薄暗い店内には静かにピアノの音が響いていた。
まだ客のいないバーは小奇麗に整えられていて、カウンターの中には矍鑠とした老紳士のように背筋を伸ばし、グラスを磨く白髪のバーマンがいた。
この大人の隠れ家のような雰囲気を写真に収めたくて、開店前に撮影させてくれるよう無理を言ったのだ。
彼は快く引き受けてくれた。オーナーにも話を通してもらい、おかげで滞りなく撮り終えることができた。
場末の酒場などにはあまり雰囲気の良くないところも数多ある。しかし、この店は不穏な気配もない上質な社交場となっていた。それはここ数日通ってこの目で確かめたから間違いない。
ちょうど開店時間となったので、私はそのままカウンター席に腰を下ろした。
時を同じくしてバックに流れる曲が小気味よいジャズへと替わる。
「何か甘い酒をお願いします」
そう注文すると、バーマンはこくりとうなずいて新しいグラスに手を伸ばした。
用意してもらっている間、私は店をぐるりと見回した。
カウンター席が七席にソファを向かい合わせにしたテーブル席が二つ。奥にはスペースこそ広くないものの一段高い舞台があって、奏者が寄り合えばセッションも出来るようになっていた。壁際にアップライトピアノが置いてあり、いまも初老の男性が鍵盤に指を走らせている。
カウンター内の棚には端から端までさまざまな種類の酒瓶が並び、ラベルや色、形も一様ではないため見る者の目を愉しませた。
こんな居心地のよい、落ち着いた店の空気に浸れるのも今日までと思うと、少し残念だった。
明日には次の地へと旅立つことになっている。今度はいつこの町に立ち寄るかわからない。
ほどなくしてコースターの上に供された飲み物に、私は思わず「ほぅ」と息を漏らした。
いわゆるフロートと呼ばれるスタイルのカクテルが、グラスの八分目まで満たされていた。このカクテルを作るには比重の違う二種類の酒を、混ざらぬよう重ねるごとくそっと注いでいくのだと、何日か前にここのバーマンが教えてくれた。
眼前のグラスのなかには底に緑、上には黄色の半透明の液体が層を成している。
わずかに混ざり合ったその中間は黄緑色をしていて境目は判然としない。まさに色の変化していく様を、そのままグラスのなかに落とし込んだみたいだ。おまけに角度によってはグラス越しに、棚に置かれた小さなランプの明かりがうっすらと透けて見えるため、まるでこのカクテル自体に色鮮やかな光が宿っているかのような錯覚さえ覚えた。
私は思わず時を忘れて見惚れてしまった。
ふと我に返り、カウンターのなかの人物に目で合図を送る。彼はこくりとうなずいた。
一度はしまいこんだカメラを引っ張り出して、構図を考えながらレンズを向けた。
終わるとグラスの中身をそっと口に含む。甘くすっきりとした味が口中に一気に広がっていく。酒特有の後味は残るものの、思ったよりもずっと爽やかだ。
「そういえば、少し前になりますが、そのカクテルと同じようなことがありましてね」
「カクテルと同じ……? それはどういう意味です?」
私が訊ねると、バーマンは意味ありげに一拍間をおいてから話し始めた。
「半年ほど前、若い男女がこの店を訪れました。入ってきたときからすでに険悪な雰囲気で、案の定カウンターに並んで座るなり口論を始めましてね。声を荒らげていたのはおもに女性のほうでした。あまり熱くならないようにと、途中で割って入って注文を取ったわけですが……そのときに女性に出したのがこのカクテルなんです」
彼がグラスを指差した。飲みかけの酒は混ぜていないため、出てきたときと同じように二層に分かれたままだ。
いまだ彼の言わんとしていることがわからなくて私は小首をかしげた。
その後も話は続く。それによると男女の喧嘩の発端は男の浮気にあるらしい。
「すごい剣幕でまくし立てる女性に相手も反論するんですが、さりげなく耳を傾けていると、どうやら男性のほうがだいぶタチの悪い遊び方をしていたようです。何人もの女性に手を出して」
「それを彼女に暴かれたと?」
「まあ、そういうことですね」
呆れた話があるものだ。たとえ若気の至りだとしても女性が怒るのは無理もない。
「それからどうなりました?」
「けっきょく男が彼女の迫力に負けて逃げるように店を出て行きました。一人残った女性はしばらく怒っていましたが、酔いが回ってくると今度は次第に涙をこぼし始めましてね。下手な慰めはかえって彼女の心の傷を広げるだけだと思ったので、そっとしておいたんですが……」
相手のことを好きであればあるほど裏切られたときのショックは大きい。時が傷を癒すのならばあまり触れずにおくのも一つの手だろう。
「ところで、そのカクテルは似ていると思いませんか?」
「似ている?」
「男と女の関係に……です」
私はあらためてグラスの中の液体を口に含みながら考えた。
当人たちにしてみれば心を奪われるほど甘く美しい、それが恋愛だろう。まさに今、その形容がぴったり当てはまる酒を飲んでいる。
さらに恋人同士になるということは、二人の人間が触れ合い交じり合うことでもある。
この酒も上と下にそれぞれの個性が分かれていて、互いに溶け合う境目があり、また混ぜ合わせてひとつとすることも出来る。
「なるほど。言われてみればたしかに。このお酒は甘く、美しく、ふたつでひとつですね」
「そうです。そして後味は……」
「ほろ苦い」
舌の上に残るアルコールの苦味は、恋愛によくあるハプニングとそれに伴う辛い、あるいは赤面しそうになる記憶のようだ。
彼の話に出てきた男女もまた、同じように味わったことだろう。
――このカクテルと男女の仲は似ている。
さまざまな客に酒を提供する者ならではの発想だった。
「先の女性には、最後に一言だけ伝えました。『あの男性のことをすぐに忘れることはできないでしょうが、もし胸が苦しくなったらこの酒の、後を引かないさっぱりとした味を思い出してください』と」
深入りできない店員と客の間柄。けれどもその言葉には彼の優しさが垣間見える。
当の女性がどう思ったか定かではない。むしろ気に入らなかったかもしれない。しかし、いつか心の傷が癒え、思い出として赦せるようになったとき、彼の入れたカクテルをもう一度飲みに来てほしい。
その折にはきっと、この大人の味を「楽しむ」ことが出来るだろうから。
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2012年1月18日作。原題は「BAR」。掲載時に変更。バーマン=バーテンダー。偽らざる物語。