明かりを携えて姿を見せた女性は、お加減はいかがですか、と尋ねながら燭台に火を灯していった。
蛍光灯に慣れ親しんだ北郷一刀には、燭台の炎は余りに頼りなく感じられたが、先程に比べたら余程マシである。
光のない世界というものがここまで暗く、恐ろしく感じるものだとは知らなかった。
「知らぬ間に庭に倒れていたのでとても驚きましたよ。」
慈母のような頬笑みを見せる女性は、俺を寝台に戻すと、自分は机から寝台近くまで引っ張ってきた椅子に座る。
無理やり入れられたベットで上半身を起こしたまま、その女性を眺めるとまたまた奇妙な格好をしていた。
どうやら助けてくれたらしい人物の服装を見て、奇妙などと感想を持つのは大変失礼だと感じながらも、そう思わずにはいられなかった。
薄紫色の着物、あまり日本では見かけないような意匠だ。和服と作りは似ているが細かいところは違っている。
どちらかと言うと、中国だとか朝鮮だとかの民俗衣装に近い。
艶やかな長く美しい黒髪、烏の濡羽色とは正しくこのことだろう、を頭上で簪で留め、唇には薄く朱を塗っていた。
顔立ちも整っており、文句無しの美人である。擦れ違う人々は男性、女性問わず、間違いなく一人残らず振り返るだろう。
余りに美人過ぎると中々に近付き難くあるが、その点、彼女は愛嬌をも持ち併せており、高嶺の花ではなく身近に感じられる。
柔らかく浮かべられた笑みは太陽のように暖かく、聖母の微笑みと言っても過言ではない。
もし、人が持つ優しさを形作ればきっと彼女の笑みになるに違いない。
この表情が相手に親しみ易さを与え、彼女の存在をぐっと身近にさせるのだろう。
年の頃は二十四、五といったところだろうか。
年上の女性特有の色香を醸し出しており、所作の所々には滲み出る気品の高さを感じられた。
良家のお嬢様、いや奥様といった所だろう。
不躾な視線を浴びせている間も、その表情は変わることなく笑みを湛えている。
ふと、目が合うと、袖口で口元を隠し、さらに、くすり、と笑った。
その仕草がまたこの上なく似合っており、どぎまぎとしてしまう。年上の女性に弱いのかもしれない。
つらつらと出てくる自身の女性賛辞に驚きながらも、何一つと言って良いほどに分かってない現状を思い出し、事情を知っているであろう、彼女に何があったのか聞くことにする。
恐らく、ではあるが、今も彼女が黙って此方を見ているのは、何だかよく分からないけれども庭に倒れ伏していた男、である俺を気遣ってのことだろう。
落ち着くまで待ってくれているのだ。
「えっと、まずは助けて下さったようで、ありがとうございます。」
深々と頭を下げ、今の今まで言い出せず、今一番に言わねばならぬ言葉を真っ先に発した。
「いえいえ、気になさらないでください。ですが、何故倒れられていたのですか?」
「それが、自分にも分からなくて……。気がついたら此処に寝かされていた、といった所です。」
「では、此処が何処か、も分かっていませんか?」
空気が変わった気がする。
彼女がすぅ、と目を細めると、先程までは緩やかであった場の雰囲気が、ピリピリと張り詰めたものへと変化していく。
目の前の女性の豹変に戸惑いながらも、なぜ、此処に倒れていたのかも、此処が何処なのかも分かりません、と有体に答える。
「本当ですか?」
何故、ここまで疑われるのかも全く分からず、更に温度を下げる彼女に、最早ブンブンと首を縦に振る以外になかった。
じいっと俺の目を見つめること幾許としないうちに、理由も分からないままに見つめ続けられて再びどきまぎとしてしまったのだが、好し好しといった風に頷く。
「どうやら、本当のようですね。先程は失礼しました。何分、物騒な世の中となっていますからね。況してやこの場所に、ですから。」
「いえ、全くも見ず知らずの俺をわざわざ運んで頂いて、感謝しています。」
ところで、やけに場所に拘っているようですけど、一体、此処は何処なんでしょう?
何気なく聞いた言葉は信じ難い答えとなって返ってくる。
「ここは私の私塾で、水鏡女学園です。基本的には男子禁制なので敷地内にいる男の方にはどうしても神経質になってしまうのですよ。」
水鏡塾
水鏡先生と呼ばれ、人物評に優れた司馬徽が興した私塾である。
その教え子には臥龍、鳳雛と称された諸葛亮と鳳統がおり、当時の名門校といっていいだろう。
だが、その水鏡塾が女子校だという話など聞いたこともなく、とても現在まで続いているとは思えない。
無論、眼前の女性が嘘をつく必要などもないだろう。
ならばここは、水鏡女学園という、何とも恐れ多そうな名前に肖った女子校だということになるが、そんな学校には、やはり聞き覚えなどなかった。
流石に、それだけ珍しい名前ならば、耳にすれば記憶に残るだろう。
新設校の可能性も否めないが、内装を見るに出来たばかりの学校とは考えにくい。
漆喰の壁に燭台、そして竹簡。
どれを取っても現代の物とは思えない。
そう、とてもではないが、現代のものとは思えないのである。
疲れているのか突拍子もない考えが浮かぶ。
竹簡
まだ、紙が一般へと流通する前の時代だったら。
燭台
未だ、電球の発明がなされていなかったから。
読めない文字
ここが、日本ではなく中国だから。
食い違う季節
タイムスリップに現代と過去との季節になど関連性はないだろう。
辻褄は合いそうだが馬鹿馬鹿しい。何より、言葉が通じているのである。
中国に飛んだというのなら、自身にコミュニケーション手段など残されてはいない。
それでも、直感だとかいう良く分からないものが働いたのだろう。
知らずに口にしていた言葉があった。
「私は姓を司馬、名を徽、字を徳操と申します。しかし、本来は名を尋ねる前には自身が名乗る。それが礼儀というものですよ。」
「し、司馬徽……さん?」
「はい。お気軽に水鏡先生と呼んでくださって構いません。」
ふふん、と何故か得意げに胸を張る。
張る前と、後で、胸の位置が変わらない気がするのはきっと気のせいだろう。
そんなことよりも、である。
目の前の女性は司馬徽と名乗ったのである。
本当にしろ、嘘にしろ、自己紹介で司馬徽ですよ、なんて言われた日本人は多くないだろう。
おそらく、自分が最初で最後な気がする。
「えっと……本物?」
「私の偽物なんて聞いたことはありませんよ。それと、そろそろお名前を教えてくれませんか?」
「あっ、すみません。えっと、俺の名前は北郷一刀です。」
「北郷、一刀さん?姓が北で名が郷、字が一刀でいいのですか?」
「いえ、北郷が姓で、一刀が名です。字はありません。」
「二字姓に字なし……中々に珍しいですね……。
二字姓ならウチにも朱里ちゃん、あぁ、今のは諸葛孔明ちゃんの真名です、がいますけど……。」
さらり、と、とんでもない事を言われた気がする。
水鏡さんの言う、諸葛孔明とは間違いなく彼のことだろう。
諸葛亮、字を孔明。
劉備の三顧の礼を受け、仕えることとなった大軍師である。
その神算鬼謀は、臥龍、鳳雛のどちらかを得れば天下を望めると言わしめたほどである。
いきなり諸葛亮の話題が出たことには驚いたが、もう一つ、注意を引かれる言葉があった。
彼女の言葉から察するに、孔明さんにはシュリ、という呼び名があり、その呼び名をマナと言うようだ。
古来より、人が複数の名を持つのは、名前とはその人の魂だとか本質を表わしているからだとかいう理由で本名を明かさないためであった。
その中には呪術的要素も含まれており、その名を明かすことは自身の身体を預けることに等しい。
名前が分かれば呪術師は自由自在にその人を操ることができる。昔の人々はそういった考えを持っていたのである。
ここで問題となるのは、マナというものは、その人を全く知らない赤の他人が呼んでもいいものか、という点である。
諱と同じような意味を持つのならば、勝手に呼べば大変失礼にあたるだろう。
信じられないような事態に気が動転して、司馬徽さん、と呼んでしまったのは情状酌量の余地があると思う。
いきなり司馬徽です、なんて言われたら、そりゃあ、鸚鵡返しにもなるというものである。
もし字と同義のものであれば、逆に呼ばなくては無礼にあたる。ああ、なんて面倒くさいのだろうか。
水鏡先生は自身の姓と名、そして字を名乗ったがマナに関しては触れてもいない。
恐らく、口にしない方が賢明だろう。
それでも知っておいた方がいいので、マナとはなんですか、と尋ねる。
先生は大層驚いた様子で、
「真なる名と書いて真名。文字通り、神聖な名ですので、真名は相手に許されるまで呼んではいけません。
例え許しを得たとしても見ず知らずの方の前では、不用意に口に出すのは避けるべきでしょうね。」
と、教えてくれた。
その先生が俺の前で、シュリ、と口にしたのは突っ込まない方がいいのだろう。
意外と抜けた所があるのかも知れない。
「真名を知らない、ということは北郷さんは真名をお持ちではないのですか?」
真名という風習がない土地があるということは耳にしたことがあります、服もこちらでは見たことのない生地や意匠ですし、
そういった地域の生まれなのでしょうか、と続けた先生は、興味深げにこちらを眺める。
三国志きっての知識人である司馬徽さんには、やはり人並み以上の好奇心や知識欲があるのだろう。
きらきら、と目を輝かせながら問いかける様子に、ずっと聞きたくてうずうずしていたんだろうなぁ、と何を当り前なことを、という感想を持つ。
いきなり庭に倒れていた人間に興味を持つなという方が難しいだろうし、持たない人間もいないだろう。
それでも、受け答えをできるまで待ってくれていたのは彼女が俺を気遣ってくれていたからなのだろうし、水鏡先生が賢人として多く人々に謳われた一端なのかもしれない。
司馬徽、またの名を水鏡先生。
先生の水鏡女学園。
そこに通う孔明さん。
信じ難いし、信じたくもないが、目が覚めたら三国志、らしい。
何処の生まれですか、という先生の言葉にどう答えたものかと思案にくれていると、難しい話は後にしようぜ、と言わんばかりに腹の虫が鳴く。
くすり、と笑う先生と顔が熱くなる俺。
泣きたいのはこっちだった。
北郷一刀の奮闘記 第一話 女教師と腹の虫 了
Tweet |
|
|
40
|
4
|
追加するフォルダを選択
前回に引き続いての導入部です。
所謂一つのお約束なお話。
恋姫の導入なっげーよ。
おそらく次回も説明話になるでしょう。