「君がこの世界に生まれて、僕と出会って旅したこと。ずっと、全部覚えてるよ」
その言葉に答える様に、ミラもまた笑った。
「意気込みだけは立派だな」
「そうかな。僕はただ、君がいたってことを残したいだけなんだけど」
「相変わらずお人よしだな、君は」
二人は声を立てて笑いあった。そして快い沈黙が満ちる。
ややあって、先に動いたのはミラだった。ふわりと浮き上がるのを皮切りに、他の精霊達も空へと躍り上がる。
「じゃあな」
「うん、またね」
その言葉に、精霊マクスウェルは動きを止めた。こちらを見てくる顔は何かに堪えるようだ。
「また、会おうね」
ミラは何も言えなくなった。言葉の代わりにジュードの首に腕を回し、抱いた。
「命あれば。互いが生きていれば。会えないなんてことは、ないものな」
屁理屈でもいい。そうやって自分を納得させなければ、この別れはあまりにも堪え難かった。
「また、会おう。きっとだよ」
ジュードの言葉に力が篭る。驚異的な意志を込めたそれはもはや、言霊と呼べる代物だった。
「生き急がないで! いい? 絶対また会うんだからね、もう一度。僕達は……」
「無論だとも!」
マクスウェルは太く笑った。そこにはもう、惜別の色はない。
虚空に生じた裂け目を潜る間際、精霊の主は振り返って少女を呼んだ。
「レイア!」
「な、なに?」
いきなり名指しで呼ばれ、上ずった声で応ずるかつての仲間に、ミラはくすぐったそうな笑みで青年を指し示した。
「この朴念仁を頼むぞ」
レイアが一瞬真顔になる。だがそれも刹那のこと、次の瞬間には満面の笑みで胸を叩いていた。
「まかしといて!」
最後に潜ったミュゼの姿を最後に、裂け目は消えた。初めから、そこには何もなかったかのように、ニ・アケリア霊山は、再び静寂を取り戻す。
二人の元に国王の跨ったワイバーン訪れたのは、それから半刻程後のことであった。
アルヴィンは飛竜に並足を命じた。普段より数倍穏やかな風が頬をなぶり、己の茶色い外套と花嫁の純白の衣装が流れる。胸元に視線を下げてみると、服は今尚握り締められていた。彼女は手袋をしているのではっきりと見えたわけではないが、おそらく拳に血の気はないだろう。白い手は、それほどにきつく強張ってしまっている。
左手に暖かいものが触れて、エリーゼは我に返った。見ると手袋をした大きな手が、自分の手を包み込んでいた。温もりで固まっていた手に血が通い出す。力が緩み、服から手がようやく離れた。目の前で互いの手のひらが、互いの指が少しずつ重なってゆく。
エリーゼがゆるゆると顔を上げた。ようやく自分を見てくれたと彼は一度は安堵したのだが、それはすぐさま霧散した。金の髪は乱れ、頬に血の気は無く、いつもの笑みは咲いてはいなかった。
泣いている、とアルヴィンは胸を衝かれた。涙こそ流れてはいないものの目は赤く、まなじりは既に濡れている。彼女のそんな顔を見たのはこれが初めてだったが、見るのがこんなにも辛いものだとは思いも寄らぬことだった。
そして、何故か儚く思えた。抱きかかえているのは確かなのに、そのまま己の腕の中で消えてしまいそうだ。
少女が瞬きをし、目尻に溜まっていた雫が滑り落ちる。彼は無意識のうちに指の腹でぬぐってしまっていた。彼女が息を呑んで気付いた時には既に遅く、布越しに頬の感触が伝わってきていた。再び触れたいと渇望した肌は、想像していた以上に柔らかく、そして暖かかった。
二人は互いを凝視する。一切の動きが止まる。動いているのは、早鐘のように打つ心臓だけ。
この人も、同じ気持ちだったら。自分と同じ気持ちを、自分に向けてくれたら。ずっとずっと、別れて以来そう願ってはいたが、それを現実として受け取っていいのだろうか。期待して、いいのだろうか。
茶色い手が貝殻のような耳にかかる。白い手袋をした小さな手が上にそっと重なる。もう視線を逸らすことは無い。たとえ向き合う二人の顔が、必要以上に近づきつつあっても。
互いの顔が交差する。互いの呼吸が混じり出す。瞼が完全に落ちる直前に唇が触れ合い一度離れたが、その後は済し崩しだった。求めるまま、求められるがまま唇を啄ばむ。何者の入り込む余地の無いほど体を密着させる。
今までの状況が最悪極まりなかったというのもあるだろう。隙を見せることすらできなかった状態から解放され、張り詰めていた神経が彼の体温で解けてゆくのを感じる。
あんな別れ方をしてしまった。記憶を失った時の自分は、この人をさんざん傷つけた。それなのに自分はこの人に再び会いたかった。そして今、こうして腕の中にいるという実感に耐えられなくなった。
顔を離し、額を胸板に乗せる。身じろぎしたエリーゼにアルヴィンはそっと腕に力を込めた。
「記憶、戻ったんだな」
はい、と答える代わりに少女は頷く。今はもう何を口にしても、嗚咽にしかなりそうもなかった。
「あの時、お前を引き止めていればよかった」
長旅を終え、スヴェント家に到着した時。荷物である彼女を、バランの元へ送り届けた時。あのまま行かすのではなかった。是が非でも腕を放さず、その場でバランから徹底的に話を聞きだしていれば良かった。
「そうしていれば、エリーは記憶をなくさずに済んだ。こんな、危険な目に遭うこともなかった」
「アル……」
胸が痛い。息がうまくできない。
彼女は思わず吐息を漏らした。心地よさのあまり、どうにかなってしまいそうだ。
案じられているのがわかっていて、けれど声に出してちゃんと返事をすることができない。そのまま、擦り付けるように頬を押し付ける。少しでも体を密着させようと、肩口に顔を埋めた。胸が痛い。切なすぎて苦しい。外套越しの匂いは、とても懐かしかった。頭を飾るプリンセシアの香りが邪魔だ。
エリーゼはやっと理解した。自分がどれ程、この人に触れたかったかを。どれ程、触れて欲しかったかを。
「やっと、あなたから触れてくれた……」
「エリー……」
「やっと、アルが触ってくれた。アルから手を伸ばしてくれた……!」
何と言えばいいのだろう。エリーゼが伸べたから触った、ではなく、アルヴィンが自発的に触れてきたという感動を、どう表現したら分かってもらえるだろう。気持ちをありのままに伝えたいのに、もどかしいくらい言葉にならない。
これまで味わった辛さや哀しみが、雪解けのように流れてゆく。喜びの色に花が咲く。
「アル……」
エリーゼのまなじりから、新たな涙が零れる。
愛しい人。ああそうだ、これは、愛しいという気持ちだ。
この人を知って、この人に心奪われた。もう駄目だ。自分はもう、独りで生きてゆくことができない。
男は言った。
「ごめんな。今まで……本当に」
式が執り行われている船から遥か上空で、落下した彼女を見た時、アルヴィンの中で迷いという枷が外れた。
もう自分を嫌いになりたくない。もう、自分に嘘をつきたくない。発する言葉に優しさがなくたっていい。これ以上相手の顔色を伺って言葉を紡ぎ続けたくない。
自分の言葉。自分の望み。ありのままの気持ちを、ありのままに伝えたい。
ワイバーンは垂直降下した。だが花嫁衣裳の彼女の姿が見る見る小さくなる。このままでは海に激突する。
(――させるかよっ!)
絶対に手放したくない。二度と失いたくない。
手を伸ばせ。到底間に合いそうになくても、届かなそうに見えても諦めるな。
今度こそ――その手で彼女を掴め。
「信じて、良かった……。初めてだ、信じて報われたのは」
男の感慨深い声が風に流れる。
「そうなんですか?」
「ああ。……なあ、エリー」
少女は微かに首を傾げ、男の次の言葉を待っている。
「俺を、信じているか?」
「勿論です」
即答だった。だがアルヴィンはさらに、しかも少し言いにくそうに続けた。
「それって……どのくらい?」
「はい?」
意味が分からず、エリーゼは微かに眉根を寄せた。上手く伝わっていないのは男も承知のようで、何と言ったらいいものかと、考えあぐねている。
「つまり、どのくらい信じてくれているかってことを知りたいんだ」
「うーん……」
エリーゼは顎に手を宛て、しばらく考える。
「アルは、わたしのことを信じてくれていますか?」
「ああ」
「どのくらい?」
矢継ぎ早な質問に面食らいつつも、男は真剣に答えた。
「どのくらいって、そりゃ……こうして助けるくらいだよ」
「わたしも、同じです」
男の腕の中、エリーゼは意志と自信に満ち溢れる笑みを浮かべていた。
「アルが困っている時、助けて欲しい時、必ず助けに行きます。そのくらい、あなたのことを信じています、アル」
男は目を瞬き、それからふいに噴出した。そういうことか、と俄然男の心は軽くなる。あんなに悩んでいたのが嘘のようだった。
朗らかな二人の笑い声が、晴れ渡った空に響き渡る。
ふとエリーゼは下を向いた。雪原に、目指す建物が見えてきたのだ。雪深いザイラの森、その端にある協会の前に、人がいる。
エリーゼの顔が、みるみる喜色に染まった。黒髪の医師。その横にレイアがいる。ドロッセルがいる。国王がいて、宰相がいる。
懐かしい仲間に向かい、エリーゼは大きく手を振った。
(了)
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