(まさかこんなに早く・・・それも今日という日を狙ってくるなんて・・・!)
領主の歯軋りは止まらない。国王やローエンからは再三、周囲に気をつけるよう忠告されていた。国内に、リーゼ・マクシアとエレンピオスの仲が親密となることを、望まない一派がいるのだという。
目立った活動こそしていないものの、リーゼ・マクシアの君主ガイアスに対するエレンピオスの尊大さに、諸侯の不満が燻っているのは確かだった。加えて、エレンピオスの意見を取り入れ続けているガイアス王自身に対しても、弱腰外交と陰口を叩く者も多い。今回の政略結婚にしても、もっと相手側から譲歩を引き出しても良いのではないかという意見が、幾人もの官僚から出たと聞く。
エレンピオスとの国交は仮初だ。手を結んだのも表面的な部分だけで、薄氷の上を歩いているような危うい同盟だというのに、何故それが分からないのだろう。
結局彼らはガイアス王やドロッセルの心中を推し量ることもなく、リーゼ・マクシアとエレンピオスの絆を深めるこの結婚を阻止するには、当事者を拉致すれば良いという、乱暴な考えに至ったらしい。
そんなことをしても、何の解決にもなりはしないのに。何の意味もなさないのに、どうして。
やるせない思いを抱えて、領主は屋敷を駆ける。長い衣装の裾を絡げ、磨き上げられた石畳の廊下を渡る足が、はっとしたように止まった。
正面から喧騒が近づいてくる。この物物しい気配は、明らかに味方とは違う。このままではかち合ってしまう。
どうしよう、と逡巡した時、隣のエリーゼが動いた。
「こっちです」
小声で誘い込まれたのは納戸だった。きちんと整頓されているものの、掃除用具や季節の飾り物で溢れかえる物置部屋は、少し埃っぽい。
「エリー、ここに何があるの?」
軽く咳き込みながら、ドロッセルは前を進む少女に声を掛けた。勿論音量は最小限に抑えて、である。部屋の外に洩れたら最後、袋の鼠なのだ。
「この部屋の窓は、中庭に繋がっています」
「中庭・・・」
領主とその庇護下にあった少女が活路を見出した時、外から遠吠えが聞こえた。
長年開け放ったことのない窓を力任せに開き、二人は表に転がり出る。途端に轟音と共に突風が襲い来て、ドロッセルは思わず顔を手で覆った。
エリーゼは二本の足で、しっかりと中庭に立っていた。風で乱れる髪もそのままに、前方を見つめている。
「やっぱり・・・」
大気を揺るがす魔物の荒ぶる声が、シャール家の庭に響き渡る。手入れの行き届いた芝生を、猛禽を髣髴とさせる鋭い爪で無残に荒らしていたのは、一匹のワイバーンだった。
「やっぱり・・・」
少女が呟くと同時に、飛竜の背から人影がすべり落ちてくる。長い茶の外套を翻し、こちらに駆け寄ってきたのは紛れもなくアルヴィンだった。
男は静かに佇む少女を見、それからドロッセルに視線を向けた。
「間に合ってくださって良かった。迎えの人間が貴方だと聞いて安心していましたのに、まさかこんなことになるなんて・・・」
「どうした。何があった」
それが、と領主が説明しかけた時、庭木の向こうに軍服が見えた。一人二人ではない。両手ほどの兵士がこちらを視認し、指差している。
ドロッセルは視線を遮るように動いた。
「アルヴィンさん! エリーを!」
少女の身体を押し出すように、領主は中庭に躍り出る。ワイバーンと運び屋、そして少女の姿を、闖入者から覆い隠す位置に仁王立ちになる。
武器を携行した兵士からは、まさに一直線上である。このままでは蜂の巣だ。
「ドロッセル・・・!」
身を案じて駆け寄ろうとした少女を、だが領主は鋭い声と共に無視した。
「空に行って! 早く!」
男の片手が鞍を掴む。今まさに女領主の側に駆け寄ろらんとしていた少女の細い腰を強引に引き寄せる。そのまま乱暴に抱え上げ鞍に跨るや否や、空いた手で思い切り手綱を引いた。
棹立ちになったワイバーンが咆哮する。思わず耳を押さえたエリーゼの目の前に、緑の破片が掠め飛ぶ。それは芝生だった。魔物の翼の風圧で葉が切れた、その残骸だった。
エリーゼは息をつめた。土煙と共に、空気が顔にぶつかってくる。呼吸がままならないほど、ワイバーンは急上昇している。
風圧で体の向きを変えるとこすらままならない中、少女は必死に眼下の様子を探る。どうにかして風を受け流して見た下界は、既に箱庭程の大きさであった。
少女は見た。港町カラハ・シャールの領主の屋敷から煙が棚引いているのを、赤い火の手が上がっているその意味を、漸く理解したのだった。
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うそつきはどろぼうのはじまり 19