北郷一刀が是空の副隊長として潜入してから数日、孫策の移送が行われる当日がやってきた。彼女は寝たまま馬車に乗せられ、陸遜が世話係として同乗する。御者として是空、一刀の二人が手綱を握ることとなった。
その馬車を前後で七千の部隊が護衛する。兵士はみな、孫策を寿春まで無事に護送する任務だと、信じて疑わない。
「一刀さん、孫策さんが少しお話がしたいそうです」
馬車の中から陸遜が声を掛けてくる。一刀が問いかけるように是空を見ると、彼は手綱を握ったまま頷いた。一刀は是空の隣から、幌をくぐって中に入る。
簡易寝台に上半身を起して、孫策が微笑みで迎えてくれた。
「いらっしゃい、一刀」
「気分は良さそうだね、雪蓮」
一刀と雪蓮は、すでに真名を許す関係だった。目覚めた雪蓮が強引に真名を呼ぶよう、一刀に願ったのだ。少し是空の視線を気にしながら、一刀はそれを了承した。
「食欲も、戻って来たみたいね」
「そう、良かった」
微笑む雪蓮は、どこか儚げに見える。そんな雪蓮の視線が、一刀の右腕に向けられた。それに気付き、一刀は雪蓮の思いを察する。
「結構、慣れてきたんだ。茶碗を掴むくらいは出来るよ。体も使って挟むようにね」
「噂を色々耳にしている。でも、本人から直接聞きたいって思っていたの」
「そう大層な事はしてないんだけど……」
期待するような雪蓮と陸遜の眼差しに、一刀は深く息を吐いて苦笑した。そして仕方なく、曹操救出の顛末を語って聞かせたのである。
幌から一刀が顔を出し、是空に声を掛ける。
「そろそろ交代しましょうか」
「そうだな……」
一泊する予定の廃村までは、まだ少しある。直線距離では近いのだが、段差など馬車が通れない地形のため、大きく迂回する必要があった。もしも地図がもっと一般的なものなら、廃村に立ち寄る行程に違和感を感じ意図を察知することが出来たかも知れない。
「水をもらえるか?」
是空がそう言うと、陸遜は頷いて水差しから茶碗に注いで差し出した。それを受け取って、是空は雪蓮たちから顔を逸らし、仮面をわずかにずらして水を飲む。
「……」
その様子を黙って見ている雪蓮の視線に気付き、是空は茶碗を置いて尋ねた。
「見ていて楽しいものではあるまい?」
「んー、自分でもわからないけど、見ていたかったの」
是空は雪蓮を一瞥し、視線を床に落とす。話すべき言葉が見つからなかったが、お互いに沈黙を苦痛とは感じない。気を遣ったのか、単に好奇心が湧き上がったのか、陸遜は幌を出て一刀の隣に移動した。馬車の中には、是空と雪蓮の二人だけである。
「妹が、いるそうだな」
不意に、是空が声を掛けた。雪蓮は一瞬驚き、だが柔らかな笑みを浮かべて頷く。
「二人いるの。自分ではわからないけど、顔は似ているみたいね」
「何歳になる?」
「えっと確か――」
自分の知らない娘たちの情報を聞き、是空は表にこそ出さなかったが心が弾むのを感じた。記憶の中の娘達はみな幼く、話に聞く様子は頭の中でちぐはぐに結びつく。それでも、『らしい』と感じられることで、自分が彼女たちの父親なんだという喜びが湧き出た。
変わらないものに嬉しさを覚え、変わってしまったものに一抹の寂しさを感じる。途切れてしまった親心が、わずかの間だけ満たされた気がした。
夜、孫策移送の部隊は予定通り、廃村に到着した。すでに日が暮れており、夜営の準備が行われる。その様子を眺めながら、是空と一刀は最終的な打ち合わせをしていた。
「雪蓮の救出手順は何度も聞きましたが、その後の逃走はどうするつもりですか?」
「一応の手筈は整っている。孫権たちと合流後、孫策移送部隊を装って寿春に向かう」
「えっ?」
「だがそのまま、雷薄様の鼻先をかすめつつ、国境に向かうのだ」
是空は国境近くの地図を取り出す。
「ここが曹操との国境沿いにある砦だ。今は手薄で、落とすのは容易い」
そう言うと、是空は自分と同じ仮面を取り出す。
「これで向こうの責任者を欺ければ、開門に応じるはずだ」
「もしかして、曹操のところに逃げるつもりですか?」
「いや、おそらく曹操はこちらの争いに極力、関わらないようにするだろう。あまり利益はないからな。強いて上げれば、北郷一刀が居ることだろうが……」
是空はその先の案がないことを、正直に告げた。
「雷薄様も曹操には警戒をしている。国境付近に大軍を派遣するような真似はしないだろうし、天の御遣いが一緒にいることで牽制にもなるはずだ。北郷一刀と曹操の結びつきは有名だからな。その上、孫策も生きて一緒ならば、呉の民が味方する」
危うい均衡の上で成り立つ、逃亡案だった。しかし今のところ、他に妙案は浮かばない。一抹の不安を感じながら、一刀はただ頷くしかなかった。
後は孫権たちが動くのを待つばかりだったが、実はこの時、孫権たちは砦からまったく動いてはいなかったのである。
「蓮華様を誘い出す罠の可能性もあります。ここは、私にお任せください!」
作戦前夜に現れそう言ったのは、金で雇われた傭兵百名を従えた明命だった。明命は祭と別れた後、冥琳のそばで情報収集を行っていたが、蓮華襲撃を知った冥琳の指示によってやって来たのである。砦に籠もっていることを知り、救出のために傭兵を雇ったのだ。
こうして、傭兵百名を従えた明命が、孫権のフリをして砦を出発。ようやく作戦が動き始めた。
人の気配で、雪蓮は目を覚ました。薬を打たなくなってから、神経がかつてのような鋭敏さを取り戻しつつあるようだ。最初はあった漠然とした不安感も、今は払拭されている。親友が無事だったと、知ったからだろうか。
(それでも……)
自分が冥琳を刺してしまった事実は、消し去ることなど出来ない。
毎日を寝台の上で過ごしているが、別にそれほど重篤というわけではない。否、そもそも病気を患っているわけではなかった。
(逃げているだけね)
その自覚はある。いや、自覚が生まれたというべきか。注射を打たれている間は、そんな考えすら浮かばなかったのである。ともすれば、気が狂いそうな時さえあった。今の回復と安定は、いったいいかなる理由で発生したものか。
雪蓮の脳裏に浮かぶ顔は二つ。一刀と、是空だ。
(不思議……一緒にいると安心できる。なんでかな?)
胸の奥に、小さな痛みを感じる。その時、部屋の外から声が掛けられた。
「雪蓮、起きて」
「……起きているわ」
雪蓮が応えると、扉が開いて一刀が顔を覗かせた。
「どうしたの? こんな真夜中に?」
「逃げるよ」
「えっ?」
問いかけた直後、雪蓮は一刀の背後の炎を見た。空家が燃えている。一刀は外を気にしながら、雪蓮が寝ていた部屋に入って来た。そして起き上がろうとする雪蓮に背中を向ける。
「さ、乗って」
「でも……」
「大丈夫。ただ、片手だから支えられないんで、ちゃんと首に掴まっていてね。あ、絞めるのはナシだから」
「ふふ……ええ」
多少遠慮しながらも、雪蓮はそっと一刀の背中におぶさる。一刀は雪蓮を背負い、部屋を飛び出した。外では炎と激しい怒声、悲鳴が渦巻いている。
「こっちだ!」
呼ぶ声に気付き視線を向けると、是空が剣を持って走って来た。
「南に走れ。俺はここで、追っ手を足止めする。孫権たちは東西の兵士を引きつけてくれているはずだ。森に入れば、身を潜める場所は多い。頃合いを見て孫権たちが引いたら、合流しろ」
「……わかりました」
一刀は静かに頷く。ただ、雪蓮は黙っていられなかった。
「ちょっと……待って!」
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。