ついにこのときがきた。
彼女はそう思いながら不敵に微笑んだ。
全てが自分の思う通りに進み、宿願がついに果たされようとしているのだ。
長かった。実に長かった。
そのときが来るのをどのくらいの間待ち侘びたことか。
そのときが来るまでどのくらいのことを耐え忍んだことか。
そのときが来るならどのくらいの人が救われるか。
笑いと共に押し寄せるのは別の感情。
悲哀、憤怒、葛藤……。
だが、そのようなものは些細なことに過ぎない。
あの人のためならば、喜んで修羅に身を落とそう。
あの人のためならば、喜んで地獄に落ちよう。
あの人のためならば、喜んで死のう。
その覚悟は正に本物であった。
何を言われようと、何をされようと、決して揺るがぬ不動の想い。
狂信者のそれにも似た歪な想い。
命運を握るのは果たしては誰か。
大陸統一を目指す唯一無二の覇王か。
家族を守らんとする小覇王か。
笑顔の国を理想とする漢中王か。
はたまた……。
全てが謎に包まれた天の御遣いか。
三国の英雄たちが荊州にてぶつかる。
大陸中の民たちがその行く末を見守っている。
自分たちの運命を左右する史上最大の決戦。
最後に栄光を掴むのは一体誰なのだろうか。
それを知る者はまだ誰もいない。
全てを予見する彼女を除いては。
彼女は笑う。
いや、もしかしたら泣いているのかもしれない。
その瞳には、その脳裏には一体何が映っているのだろう。
物語はついに最終局面を迎える。
三国による決戦は火ぶたを切って落とそうとされているのだ。
そして……。
曹操軍はついに軍勢を発したのだ……!
一刀視点
曹操軍が江陵に向けて進撃を開始した――その知らせを受け取った俺たちはすぐに諸将を招集した。永安に残っていた者も、そこに駐屯していた兵士を率いてこちらに向かっていることだし、すぐに俺たちも迎撃態勢をとることが出来るだろう。
その前に、現在江陵にいる者で、特に戦略の基部を担う者だけで軍議を行った。将たちは兵士たちの最後の微調整で忙しいため、集まったのは、益州陣営から俺、桃香、朱里、雛里、麗羽さん、孫呉陣営から雪蓮さん、蓮華さん、周瑜さん、陸遜さん、呂蒙さんだった。
「国境付近に配備した我が軍の密偵部隊の報告によると、曹操軍は総勢二十万だという。曹孟徳自らが指揮し、おそらく参陣できる将は全て投入しているようだ」
「二十万……。思ったよりも少ないですね」
周瑜さんの説明に対して俺が口を挟んだ。
三国志演義における赤壁の戦い――それは此度の戦に置き換えても差し支えないと思うのだが、そのときですら、曹操は百万の軍勢と称し、実際に三十万程度の大軍で南下してきたはずである。俺たちが総勢十五万程度であることを思えば、絶望的なまでに兵力差があるわけではない。
「いえ、我が君、そんなことはありませんわ」
それに対して解答を出したのは麗羽さんだった。
「兵力が全てではないことは既に明らかになっておりますし、おそらくはその数字は華琳さんが指揮出来る許容数の限界ではないかと思いますわ。それ以上の兵を連れて行けば、おそらく指揮系統に不都合が生じるのでしょう」
さらに。
「私も袁紹の意見に賛成だ。敵が少ないから幸運などとは決しては思ってはならない。むしろ、それが敵の全力を出せる数値なのだろう。油断すれば一瞬で我らは殲滅されると思っていた方が良い」
周瑜さんもそれに賛同した。
俺は思わずごくりと唾を飲み下した。兵力差が簡単に覆ることなど、俺にも分かっていることではないか。そんなことを曹操さんが分かっていないはずがない。敢えて兵力を落とすことで、自分の手足のように軍勢を操って、俺たちを粉砕するつもりなのだ。
現代で以前三国志の本を読んだとき、確か曹操を評価するもので興味深いものがあったのを思い出した。それは、曹操は大軍を率いているときよりも、寡兵を率いているときの恐ろしいというものだった。
この時代の曹操さんはあまり敗戦したという経歴はないみたいだけど、実際の曹操――その表現は少しおかしいかもしれないけれど、彼はよく勝ち、そしてよく負けた。歴史的な勝利も歴史的な敗北も、酸いも甘いも知っているのだ。
例えばまだ若かりし頃、黄巾党の残党――青洲黄巾党と相対したとき、相当の兵力差があったにも関わらず、彼は勝利し、そしてその膨大な力を自軍へと取り込んだ。さらには言うまでもなく、あの袁紹との戦いにおいても彼は絶望的なまでの兵力差を跳ね返して勝利を掴み取ったのだ。
だが、その逆の例もある。張繍との戦いにおいては、簡単に降伏した彼とその当時の参謀たる賈駆に謀られて、息子と典韋という猛将を失っている。さらには、赤壁の戦いはもっとも良い例であろう。諸葛亮、周瑜――二人の天才を前に、もう少しで天下統一というところで完全な敗北を喫しているのだ。
その性質がこの時代の曹操さんに当てはまるかどうかは定かではないけれど、はっきりしていることは、此度の戦における曹操さんの本気度は明らかであるということだ。
曹操さんの実力――俺は実際にこの目で見たわけではないが、それは紛れもなく本物なのだろう。あの赤壁の戦いとは違うのだ。曹操さんは決して油断なんかしない。全力で俺たちを叩き潰すつもりに違いない。この兵力がそれを物語っている。
だが、それを聞いても俺たちの中に悲壮感を漂わせる人間なんかいなかった。誰もが瞳に静かな闘志を漲らせている。まぁ、雪蓮さんは露骨なまでに好戦的な目をしているのだが、この人ほど頼りになる人もそうはいないだろう。
では俺はというと、正直に言えばとてつもなく怖い。
あの曹操さんと正面からぶつかると思うだけで、手にはじっとりと嫌な汗が浮かぶし、あのとき――曹操さんが大胆にも江陵に乗り込んできたときに感じた、あの刺さるような視線、身体から溢れ出る圧倒的な覇気、全てが俺という個人を超越しているのだ。
はっきり言ってしまえば、武将としても、政治家としても、さらには文化人としても類稀なる才能を有する曹操さんと、何の取り柄もない平凡な男子高校生が、どうやったら対等以上の戦いをすることが出来るのか、俺にはさっぱり分からない。
だけど、それと同時に絶対に負けられないという決然とした意志もあった。
恐怖に少しでも抗おうとするその想いは、俺の唯一の支えであり、言ってしまえばそれくらいしか曹操さんに匹敵するものがないのだ。俺が天の御遣いとして益州を統治していられるのも、それがあるおかげであり、これまで積み上げてきた俺という全てである。
改めて曹操軍の脅威を再認識した後で、議論はそのまま細かいところまで及んだ。決戦における部隊の指揮などは、予め周瑜さんや朱里が詰めてくれていたおかげで、それを確認する程度ですんだのだが、そこで雪蓮さんから蓮華さんは江陵に残るように言い渡された。
蓮華さんにとってその指示は寝耳に水であったようで、雪蓮さんに猛抗議したのだが、今回の決戦で自分を含め多くの人間が戦死するかもしれず、孫家を背負うことになる蓮華さんには必ず生き残ってもらいたいという願いがあるようだった。
もしも自分が王として戦場に散ってしまった場合、蓮華さんにはそのことを後世まで語り継いで欲しいのだという。歴史は勝者のために存在し、敗者には何も与えられない。孫家であるということを誇りとしている雪蓮さんにとって、その孫家として華々しく散っていったという事実をきちんと残しておきたいのだろう。
蓮華さんは唇を噛み締めながらそれを受け入れた。勿論、孫家の次女である彼女に生き残って欲しいという想いもあるのだろうが、もっと現実的な理由としては、彼女ではこの戦場で活躍することが出来ないのだと自分でも分かっているのだ。
蓮華さんは姉の雪蓮さんとは違って、政治面で絶大的な力を振るっている。雪蓮さんが戦場で暴れている間、蓮華さんはその後ろを気にさせないように常に支援しているのだ。だが、それは同時に彼女には絶対的なまでに実戦経験が乏しいことを示している。
そして、今回の相手はそんな生半可な自分では到底対等に渡り合えることも出来ないことも承知している。ここで自分が我儘を言って――プライドのために戦場に行ったところで、自分は単なる足手纏いにしかならないのだということも。
蓮華さんは江陵でまだ君主として半人前の小蓮ちゃんと美羽の手助けをすることになり、その助手としてさらに呂蒙さんと陸遜さんも残ることになった。二人には治世にて存分に手腕を振るってもらいたいと雪蓮さんの願いだった。
武人として、王としてそこまで壮絶な覚悟を見せる姉を、蓮華さんは複雑な視線を送っていた。思いたくもないが、どうしてもこれが別れになってしまうのではないかと。母親の孫堅さんのように帰らぬ人になってしまうのではないかと。
しかし、雪蓮さんはそんな蓮華さんに対して優しく微笑んだのだった。
そう、俺たちが戦おうとしている相手はそれくらいの覚悟をしなければならない相手なのだ。乱世の奸雄にして覇王――曹孟徳を相手にするということは、そういうことを意味しているのだった。
それから数日間――俺たちが出陣するまでの間は毎日のように軍議が繰り返された。対曹操軍を想定して、俺たちが誇る頭脳陣がその智謀を結集させて戦略を講じてきたのだが、相手にも自分たちと同様の謀臣が多くいるのだ。少しのミスが致命傷になりかねない。
相手を迎え撃つ場所から布陣の細部に至るまで、現在自分たちが出来ることは全てやった。将たちも兵士たちを決戦当日には最善のコンディションで戦に臨めるように、しかし、それまでに少しでも力を高められるように絶妙の厳しさで調練を励んでいた。
そして、とうとう翌日には江陵を発つと決まった夜。
俺はその日だけは自室ではなく、紫苑さんの部屋で過ごすことにした。さすがに出立前日ということもあり、政務やら軍議やらは夕方までには終了していて、夜以降は自由な時間が許されていたのだ。だから、俺は紫苑さんと璃々ちゃんと三人で過ごしたかった。
ある者は決戦を前にして充分な休息をとろうとすぐに眠り、ある者は決戦のことを脳裏に描いたまま興奮して眠れなくなっている中、俺は三人で穏やかに夕食をとり、久しぶりに璃々ちゃんとたくさんおしゃべりをした。
戦争のことなんてあまり理解していない璃々ちゃんではあったけれど、今回の戦が俺たちにとってとても重要であることは理解しているのだろう。これまではあまり遊んでとせがんでくることもなく、俺たちに心配かけまいと大人しくしていた。
だから、久しぶりに俺たちとゆっくりと過ごせることが嬉しかったのか、終始彼女の口が止まることはなく、幸せそうに俺たちと過ごす璃々ちゃんを見ているだけで、俺まで笑顔になってくる。それだけで俺の中は満たされてしまうのだった。
そういえば、こうして璃々ちゃんの顔をゆっくり眺めるなんてことも随分していないような気がする。この世界に来たばかりのときは、俺は紫苑さんの従者という立場で、屋敷のことをしながら忙しい紫苑さんの代わりに璃々ちゃんの面倒を見たものだ。
父親を亡くしてしまった璃々ちゃんが、他人からそのことで心配されるのを気にして強がっていたことや、だけども、結局何だかんだで俺に甘えようとしてくるところが本当に可愛くて仕方なかった。天使のような笑顔を振りまく益州のマスコット的な存在で皆から愛されていたのだ。
そんな璃々ちゃんははしゃぎ過ぎてしまったのか、お風呂に入って少ししたら眠ってしまった。その寝顔を見ているだけで俺まで笑顔になってしまい、そのマシュマロのような柔らかな頬をつんつんと突くと、可愛らしく寝息を漏らしていた。
「一刀くん?」
「はい? どうしました?」
そんなとき紫苑さんが部屋に入ってくると、その手には酒の置かれた盆があった。
「久しぶりに外で飲まない?」
「はい」
紫苑さんに促されてそのまま外へと出た。お風呂上がりの身体には、冬を終えて春にさしかかろうとしている今夜の風は、少しばかり寒く感じたが、それも酒を飲み始めれば多少は和らぐだろう。
決戦前夜に酒なんか飲むのはどうかと思うのだけれど、深酔いしなければ問題ないだろう。実際のところ、俺も多少の酒が入らなければ眠れそうにないのだ。緊張と恐怖が入り混じった混沌とした心持では休めという方が無理であろう。
俺たちは中庭の東屋にて酒を飲むことにした。
あぁ、そういえばこうして紫苑さんと二人で飲むと思い出すな。俺が桔梗さんたちと旅に行く前に、紫苑さんと屋敷の屋根のところで初めて酒を酌み交わした夜のことを。あのときもこんな綺麗な月夜だったはずだ。あのときから俺は紫苑さんに少なからず惹かれていたんだよな。
「思い出すわね、あのときの夜を」
「え?」
「あら? どうしたの、そんなに驚いたりして」
「えぇ、ちょうど俺もそれを思い出していたものですから……」
「ふふ……そう」
紫苑さんは瞳を細めて微笑んだ。俺と同じことを考えていたことが嬉しかったのか、俺が椅子に腰かけると、対面ではなく俺の横に座ってきた。紫苑さんと愛し合ってからもう随分経つけれど、やっぱりこうやって二人でいると緊張してしまう。
それから二人で静かに乾杯した。さすがに今日はこんな夜に外を出歩こうとする人間はいないらしく、杯と杯がカチンと合わさる音がそのまま夜空に吸い込まれていき、お互いがそれを一息に呷ると世界が俺たちだけになったような気になる。
さっきの雪蓮さんの話――曹操軍との決戦は紛れもなく死闘であり、彼女自身ですら死を覚悟しているという。雪蓮さんは孫呉で最強の王であり、死線を潜り抜けてきた経験も多くもあるだろう。だが、そんな彼女も今度の戦いは自分が無事ではいられないかもしれないと思っている。
それを聞いて俺は想像してしまったのだ。そんなことなんて考えたくもないのだけど、相手が相手なだけに、最悪の想定すらしてしまう。これまでの苦戦なんてそう思えない程のものになるだろう。
もし、紫苑さんの身に何かあったら……。
仮に紫苑さんが武人として俺の心配なんていらないくらい強くても、それでもやはり心配だった。曹操軍の猛将を相手にして、精兵を相手にして、果たして無事でいられるのか。また今日みたいに璃々ちゃんと三人と過ごすことが出来るのだろうか。
「……一刀くん」
「え?」
「安心して。私は絶対に戻って来るわ。私の帰るところは、あなたと璃々のところしかないのだから。だから、そんな顔しないで。あなたがそんな顔していたら、私も他の将も安心して戦えないもの」
「紫苑さん……」
俺が考えていることなんて、紫苑さんにはお見通しだったようで、俺の手をぎゅっと握りながら紫苑さんはそう言った。その温もりが愛おしくて、俺もすぐに紫苑さんの手を握り返した。
「あの……もしも……」
「何かしら? そんなに改まって」
もう後ろを向くのは止めよう。もう俺たちには勝つことしか選択肢は残っていないのだ。ならば負けるときのことなど、誰かが傷つくときのことなど、そんなマイナスな思考は捨て去らなくてはいけないだろう。ただ前だけを見ていよう。
だから、そのために俺はある言葉を告げようとしている。俺が未来だけを見ていられるように、少しでも勝利しなくてはいけない理由を増やすために。これまでは乱世であることを理由に触れることはなかったのだが、今日こそは紫苑さんに言いたかった。
――この戦いが終わったら、俺と正式に夫婦になりましょう。
紫苑さんとそして璃々ちゃんと正式に本物の家族になる。全てに終止符が打たれたらと決めていた。だが、そんなプロポーズなんて一回もしたことがなかったからか、俺の口はそんな短い言葉すら綴ることが出来なかった。
断られることはないだろうけど、この状況でそんなことを言ってしまって良いのだろうかと俺はチキンぷりを惜しみなく発揮していた。そのまま喉にひり付いてしまった台詞は放たれることなくどこかへと消えてしまった。我ながら何とも情けない。
「一刀くん?」
「え? いや……あの……そろそろ部屋に戻りましょうか。明日に障ったら大変ですし」
「ふふふ……。璃々からお父さんって呼ばれるように頑張ってね」
「な……っ!」
「さぁ、じゃあ部屋に帰りましょうね。私の旦那様。それとも桜ちゃんみたいにお前様って呼ばれる方がいいかしら? ご主人様っていうのは呼び慣れているからつまらないものね」
悪戯っぽくそう言う紫苑さん。椅子から立ち上がって俺に手を差し伸ばす彼女の笑顔は何よりも大切でかけがえのないものだった。俺に向けられるこの微笑みを守るために、俺は決して負けられない。負けるわけにはいかないのだ。そう、改めて決心することが出来たのだった。
華琳視点
「華琳様、益州方面から続々と兵が集結しております。おそらく敵は総勢十五万程度ではないかと予想されます」
「そう。報告ご苦労様」
「あの……」
「何かしら、桂花?」
益州、孫呉の連合軍との決戦がいよいよ始まろうとしている。私はそれを脳裏に何度も思い浮かべては、戦いに心を踊らされていた。大陸制覇――その野望がついに果たされるときが来たのだと思うと、身体は自然と武者震いしてしまうわ。
「此度の遠征に私まで参陣してしまって良かったのでしょうか? そ、それは華琳様のお側にいられるのですから、これだけ光栄なことはないのですが――」
「都の政務のことなら気にしなくて構わないわ。そのために文官の数は増員しているし、私や桂花がいなくても滞りなく済むように手配しているわ。それに河北や西涼における火種のことを気にしているなら、それは杞憂ね。今回の南征の兵力を抑えたのは、確かに持ちうる力を全て発揮するためもあるけれど、その火種に備える意味もあるのだから」
これまでの戦には――特に麗羽や馬騰のような強敵を相手にしたとき、私は常に桂花には都の留守を任せてきたわ。彼女は確かに軍師として稀代の才を持っているけれど、為政者としての才もあるのだから、私の留守を任せる場合、彼女以外に適任者はいないわ。
だけど、今回は桂花にも戦にてその手腕を存分に活かしてもらわないといけないわ。桂花以外にも稟や風も軍師としてこれ以上ないまでに輝きを増しているけれど、それぞれに強みがあるのだから、それを十全に活用するのは彼女たちを束ねる私の役目よね。
私が中原を支配し、河北、そして西涼までその支配地域を広げたあたりからどうにもきな臭い連中が蔓延るようになったのは私も感じていたわ。桂花はどうやらそのことについて頭を悩ませているようだけれど、所詮は大した力を持たない烏合の衆よ。仮に私の留守を狙って反乱を起こしたとしても、すぐに対応するように警備を指揮する者には言い聞かせてあるわ。
「それに桂花、此度の戦はそんな些細なことなど考えている暇なんてないわ。油断なんかしていたら敗北すると肝に命じなさい」
「そ、そんなっ! 華琳様があんな連中に負けるはずなんてありませんっ!」
「……そうね。彼らにまだ会ったことのないあなたはそう思うかもしれない。だけどね、私は――いいえ、春蘭や稟、風もそうだと思うけれど、私たちはあの者たちに会っている。あの者たちの不思議な強さに触れているのよ」
「不思議な……強さですか?」
「そうよ。私たちは大陸屈指の騎馬隊を誇り、未だに西涼では伝説として語り継がれている馬寿成を打ち倒し、既に大陸の半分を手中に治めている。兵の数は勝り、その質だって大陸では比較できない程に精強揃いよ」
「だ、だったらっ――」
「ただ一つ、もしも彼らが私に対抗できるものがあるとすれば……」
「あるとすれば……?」
「北郷一刀という一人の青年。そして彼の持つ魅力とでも言えば良いのかしらね?」
「まさかっ! 天の御遣いなんて怪しげな肩書で配下を従えるような下賤な輩に、華琳様が劣るわけもありませんっ!」
天の御遣い……。管輅の占いに出た正体不明の存在。果たして、その名前に一体どんな意味があるのかは分からないけれど、彼はその名前だけでここまで大きくなったのではないわ。それ以外の何かが――しかも、私には持ち合わせていない何かを有しているとでも言うのかしら。
「華琳様……」
あら? 私としたことが、思考に耽るあまり桂花にこんな顔をさせてしまうなんて、この娘の君主として失格ね。
私は今にも泣きそうな顔をしている桂花の頭をそっと撫でながら微笑みかえる。
実際に会った者でないと彼のことは理解出来ないでしょうね。
彼の強さの全貌がまた分かったわけではないけれど、それでも一つだけ分かるものがあるわ。
それは、彼は決して強くないということ。
強くない強さなんて矛盾も甚だしいけれど、それが彼の強さだわ。言っている自分ですらこんな言葉でしか表現できないのだから、それを桂花に分かってもらおうだなんて無理な話よね。稟や風ならそれは承知しているはずだけれど、二人とではまた表現も変わっているでしょう。
それに北郷一刀だけに固執するわけにはいかないわね。相手には孫策もいれば劉備もいる。
孫策の強さはもう語る必要すらないでしょう。あの者の強さは会わずとも充分に分かるわ。かつて江東の虎と呼ばれ恐れられた孫堅の娘にして、その血筋を色濃く受け継ぐ者。武人として戦場に立てば彼女ほど厄介な相手もいないでしょう。
そして劉備。決して忘れてはならないのがこの娘ね。
江陵で見たあの娘は正に王の風格をその身に宿していた――といっても、私や馬寿成、おそらくは孫策が纏っているものとは別物でしょうけど。自分の理想を成し遂げるために、後ろを見ることを止めたあの娘は私と同じ王を名乗っている。
同じ劉姓、覇王を名乗る私と対極の位置、益州という特別の地、その全てが彼女を漢中王と名乗らせる後押しをしている。もし仮に戦場が垓下であったら、冗談なんかで済まなかったでしょうけどね。
「さぁ、桂花。話を本題に戻すわよ。いずれあなたにも北郷一刀という存在は分かることだし、今は彼らとの決戦に向けて私たちがしなくてはいけないことがあるでしょう」
「は、はい……。おそらく北郷軍が八万、孫策軍が七万の混成軍で我が軍を迎撃すると思われます。戦場は江陵のことを配慮して、江陵の北、当陽付近に布陣すると思われます。我が軍を撃退後、速やかに襄陽を落とすためには、ここがもっとも適しているかと」
「此度の戦は言わば決戦。そのためには敵に戦場を選ばせるくらいの余裕は見せなくてはいけないわね。相手は混成軍と言うけれど、おそらく春蘭たちが以前ぶつかったときのように、指揮系統は各々に任せた形で行うでしょう。従って、我が軍も二つに分けて堂々と勝負を決めるわ」
「はっ。華琳様が両方を総合的に指揮するとして、その手足として働く将ですが――」
「いいえ、片方の部隊を私が完全に率いるわ。もう片方は春蘭に任せる」
「か、華琳様、それは……」
「大丈夫よ。春蘭には参謀として風をつけるし、彼らにも存分に働いてもらうわ。それに、春蘭には先の戦をまだ引き摺っている嫌いがあるから、その因縁を絶たせる意味でもあるわ。それにあの娘はあなたが思っている以上の働きを見せくれるはずよ」
「華琳様の命ならば従いますが、やはり私は不安です」
「あら、そうなの? だったらあなたにも春蘭の側に行ってもらおうかしら? 本当は私の横にいてもらうつもりだったのだけれど、そこまであなたが言うのであれば、許可するわよ?」
「そ、そんなっ!」
「ふふふ……冗談よ。あなたはわたしにとっての張子房なのだから、その才を余すところなく使わせてもらうわよ」
「はいっ!」
桂花との話し合いを終えた私は一人で天幕の外へ出た。
「綺麗な月夜ね」
戦場にあっても詩人としての性は捨て切れずに、自ずと頭の中には言葉が浮かんでしまう。これから始まるのは誰もが目を背けたくなるような壮絶な殺し合いだというのに、皮肉のように浮かび上がったものはこの世の美しさへの賛美であった。
劉備、孫策、二人の王と、北郷一刀、天の御遣い。
「さぁ………」
私はそっと月へ向けて手を差し伸ばした。
何かを掴み取るように。
「劉備、孫策、北郷一刀……」
私の持つ絶と同じ形をした三日月。
それはきっと何かを絶ち、奪い取るのでしょう。
「盛大に殺し合いましょう」
あとがき
第八十五話の投稿です。
言い訳改め謝罪のコーナーです。
さて、一か月という長い間、読者の皆様を待たせてしまい誠に申し訳ありませんでした。
やっと本編の再開となります。
とは申しましても、執筆活動を再開するのも一か月ぶりであったので、開戦は次回に持ち越しまして、今回はリハビリを兼ねて導入編パートⅡという形にさせて頂きました。従って内容的には相当薄いものとなっております。
なぜ一か月もの間、この作品を書くことが出来なかったかというと、説明が長くなってしまうので割愛いたしますが、作者のプライベートにおいて尋常でないことが起こりまして、作者の精神が完全に病んでいたことに起因いたします。
地平線の彼方まで逝きかけてしまったのでありますが、何とかそれを踏みとどまったのが、およそ一週間前。それからいろいろと心を落ち着けながら、久しぶりに自分が書いた作品を読みまして、書き始めたときのことなどを回想しておりました。
ワードで文字数七十万以上、総ページ数七百以上に渡るもので、自分自身もこんなに書いていたのかと驚きを隠すことが出来ませんでしたが、書き始めのときは本当に楽しく書いていたんだなぁと懐かしさすら感じてしまいました。
そんな訳で投稿も中途半端なところで終わらせるわけにはいかないだろうと、執筆作業を再開させたわけであります。これから多少ペースは落ちるかもしれませんが、終端まで導いていきたいと思いますので、これからもこの駄作製造機のことをよろしくお願いいたします。
さてさて、それでは本編の内容に触れたいと思いますが、先述の通り、作者は一か月以上執筆活動をしていなかったので、今回は完璧にリハビリ回となっております。作品を書く感覚が完全に失われており、打鍵スピードもかなり遅くなり、書くのに苦労しました。
リハビリ回として一刀くんたちの決戦前のお話を描きながら、久しぶりに正妻である紫苑さんとの絡みを描きました。
これまで拠点ばかり書いていたので、紫苑さんを書くのは本当に久しぶりです。どんなキャラ付だったのかも曖昧なため、多少これまでキャラとは違っているかもしれませんが、そこら辺はご容赦ください。
また冒頭のものについては誰であるかはまだ明かしません。皆様がそれで妄想を楽しんで頂ければ今回は成功かなと思います。
さてさてさて、次回から決戦が始まるわけなのですが、その前に一つだけ変更させて頂きたいが箇所ございます。作者はこれまで一人称形式で物語を綴ってまいりましたが、この決戦だけは例外としてそれを止めて、三人称形式で書きたいと思います。
この決戦は大きく分けて四つくらいのパートに分かれるのですが、それぞれのキャラ目線で書くとなると、非常に困難な上に台詞がなく文字数も大幅に増えてしまうため、今回だけそれをお許しいただけると有難いです。
去年の内に完結させる予定であったこの物語も、既に三月になってしまい、皆様に大変申し訳ない気持ちで一杯でございますが、作者の精神状態は峠を越えたものの未だに不安定ですので、容赦のない誹謗中傷は控えて頂けると幸いです。
何とか執筆活動を再開させることが出来たのも、皆様がこれまで温かいコメント・メッセージをしてくれたおかげでございます。改めてここでお礼を申し上げたいと思います。拙作を応援して下さった方々、本当にありがとうございます。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
Tweet |
|
|
51
|
2
|
追加するフォルダを選択
第八十五話の投稿です。
あらすじ
孫呉との同盟を結んだ一刀たちの許に華琳が突然現れて、孫呉との信頼の証である江陵を落とすと宣言した。その大胆極まりない行動、身体から溢れ出る王としての覇気に、一刀は恐怖心を隠しきれなかったが、決して負けることは出来ないと曹操軍との決戦へと覚悟を改めたのだった。そして……。
続きを表示