No.365928 白銀の楼閣(後編)小市民さん 2012-01-20 19:00:28 投稿 / 全2ページ 総閲覧数:527 閲覧ユーザー数:515 |
築地本願寺の名称で親しまれている浄土真宗本願寺派本願寺築地別院は、関東最大の念仏道場として参拝者は勿論、観光客の列が跡切れることはない。
峻は本堂正面の大石段を登ると、本堂へ入った。
本堂内は親鸞聖人七百五十大遠忌法要記念事業として改修中だったが、折りたたみ式の椅子が整然と並べられ、拝観者の他に、東京二十三区の職員と思われるスーツ姿の一団と純朴そうな学生たちが目立った。
本来、御本尊がある場は、仮囲いに覆われ、御影像と呼ばれる阿弥陀如来が描かれた仏画に参拝するようになっている。
著名人の葬儀や告別式、法要も頻繁に行われているが、そのすぐ傍らでは入退場は全くの自由で、オープンな雰囲気がある。
御影像のすぐ前でセーラー服の女子高生が堂内に響くパイプオルガンの音色に合わせ、ヴァイオリンを演奏している。曲目はアントニオ・ヴィヴァルディの『ヴァイオリンとオルガンのための協奏曲 ヘ長調 RV542』の第1楽章アレグロであった。
高校生がヴィヴァルディを演奏するとは意外で、峻は最前列の折りたたみ椅子に腰を下ろすと、
「あの女学生さんは、音楽学校の生徒なのでしょうか?」
小声で都の男性職員に尋ねると、
「いえ、普通科の学生らしいですよ。楽器の演奏は音楽教室のようなところで学んでいるそうです。三月の東北東日本大震災で被災地となった地域の学生さんが、復興支援に協力した東京都に謝恩コンサートとして計画した催しです」
三十半ばの職員はコンサートの趣旨を説明すると、次いで、
「被災地でも選りすぐりを送り出したのでしょうが、いやぁ、脱帽ですよ」
言うと、後方に目を遣り、
「後ろでパイプオルガンを弾いているのも同じ高校の生徒で、ヴァイオリンを演奏している生徒とは双子の姉妹だそうです。なるほど、息もぴったりなわけですよ」
中央が地方にしてやられた、と言わんばかりに苦笑した。職員の言うとおり、折りたたみ椅子の列に溶け込むようにパイプオルガンの演奏台があり、その頭上には、銀色に輝く巨大な翼のように大小のパイプが並んでいる。
双子の姉妹だけあって協奏曲演奏の息もぴったり、という一言に、峻は鋭く胸を突かれた。
双子は一山いくら、二人揃っていてなんぼ、という言われ方が幼いころから気に食わず、商店街で生まれ育ちながらも妙な目を向ける大人には挨拶もしなければ、何の罪もない兄と意識的に距離を置いてきたのだった。
自分の分身、半身とも呼べる存在を粗末に扱ってきたその報いが、今の心の行き詰まりとなって現れているのだろうか、目の前で見事な演奏を続ける姉妹のように、互いのありのままを心素直に受け入れていたら、こんな孤独を味わわずとも済んだかもしれない……
姉妹は優れた演奏を第3楽章アレグロでぴたりと締めくくると、招待されたわけでもない、偶然この場に居合わせただけの参拝者や観光客からも惜しみない拍手が送られた。
峻はいたたまれない思いで席を立った。
歓喜に包まれた姉妹と追われるように逃げ出す自分の姿は対照的だった。
一度、本堂の大石段を下りると、工事中の本堂に替わり、仮本堂として使われている本堂北端にある第二伝道会館へ峻は足を向けた。
築地本願寺は、江戸時代初めの一六一七(元和三)年、京都の西本願寺の別院として、浅草・横山町に「江戸浅草坊」と呼ばれて始まった。
一六五七(明暦三)年の大火後、区画整理のため、幕府から与えられたのは、八丁堀の海上であった。
佃島の門徒が中心となり、海を埋め立て、一六七九(延宝七)年に再建され、築地御坊と称された。
その後も火災や自然災害によって罹災と再建が繰り返された。一九二三(大正十二)年の関東大震災で本堂が焼失した後の復興として伊東忠太の設計による古代インド仏教様式によって一九三四(昭和九)年に完成したのだった。
こうした現在の本堂を設計した伊東忠太は、明治末期から昭和初期の建築家で、位階、勲等、学位、称号を受けた人物で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
また、建築進化論というどの建築物も元は木造りであり石や煉瓦に変わってからも、木造時代の名残りがあり、現在の建築物の形態がどのような由来によるものか知らせてくれる、という建物の進化論を発表している。
峻はともすれば技術一辺倒になりがちな建築という分野に、精神性を取り入れた考え方に深く感銘し、伊東の作品である築地本願寺に強く引きつけられた一因となっている。
寿司屋の息子に生まれ育ちながら、建築士となった自分の人生を支え続けてくれた築地本願寺の存在から今一度、何かを与えてほしい。
願いを抱き、仮本堂に使われている第二伝道会館へ入ると、正面の壁には、元は大阪府下の堺別院に祭られていたという金色に輝く御本尊の阿弥陀如来が、荘厳の中に安置されている。
その右には、浄土真宗の宗祖であり、信徒からは「ご開山」と親しみを込めて呼ばれている親鸞聖人の御影が掲げられている。
御本尊の左側には、第二十三代宗主の勝如上人の御影が祭られ、峻は教えを乞う思いで参拝したが、心には何も届かない。
平日の昼下がりの仮本堂はがらんと広く、寒い。何かを問いかけようにも人影どころか、辺りには気配すらも窺えない。
峻は深い溜息をつくと、境内へ出た。本堂前の広い空間は、本堂に向かって右側は近隣のための月極駐車場で、左側は観光バスなどを停めるスペースに使われている。
新大橋通りに面した正門を入ったすぐ左右に燈籠が設けられ、峻は左側の燈籠の基壇に力なく腰を下ろした。すぐに真ん前にある守衛所から警備員が注意しようと走ってくると思ったが、さすが観光名所だけあり、見て見ぬ振りのさじ加減も心得ているようだった。
このまま何も得られずに帰社することに、言いようのない孤独を感じていたそのとき、本堂の大石段をぞろぞろと謝恩コンサートを終えた東北の学生達が降りてきた。心なしか、誰の顔も大任を果たし、輝いて見える。
思わず峻は目をそらしかけた。
このとき、ローカルテレビ局の撮影クルー数名が学生たちに駆け寄っていった。
マイクを持つインタビュアーは、無精ひげを生やした横川漫志(よこかわまんじ)という浅草の下町育ちと口の悪さで売っている漫談家であった。
すぐに辺りの観光客からわあっと歓声が上がり、漫志を遠巻きに取り囲んだ。
丁度、ヴィヴァルディの『ヴァイオリンとオルガンのための協奏曲 ヘ長調 RV542』を演奏した双子の姉妹が漫志に捕まった。
「よう、姉ちゃんたち、東京はどうだい?」
漫志が気さくに言うと、辺りを囲んだ観光客は目を輝かせた。間近で思いもかけずに売れっ子の芸能人と出っくわし、何か見聞き出来るかも、という期待を抱いたのだったが、峻は悪口雑言をぶち上げる漫志を好むことは出来ず、視線を外した。
「人が多いのにびっくりしました」
瓜二つの姉妹の姉か妹か解らなかったが、笑って答えた。漫志は、カメラ、マイク、レフ板、記録などのスタッフを従えるようにして、尊大に、
「姉ちゃんたち、どっからきたの?」
「宮城県名取市閖上(ゆりあげ)です」
やはり、双子の姉妹のどちらからともなく答えた。名取市閖上といえば、東北東日本大震災では地震と津波の被害が甚大だった地区の一つであった。名取空港の滑走路に津波が押し寄せ、まるで荒れ狂った大河の奔流のようにヘリコプターを横倒しにし、そのまま圧倒的な力で押し流していった光景は、首都圏でも生々しく報道されている。
また、三階建のターミナルビル全体が水につかり、数ヶ月に渡って使用出来なくなり、その内部にいた多くの人が犠牲になっている。
更に、閖上そのものに高台が少なく、津波が押し寄せた際、逃げ場がなく、一般市民は大混乱となったのだった。漫志もこのことを知っているのか、
「そうかい、家族は大丈夫だったか?」
「いえ、空港で整備士をやっていた父が未だに行方不明です」
姉妹が口を揃えて言うと、漫志は、
「ところで、コンサートは成功だったと思うかい?」
「ええ、支援して下さった東京の方々に、わたしたちなりのお礼が出来たと思っています」
福島第一原発が水素爆発を起こした際、炉心の冷却作戦に東京消防庁が協力した経緯があり、やはり、瓜二つの姉妹が声を揃えて答えると、漫志は不意に、
「そうじゃねぇよ、もっと首都圏にたかる目的であんたたちやってきたんだろう? 無心は成功したかい?」
自分の売りとしている毒舌漫談家の目となった。大人同士が陰で囁き合う本音ならばいざ知らず、八十も近い芸能人が、学生に言うべき言葉ではなかった。
漫志の周囲にいた観光客は、歯に衣着せぬ物言いにどっと笑いが起きたが、峻は反射的に漫志に掴みかかろうと、
「おい、横川、貴様!」
怒鳴り、腰を浮かせたそのとき、
「首都圏の皆さんは何か勘違いしているようです」
きょとんとして姉妹のどちらかが言うと、もう一人が、
「三陸沿岸の被災地は、街を失い、多くの人が家族も失いました。わたしと姉も父を亡くしています。生き残った人たちでさえ、避難所生活がもう何ヶ月も続いています。
でも、死の次に来るのは再生です。全てを失ったわたしたちだからこそ、新しい街、新しい暮らしを築くという希望をもつことが出来ました。
同時に、今日ただいまのこの一瞬を大切に慈しむという気づきが得られました。こうした願いがある限り、被災地はわたしたちにとって希望の大地なんです」
きっぱりと語った。漫志も、峻も、観光客も、撮影クルーの誰もが、自分の耳を疑った。徹底的な破壊に遭った街を感じ方一つ替えるだけで、希望の大地とすることが出来るのだった。
峻は、あっと声を上げ、目を見張った。妻と娘がいるから自分は、人生の新たな一歩を踏み出せない、それは、双子の兄を粗末にしてきた報いだと思い込んでいた。
それならば、妻と娘を大切にするために、現にある環境を大事にしよう、兄とのわだかまりに気づけた自分ならば、やり直そう、自分自身の再生に努力しよう。そう考えれば、絶対的な自信をもちながらも、横浜新市庁舎のデザイン公募にもれた出来事も、尊い経験をしたことになる。
峻が茫然と立ち尽くしていると、漫志は唇を震わせながら、
「んなこと言ったてよ、親父、やられちまったんだろう? 女の子が早くに男親を亡くすって、どういうことか解っているのかい?」
姉妹の将来を案じたが、今度は姉が口を開き、
「それならば、なおのこと、わたしも妹も生涯、絶対にくじけてはいけないんです。姿、形は失っても、父はいつもどこからか見ている、行いも心の奥底も。そう感じることで、わたしたちは強くなれる気がします」
父を亡くしながらも、人生に揺るぎのない力強さを得たことを言った。漫志はがくりと膝をつくと、テレビカメラの前でありながら声を上げて泣き、
「がんばってくれよ、がんばってくれ! 俺にはそれしか言えねぇよ!」
人を人とも思わぬインタビューをした自分を悔い、双子の姉妹を始めとして大型バス二台に分乗していく東北の学生たちに頭を垂れた。しかし、もはや誰も漫志を見ていなかった。
峻にとって漫志の姿は、正につい先ほどまでの自分自身であった。
父は、兄弟の不仲と家業の跡取りとの問題でどれほど胸を痛めていただろうか、仕事が順風満帆のとき、結婚したとき、娘が生まれたとき、それぞれの節目節目でまずは父母に知らさねば、という思いは微塵も抱いたことがなかった。
そうした愚か者だった自分の姿を、名も知らぬ姉妹が漫志の姿をもって教え諭したのだった。
東北の学生たちを乗せた観光バスが、築地本願寺から新大橋通りへと出ていった。
ふと、どんよりと都心の空を覆っていた厚い雲が跡切れ、幾条もの陽の光が差し込んだ。光は見る見る大理石をふんだんに使った築地本願寺の本堂を壮麗に照らし出したのだった。
正に白銀の楼閣となった寺院を背にすると、峻は観光バスを追うように歩み出した。(完)
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心に深い疑問を持ったまま、正木 峻(まさき しゅん)は築地本願寺を訪れますが、そこで毒舌漫談家と純朴な東北の学生たちと出会います。男主人公がこの出会いから得たものは……
この作品の取材のため、小市民は築地場外市場のもんぜき通りでイクラ丼を食べてきました。おいしかったです。ええ、勿論築地本願寺もばっちりと調べてきましたとも。