートとビニール傘を手に、真希は家の門をくぐった。
「ただいまー」
コンビニからの道すがらしていた物思いを続けながら、真希は部屋に向かう。
(いつからなのか分からないくらい昔から一緒にいて、今も家が隣同士って、どういう気分なんだろう?)
真希は小学生の頃にきらめき市に転入してきたので、それより前から続くような人間関係はここにはない。
(転校してもお手紙書く、なんてお互い言ってたけど……やっぱりなかなか難しいよね)
真希は前の街にいた、もう輪郭もはっきりしない古い友人たちの顔を思い浮かべる。
(でも……女の子しかいなかったなあ、友達。どんな気分なのかな、男の子とずっと一緒って)
真希には想像するしかない。しかしそれを現実に生きている同級生がいる。
(私は……)
真希は、「彼」、都子の幼なじみと自分との歴史を思い返す。
入学式の当日、隣の席に座って、伝説の樹を見ていたから、声をかけた。なぜか、そうしたくなったから。
うまく高校生活を送るために、特技を身に付けるよう、アドバイスした。クラス委員だったから。
揃って生徒会役員に立候補して、揃って当選した。その当時の生徒会長に誘われたから。
真希は一つ一つにうなずき、最後に溜息をついた。
(何だか、大倉さんと彼の関係に比べると、浅いというか薄いというか……だよね)
それでも真希と「彼」は仲が良かった、はずだ。何度も遊びに出掛けたし、生徒会でもお互いを支え合った。
(生徒会)
真希は思い出す。去年の秋、生徒会役員選挙が終わり、後任に引き継いで生徒会長を退いたときの記憶だ。
『星川さん、お疲れ様』
『あ。うん、キミもお疲れ様』
『いや、俺なんて大してお疲れじゃないよ。星川さんに比べたら』
『ううん。私みたいに失敗ばかりの会長を支えてくれたんだから、大変だったでしょ』
『そんなこと言ったって、会長本人の方が大変に決まってるよ。まあ、「失敗ばかり」は敢えて否定しないけど』
『あー、ひどーい! あははは』
『はははは。改めて、お疲れ様、星川さん』
『うん、ありがとう。これからは、受験だね。一緒に頑張っていこうね』
それから二人は顔を合わせる機会が大幅に減り、今この時に至っている。
(結局、生徒会がなかったら、私とキミはつながらないのかな……)
真希はチョコレートの箱をぎゅっと握った。窓の外では、相変わらず雨が降っている。
(そうすると……私は……彼にとって、どんな存在なんだろう?)
2.
その日もまた、雨だった。真希は軽く肩から力を抜くと、席を立って教室を出た。とは言っても、いつも通っている教室ではない。入学試験中の看護学校の大教室だ。
(七割くらいは確実だと思うけど……)
真希は別の教室の前に用意された椅子に座り、頭の中で軽く筆記試験の内容をおさらいした。
(うー。何だか六割くらいの気もしてきたよ~)
ふるふると頭を振り、ほとんど無意識に携帯を手に取った。
(……こ、こら、私。まだ試験は終わってないんだよ? どこにメールしようとしてるの?)
もう一度、今度は強めに頭を振り、真希は携帯をカバンに押し込んだ。
(本当、どこにメールを……)
浮かび上がる面影は、もちろん一人しかいない。
『うん、きっと星川さんなら、なれるよ、看護師に』
実際には他の受験生しかいないのに、真希は頬を赤らめた。
(う、うん……でも、私は、キミにとって、どういう……)
「はい、では、受験番号1033番の方、お入りください」
「は、はいっ」
真希はぴしゃ、と軽く頬を叩いて教室に入る。
「じ、受験番号1033、星川真希です。よろしくお願いします!」
試験官に促され、椅子に座る。かくして、筆記に続く面接試験が始まった。
大体の質疑応答は、事前に問題集などで勉強した通りだった。最初こそ声が裏返ってしまったりしたが、徐々に落ち着いてきた真希は無難に答えた。
「なるほど。先生方は何かありますか?」
主に質問してきていた真ん中の女性試験官が両脇の二人に尋ねる。
「いえ。特には」
真希から見て右側の女性試験官は書類に目を落としつつ答えた。真希が少しほっとしかけたとき、反対側に座っていた男性試験官が軽く手を挙げた。
「一つだけ、よろしいですか」
「どうぞ」
真ん中の試験官が促す。真希は慌てて背筋に緊張を戻した。
「星川さんは、看護師にとって、一番大切なものは何だと思いますか?」
「一番、大切な、もの」
余りに根本的な質問に、真希は数秒間、思考回路が白くなってしまった。
(な、何か答えないと)
白い思考は一転、様々な色でぐるぐると回り始めた。
(え、えっと……)
ふと、夕焼けのオレンジ色で回転が止まった。いつかの放課後の教室だ。
『だって、キミは任せられる? 私みたいに元気しか取り柄がない看護師さんに?』
『うーん、できるけどなあ』
『え?』
ぱん、とはじけ、色が秩序立って並んだ。
「それは、元気、だと思います」
「ほお、元気?」
男性試験官は微笑んで真希を見つめた。
「は、はい。どんなに自分が大変でも、患者さんに元気を分けてあげられないといけないと思います。それで、元気を分けてあげられて、患者さんを笑顔に出来たら、また自分が元気になれます。それで、また、他の患者さんに……」
勢いで話し始めたものの、途中で怪しくなり始めた真希に、男性試験官は笑いかけた。
「それは素敵だな」
「あ、は、はい」
真希は顔を赤くして言葉を切った。
「他には、ありますか?」
真ん中の試験官の再度の確認に、もう手は挙がらなかった。
面接試験が終わり、教室を出て、看護学校の校舎を出ても、真希の頬は熱いままだった。
(あ~もう、あんな子供っぽいこと言ったらダメだよ! もっと何か……うーっ)
駅までの道のり、真希は気が付くとまた携帯を開いていた。相変わらず着信はなし。
(き、キミのせいなんだから!)
真希は勢いでメールを書きかけ、送信ボタンを押す寸前で我に返った。
(え、えーっ!? 八つ当たり?)
くたっと脱力する。軽いものを選んだはずの携帯が、ずっしりと重たく感じる。
朝からの雨はかなり弱くなっていたが、まだ傘を開かずにいる人はいない。
真希は携帯が濡れないようにカバンに入れると、とぼとぼと歩き始めた。傘は携帯よりさらに重い。
(うーん……)
真希は何度となく、面接試験を頭の中でやり直した。
『看護師にとって、一番大切なものは何だと思いますか?』
『それは、元気、だと思います』
『看護師にとって、一番大切なものは何だと思いますか?』
『それは、元気、だと思います』
『看護師にとって、一番大切なものは何だと思いますか?』
『それは、元気、だと思います』
真希は傘の角度を少し上げた。
(……おかしいな。何度やり直してみても、この答えじゃないとしっくりこない気がするよ…?)
一緒に、唇の端の角度も少し上がった。
「……もう。キミのせいなんだから」
不思議と、傘に当たる雨の音が、リズムを刻んでいるように聞こえてきた。
「キミのせいなんだから。私の答えがこれしかないのは」
真希はうなずいて、ずんずんと勢い良く歩き始めた。
(いいんだ。私は私の答えをしたんだから)
結果を出す重圧を下ろして、真希は雨の中を歩いていく。
(でも……きっと、もう一回、言うと思うな)
数週間後、真希は予想通り、言った。
「キミのせいなんだから!」
合格通知を手にしながら。
3.
真希は、合格を一番最初に知らせたい人にメールを送ることはしなかった。
(キミには、直接会って伝えるよ!)
肩肘を張ってそんな宣言をせずとも、学校に行けばすぐに会えるはずだ。受験シーズンは終わりを告げ、卒業までの気だるくも楽しい時期が来ている。
花曇りで暖かな、春らしい日だった。授業はもう、受験にも定期試験にも関係がない。
さすがに真面目な真希も教師の声をぼんやりとしか聞いていなかった。視線は黒板ではなく、つい同じようにぼんやりと授業を聞くでもなく聞いている背中に行ってしまう。
(何て言って伝えようかな。やっぱり『キミのせいなんだから!』って言ってみようかな。なーんてね)
そうこうするうち、授業は終わった。真希はさっと立ち上がり、この三ヶ月近く会いたくてたまらなかった相手に声を……
「おう、星川! ちょっと来れるか?」
「え、あ、せ、先生」
担任教師の古我に呼ばれ、真希は慌てて方向転換した。
「卒業式の答辞の件で教頭先生が話があるそうだ」
「は、はい。分かりました……」
真希は心の中で漫画じみた、盛大な溜息をついた。
答辞に関する事務的な話が終わり、職員室を出ると、真希は小走りで教室に戻った。もう誰もいない。そのまま止まらずに昇降口に行く。
靴を履き替えるついでに、探す相手の靴も確認した。靴箱に入っているのは、上履きだった。
(あー。もう帰っちゃった……)
真希は今度は実際に溜息をつくと、昇降口を出た。そのまま歩いて、校門を出かけたところで、慌てて身を翻し、校門の門柱の陰に隠れた。
「で、そんなことまで聞いちゃったらしいんだよ、学の奴」
「うわぁ。それはちょっとキツいわねえ」
などと話しながらゆっくりと歩み去っているのは、真希の探している相手と、その幼なじみ。
「って言うけど、お前も結構ずけずけ聞いてこない?」
「それは相手があんただから!」
「うわ。何だそれ」
「あっはははは」
二人の声は、意外と早く聞こえなくなった。
真希は門柱の陰から出ると、二人の後ろ姿を見送った。
「うーん……」
真希は、軽く頬を掻いて、携帯電話を手に取った。
途端に、ぽつんと一滴、雨粒が落ちてきた。
「あっ」
真希は慌てて画面を拭き、折り畳みの傘を開いた。
(これは、やっぱり、メールで済ましたりしちゃいけないってことかな……でも……)
傘を叩く雨の音は段々、せっかちになっていった。真希は肩をすくめてゆっくり歩き出した。
その翌日は、卒業式のリハーサルだった。卒業生代表として答辞を読む真希は、一人、他の生徒とは違う場所で待ったり違う行動をしたりしなければならず、誰とも話すことなく下校した。
真希は帰宅して着替え、椅子に座ると明日の準備を始めた。
(ええと、持ち物はそんなにはないけど……答辞の紙は忘れないようにしないと)
奉書紙を丁寧に畳んで封筒に収め、カバンに入れる。
(これで、よし)
真希は視線を、カバンからハンガーに掛けた制服に移した。
(いよいよ、卒業、か)
制服から、携帯に目が行きかけたが、逸らした。
(ううん。やっぱり直接伝えよう。合格したこと。あと……)
動悸が激しくなり、目の前の物が見えなくなった。
(わ、私の想いを……伝えたい……伝えなきゃ)
そこに思考が至った瞬間、一昨日の、去っていく二つの背中が脳裏に浮かんだ。
『デモ、アナタハ彼ニトッテ、ナニモノナノ?』
受験のあの面接のとき以来、しばらく眠っていた問いが、襲ってくる。
『ナニモノデモナインジャナイ? クウキミタイナンジャナイ?』
真希はこめかみを押さえ、頭を抱えた。
(だ、駄目だよ……怖いよ……)
思考回路が恐怖で焼き付いていく。真っ白で、何も考えられない。
(あれ……この感覚、どこかで……)
真希は身を起こした。
『看護師にとって、一番大切なものは何だと思いますか?』
『それは、元気、だと思います』
真希は三分の一秒ほど、ぽかんと口を開けた。そしてきゅっと結ぶ。
(そうだ。私は私の答えをするんだ。だって……他に、何もないんだから)
ようやく視界に物が見えてきた。真希は笑顔を作る。
(もっとも……今度は結果、期待できないかもね)
笑顔なのに、目の辺りがいやに寒かった。
4.
ぐずついた空だった。三月半ばのわりに、気温も高くなかった。
しかし、真希は、一人高気圧の中にいた。
自分は何か、聞き違いをしたのではないか。
あるいは、それより前に言い間違いをして、相手に誤解させているのではないか。
そもそも、これは夢だったりはしないのか。
真希は働かない頭を懸命に回転させて、数分前からの事態を再生した。
答辞を何とか無事に読み終えて卒業式が終わり、真希は校庭の隅の大木、あの入学の日に、その視線の先はるかにあった伝説の樹の下に「彼」を呼び出した。
真希は努めて冷静に合格の報告をしようとした。しかし、気が付くと、相手に跳び付いて、その体温を感じながら報せていた。
奔る気持ちを抑えるため、真希は合格と感謝の気持ちを伝え終わると、そっと離れた。距離を保ったまま、次に話すべきことを話し始めた。
自分の決意、学校の思い出。そして話の中核に達する。
「私は、キミが好きです」
意外だった。きっと、全ての力を出し尽くさなければ言えないと思っていたのに、まるで息を吐くだけのように、自然にその一言は出た。
後は、深呼吸をしたように、落ち着いて続けられた。返事はいいんだ。想いを伝えたかっただけだから。じゃあ、私、行くね。
「待って! 星川さん。俺も、星川さんのことが好きだよ」
今に至る。聞き違いでも、言い間違いでも、まして夢でもない。
そう、心が確信した瞬間、目の端から、今まで蓄積されていた不安や恐怖が、流れ出して行った。
真希は、もう一度、跳び付いた。自分の、愛する人に。
「ねえ」
手に温もりを感じながら、真希は話しかけた。
「何、星川さん」
真希は首を傾げた。
「それ、ちょっと他人行儀じゃないかなあ?」
「で、でも急には変えられないよ」
ふふ、と小さく笑って、真希は手を握り直した。
「ね、もう一つ」
「何」
真希はテンポの速い深呼吸をして続けた。
「私は、キミにとって、何?」
「え。それは当然、か、彼女ってことになるんじゃないのかと」
「う、うん。それはそうなんだけど」
真希は顔を火照らせながら、ちょっと質問を変えた。
「私は、キミにとって、何だった?」
「だった……って、うーん」
しばし思案。真希は、喉に迫ってくる、『例えば、大倉さんと比べて』という言葉を出さないように格闘しなければいけなかった。
「そうだな。俺にとって星川さんは、ずっと、星川さんだった」
「え?」
真希は転びそうになった。
「わ、星川さん、大丈夫」
「だ、大丈夫だよ。でも、それ、どういうこと?」
真希の瞳に映る顔が、得意げに微笑む。
「星川さんは、他の人や物に比べられもしないし、例えられもしない。たった一人の『星川さん』だった。それで……」
「あ」
すっと肩を引き寄せられ、真希は小さく声を上げた。
「それで、そのたった一人の星川さんを俺は、好きになった。これ、答えになってるかな」
真希は今度は目に迫ってくる涙と闘わなくてはいけなくなった。
「う、うん。最高に答えになってるよ。な、なーんてね」
真希が堪えきれずにまた嬉し泣きをしそうになる直前、空の方が涙を流し始めた。
「わ、また雨か」
「うん。ここんところ、本当、多いね」
「ちぇ、こんな日くらい降らないで欲しいよなあ」
真希はその言葉を聞くと、出しかけた折り畳み傘を戻した。
「? 星川さん?」
こちらはしっかり傘を開いた恋人を離れ、真希は本格的に降り始めた雨の中でくるっと舞ってみせた。
「ううん! 何だか今日は、雨も気持ちいいよ!」
「わ、分かるけど! 風邪引いちゃうよ、星川さん! 傘に入りなよ!」
おろおろした声で傘を振る大好きな人に笑いかけ、真希は雨の中で踊り続ける。
彼が、「真希! 傘に入りなよ!」と呼びかけてくれるまで。
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メモ4卒業記念。頑張れホッシー。