聖フランチェスカ学園へと続く並木道を一人の青年が歩いている。
髪の毛は寝癖で少しだけ乱れているが、端正な顔つきの持ち主で、彼の身につける聖フランチェスカ学園の白い制服と同様に、日焼けしていない真っ白な肌はまるで女の子のようにも見える。
傍から見れば、真面目な好青年のように思われるのだが、実際のところはそうでもない。その理由は誰の目にも明らかで、彼が白昼堂々と、登校中に見ている『快楽天』なる雑誌の表紙を見ればすぐに分かる。
男がエロ本を眺めているときの顔というのは、おそらく言い訳の仕様がないほどにだらけきっており、女子からすれば生理的に受け付けられないものに違いないのだろうが、彼の場合は違う。彼は凛々しさすら感じられるほどに真面目な表情だったのだ。
そう、彼は変態である。
しかも、単なる変態ではない。ど変態なのだ。
「おーっす、かずぴー」
「…………」
「おおう、華麗なスルー。今日も相変わらずやなぁ……、おっとっ! あないなとこで女子高生同士がチュッチュッしとるで!」
「何っ!? どこだっ! そんな百合厨の俺大歓喜なシチュエーションはっ!」
「……おはよーさん」
「ん? 何だ、及川か? 何だよ、朝から俺得なシーンが見られると思ったのによ」
『かずぴー』と呼ばれた青年――本名を北郷一刀という。
親友である及川の嘘に、明らかに肩を落として見せるが、視線だけは再び持っている雑誌に釘付けにする辺り、どうせそんな状況がリアルに見られるはずがないと諦めているに違いないのだろう。
二人は学園へ続く道へと談笑しながら歩いていく。
まだ夏までにはしばらくのときが必要だというのに、じりじりとした日差しが容赦なく照り付け、ただ登校しているだけで額には汗が浮かびそうだった。そこを除けば正にいつもと変わらぬ日常である。
「あぁー、早く夏が来ないかなぁ」
「あれ? かずぴー、夏苦手やん?」
「いや、俺は好きではないけど、夏になれば女の子が薄着になるだろう。ラッキースケベが一回くらいは起きてもいいと思うんだ」
「相変わらずやなぁ。少女から熟女まで、かずぴーのストライクゾーンの広さには脱帽や」
「待て、世の中にはロリババアなる存在がだな……」
「そんなんおるわけないやん? てか、もう女であれば誰でもええんやな?」
「いや、世の中には男の娘なる存在がだな……」
「あかんでっ! もうわいにもついていけへんわぁ。人間であれば何でもええってどんだけやねん。かずぴーも顔はいけてんのに、ほんまに勿体ないで?」
「ふっふっふ、きっとうちで飼っている猫が、今夜あたり本来の姿の美少女に変身して、俺の許に来るに決まっている」
「ああああああかんでっ! いくらなんでも人外に手を出したらあかんっ! こっちの世界に戻ってこられなくなるでっ!」
似非関西弁で鋭いツッコミをされながら、一刀は今日も学園生活をエンジョイしているのだ。大人になれば、誰もがあのときは楽しかったなぁと振り返るような高校生活を、一刀は自由奔放に楽しんでいたのだ。
「そういえば、かずぴー、そろそろ期末試験やけど、勉強はやっとるん?」
「はぁ? そんなことをする暇があるなら、俺はエロ本を読み、来たるべきときのために準備するわ。期末なんぞ、俺の知ったことじゃない」
「かずぴーやったら、全科目満点取るくらい朝飯とちゃうの? 中学んときは凄かったのに、いつからやろなぁ、かずぴーがそんなんなったの。お父さんは悲しいで?」
「やかましいわ。俺にとってはエロスこそが全て。その他のことなど、些細なことに過ぎぬわ。勉強で腹は膨れないが、裸体は食える、おかずになる。これが全てを物語っているではないか」
「あらやだ、かっこいい……とでも言うと思ったか? ほんまにかつての神童はどこにおるんやろうなぁ」
「ふん……」
一刀は不機嫌そうに鼻を鳴らした。『かつての神童』――そう呼ばれることが気に入らないということは明らかだった。まぁ親友たる及川が軽く口にする辺り、当の本人がそこまで気にしていることはないのだろうが。
気にしていないと言えば勿論嘘になるのだが、そんなことに気に構って大切な読書の時間を奪われる方がよっぽど効率が悪いと思っているのだろう。彼からすれば、どうでも良い他人からの評価よりも、今の一冊のエロ本の方が断然大切なのだ。
と、そのとき、聖フランチェスカ学園の校門付近に差し掛かると、始業五分前を告げるチャイムが鳴らされた。それに気付いた二人は遅刻しないようにと、やや小走りに教室へと向かうのであった。
何の苦悩も葛藤もない平穏な日常。しかし、毎日のように同じことを繰り返し、エロ本に耽るそんな日々も終わりを告げようとしていた。それに彼は気付いていなかった。自分がとてつもない大きな荒波に巻き込まれることなど。
この物語は、『かつての神童』と呼ばれた一人の青年の物語である。
さぁ、新たな外史の幕開けである。
放課後、特に部活にも所属していない一刀は、早々に帰路につき、部屋で黙々と買ったばかりの新作のエロ本に目を通そうとしていたのだが、そこを彼の祖父の北郷
パチン、パチンと無刀の経営する剣術道場から小気味の良い音が響いていた。日も暮れかけた今は、既に門下生も帰っており、一刀と無刀しかそこにはおらず、二人で将棋を指していた。
「ふむ……、そう来るかの」
「爺ちゃん、早く負けろよ。俺は部屋で読書をしたいんだ」
「どうせいかがわしい類のものじゃろう。それよりも儂は二百四十八敗のりべんじをしたいのじゃ。年寄りの願い事には素直に耳を傾けるべきじゃぞ」
「へいへい」
パチン、パチンと音が続く。正確にそれを表現するのならば、パチン…………パチン、パチン…………パチン、パチン……といった具合だろうか。時間をたっぷり使って思考する無刀と違って、一刀は迷うことなく指していった。
「そういえば、一刀や、お前ももう立派な大人と言っても良い年齢じゃ。そろそろ、自分の身の振り方を考えねばならんぞ」
「あー、そうだなー。まぁそこら辺の大学にでも行って、適当に就職するよ」
「……道場を継ぐ気はないのかの?」
「俺がか? 冗談言うなよ? 俺が木刀すらまともに振れないことくらい、爺ちゃんも知ってるだろう? それに道場なら、
無刀はかつて天下無双の名をほしいままにしており、門下生には多くの著名人もいる。剣術を教えることが、そのまま精神の鍛錬に繋がり、政治家、スポーツ選手、果てはお笑い芸人など、職を問わずに彼の許に指導を請う人間がいるのだ。
しかし、残念ながら、無刀は既に老齢である。今も剣術指導の大半は師範代クラスの人間に任せており、本人は特別な事情がない限りは刀を握ることはなかった。そして、道場の経営自体も誰かに引き継がせようと考えていたのだ。
本来であれば、無刀の息子に引き継がせたいと思っていたが、残念ながら若くして他界している。従って、その息子である一刀にと思うのだが、本人の言う通り、一刀自身は武の才が皆無といって良かったのだ。
「確かに二刃は最近になって才能の片鱗を見せておるがのぅ……」
二刃というのは一刀の妹である。兄とは違って真面目な性格をしており、祖父の無刀の教えをしっかり守りながら、毎日修練に励んでいる。生来の才能があったわけではないが、彼女は努力の才能の持ち主で、長年の努力が実を結び、今は大人相手でも充分に戦えるほどの実力をつけているのだ。
「だったら、問題ないだろ? 何の取り柄もない愚兄はひっそりと暮らすさ」
一刀はそう言ってシニカルに笑った。
しかし、無刀自身は一刀にも才能を見出していた。道場を継ぐ者は何も強ければ良いというわけではない。確かに二刃の強さは本物だった。彼女であれば、師範代の者たちも喜んで従うであろう。剣術を指導する分には何の不都合もない。
しかし、先述の通りにこの剣術道場はそれ自体を教えることに全てを傾けているわけではない。精神的鍛練を通じて、物事を広く捉え、また深く追及することに重きを置いている。それを指導するためには卓越した思考能力と精神力が必要なのだ。
「ん? どうした? 爺ちゃんの番だぞ」
「む? おお、すまんの」
一刀に言われ再び盤面へと目を向ける無刀。
かつて一刀は神童と呼ばれ、二刃よりも皆の期待を背負っていた。頭の回転が異常な程に早く、書を一度読ませてしまえば、その内容を諳んずることなんて朝飯前といった具合で、親戚の者たちから将来は立派な学者か総理大臣かなどと言われていたのだ。
しかし、いつからか一刀は努力することをしなくなった。誰よりも勉学に真摯に接していた一刀が、学校もサボるようになり、勉強も疎かにいかがわしいことへと没頭していったのだ。もう今は誰からも注目されることはなかった。
では、それが一刀の本質かと言われれば、無刀は首を傾げざるを得ない。こうして一刀と将棋を指しているのも、自分の孫の本質を確かめようとしているのだ。人を見る目には自信のある無刀であったが、誰よりも近くにいるこの孫だけでは分からなかった。
「あー、おっぱい触りてー」
「…………」
時折、本当にこの孫が単なる変態なのではないかと疑うときもあるのだが、無刀はそれが一刀の偽りの姿ではないかという思いの方が強かった。二刃にはないものを持っているのに、何か理由があってそれを隠しているのではないかと。能ある鷹は爪を隠すというが、爪どころか巨大な牙を持っているのではないかと。
それからしばらくの間、取り留めもないことを話しながら将棋を続けた。
無刀は一刀に将棋で負け続けているが、無刀自身が将棋が弱いということは決してない。むしろ、彼自身は近所では負け知らずで、プロの棋手と指したところで、完敗するということはないのだ。そして数多くの対戦を通じて、孫の癖も大分分かっている。
――ふむ、今日は良い勝負が出来そうじゃのぅ。
と思っていたときだった。一刀が指し終えた瞬間にふーっと言いながら伸びをしたのだ。一刀は怠惰な性格をしているが、何故か無刀と将棋を指している間は決してだらけたりせず、逆にそうするときは決まって勝ちを確信したときと決まっていた。
「何をしているか。勝負はこれからじゃぞ」
「ん? あぁ、もう俺の勝ちだよ。後十四手目で爺ちゃんの詰み」
「何じゃと――」
と無刀が訊き返そうとしたときだった。
「お兄ちゃんっ!!」
道場の扉が乱暴に開かれると、怒り心頭といった表情の少女――北郷二刃がのしのしと乱入してきたのだ。肩まで届きそうなくらいの黒髪を無造作に片側で留めており、一刀同様に真っ白な綺麗な肌をした美少女だった。
しかし、そんな可愛らしい顔も今は真っ赤に紅潮しており、血走った瞳を爛々と輝かせている。その激情を少しでも抑えるために唇強く噛み締めているのか、彼女のトレードマークの八重歯が少しだけ顔を覗かせていた。
「ん? どうした、二刃? お兄ちゃんに会えなくて寂しかったか?」
「違うわよっ! あたしのお気に入りの下着がないんだけど、盗んだのお兄ちゃんでしょっ! 早く返してよっ! てか、もう捕まってよっ!」
「おいおい、可愛い妹よ。確かに俺は自他共に認める変態ではあるが、妹たるお前の下着を盗むようなことをしないぞ。どこかにあるんだろ? なんだったら、お兄ちゃんが一緒に探してあげようか? ははは、礼には及ばないさ。お前が優しく頬にチュウをしてくれれば――」
「そんな見え透いた嘘には騙されないからねっ! じゃあ、そのどう見ても不自然に膨らんだ胸は何のなのよっ!」
「…………お兄ちゃん、まだ二刃にはパットは早いと思うんだ」
ふっと静かな微笑を浮かべてから、一刀はそう告げた。勿論、そんなことを言ってしまえば、大人と対等に渡り合える強者の妹から激しい制裁を受けることは明らかなので、すぐに道場から脱しようと動き出した。
「くぉのど変態がぁぁぁぁっ!」
しかし残念ながら、すぐに妹に捕まってしまった。
「待て、二刃っ! 話せば分かるっ!」
「分からないわよっ! それにあたしのパンティーも返してよっ! まさか、穿いてるんじゃないでしょうねっ!」
「ちょっ! パンツは知らんぞっ! 俺が盗んだのはお前のこのピンクの可愛いブラだけで――」
「問答無用っ!」
「ありがとうございますっ!?」
そんな兄妹の肉体的なコミュニケーションを聞きながら、無刀は先ほどの一刀の言葉が気になり、一人で将棋を指し始めた。一刀は二刃に更に容赦ないお仕置きをされるためにどこかへと連れ去られてしまっているので、道場には無刀一人が残った。
再び静寂の舞い戻った道場にパチン、パチンと無機質な音が響く。
「ふむ……これは……」
それからしばらくして無刀の口から驚嘆の声が漏れた。というのも、一刀の言う通りに、十四手目で無刀の投了になってしまったからだ。しかも、それを防ごうと違う手を使おうとしても、別のところで詰んでしまう。そうなるように最初から一刀が厳重な包囲網を布いていたのだ。
しかも、それを無刀に一切気付かせないということに、さらに驚きを感じた――いや、正確に言うのであれば、無刀は一刀が何か狙っていたことに気付いていたのだが、それは一刀の仕掛けたトラップであったのだ。そこにまんまと嵌ってしまった。
「ふぅむ……、やはりあやつは別格じゃのう。惜しむらくは、あやつがそれを皆に見せないことじゃな。二刃は確かにまだまだ子供よ」
将棋の上手いことが、一刀が卓越した能力を持っていることの証明にはならない。しかし、無刀は一刀の判断力の異常な速さと、思考の深さを相当評価している。武芸ではなく頭脳であれば、おそらくは全盛期の自分を軽く凌駕していることに気付いたのだ。
そんなことを考えながら、無刀は懐に手を入れた。そこから何やら黒い布を取り出すと、先ほど一刀が二刃に強制的に連れて行かれた方を見遣りながら、何やら思案に暮れている様子だった。
「まだまだ子供なのに、黒いぱんちーは駄目じゃろう。子供らしく、うさぎさんのぱんちーでも今度買ってあげるとしようかのう」
一刀が二刃のブラジャーを盗んだ直後に、そのタイミングなら安全であると判断し、自らもパンティーを盗んでしまう辺り、無刀もまた一刀の祖父であるということだろう。
場所は変わり、そこは北郷家の蔵――既に日も暮れて、無刀は居間にてアイドルが出演している番組を、年甲斐もなく楽しんでおり、二刃は真面目に自室にて学校の宿題に精を出しているとき、北郷一刀はそこに一人でいた。
「全く二刃のやつめ……。ブラくらいお兄ちゃんのために譲ってくれても良いと思う」
二刃から強烈なアッパーカットをもらい、赤く腫れ上がってしまった顎を擦りながら、一刀は真っ暗な蔵の中を懐中電灯の灯りを頼りに、ガサゴソと何かを探っていた。
下着を盗まれた腹いせに、二刃に秘蔵のエロ本を隠されてしまい、今晩の楽しみを失ってしまうわけにはいかずと、必死にそれを探しているのだ。単純な妹のことだから、何かを隠すときには決まって蔵の中と知っていたため、徹夜を覚悟して決死の捜索活動に勤しんでいるのだ。
「おかしいなぁ……。この辺にあると思うんだけどなぁ」
北郷家の裏庭にある巨大な蔵――明治時代に建てられたと聞くその蔵には、北郷家の保有する様々な家宝が大切に保管されているのだ。といっても、ほとんどそこが開かれることはないので、中はかなり埃っぽく、一刀としてはぱっぱと見つけたいところだったのだが、思うように見つけることが出来なかった。
そのとき中を探っていた箱の奥がキラリと光ったように思われた。懐中電灯の光を反射したのかと思いつつ、その正体が何か気になった一刀は、奥まで手を突っ込んで何とかそれを引っ張り上げたのだ。
「何だ? 古い鏡か……? ん? 光が強くなって――っ!?」
そのときには一刀は意識を失ってしまっていた。
荒涼とした大地。燦々と太陽が大地を照らし続けている。一陣の風が吹き抜けると、その風と共に旅をしたがるかのように砂がざっと舞い上がった。だが、やがて砂は重力に引き寄せられ、そのまま再び風に乗って世界を巡ることを夢見ながら地面へと戻ってしまう。
その中に、一際陽光を照り返すものがあった。キラキラと夜空に浮かぶ星のように煌めくそれは、周囲を自然物に囲まれた中では異質な存在だった。ポリエステルという素材で作られた聖フランチェスカ学園の制服である。
「んん……」
それを身に着けた青年は地面の上に一人で横たわっていた。
髪の毛は寝癖で少しだけ乱れているが、端正な顔つきの持ち主で、彼の身につける聖フランチェスカ学園の白い制服と同様に、日焼けしていない真っ白な肌はまるで女の子のようにも見える。
そう、その青年は北郷一刀である。
「おっぱいがぁ……おっぱいが俺に襲い掛かってくるぅ……」
などとふざけた寝言を漏らしているところを見ると、どうやらどこか怪我をしているということはなさそうだ。魘されているようにも見えるが、彼の頬を明らかに緩んでおり、どちらかといえばそれを楽しんでいるようである。
「はっ……夢か。くそっ、何で現実じゃないんだよっ! ……って、ここはどこだ?」
悪夢から醒めてしまったかのように仰々しく起き上がった一刀だが、周囲の様子を確認すると、さすがに驚きを隠すことが出来ずにいた。確か自分は先ほどまで裏庭の蔵の中にいたはずのだが、一体どうしてこんなところにいるのだろうか、と首を傾げる。
「んん? てか、何で制服なんだよ? スクールバッグまで丁寧に置いてあるし」
妹の壮大な逆襲か、はたまた親友の及川の華麗なドッキリか、しかし、どう考えてみてもどちらも正解には思えない。何者かに誘拐されたとしても、こんなところに自由な状態で置き去りにされるのはどう考えてもおかしい。
彼の思考が素早く活動を開始した。その脳裏には何通りもの可能性が考慮されているが、どうやっても解答を導くことが出来なかった。スクールバッグの中身を確認して、携帯電話を発見しても、頼みのそれは残念ながら圏外を示すのみだった。
「何だか嫌な予感がするな……」
つっと彼の額に冷や汗が流れる。徐に心臓の鼓動が大きくなる。呼吸が荒くなり、息苦しさすら感じられる。正体不明の何かに首を絞められているような不安が彼に襲い掛かり、緩やかに彼の思考は動きを止めてしまう。状況を呑み込めぬまま、その許容量を超えてしまったのだ。
しかし、そのときであった。
「はわわ……、買い物に時間がかかってしまいました。早く学院に戻らなくっちゃ」
彼の耳に少女の声が届いた。すぐに声のする方向へ視線を向けると、随分と遠くであるが確かに少女の姿がそこに会った。本来であれば、絶対に聞こえるはずがない距離であるのに、少女であるという理由だけで彼の耳はそれを感知してしまったのだ。
彼の思考は完全に止まってしまった。しかし、その代わりに別の部分が活動を開始した。彼のもっとも強く、もっとも優れた本能とも呼べる能力――女の子とイチャイチャしたいという欲望である。
「お嬢さん、そんなに重そうな荷物を運んで大変そうだ。どうでしょう、僕がそれをお持ちしましょうか? というよりも、お嬢さんごと運んであげましょうか?」
「はわわっ! びっくりしましたっ!」
少女が驚きの声を上げるのも仕方ない話だ。先ほどまで自分がどんな状況に置かれているのか分からず途方に暮れていたというのに、少女の存在に気付くや否や、目にも留まらぬスピードで少女の側まで駆けたのだから。少女からすれば、突然目の前に彼が現れたのにも等しいのだから。
「あぁ、そんなに驚かないでください。僕の名前は北郷一刀と言います。決して怪しいものではなく、少女を守るために生まれてきた正義の紳士に過ぎません」
「はわわ……? 北郷一刀さん? 正義の紳士? 変わった方ですけど、悪い人ではなさそうです」
目の前に現れた青年を一目でそう判断した少女。本来であれば、見知らぬ人を簡単に信用することなど、普段の彼女なら決してしない行為であるが、青年の放つ不思議なオーラが、彼女にそう告げていたのだ。
「というか、私は子供じゃありませんっ!」
ホッと胸を撫で下ろして、青年の言葉を冷静に受け止めると、自分が子供扱いされていることに気付き、ぷんぷんと明らかな怒りを見せる。といっても、両手を高く翳して顔を紅潮させるというものであり、それは逆に一刀の愛護欲をそそるだけであったのだが。
「おぉ、これは無礼な言動をお許しください、マドモアゼル。あなたのような素敵なレディを子ども扱いしてしまうなんて。では紳士としてあなたをエスコートしたいのですが、よろしいでしょうか?」
一刀は御仏のごとく自愛に満ちた目で少女を見つめると、大げさに身振りしながらそう言った。彼曰く、少女に似合うのは向日葵のような可愛らしい笑顔であり、怒った顔も我慢出来ない程に魅力的ではあるが、笑顔でいてもらいたいとかどうとか。
「まどもーあぜる? れでぇ? えすこと? はわわ……、分からない言葉だらけです。異国の方なのでしょうか? それにその衣服も見たことがありません」
一方、少女の方はと言うと、キラキラと瞳を輝かせながら、その青年を見つめ返していた。まだ幼さの残るそのあどけない瞳には強い好奇心があることを窺わせているが、青年がどれだけ危険な存在なのかは分かっていないらしい。
「あぁ、何と可憐な……。素敵なお嬢様、失礼でなければあなたのお名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
「はわわ……、名乗るのを忘れてしまいましゅた。私は――」
相手に失礼をしてしまったことに動揺したのか、思わず甘噛みしてしまう少女に、一刀はさらに胸に温かいものが広がるのを感じた。このまま抱きしめてしまいたいという衝動に駆られるが、続けられた少女の言葉に紳士の仮面が脆くも剥がれてしまうのだ。
「姓は諸葛、名は亮、字を孔明と申します」
「…………はい?」
諸葛孔明――歴史好きの人間であれば一度くらいは聞いたことのある名前であり、高校の漢文の授業において『死せる諸葛生ける仲達を走らす』の逸話のくらいは習っているのではないかと思う。無論、一刀も諸葛亮のことは知っている。
三国志時代における英雄の一人――天才軍師である。曹操、劉備らを三国志の前半の主人公に位置付けるなら、諸葛亮やそのライバルである司馬懿は後半の主人公といっても過言ではないだろう。だが、目の前の可憐な少女は自分がその諸葛亮だと言っているのだ。
華奢な身体にふわふわとしたデザインのワンピースを身につけ、絹のように手触りの良さそうな金髪のショートカットの髪型に、可愛らしい帽子を被っている。その帽子には腰の帯と同じ色のリボンまでついている。
「うん……、可愛いぞ」
「はわわっ!」
「おっと、失礼。思わず本音が漏れてしまった。ふーむ、じゃあ、孔明ちゃんが言うことが正しければ、今は漢王朝で劉宏陛下が治めているということかな?」
「はい、そうです」
一刀とその少女――自称諸葛孔明は手を繋ぎながら歩いていた。
最初、彼女が自己紹介をしたとき、一刀は痛い電波ちゃんかと思ったのだが、こんな可憐で純粋無垢な瞳をした少女が、そんな荒んでいるはずがないと思い、とりあえずは自分が申し出た通り、彼女の荷物を持ってあげることにしたのだ。一度剥がれてしまった仮面も、もう一度被るのは面倒なので、もう素で接することにした。
本当は彼女を抱きかかえながら歩きたかったのだが、それだけは少女が丁寧に断ってしまったので、少なくとも手だけは繋ごうと懇願して、現在に至る。一刀は少女から歩きながらこの地に関する情報を入手したのだ。
それを整理すると、どうやらここは二千年近く前の中国であり、しかも、では、単なるタイムスリップかというと、どうやらそうでもないらしい。目の前に少女が諸葛亮であることがそれを証明しているし、しかも、真名という文化があるそうだ。かなり神聖なそれは、勝手に呼んでしまうだけで、殺されても不思議ではないというものらしい。
――そんな恐ろしい文化なんて聞いたことない。ただ、この娘の話は整合性のあるものだから、嘘を吐いているとも思えないな。もしこれが偽りなら、とんだ天才詐欺師だ。
ふと真顔に戻り、自分の境遇を整理しようとする。美少女を見てしまった衝撃ですっかり忘れていたが、現状を鑑みれば、今は安心出来るときではない。もしも、この少女の言う通りであれば、自分が元の世界に戻れるかどうかも定かではないのだ。
「あの……北郷さん?」
「ん? どうしたんだい、孔明ちゃん。俺のことをお兄様と呼びたいのなら、呼んでくれて構わないよ。あぁ、でも飽く迄も義理兄妹という設定は譲れないけどね」
「いえ……あの……、少し怖い顔をなさっていたので……」
不安そうに瞳を揺るがすその少女を見て、正義の紳士を自称する人物が、少女を不安にさせてどうするんだ、と自分に言い聞かせて、少女の頭をそっと撫でた。日差しを受けてぽかぽかと温かくなった少女の髪は、本当に良いものだった。
「あ……っ。あそこが水鏡学院です」
少女の指差す方を見遣れば、そこには大きな屋敷があった。おそらく日本でももう珍しくなっているほどに荘厳で歴史がありそうなその造りは、どこか確かに中華風といった趣があり、少なくともここが日本でないことは察することが出来た――といっても、自分が寝ていた荒野が日本にあるとは思えなかったので、最初からそんな気はしていたのだが。
「あ、朱里ちゃんっ! おかえりなさいっ!」
玄関でその少女のことを待っていたのだろうか、とてとてと小走りで近寄ってくる者がいた。ちなみに朱里とは孔明の真名であり、その名を呼ぶということは、この二人が固い信頼関係で結ばれていることが窺える。
「雛里ちゃんっ! ただいまっ!」
雛里と呼ばれた少女――朱里と同じ意趣の服を身に纏っているが、実はこれが水鏡学院の制服と呼べるものである。違いといえば、朱里の被る帽子とは違って、雛里の被る帽子はまるで魔女のもののようで、小さな魔女っ娘を思い起こさせる。
「あわわ……、朱里ちゃん、その人は……?」
帰ってきた朱里の手を握りながら、その後ろに見たこともない服を着た知らない青年が立っていることに気付き、雛里は思わずその魔女っ娘帽子で顔を隠そうとした。どうやらかなりの人見知りらしい。
「こ、これは……」
一刀の方はそんな少女を見ながら絶句していた。目が大きく見開かれ、口はだらしなく半開きといった状態であったのだが、何故彼がここまで驚いているのかは考えなくても分かるだろう。朱里だけでなく、たった一日で二人の美少女にこうして会うことが出来たのだ。もうここがどこであるかとかどうでもよくなり、今日死んでも悔いはないという思いが去来した。
「朱里、帰ってきたか。遅かったな、皆も心配していたぞ。なぁ、穏」
「もうー、冥琳様ったら、そんなこと言って、一番心配していたのは自分じゃないですかぁー」
「そうですね。公謹殿ももう少し素直になった方がよろしいですよ」
「そう言う稟ちゃんは、孔明ちゃんと公謹さんの夜の営みを想像しているのでしたー。鼻血が出ても、風はとんとんしてあげませんからねー」
「……くぁwせdrftgyふじこlp;@:」
雛里の後ろからさらにぞろぞろと人が出てきて、一刀の口からおよそ人間の出せるものとは思えない声なき声が漏れた。理由はもはや語る必要もないだろう。しかし、これが彼の命運を大きく揺り動かす出会いであったとは、まだこのときには誰も知らなかった。
後に、一刀が稀代の変態軍師、天下の怪人として名を馳せるようになるのはもう少し先のお話。これから先、一刀がどのような運命を辿るのかは、本人も含めてまだ誰も分からないのだ。
あとがき
第一話(仮)の投稿です。
言い訳のコーナーです。
まじこいSのマルさんと心が可愛すぎて生きるのが辛い作者です。皆様はどのようにお過ごしでしょうか。紋様も捨て難いと思っているのは秘密です。
さて、前回のあとがきでお知らせした通り、今回は次回作の候補作をお届けしました。
前回の『かつて御使いと呼ばれし男』の方はあまり反響がなかったので、別の構成を実際に作品してみました。今回はシリアスではなくコミカルな描写が多い作品です。ギャグに定評の一切ない作者ですが、まぁ何とか書いてみました。
勿論、完全なギャグ作品など書けるわけもないので、シリアスな描写も含みます。現在連載中の『君を忘れない』をシリアスとギャグの比率を7:3だとすれば、この作品は4:6くらいだと思います。
さてさて、今作の一刀くんですが、冒頭にある通り変態です。今回は朱里が登場したので、ロリコンのようにも思われますが、これも最初にある通り幼女から熟女(ロリババア)まで幅広くいけます。
そして、一刀くんの能力についてですが、知力特化型にしようと思います。まぁ、それは題名を見れば分かると思うのですが。従って、武の方はてんで使い物になりません。
そしてこの話は、最初は水鏡学院からスタートしますが、呉√になります。特にメインヒロインは決めていませんので、まぁ普通のハーレム仕様にしようと思います。そこら辺は実際に話を進めてから決めようかなと。
さてさてさて、勿論、この話もまだ次回作の候補作に過ぎませんので、そこはご了承ください。皆様の反応を窺う意味もありますので、何かご意見、ご感想があれば気兼ねなくコメント欄に残してください。誹謗中傷はお控えください。
次回からは通常通りに『君を忘れない』の本編を進めます。最終章の導入部分は書いてあるので、お忘れの方は一度軽く目を通しておくことをお勧めします。
それでは、今回はこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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前回のお知らせの通り、次回作の導入編をお送りいたします。これが次回作というわけではなく、飽く迄も構想の中の一つであるということをご了承ください。今回の作品は好き嫌いが分かれるような作品になっておりますので、感想などがあればコメント欄に残して下さると幸いです。それではどうぞ。
コメントしてくれた方、支援してくれた方、ありがとうございます!
一人でもおもしろいと思ってくれたら嬉しいです。
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