No.391512

青森逃亡記 1話 住処を離れて

陽平さん

ひきこもりの主人公が、ひょんなことから青森の全然知らない人の家に住むことに。
そこで出会った三姉妹と仲良くなっていくというほんわかヒューマンドラマ。
2chのスレ「現実逃避したくて青森県に3年間住んでみたwwwwww」をノベライズしたものです。

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2012-03-14 20:44:04 投稿 / 全29ページ    総閲覧数:389   閲覧ユーザー数:389

 

 

序章 本州最北端の地にて

 

 伊守公希は青森某所の閑散とした駅の改札で人を待っていた。

 年は二十歳。だが大学生ではないし社会人でもない。

 顔面を半分ほど隠すほどの全く手入れをされた形跡がない伸びきった髪と、日に焼けてない色白の肌、それに覇気のない死んだ魚のような目。

 誰でも一瞥しただけで、オタク、ニート、ひきこもりの類であると想像がつく容姿。それが伊守だ。なお、実際のところ彼はオタクでありニートでありひきこもりだ。

 寒い。それが東京から青森に来て感じた最初の感想だった。

 東京では春半ばの気候であったが、こちらではどうやらまだ春は来ていないようだ。

 衣服などの荷物が入ったバッグに腰を下ろし、タブレットで時間を確認する。

 午前十時三十分。

 約束の時間を三十分ほど過ぎていた。

 ポケットにある財布を握りしめた。

 中身は小学生の小遣い程度しかない。とてもじゃないが自宅の東京までは帰れないだろう。

 駅の周りをぐるりと見回したが、辺りは人っ子ひとりいない。無人駅のため駅員すらいない。

 冷たい風がほおを撫でる。

 もしこの土地勘の欠片もない場所で待ち人が来なかったら、自分は凍死か餓死かその両方かを選択しなければならない。

 どうしてこんなことになったのだろうか。

 伊守は記憶の糸を辿った。

 

1話 住処を離れて

 

 過去を振り返ったときにまず思い出されるのが中学生の頃だ。

 その時から伊守にはあまりいい記憶がない。思い出すのは、上履きを隠される、机にゴミを入れられるといった類のことばかりだ。

 その頃から伊守には居場所がなかった。

 気の合う友人は何人かいたが、悪質ないたずらが続いたため、徐々に離れていってしまった。

 休み時間、自分以外の学友全員がグループを作り雑談している光景を見て、ふと伊守は決心した。

 仮病を使おうと。

 次の日、伊守は母親に熱があると嘘をつき学校を休んだ。

 伊守はその時の気分を今でも覚えている。

 重い荷を肩から降ろしたような気分だった。

 誰にも蔑まれることなく、自分のしたいことをすることのなんと気持ちのいいことか。

 結局その日はマンガを読みネットをぶらつき思いっきりだらだらした後、後就寝した。

 翌日も、明後日も、伊守は仮病を使った。

 三日目ともなると母親もさすがに感づくが、伊守は部屋のドアに鍵をかけ、声を無視した。

 母親は幾度となくドアを叩き、学校へ行くように促したが、あいにく伊守は人の言葉を無視することに慣れていた。

 さらに三日ほど経ったとき、母親は息子の説得を諦めたようだった。

 かわりに、ドアの前に食事が置かれることとなった。

 以降は同じような日々を繰り返す毎日であった。

 起きる、時間を浪費する、飯を食う、寝る。とにかくそれの繰り返し。ニートのお手本通りの一日をひたすら繰り返した。

 一年ぐらいは快適だった。

 だが二年目から時折、胸の奥が軋むように痛くなった。

 毎日欠かさず飯を作ってくれる母や、もう高校生になったであろう同級生のことを思い浮かべると、胸の痛みは増した。

 けれども伊守にはすでに、自分の部屋から出る勇気がなかった。

 いったい、どんな顔をして学校に行けばいいのだろう。母親にどんな言葉をかければいいのだろう。

 その問答を忘れるため、伊守はゲームをし続けた。

 起きてから寝るまで。伊守はずっとネットゲームで気を紛らわし、感覚を麻痺させていった。

 ただやがて、その麻酔の効き目も鈍ってきた。

 気がつけば、引きこもってから四年以上が経過していた。

 自分をいじめた人間は、自分の存在などとうに忘れて今頃大学受験をしているのだろうか。それを考えると手が勝手にベッドを叩いていた。

 だから伊守が手首を切ろうと台所から果物ナイフを持ち出したのは、仮病の時と同じく、けして衝動的なことではなかった。

 

 *

 

 ベッドの上で目が覚めた。

「はぁ」

 自分がまだ生きていることにため息が出る。

 ぼんやりした目で左手首を見る。

 そこには切り傷が二、三あったが、いずれもかさぶたができていた。

 死に損なったというやつらしい。

 人間の生命力は、伊守の想像以上に強かった。

 あるいは自身を傷つけるということに対し、無意識にブレーキがかかったのかもしれない。理由なんてどうでもよいので、伊守は考えるのをやめた。

 天井の木目を眺め、ため息を吐いた。

 憂鬱な気分だ。

 うさを晴らすため、今日も伊守はパソコンの電源を入れた。

 

     *

 

 

 誰かと会話をしたくなったとき、伊守はチャットをする。

 話題はアニメかゲームぐらいしかないし、そもそも肉声で話すわけではないが、それでも外の人間と意志疎通ができる手段がチャットぐらいしかなかった。

 その場所で自分の置かれた現状を愚痴る。それがせめてもの気晴らしであった。

 相手が『頑張れよ』だとか『生きてりゃいいことあるさ』といった言葉をせめてもの慰めとしていた。

 その日も、伊守は取るに足らない愚痴を書き連ねていた。

 だが、今日の相手は普段とは違った。

 他の人であればただの励ましの言葉をかけてくるだけなのだが、その相手は愚痴を聞くなりこう返してきた。

『じゃあウチに来て働け』と。

 冗談だろうか。それとも本気だろうか。

 逡巡した結果、伊守はレスを返した。

『何をしている所ですか?』

『稲作。いやぁ、女房に逃げられてな。ほとんど一人でやってるんだが、これがキツくて』

『場所はどこですか?』

『青森だ。その気があるならメールして来い』

 相手は、なんと見ず知らずの自分に、メールアドレスを通知してきた。それも、どうやらブロバイダのメールアドレスを。

 普通こんな時はフリーのメールアドレスを使うものだが。

 伊守は書かれたメールアドレスを訝しげに見つめた。

 何の酔狂だろうか。

 様々な可能性を考慮したが、どうせ一度は捨てた命。

 伊守はチャット相手にメールを送った。

 

 それから一週間後、伊守は家族の誰にも内緒で、大きなバッグを抱えて家を出た。

 

     *

 

 

 そして現在。

 伊守は途方に暮れていた。

 チャットの相手である笹石創院という男が来ないのだ。

 嘘や狂言の類だったのだろうか。

 五月だというのに青森にはまだ春が来ていないようで、伊守の心情を具現化したような冷たい風が吹いていた。

 最悪のケースをいくつか想定し、薄く雲がかかった空を見上げた。

 そんな時だった。

「あの」

 女性が、伊守に声をかけてきた。

 年は見たところ二十歳前後。腰までの豊かな栗色の髪をふわりとたなびかせ、穏和そうな笑顔を向けてきた。理想の姉を思い浮かべたら、多くが彼女のような人物を思い浮かべるだろう。そんな女性だった。

「あなたが、伊守さんですか?」

 肉付きのよい体に思わず目がいき、赤面しながらも返答する。

「あ、はい。もしかして、笹石創院さん……」

「の娘、長女の由梨です」

 そういって由梨と名乗った人物はにこりと微笑んだ。

「娘……?」

 娘がいるなんて、全く聞いてなかった。

 

     *

 

 

 後に合流した笹石創院は、優しいおっさんを絵で描いたような人物だった。

 貫禄のある体型に、怒るところが想像できない優しそうな顔。それがチャット相手の創院であった。

 想像通りの寛容そうな人で安心した。

 創院の家に向かう車の中で、伊守はなぜ由梨のことを話さなかったのか聞いた。

 すると創院は頭を掻きながら、謝罪の言葉を述べた。

「んだずんな。わへでだ。かになー」

 だが訛っていてさっぱり意味がわからなかった。

「かに……?」

「忘れていた。悪かった。と言ってますわ」

 助手席に座っていた由梨の翻訳が入る。

「ほとんど一人でやってるって言ってましたよね」

「んだ。学校があるからなかなか手伝ってもらえねぇ」

「そうなんです。田植え機もあるんですが、訳あって今は使えませんし。休日は手伝うようにしているのですが、ほとんど父一人でやっているようなものなんですよ」

「そ、そうですか……」

「んだばって、いぐねぇことか?」

「でも、良くないことか? って言ってます」

「う、あ、まあ、それはそうですけど……」

 伊守は、創院の運転する車に揺られ、思案を巡らせていた。

 母親以外の女性と話すのは、久方ぶりであった。

「私じゃ不満かしら?」

 冗談めかして聞く由梨。その大きな瞳に、伊守はどきりとした。

「い、いや、そんなことは!」

 不満どころか、良すぎるぐらいだ。

 だが残念なことに伊守は、女子には嫌われた経験しかないのだ。

「オレ、女の子とあまり話したことないから、同じ家に女の子が一人いるとか、その……」

「一人? うちは三人姉妹よ」

「え!?」

 

     *

 

 

 車に揺られること一時間以上。

 一行は田園の並ぶ、青森の農村に到着した。人はいないが空気はおいしかった。

 創院の家は大きくてボロい。伊守は『となりのトトロ』を思い出した。

 居間に通されると、二人の少女がいた。

 一人はウェーブのかかった肩まである金髪が特徴的な、高校生ぐらいの女の子だった。美人の部類には入るのだが、なんだかギャルのようなノリの軽そうな印象を受けた。

 車の中で名前は聞いていた。この娘がおそらく、次女の美樹だ。

 ということはその隣にいるのが三女のえり子だろう。

 中学三年生だというえり子は、伊守の想像より背が低かった。あまりまとまっているとはいえない髪が目を覆っている。隠れてはいるが、目つきが悪いことははっきりわかる。

「さ、公希君、自己紹介して」

 創院に、ドンと背中を叩かれる。

「じ、こしょうかい?」

 嫌な予感がした。例えば授業中に難しい問題を先生に当てられたような、そんな気分。

「んだ。これからこの娘たちと暮らすんだから」

 創院は簡単に言うが、自己紹介は伊守が最も苦手とするものの一つだ。もし自己紹介かセミの抜け殻を食べることかのどちらかをしろと言われたら、何のためらいもなく後者を選ぶだろう。それくらい苦手だ。

 三姉妹の視線が伊守に集まった。

 心臓の鼓動が早くなる。

 何を言えばいいのだろうか。

 頭の中で、気の利いた言葉を探した。

 けれども、何も思いつかない。

 女性に見られているということもあり、伊守の手は汗でべっとりだった。

 伊守は目の前が真っ白になった。

 そして、意識が遠のいていった。

 

     *

 

 気がつくと、伊守は和室で寝ていた。

 どうやら気絶して、ここに運ばれたらしい。

「……最悪だ」

 伊守は、畳の上に大の字になって天井を眺めた。

 ただの自己紹介もできないとは。つくづく自分がいやになった。

 しかし、どんな自己紹介をしたらよかったのだろうか。自分は東京から来た学歴中学中退のひきこもりニートで、ゲーム・アニメ・マンガオタクの根暗です、特技はふさぎ込むこです、とでも言えばいいのだろうか。思わずため息が出る。

 ふと立ち上がり外を見た。

 ここは二階らしい。眼下の田圃で、田んぼに稲を植えている創院と由梨と美樹が見えた。

 それを見てますます鬱になった。自分は青森まで来て、結局やっていることは東京と変わらないではないか。

 思わずため息が出る。

 そんな自分に対し、青森の人は部屋を貸してくれている。それを考えると心が痛んだ。

 部屋を眺めていると、この部屋の唯一の出入り口である襖が、ほんの少しだけ開いているのに気付いた。

 そこから、誰かがのぞいている。

 背丈からして、三女さんだった。名前は、確か……

「えり子ちゃん?」

 名前を呼ぶと、その人物は驚いたようだった。

「わっ」と声を上げ、襖の奥で転倒した。

 べたん! 鈍い音がした。

 襖を開けると、大方の予想通り、三女が廊下で倒れていた。

「大丈夫か? 手を貸すぞ」

「……」

 えり子は髪の毛に隠れた目でキッ、と睨み、自分の力だけで立った。

「名前、コーキだっけ? どーでもいーけど」

 長らく人と接していなかった伊守だが、相手が自分を見下している人間かどうかははっきりとわかった。この少女がそうだ。

「あ……そ、そうだけど。……何?」

「機械、得意?」

「まあ、一応は」

 パソコンやゲーム関係なら、と心の中で付け足す。

「じゃあついてきて」

「どこへ?」

「車庫」

 言いたいことだけ言って、えり子はおかまいなしに歩きだした。

「……」

 行くべきかどうか逡巡したが、ここで寝ていても仕方がない。伊守は腰を上げた。

 

 

     *

 

 えり子が倉庫のシャッターを開く。

 広い。自動車が五、六台は置けるだろう。そのくらいの広さだった。

 ただし、とびきり埃臭かった。

 太陽光が、飛び交う埃を照らす。伊守は思わずくしゃみをした。

 そこには、埃よけの布が掛かっている伊守の背ほどの塊がいくつかあった。その内の一つから、トラクターのタイヤが顔をのぞかせていた。どうやらここは農業に使う機械を置くところらしい。いずれの布の上にも、大量の埃が層を作っていた。

 えり子は、奥にある機械の布を取った。とたんに多くの埃が舞う。

「これ、操縦できる?」

 と言ってえり子が指さした機械は、いつか教科書で見た『田植え機』と形状が酷似していた。

 鮮やかな紫色に塗られたそれを見て、伊守はとあるロボットアニメを思い出した。

「おお~、初号機だ」

「わかるの……!?」

 えり子の顔が尊敬のまなざしに変わる。

「あ、いや、これと似たカラーの機械を見たってだけで」

「さすが東京の人。操縦もできる?」

「い、いや、無理だ! だいたい大きさからして全然違うし」

「でも、操縦の仕方は変わらないよね……?」

「ぜ、全然違うっ!」

「でも、コーキは東京の人だから、できるはず」

「その根拠はどこから!?」

 地球の平和を守るロボットと田植え機。いったいどこに共通点があるのだろうか。

 だが押し切られる形で、伊守は初号機に搭乗することとなった。

 なんだか、レバーがたくさんある。

「コーキ、どう? 『しょごうき』とは違う?」

「うん。全然」

 まず電源の入れ方がわからない。

 と思ったら、車のエンジンスイッチのようなものが差してあった。

 ひねると、田植え機はまるで命が吹き込まれたかのようにブルブルと振動した。

 エンジンがかかったのだ。

 次に、適当なレバーを少しだけ倒してみる。

 すると田植え機は少し前進した。

「なるほど。だいたいわかった」

 レバーの部分にアイコンが描かれており、それを見ればある程度見当がついた。

「すごい……!」

 えり子が拍手する。

「拍手するほどのことでもないだろ」

「ううん。すごいよ。この機械、由梨お姉ちゃんも使えなかったもん。美樹お姉ちゃんも、パパも」

 と、ここで先ほど窓から見た景色を思い出す。そういえば田植えをする笹石一家は、田植え機を使っていなかった。

「もしかして、家族みんな使えないのか?」

「うん。使えるのはママだけ」

「じゃあママに使い方を教えてもらえばいいんじゃ」

「ママ……」

 ママという単語を聞いて、えり子はうつむいた。

「ママ、今いない。ずっといない」

「そうか……」

 気まずい沈黙が流れる。

 聞いてはいけないことを聞いてしまった。

 この田植え機はきっと、長きに渡って使われてないのだ。だから埃があれだけつもっていたんだ。

 埃よけにたまっていた埃は、一週間や二週間で溜まる量ではなかった。見当はつかないが、短い期間ではないだろう。

 えり子の母親も、ずっと帰ってきていないのだろう。

「じゃ、じゃあさ。俺が操縦を教えてやるよ。そしたら成長したえり子を見にママが帰ってきてくれるかもしれないぞ」

「ホント……!」

 えり子の顔がとたんに明るくなる。こうなれば伊守も、根拠はまったくないのだが、つい「ああ、ホントさ」と返さざるを得ない。

「じゃ、やる。教えて」

 小さな体躯で、田植え機によじ登るえり子。

「お、おい、手を貸すぞ」

「いい。……他人に手を触られるの、苦手」

 結局自力でよじ登るえり子に、伊守はやむなく席を譲る。

「じゃ、『しょごうき』の使い方、教えて」

 すっかり初号機が定着してしまったようだ。

「そこのレバーを前に倒すと前進するぞ」

「ん。わかった」

「ちょっとでいいからな。軽く倒すだけで十分――って!」

 注意が終わる前にえり子は、既にレバーを限界まで倒していた。

「お、おいっ!」

 遅かった。

 ブルルルルル!

 田植え機から猛る獣ような音がする。

 次の瞬間、田植え機は急発進した。いや、急発進という表現では適切ではない。正しくは暴走だった。

 静止させる間もなく、田植え機は車庫から飛び出した。

「ーーっっっっ!!」

 声にならない悲鳴が聞こえる。

「レバーを戻せ!」

「ダメ! 動かない!」

 錆ていたもしくは埃が詰まっていたことが原因でレバーが戻らなくなった、とかだろうか。推測だが妥当な仮説だ。

「エンジンを切るんだ!」

「うん!」

 田植え機の操作をするえり子。が、田植え機は言うことを聞かない。その場で回転を始める。

「そのレバーじゃない!」

「え、え、えっと……わ!」

  暴走し、振動する田植え機の上でバランスを崩すえり子。とっさにえり子は田植え機のレバーをつかみ振り落とされるのをまぬがれるが、それは伊守の顔をさらに青くさせた。

 田植え機は進路を変え、田んぼに突っ込んだ。そして縦横無尽に田を荒らす。

 創院や由梨の叫び声が聞こえる。

 どうすれば。

 その時、車庫に他にも機械があることを思い出した。動かし方はおそらく車と同じだろう。車なら運転したことがあった。……ゲームの中でだが。

 そばにあった機械の布を取り払うと、トラクターが姿を現した。

 差しっぱなしのエンジンスイッチをひねる。

 だが長く使われていなかったトラクターは調子が悪いらしい。エンジンがかからない。

 祈ってエンジンキーをひねること5回。ようやくエンジンがかかる。

 アクセルを踏んだ。

 思ったよりも早いスピードで、トラクターが動き出す。

「よし」心の中でガッツポーズ。

 目標はもちろん、えり子を乗せた田植え機。

 全速力で水田へと入る。泥水が豪快に跳ねた。

 暴走する田植え機に、可能な限りトラクターで接近する。幸いなことに速度はこちらの方が上だ。

 すぐに追いつき、田植え機に横付ける。えり子は振動で今にも振り落とされそうになりながら必死にレバーにしがみついていた。

「えり子! つかまれ!」

 手を伸ばす伊守。

 えり子は手を見てためらう。

「いいから早く!」

「うん」

 小さい手が、触れた。すぐに伊守はつかみ、えり子を抱き寄せる。そしてトラクターを田植え機から離れた所まで移動させ、ブレーキをかけた。

 主を失った田植え機は、その場で小さな円を描くようにして回っている。あれを止めるのは骨が折れそうだが、放置しておけばそのうちバッテリーが切れるだろう。

「よかった」

 ため息が出る。今度は安堵の混じったため息が。

 一時は血の気が引いたが、一人の怪我人も出さず、ことを終えることができた。まあ暴走する田植え機と、田植え機を止めるため田んぼに強引に入ったトラクターと、それら二台に荒らされた田んぼは無事ではないが、それくらいですんだと思えばいいだろう。

 一気に集中が切れた。この時初めて、胸にぬくもりがあるのを感じた。

「あ」

 伊守はようやく気付く。自分が、手を強く握りえり子を抱いていることに。

 えり子の顔が紅潮していて、小刻みに震えている。

「ま、待てよ。今、手を離すかーー」

 言い終わる前に、頭突きが飛んできた。

 当然避けることはできず、伊守の顔面に痛覚が走る。

「っ痛ぇ!」

 なんという石頭だろう。痛みを感じたその隙にえり子は手を振りほどき、明後日の方へと逃げていった。

「公希さ~ん」

 代わりに、長女の由梨がやってきた。

「経緯を詳しく説明してくださる?」

 その手には、なぜかハサミが握られていた。

 再び伊守は血の気が引いた。

 

 

     *

 

 伊守は由梨に連れられ、裏庭に来ていた。裏庭といっても手入れが行き届いていないので、どちらかというと雑草畑のような場所である。

 そこにあった、手作り感溢れる木造のイスに座るよう促される。

 指示通り座ると、由梨は「失礼しますね」と一言断りを入れ、伊守の髪を切り始めた。

「母がよく言ってました。機械を使うときは髪を切れ、髪が長いと巻き込まれる、って」

 伊守の長らく放置されていた髪の毛が、切り落とされていく。

 素人が切ると髪を引っ張りすぎたりハサミの使い方が悪かったりで痛みを伴うことが往々にしてあるのだが、由梨にはそれがない。きっと家族の散髪担当になっているのだろう。由梨は慣れた手つきで断髪してゆく。

 最初は不安に思っていた伊守も、徐々に気を許し、さらには今日のできごとをすべて話した。由梨は優しく頷いた。

「えり子の母さんって、どんな人だったんだ?」

東京(かみ)から来た人でしたわ。父と違って細かいところをすごく気にする方でした。だから一年ほど前、なんでも大雑把な父に嫌気がさして」

「あー、なるほどね。なんとなくわかるよ。俺のような得体の知れない人間を呼ぶくらいだからね」

「公希さんは、どうしてその誘いに乗ったのですか?」

「居場所がなかったんだよ。学校にも家にも。中学からずっとひきこもりでゲームばっかりやって。今日、自己紹介ができなかっただろ。俺には、人に話せるいいところなんて全くないんだ。毎日ネットやゲームばっかりして頭悪いし体力ないし根暗でクズだし」

「あらあら、そんなことないですわ。それじゃあ公希さんのいいところを十、挙げますわ」

 由梨は、伊守の前髪の長さを整えながら続けた。

「まず、知らないチャット相手に自分の状況を打ち明ける素直さ、青森に来ようと思う行動力、お金をほとんど持たず青森に来た度胸強さ、三十分遅刻しても怒らない寛容さ、機械に強いところ、えり子ちゃんに田植え機の操縦を譲ってあげる優しさ、えり子ちゃんの田植え機が暴走したときに助けようと考えた責任強さ、トラクターを使うことを思いついた発想力、私と美樹ちゃん以外には滅多に心を開かない人見知りのえり子ちゃんの心を開いたこと、それと」

 ハサミをしまい、じっと伊守の目を見つめ、

「髪を切ると結構男前な所。はい、おしまい。それじゃあ、私は晩ご飯の準備がりますので」

 にっこりとほほえんで、由梨はその場をあとにした。

 伊守は、鏡を見つめた。

 そこには以前と比べて大幅に髪を短くした自分がいた。

 かっこいい、のだろうか。そんなことを言われたことも思ったこともなかったので、くすぐったいような不思議な気持ちだった。

 

 

     *

 

 

「えと、食事の前に俺からもう一度自己紹介をさせてください。改めましてこんにちは。東京から来ました、伊守公希です。こ、この度は、創院さんの厚意でこちらに住むことになりました。俺は中学の頃よりその……ひきこもりをしていたのですが、このままではいけないと思い、青森に来ることを決意しました。機械が得意です。これから、よろしくお願いします!」

 

 
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