No.37802

止まない雨

鬼村孝宏さん

人に読んでもらう事を意識した小説という意味では、処女作に当たります。
多分一番一般受けのする小説ですが、自分の作品の中では一番異色の作品となっています。
ワードのコピペして読むのが一番読みやすいと思います。

2008-10-27 02:20:21 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:532   閲覧ユーザー数:517

 止まない雨

 

 

 その夜の雨はいつになく激しい雨だった。

アスファルトに落ちた雫は跳ね返り、歩く人々のズボンを濡らしていった。その雨の強さは家の中でも、屋根に雨が当たる大きな音で、嫌でも感じさせられた。

そんなけたましい雨なのに―――この喫茶店は閑かだ。

音があるとすれば、大きな柱時計の時を刻む音。

不思議な事に、時計の規則正しく刻む音は我々に静寂を感じさせるのだった。

 

 

突然、ドアが開いて鈴が鳴った。その鈴の音は、暗闇に飲まれる光のように、閑かな世界に呑まれて消えた。

 入ってきたのは女だった。目の冷めるような美女は、こんな真夜中の閑かな誰も居ない喫茶店にぴったりとも言えるし、逆にまったく不釣合いにも見える。つまり見る人次第と言うことだ。

「エスプレッソ一杯いただけます?」

 開口一番にその艶かしい唇から紡がれた言葉は、夜に飲むものにしてはやけに不釣合いのものだった。

「どうぞ」

 マスターである初老の彼は、手際よくエスプレッソを入れる。店に一気に広がる香ばしい香り。それが広がりきる前に、マスターはエスプレッソをさっと差し出した。静かな深みのある男だ。そしてこの店は彼を体現したように閑かだ。

女は、小さく会釈すると、その小さなコップに唇を添えて、まだ湯気の出ているエスプレッソのカップに手を伸ばす。

「なにか、訳ありといった様子ですね」

「そうですか?」

「えぇ、そうです」

「そんな事はないですよ」

 薄ら笑みを浮かべてエスプレッソを一口飲む女性。マスターはそんな彼女を見て微笑むと、すぐにカウンターに戻り、グラスを磨き始めた。

 それからしばらく静寂が広がったが、それは表で雨脚がいっそう強くなったときに、女性の一言で破られた。

「独り言だと思って聞き流していただけますか?」

「えぇ」

 マスターは頷きながらグラスを磨いた。

「私………捨てられたんです。―――彼氏の家にいったら、他の女が居て」

 女は、言葉を呑み込んだ。

「―――沢山、彼に私は尽くしました。お弁当を作ったり、洗濯をしたり、彼が夢を追いかけている為に生活が苦しいときは必死に働いて彼の生活費を作ってあげました。どんな願いも、欲求も、私は彼が好きだから、彼の夢へとひたむきに走る姿が好きだったから、私は彼の背中を支えようと頑張りました。そして、この間ついに夢への扉が少しだけ、私たちにとってはとても大きな扉が少しだけ開いたんです。その矢先だったんです」

 女はエスプレッソをまた一口飲んだ。時が刻む音が閑かな二人の空間を記憶するように鳴り響く。

「美味しいエスプレッソですね。本当に美味しい………」

「光栄です」

 マスターは一言で応えた。

そして、またコップを磨き始めた。耳はしっかりと女の独白に傾けたまま。

「彼は「お前はいい女だ。お前の優しさは俺を支えてくれた。ここまで来れたのもお前のおかげだと思う。でも、その優しさは俺にとって重荷にもなるんだ。お前の期待が、優しさが、俺の心を締め付けるんだ。俺に妥協の道を奪い、修羅の道を歩かせるんだ。俺は疲れた。だから別れよう。俺はこいつとまた違う道を歩き出すから、お前も別の男と歩くんだ」そう彼は言いました。別れ文句です。その時にお詫びだと言って封筒を私にくれましたが、中身はわかりません。確認する気にもなれません。皮肉ですよね。彼の為に頑張った事が逆に彼を苦しめていたのですから。私は愕然としました。彼と私の生き甲斐が無くなってしまったのですから。同時にね。崩れ落ちた私に、女は何と言ったかわかりますか?「ごめんなさい。結果的に彼を奪うようになってしまって。彼は私が見守っていきます。本当にごめんなさい」って言ったんです。とても素晴らしい女性です。そう、私なんかよりも。私より内面が劣っていればかえって諦めがついたでしょう。でも、その女は優しいのです。綺麗なんです。恐らく、内面も優れているのです。私なんかより。その時私は全てに裏切られた気分になりました。奈落の底に落とされてしまった気分です。私が不要になったならそう言って欲しかった。何故あの女を私に見せ付けるようにして!!……どうして私こんな事を話しているのでしょう。それも見ず知らずの人に」

 と言って、女はエスプレッソを飲み干した。語気が荒くなっていたためか、すこし呼吸が荒い。

滝のような雨はまだ止まない。

 

 しばしの静寂。本当にしばらくの静寂だったが、マスターはコップを磨く手を休めると、無駄の無い華麗な動きで何かをし始めた。

 同時に広がる気高い香り。

「これは、私の奢りです」

 マスターは一杯の紅茶を差し出した。紅茶の上には小さなコスモスの造花が浮かんでいた。

「この花の花言葉はご存知ですか?」

 女は横に首を振った。

「愛情と真心です。そしてギリシア語としてのcosmosという単語の意味は美しさ、秩序。彼は自分を悔いていたのでしょう。貴女を自分の夢につき合せ、生活を狂わせてしまった事を。自分以外の男と付き合えばもっと良い生活を遅れたのに…と。あくまで私の推測でしかありませんが彼はこれ以上貴女に迷惑をかけないようにするために別れたのでは?別の女を用意したのは、貴女に諦めを与える為では?この別れは彼の最大限の愛情表現であり、あなたへの真心では無いのですか?貴女に秩序のある普通の女性としての生活を送ってもらうために」

 女は体を震わせて身を乗り出し怒鳴った。このままマスターを殴る勢いだ。女とは対象にマスターは静かだ。この店のように。

「嘘よ!所詮は貴方の机上の空論でしょう?わかったようなことを――――」

「―――では」

 といってマスターは女の言葉を断った。

「では、貴方の彼氏様から貰った封筒を見てみたらいかがですか?」

 女はその言葉に従って封筒を取り出した。そこで愕然とした。

「コスモス?」

 封筒の栓に使われているのはコスモスのシールだった。

女は封筒の上を手で綺麗に破ると、中に入っていた手紙を取り出し、読み始めた。そして、次第に体が小刻みに震えだした。

「―――嘘よ………どうして!?」

 女はカウンターにうつ伏せになって泣き始めた。

紅茶のコップが静かに倒れ、中身が静かにテーブルに広がった。そしてコスモスの造花はテーブルから落ちた。

 

 

 女はその後、落ち着きを取り戻すと

「最高に美味しいコーヒーと紅茶でした。またいつか必ず飲みに着ます」

といい店を出た。雨はいつの間にか止んでいた。

 そして次の日。新聞には「アパートの一室にて姉弟殺害。犯人の女自首」と言う見出しではじまっていた。

 マスターはその新聞を新聞縦に戻すと、扉のcloseの札をopenにひっくり返した。

 喫茶店は閑かに時を刻んでいた。

―――雲一つ無い快晴だというのに、すっきりしない天気だった。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択