#75
時はしばし遡る。
新都長安。旧都洛陽と同等の歴史を誇る、巨大な都市。その中央にそびえるは、帝のおわす宮廷だ。都市の形式同様に古い時代のそれを維持しながらも、決して寂れようとする気配もなく、またその巨大な城門は、ただそこにあるだけで、見る者を厳かな気持ちにさせる。
「聞きましたか?」
問うは、若い兵。とはいえ、新兵などではない。かつては堕落した禁軍の一兵卒であった彼も、老兵に師事し、門番として働いてきた。その立ち居振る舞いは、見る者が見れば新兵等とは比ぶべくもないと考えるだろう。
「何がだ?」
応えるは、その兵を含め、禁軍の若者を指導してきた老兵。かつて天水にて、董卓軍華雄隊の部隊長として働き、洛陽でも門番を務めていた。二十万の大軍を前に、総大将に対して堂々と伝令役を仕った経験もある。反董卓連合の後、新旧2つの都の政治も安定した事で、主・董卓の願いにより、ここ長安へと異動する事となった。
振る舞いはマシになっても、話好きなところは変わらないな。彼と共に異動した後輩に対して内心溜息を吐きながら問い返す。
「残る勢力も、あと3つになったらしいっすよ」
「らしいな」
「何処が勝つと思いますか?」
「さぁな。俺達の仕事はこの董卓様、そして帝をお守りする事だ。それ以外に興味はない」
「相変わらず堅いっすね」
「お前は相変わらず緩いな」
相変わらず厳しいっす!男は笑いながら応える。そう流せる程度には、老兵との付き合いも経た。懲りずに話を続ける部下の言葉を聞き流しながら、老兵は思考続ける。部下の言う通り、兵達の間だけでなく、街でもその噂で持ち切りだ。どこの勢力が勝つかなどと賭けを始めようとした流れの商人もいたが、それは瞬く間に捕まり、罰せられた。
だが、彼が思うのはその事ではない。長い間戻っていない、仲間達の事だ。彼の者程の武があれば、賊に殺されたという事もないだろう。しかし、それならば何故戻ってこないのか。内政に忙殺されながらも、時折見かける休憩中の主とその腹心は、何処か寂しそうだ。幼い頃より見てきた少女たちの、あのような顔を見たくはない。一体何処に居るのやら。彼は空を見上げようとしたところで、異様な影を3つほど見つけた。
執務室。賊は減っても、仕事は減らない。都市が大きければ大きいほど、内政に割く力も当然大きくなる。今日も今日とて政務に忙殺される2人の少女。
「この程度の件だったら、アンタ達でも解決出来る筈よ。もっと考えて見なさい」
部下が持ってきた書簡に目を通した詠は、厳しく告げる。
「はい。街の長老さん達には、来週伺うとお伝えください」
対照的に、月は部下の報告に優しく返す。
そうしていつものように政務をしていると、扉が叩かれ、そして開かれた。
「失礼します。董卓様、少々よろしいでしょうか」
入って来たのは、門番の老兵だった。手に竹簡を携えている。
「どうされましたか?」
「旅の者が、こちらの書簡を持って参りまして」
「旅の者?陳情ではなさそうね。適当に置いといて。後で見ておくから」
「それが――――――」
話は終わりだと、筆を再び動かそうとした詠だったが、彼の言葉に固まる。隣の月も同様だ。また、慌ただしく仕事をしていた文官たちも。
「貸してっ」
いち早く硬直を解いた詠が立ちあがり、走るような勢いで彼に歩み寄り、竹簡を奪い取った。慌ただしく竹簡を紐解き、さわりの部分に目を通す。次いで、その瞳が大きく見開かれた。
「この筆跡……間違いないわ。アイツが教えてくれたひらがなもあるし………その旅の者を呼んで頂戴。それと、華雄たちも呼んでおいて」
「畏まりました」
兵に返し、詠は月を振り返る。満面の笑みを浮かべて。
「月、一刀からよ!」
室内が騒然とした。
玉座の間にて客人を迎え入れた月は、まず気絶した。
「ちょ、月?月ぇぇええっ!?」
自身も真っ青になりながら、詠は月の身体を揺する。
「えぇい、医者を呼べぇ!」
「ここにいるぞ!」
「それ、たんぽぽの決め台詞!?」
叫ぶ華雄に、応えるは紅髪の男。端の方で蒲公英が憤り、翠は男の傍に立つ物体に固まっている。
「そして儂らが」
「華佗ちゃん専属の看護
そして、彼を挟むように立ち、身体をくねらせる白衣の
無理もない。客人を案内し、そのまま扉の両端に立っていた近衛兵は同情した。
※
なんとか意識を取り戻した月は、なんとか居住まいを正し、なんとか声を発する。
「皇帝陛下のおなりです」
若干声が上擦っていたが。
静謐とした空間。その奥から、幼い少女が姿を現した。そのままゆっくりと歩を進め、玉座に座り、そこでようやく報を持ってきた客人に視線を向ける。
「………………………はぅ」
「りゅ、劉協様っ!?」
「へぅ……」
そして気絶。今度ばかりは、華雄や翠達も筋肉の塊に得物を向けた
「………すまなかったの、客人よ」
「かまわないわん。私たちのような絶世の美女を前にしたら、誰だって気を失いもするもの」
「うむ。じゃが、時の皇帝陛下にも認められるとなると、やはり喜びもひとしおよ」
「アンタ達は喋らないで!」
世迷言を口にする貂蝉と卑弥呼を一喝し、詠は空に向き直る。
「劉協様。彼らが、『天の御遣い』からの文を持ってきた旅の者です」
「うむ。文には目を通させてもらったぞ。難儀であったな」
「あぁ!一刀から頼まれた………頼まれましたので」
いつも通りに喋ろうとした華佗であったが、詠のひと睨みで口調を直す。だが、空は微笑みを浮かべて手を振った。
「よい。口調なぞ気にするな。それよりも、彼の事を一刀と呼んでおったが……お主は彼の者とどういった関係じゃ?」
それは月たちも気になったところだ。彼を名で呼ぶ者は多いが、いずれも女性ばかりだ。男ではまず見た事がない。
「だったら普通に喋らせてもらうぞ。アイツの病魔を俺が治療したんだが、その後、思いのほか気が合ってな。西に向かうと話したら、頼み事をされたんだ。その文も、そのうちのひとつだ」
「ひとつという事は、他にもあるのか?」
「あぁ。文を届けたら、その足で西涼に向かって欲しいと」
「西涼とな?」
声には出さないが、翠と蒲公英は、故郷の名にぴくりと反応する。
「あぁ。馬騰殿だったか?彼女が存命であるならば、その病を治して欲しいと」
「本当か!?」
だが、次いで出る人物の名に、帝の前でありながら反応をする。詠がすぐさま嗜めようとしたが、空が無言でそれを制した。
「本当に、母様を治せるのか!?」
「勿論だ。五斗米道に祓えない病魔はない!………っと、君は?」
「あたしは馬超。馬騰の娘だ」
なるほどと華佗も頷く。
「陛下……」
翠は玉座に向き直る。申し訳なさそうに、だが、何かを期待した声で。空も微笑みを返し、告げた。
「うむ。早速向かうがよい。馬騰には母上の代から世話になっておるからな。仲穎よ」
「はい。それでは馬超さん、馬岱ちゃん。少しの間、暇を出します。どうぞ、故郷へと向かい下さい」
主の許可を得て、翠と蒲公英は出て行く。旅の支度をするのだろう。
「華佗よ。朕からも頼む。馬騰の病を治してやってくれ」
「あぁ、任せろ」
頭は下げられない。それでも、華佗はその頼みをしっかりと受けた。
実際に気は逸ったが、出発を明朝にしようと言い出した翠。しかし、華佗も医者だ。気概も強い。彼は、自身の疲れに構わず向こうと言ってくれた。再度謝辞を述べる翠は、涙を滲ませる。
翠と蒲公英、そして華佗を見送った月たちは、振り返った。
「なんで……アンタ達は残っているのかしら?」
詠が睨むは、筋肉達磨2体。しかし貂蝉と卑弥呼は、気にした風もない。
「どぅふふ。ご主人様にお願いされた事があるのよん」
「そうじゃな。儂もなかなかに楽しみぞ」
詠の問いに、貂蝉と卑弥呼はポーズを決めて答える。
「へぅ………」 「はぅ………」
2回目なので、慣れたものだ。倒れる月と空を抱き留めながら、華雄は問うた。
「主だと?お前達は誰に仕えているのだ?」
「ご主人様はご主人様。北郷一刀様よん」
「うむ」
空気が軋む音が聞こえた気がした。
「そうか、一刀か」
華雄は何故か納得し。
「アイツ……もしかしてソッチの気もあったのかしら」
詠は誤解し。
「ご主人様かぁ………いいかも」
「月っ!?」
すぐに気を持ち直した月は、自身が彼をそう呼ぶ場面を想像し、頬を赤らめていた。
「兄様もなかなか心が広い……のか?」
同様に目覚めた空は空で首を捻り、次いで問う。
「して、その頼みとはなんなのじゃ?」
「華雄ちゃんが暇をしてるだろうから、鍛えてやって欲しいって言われたのよん」
「うむ。ご主人様いわく、馬超も一流の武人ではあるが、それでも華雄には及ばんと言っておったからな。たまには自分より強い者と相手をする機会を与えてくれとも言付かっておる」
説明に反応したのは、やはり華雄だ。
「一刀にそれほど言わせるまでの武の持ち主なのか、お前達は?」
「えぇ。ご主人様と同じくらいと思ってもらってかまわないわよん。あるいは、私達の方が強いかもねん」
いいだろう。ひとつ返し、華雄は立て掛けてあった得物を手にとった。
「ならば勝負だ。翠や蒲公英たちの指導ばかりで、最近は身体が鈍りそうだと思っていたところだ。だが、一刀の言うようにはならぬかもしれんぞ?」
「いい眼をしておる。だが漢女道を極めし儂らに勝てるとは思わぬ事だ。胸を借りるつもりで来い」
「上等だ」
『胸を借りる』のところで胸筋をピクピクと震わせる卑弥呼に、空と月は今日3度目の気絶を経験した。
「くそ、何故当たらん!?」
「華雄ちゃんもまだまだねん。そんな大振りじゃ、いつまで経っても当たらないわよん」
中庭で仕合を続ける華雄たちを遠巻きに眺めながら、月と詠、そして空は茶を飲んでいた。仕事で街に出ていたねねも戻ってきてはいたが、中庭で荒ぶる筋肉達磨を眼にし、愛犬である張々の背で気絶している。
「それにしても、まさか曹操のところに居たとはね」
自身と月に宛てられた竹簡に再度目を通しながら、詠は呟く。
「恋さんと香さんも、劉備さんの所にいるみたいだし……大丈夫なのかな」
月もまた、溜息を吐く。一刀から届いた文には、現在の彼らの状況が書かれていた。恋と香が劉備に助けられた事、自身が劉備軍に加担した事、それぞれの居場所、彼の考え、そして――――――。
「朕にも謝っておった……決意を穢してしまってすまない、と」
月たちとは別で宛てられた書簡を思い出し、空も物憂げな表情を浮かべる。
「どうされますか、劉協様。書簡には、問題が起きかねないから、我々は静観して欲しいとありましたが……」
「そうじゃな……」
月の問いに、空は腕を組んで四阿の天井を見上げる。しばしの沈黙。月も詠も、言葉を発しない。じっと、彼女の決断を待つ。
「気になるのは、禅譲の儀が終わっても、帰る事は出来ないかもしれない、という言葉じゃな」
それは、文の最後に書かれていた一文。謝罪も添えてあった。感情だけを考えるならば、今すぐにでも許昌に赴き、彼に会いたい。会って、抱き締めてもらい、頭を撫でて欲しい。しかし。
「じゃが……朕は帝じゃ。この儀は朕が始めたもの。なれば、それを最後まで遂行する義務がある」
ひとつの国を自身の手で終わらせるという、歴史上例を見ない儀。なんとしても成功させねばならない。その気持ちは、月と詠も同じだ。
「仲穎と文和も兄様に会いたいじゃろうが……すまぬが、朕のわがままに付き合ってくれ」
「勿論ですよ、劉協様」
「はい。それに一刀の事だから、すべて終わったら、また何食わぬ顔で戻ってきます」
「そうじゃな」
2人の言葉に、空は微笑む。寂しさがあるのは変わらない。だが、それでも少しだけ気分が晴れやかだった。
麗羽が許昌を訪れてからの騒動も、そんな事もあったなと苦笑出来る程度には短くない時間が経過した。猪々子たちにも仕合後に真名を預けられ、友となった。領地である袁紹一行が南皮に戻り、河北四州の内政もようやく落ち着きを見せる。また白蓮は烏垣の動向の報告を受けて幽囚へと戻ったが、上手く事を収める事に成功する。もっとも、対騎馬民族の為にと一刀から黒兎馬を借り受け、騎馬隊と共に援護に向かった霞の功績が大きいという事もあったが。また益州はますますの発展を見せ、江東もとうに豪族を取りまとめていると報告が上がっている。
「劉備と孫策が結んだようね」
間者からの定期報告に目を通した華琳が呟く。その言葉にそれぞれ動かしていた筆を止め、3人の少女は顔を上げた。
「我々と事を起こすとなれば、各々の勢力では明らかに戦力が足りませんからね」
「同盟を組む事は、勅で禁じられていませんからねー」
「仮に我らに勝ったからといって、その後はどうするのかしらね」
軍師たちはそれぞれ意見を述べる。桂花の言う通り、最初の勅の後に送られてきた令により、偽降は禁じられていた。しかし、同盟はそれとは異なる。
「勝手にあちらが決めればいい事よ。それより桂花?貴女はこの曹孟徳が負けるとでも?」
「いえ、そのような事は思ってもいません!」
不敵な笑みで問う主に、桂花はビクリと固まりながら答える。華琳も冗談で言ったのだろう。それ以上追及はせずに、言葉を続ける。
「でも、ようやく華佗との約束が守れそうね」
感慨深げに口にする名は、愛する部下を救ってくれた1人の医者。彼は言った。報酬として平和を、と。
だが、すぐに表情を真面目なものに戻すと、華琳は問う。
「我が軍の兵力は」
「現状、50万です」
稟は応える。
「敵の兵力は」
「劉備さんが15万、孫策さんが20万ですねー」
風が重ねる
「輜重は」
「滞りなく」
桂花も頷く。
華琳は立ち上がり、静かに告げた。
「我が往くは覇道。我が力、そのすべてを用いて、敵を討ちましょう」
―――――長沙。
郊外の平原には壮観な眺めが広がっていた。整然と居並ぶ集団はいささかも蠢く事無く、ただ指示を待っていた。
「お久しぶりです、孫策さん」
その集団の最前には8人の将。さらにその前に歩み出た少女は、満面の笑みを浮かべて口を開く。
「えぇ、久しぶりね」
それを迎えるのは10人の将と、その中央に立つ1人の女性。
「………………ふぅん」
「あの…何か?」
再会の言葉を交わすや否や、彼女―――雪蓮はじっと少女―――桃香を見つめ、そして眼を細めて鋭利な笑みを浮かべる。その視線を受けた桃香は問い返すも、そこにおどおどとした様子はない。
「いや。貴女、変わったわね。どういう心境の変化かしら?」
「あはは…それはまたいずれ。それよりも、同盟を受けて下さってありがとうございます」
「書簡でも礼は受けたけど?」
「それでもです」
「そう」
短く返し、雪蓮はようやくいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「長旅ご苦労様。予定通り、出陣は3日後。それまでに細かい打ち合わせをしましょう」
「はい」
「ついてきなさい。城まで案内するわ」
簡単に告げて、雪蓮は踵を返した。桃香も後ろで会話を聞いていた愛紗たちに兵への指示を任せ、雛里を引き連れて雪蓮のあとに続く。
「久しぶり、朱里ちゃん、恋ちゃん」
「お久しぶりです、桃香様」
「ん……」
それまで呉の将の端に立っていた2人の少女も歩み寄り、桃香は彼女達との再会を喜ぶ。同盟を組み、合軍する段が決まった際に、朱里は冥琳たちと策を詰める為に、先に長沙に赴き、恋はその護衛として同道していた。都合3人を従え、先を歩く孫家の将の後を続く。
「うわぁ…やっぱり成都とは色々と違うんだね」
「そうですね。建物も若干作りが異なるように思えます」
初めてこの地を訪れた桃香と雛里はきょろきょろと周囲を見渡し、その様子に、朱里は少し恥ずかしそうに俯く。恋はいつものように屋台の店主に呼び止められ、その都度何かしらを食べていた。
そして到着する、街の中央にそびえ立つ城。やはりこの城も成都のそれとは若干の違いを見せながらも、基本的な様式は変わらない。
「とりあえず執務室でいいかしら」
「あぁ。玉座の間は明日、皆が揃ってからでよいだろう」
雪蓮が冥琳に確認を取り、小会議の場が決定する。孫家の武将は解散し、軍師3人は雪蓮について城内へと入った。桃香たちもその後を追う。
「あの、恋ちゃんはいてもいいんですか?」
「かまわん。護衛はいた方がいいだろう」
桃香が歩きながら、こっそりと冥琳に問う。彼女は別段表情を変える事無く頷いた。
「建前って大変よね。私も別にいいと思うんだけど、それでも別勢力の本拠だからね。何をされるか分かったものじゃないわ」
耳聡く聞いていた雪蓮が笑いながら振り返る。
「私も王だけど、武人でもあるしね。誰かしらいた方がいいわ。でないと、関羽あたりが怒りそうじゃない?」
「あ、あはは……」
確かに、彼女ならば何かしらを言ってきそうだ。容易にその光景を想像し、桃香は苦笑した。
翌日。総勢20の将が軍議の間に集う。玉座は空席。桃香はかまわないと言ったが、いまは対等な立場だからと、雪蓮が固持した。結果、誰も座らぬ玉座に向かって右側に孫家の将、左側に劉備の将が並び、向かい合っていた。進行役として、冥琳と朱里が玉座の前、それぞれの側に立ち、軍議が開始される。
「まずは、これまで我々と孔明が話し合い、決定した方針を説明する」
先に冥琳が口を開き、決定事項を通達する。彼我の戦力差、行軍の道程、決戦の場となりそうな土地、将の配置と組合せ――――――。
「――――――以上だ。何か質問はあるだろうか」
説明を終えた冥琳が皆を見渡す。孫家の者はもとより聞いていた為、特に異論もなく。また、朱里も会議に参加し、雛里も口を開かない事で、劉備の将も頷いた。しかし、1人の将が手を挙げる。
「ひとつ、よいだろうか」
「どうぞ、趙雲殿」
星だった。皆から集中する視線をまったく気にも留めず、彼女は問いを発する。
「決戦の地は、承知した。1度にあたる数少なく、通常よりも遣りようはあるだろう。しかし、それでもその差は大きい。それに対する策は、何かあるのだろうか?」
「はい。それに関しても、手は打ってあります」
同胞からの言葉の方が納得もしやすいだろう。そう考え、口を閉ざす冥琳に代わり、朱里が応える。
「同盟を組みに来た際の話し合いで、おおまかな決戦の地や方法は決まっていました。その為の策も。実際の行動は周瑜さんにお任せしていましたが、先日その場を訪れ、結果には私も納得しています」
「して、その方法とは?」
「はい。それは――――――」
朱里の説明に、今度こそ孫家の将たちも感嘆の息を洩らした。同盟が組まれたのは数か月前だ。たったひとつの戦の為に、それほどの時間を掛けていたとは。
「――――――したがって、決戦の際に兵を動かす必要もなく、策が露呈する可能性も
「その為に、だいぶ金を使ったのだがな」
冥琳は徒に微笑む。そこに辛辣な響きはない。
「それに関しては、すべてが終わった際に、我々からもその費用を提供いたします」
朱里も微笑み返す。2人とも、皆の驚きの顔に、少しだけ嬉しそうだった。
「そこまで考えているとは……いやはや、この趙子龍、恐れ入りましたぞ」
例に漏れず、星も納得する。他に意見や質問をする者もいない。
最終方針が、決定した。
――――――許昌。
出立を翌日に控えた夜。一刀は城壁の上に立ち、南の空を眺めていた。雪蓮と劉備が組み、長沙に集った事は聞き知っている。ならば、彼女もまた、その方角にいる筈だ。じっと、蒼昏い空を眺める。
「こんな所にいると風邪をひいてしまいますよー」
間延びした声に、一刀は振り向く。いや、気配でその存在は察知していたが、声を掛けられた事で、ようやく自身も意識を空から少女に移した。
「風こそ、今夜は夜更かしなんだな」
「風は何時でも何処でも寝られますのでー」
惚けたように応える風に、一刀は小さく笑みを零す。風は彼の隣に立ち、そっと彼の左手を握った。一刀も、ほんの少しだけ力を籠めて、その小さな手を握り返す。
「……………何か、言いたい事があったんじゃないか?」
しばらく無言のまま空を見つめた後、一刀は口を開いた。
「本当に……」
「……」
「本当に、恋ちゃんと戦うのですか?」
風は視線を空に向けたまま問う。
「……あぁ」
しばしの沈黙の後、一刀は頷く。
「戦えるのですか?」
「あぁ」
今度は、躊躇わなかった。風に向き直れば、彼女もまた、彼を見つめている。
「……おにーさん」
「ん……」
何も言わずに両手を伸ばしてくる風を、一刀は腕に抱える。
「甘えん坊だな、風は」
「大人の女でも、たまには甘えたくなるのです」
「そうか」
言いながら、風は一刀の肩に頭を傾ける。さらさらとした髪の感触が、頬にくすぐったい。
「風は」
一刀に身体を預けたまま、風は口を開く。
「風は…おにーさんが大好きです」
「……うん」
「誰よりも……恋ちゃんにも負けないくらい、風はおにーさんが大好きなのです」
「うん」
これまでにも、冗談交じりに伝えられてはいたが、突然の告白。一刀はただ頷く。
「おにーさんは、風の事が好きですか?」
「……」
一刀は応えない。気づけば、風は顔を上げ、一刀の眼をじっと見つめていた。一刀は首を傾け、そっと口づけをする。
「知らなかったのか?」
「……意地悪ばかりされてましたのでー」
眼を丸くしながらも、頬を朱に染めながらも、風は言い返す。
「風が冗談っぽく言うからだ」
「むー」
一刀の返答に、むくれる風。一刀はもう一度、風に口づけを落とす。それで満足したのか、風は再び一刀の腕の中で、彼にもたれ掛かった。
「抱いてください、とは言いません」
「……」
突然何を。一刀は問わない。
「だって、想い出作りみたいで、嫌じゃないですか……」
「……」
「だから、風は信じます……おにーさんは、絶対に消えません」
「……」
「風に何が出来るのか、わかりません。だから、風は信じます」
ぎゅっと、一刀の首にしがみつく。絶対に放さないと言うように。
「おにーさんは絶対に消えないと、風は信じます」
「あぁ」
「だから……だから――――――」
言葉にならない。腕の中で震える少女を、一刀は優しく抱き締める。この世界に居る事を実感させてくれる、その温もりを求めて。
夜が明け、陽が昇る。一刀が風と共に現れた街の城門には、数えきれないほどの兵。しかし、曹の旗に集った全兵力ではない。既に先遣として2日前に春蘭と霞、そして凪に稟、1日前に、秋蘭と沙和、真桜が出立している。また、合流地点とおおよその日程を定め、袁紹軍と公孫賛軍も別経路で行軍を進めている。
「これより我らは最後の大戦へと赴く――――――」
兵に向けられた華琳の声を聞きながら、一刀は考える。この戦が終わり、大勢が決すれば、自分はいったいどうなるのだろうかと。この世界に残る事は出来るのか、あるいは当たって欲しくない予想の通りに消えるのか。消えたとして、元の世界に戻るのか、それとも完全に消滅してしまうのか。
「胡蝶の夢、か」
「何か言いましたか、おにーさん?」
「いや」
ふと、その説話が浮かぶ。果たして、これは自分が見ている夢なのか。それとも、別の誰かの夢なのか。あるいは、すべてが現実なのか、すべてが虚構なのか。
「………そうじゃないよな」
「おにーさん?」
見上げる風に、今度こそ返さない。
荘子は述べている。人間であろうと蝶であろうと、己である事に変わりはない。万物は絶えず変化を続けるが、本質においては変わらない。
「……」
俺は俺だ。自分に言い聞かせる。
自分を曲げない。久しく会っていない、これからも会う事は叶わないかもしれぬ祖父の言葉を思い出す。祖父は言っていた。剣術と剣道は違う。その名に『道』を負うように、剣道はその精神を鍛える事が本質にある。対する剣術は、人を殺すための技だと。
だが。一刀は思う。そう言われながらも、祖父は自分の心とて鍛えてくれた筈だ。厳しい修行に、幾度となく涙を流し、辞めたいと思った。しかし、彼は辞めなかった。
「………ありがとう、爺ちゃん」
記憶の中にいる祖父に礼を言う。不思議と、心が落ち着いた。自分にこの大陸の趨勢を決定づけるような働きが出来るなどと、驕るつもりはない。それでも、彼は思う。こうして居並ぶ兵達とて、歴史を決定づける一助となるのだ。自分だって、そこに加わる事が出来ない理由はない。だからこそ、彼は決める。
「風……」
「………はい」
「どうなるかは分からない」
何が、とは言わない。それでも、風は彼の意図するところを察する。からかう事もなく、誤魔化す事もなく、彼女は応えた。
「俺は……俺のやりたいようにやらせてもらう」
「……止めても、決してやめようとはしないのでしょうね、おにーさんは」
ほんの僅かに諦めたような声音に、一刀は少女の頭を優しく撫でる。
「ありがとうな、風」
何に対しての礼なのか。それは分かっている。それでも風は、問わずにはいられない。
「包み隠さず言えば、俺のすべてを知っているのは風だけだ」
「……」
「だからこそ、言うんだ。俺がどうなろうと、風は、風の赴くままに生きて欲しい。俺の好きな風のままで」
「……はぃ」
一刀の言葉に、風はゆっくりと頷く。問い返す事はしない。例えそうしたとしても、彼はきっと答えてくれないだろうから。彼はきっと、自身がどうなるのか、少なからず受け入れているのだろうから。
あとがき
という訳で、#75でした。
今回のまとめ。
・風ちゃんが可愛いです
・恋ちゃんがいないと音々音たんが空気
・次回が最終回です
・普段は鳴かないくせに、フェレットが寝言を言っています
こんな感じ。
今週末から2週間ほど海外に行ってくるので、次話の更新は4月になります。
しばしお待ちください。
ではまた次回。
バイバイ。
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という訳で、#75。
久しぶりに登場する方たちも。
どぞ。
※いくら嫌いでも、キャラを貶めるような発言はお控えください。